いつのころから家にあったものかわかりませんが、物置の片付けをしていて台に虫喰いが入っている糸車を見つけました。
他のものへの影響を懼れて、空調の室外機の上に出し、珍しさもあってそのまま置いていました。気が付くと軒下でも、雨風にさらされて糸車の竹輪もはじけた部分もあり、ばらばらになる寸前でした。お盆が近い折からもあって付喪神を思い浮かべてしまい焼却処分も気が進まないでいました。
この国では古来、長い年月、百に一つ足りない九十九をつくもと呼び、年老いた女の私のような白髪を「つくも髪」と言ったものですが、それとは別に、器物も百年を経過すると変化(ヘンゲ)となり、人に災いをもたらすことがあるとされていました。九州国立博物館で室町時代の「百鬼夜行絵巻」目にした時から、使い古した道具たちの変化して付喪神となった妖怪が気になっていました。
それに、北原白秋の詩の「糸車」も独特の雰囲気があって、決してメルヘンな明るいものではありません。どんな人が、どんな思いを抱いて糸をつむいだものかと思いをめぐらし、自分では焼き捨てられずに、庭の手入れに来た造園業者に託したことです。
今回の台風に重ねて付喪神の災いなどとは言いませんが、奇妙な符合です。
古い家のことで、百年はとっくに越した什器や道具も多く、老い二人は、変化となるには、まだ少しだけ年数が不足していますが、付喪神が腰を据えて居そうなものばかりです。
註 「陰陽雑記」より、「器物百年を経て化して精霊を得てより、人の心をたぶらかす。これをつくも神と号すといへり。」
「糸車」
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
金と赤との南瓜(たうなす)のふたつ転がる板の間に、
「共同医館」の板の間に、
ひとり座りし留守番のその媼(おうな)こそさみしけれ。
耳もきこえず、目も見えず、
かくて五月となりぬれば、
微(ほの)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨(はっこつ)のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光の斜に射すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに黙(もだ)す手の紡(つむ)ぎ、
その物思やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。