雀の手箱

折々の記録と墨彩画

遠来の客

2013年08月30日 | できごと

 ブラジルからの訪問客で、慌ただしい日々を過ごしています。おまけに大雨台風15号の影響で、県内でも300ミリを越す地域も出て、予定が次々に変更で大忙しです。しばらくは更新もままなりません。

 来月2週からは再開できそうです。またの訪問をお待ちします。


八月例会

2013年08月20日 | すずめの百踊り

 連日37度という暑さの中でみなさん頑張って、多彩な提出作品でした。
 まったく雨の降らない2週間余、人も植物も悲鳴を上げています。桜島まで噴煙を吹きあげて、「克灰袋」も高齢者には、どんなにか苦痛な作業と思いやられます。

 私は、お盆の人の往来で、少し体長を崩して、ささやかな実験を試みただけでした。
 戦中戦後の思い出を蓮やスイレンに託していると、逆に鮮やかな色彩豊かなフェルナン・レジェやミロの世界に惹かれバランスを取っています。

 鶏頭を、ありえない色でそのイメージで遊んだのが珍しく好評でした。



 おまけの一枚です。


初盆のおまいり

2013年08月15日 | 塵界茫々

 今年は従弟たち、かつての同僚、町内の親しかった人や隣人と、例年以上に新盆を迎える人がいます。やがて遠からずそちらの世界に移ることになる自分を重ねて、心を籠めておまいりしてきました。

 遺影を前にして、在りし日の思い出話に、ご遺族と涙し、笑うこともできる今は、時間がもたらした恵みでしょう。 アルバムがその折々の情景を鮮やかに蘇らせ、記憶の底で忘れていた言動まで浮かんできます。そしてやがてそれも消え去ることでしょう。

 兼好法師のいうように、「思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなくうせて、聞き伝ふるばかりの末々は、哀れとやはおもふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。その形だに亡くなりぬるぞ悲しき。」第三十段

 今日は終戦の日、戦禍に倒れた多くの御霊よ、安らかなれと祈り、今年もまた不戦の誓いを新たに心に刻んだことです。


茗荷の収穫

2013年08月11日 | 日々好日

 昨年、庭の手入れに来る造園業者が、私たち二人が茗荷好きと知って、株を掘って持って来てくれました。

 日当たりが良くて水はけの良いところという指定通りの場所を選んで植えていました。葉は勢いよく茂ったのですが、昨年は収穫はありませんでした。

 冬は葉も姿を消すので、さびしい畝を眺めて、駄目だったかなと思っていると、今年は芽を出したと思ううち、みるみる丈が伸びて、7月半ばから毎日小さな茗荷をほのかな白い花びらを目当てに掘り、摘みとっては、サラダや吸い物の薬味に重宝していました。今が収穫の盛りで、人にもお福分けしています。ふっくらと大きくなったのを刻んで、そうめんや、中華冷麺の薬味、朝粥の日にも欠かせない香りの存在になっています。


 文字面から、茗荷を食べると物忘れすると言われていますが、忘れることができれば結構なのですが、どっこい、その香りと爽やかな刺激はものを思い出させてくれるようです。

 ただし、顔は浮かぶのに名前を思いだせないのはいつものことです。でもそれは茗荷のせいではありません。

 


今日は八月八日 八幡大空襲の日

2013年08月08日 | できごと

 小伊藤山公園に建つ慰霊塔

 今日は八月八日。遠い日のできごとという気はしないのですが、もう68年が経過しています。半世紀以上も前の出来事が鮮烈な記憶となっていて、毎年広島原爆忌の八月が来ると蘇ります。
 終戦の日の1週間前、八月八日の八幡大空襲の記憶です。

 私の生まれ育った枝光は八幡製鉄所の裏門の近くの高台でした。昭和16年に強制疎開に指定され、持ち家の借家18軒ともども立ち退きとなり、母の実家のある町に家を建てて移っていました。

  19年に学徒動員された小倉造兵廠では、同級生全員が寮で寝起きして、12時間交代で、夜勤もしていました。風船爆弾のための原紙和紙をノリ張りする仕事もなくなり、昭和20年の八月は、別れ別れに安川電機や、三菱化成の工場、日炭高松炭鉱などでいろいろな作業に従事していました。
 6日は、広島に大型特殊爆弾が投下されたという話でもちきりでした。そして悪夢の8日がやってきました。

 よく晴れた朝から警報が出ていました。9時過ぎから聞きなれたB29の爆音がしきりに聞こえて、焼夷弾の落下する金属音と共に、八幡の空に黒煙が次々に上っていました。夜になっても、空は真っ赤に染まっていたと記憶します。

 図書館の資料の記録によると、160機の爆撃機をともなった245機のB29の、2時間余にわたる焼夷弾投下で、死傷者2952人   焼失家屋14380戸 とありました。

  小学6年生だった私は、女学校の受験を控えていて、疎開した家族と別れて一人伯父の家から卒業までを電車で通学していました。(電車の運転手は女性のときもありました。)伯父の工場は八幡駅近くで、伯父が別府に移った後の一時期、出征した留守を守るお嫁さんのもとから通っていました。

 次の日の午後、被災した級友もいて自宅待機になって家にいた私は、安否を確かめに出かける父に叱りつけられながらも、どうしてもと同行をせがみ、二人で10キロあまりの距離を歩いて行きました。

 鉄道と西鉄の線路を目当てに、一面の焼け野が原と化した中を黙々と歩いて行きました。桃園町あたりからは、まだ余煙が燻ぶっていて熱気で足元が炙られるようだったのを覚えています。覚悟していたとはいえ、目の前は見境もなく炭化した瓦礫の山でした。工場の焼け跡に、見覚えのある防火水槽を見つけ、近寄ると角の方に女性が倒れかかっていました。父は私をさがらせて、前に回り、見知らぬ人だったと言って合掌しました。

 落ち着いてよく見るとそこここに、黒焦げの人が横たわっていました。わたしたち同様に親族や知り合いを探す人も何人かいて、一様に呆然とした表情でさまよっていました。幸い避難していて従業員もみな無事なのが数日して判明しました。

 この日一番の悲劇は、小伊藤山の防空壕でした。(今の八幡市民会館のあたり)学徒動員の教師、生徒を含む約300人の市民が入っていた壕の入り口が直撃でつぶれ、全員が蒸し焼き状態で亡くなったといわれています。そのあとは公園となっていて、慰霊碑が建てられ、毎年この日に僧侶によって慰霊祭が営まれています。この日の爆撃の犠牲者の火葬が八王子の火葬場では処理しきれず、傍の畑で1週間近く毎日野焼きされたと聞いています。級友にも、家や家族を失った人がいました。

 小倉造兵廠でも機銃掃射に追われて逃げ込んだ防空壕でしたが、幸い私たちは難を逃れ生き延びました。ここでは直撃弾で80人の学徒が犠牲になったと聞いています。
 よく知られているように、9日の長崎への原爆投下は、第一目標の小倉上空が、雲と、前日の八幡空襲の余煙で視界不良のため、第二目標の長崎に向かったといわれています。

 いままで、人の死に直面したときに、妙に冷静でいられる自分に、若い日のこの記憶が原点にあるのを自覚して時に悲しくなる時があります。

写真は「北九州思い出写真館」よりお借りしました。


もう八月

2013年08月04日 | すずめの百踊り

  異常と言われ続ける暑い毎日、一雨ほしいのは植物だけではありません。かといって、先週の山口や山陰、東北のような豪雨も困ったものです。災害に遭われた方々のことを思うと、暑いなどと不満を言ってはいられません。

 夫の5月の骨折以来、介護保険の申請に伴う様々な手続きや、ケアマネージやの方、ヘルパーさんの訪問と人の出入りも頻繁になり、リハビリのための週1回のデイケア―も7月から始まっています。
 気が付けばもう八月、6月と7月は病院通いで明け暮れたような気がします。今月からはリハビリが週2回に増えるので、少し私の時間ができるかと期待しています。

 絵を描く時間も早朝のみですが、それでも好きなことには何とか時間が作り出せるものです。
 八月の花は私のイメージではヒマワリです。毎年描く花ですが、今年は自分への応援歌のつもりで好きな題材の、盛りを過ぎて枯れかけるころのヒマワリでなく、元気なヒマワリにしました。
 おまけの1枚は先日の日曜美術館で見た鈴木其一の朝顔の屏風に触発されて描いてみましたが、これは失敗でした。勢いもリズムもなく、やはりあの壮大さは、このスペースでは無理でした。

 明日は年間契約の庭師がお盆前の剪定にやってきます。伸び放題の木々も少しはすっきりすることでしょう。そして間もなく祈りの日々が訪れます。