雀の手箱

折々の記録と墨彩画

九月尽

2015年09月30日 | 塵界茫々
 慌ただしく季節が移り過ぎてゆきます。
 雲間の中秋の望月を愛でた次の日は、みじかかった夏日を惜しむかのように、強い陽射に途惑いました。
 旧暦ではなくとも、もう九月尽。「季秋」の言葉のごとく九月は秋三か月の終わりの月。明日からは陰陽道では陰が終り陽に転ずる月で、十月を陽月とよぶのだそうです。
 ともあれ、どうか穏やかな日々が訪れることを祈るばかりです。
描きためた中から、季の名残の蝉と萩、秋草です。

   すり流すよき墨の香や九月尽  会津八一










補聴器

2015年09月26日 | できごと
 最近特に耳の聞こえが悪いと感じることが多くなってきていました。門のチャイムもモニターが明るくなっていて気が付くことが多いし、玄関のチャイムも訪問するヘルパーさんがちゃんと鳴っていますよというのに、私には聞こえていません。

 特に若い人の高い声と、早口で話す人の言葉が聞き取りにくいようです。メガネも手術以来、近くで本を読むための老眼用と、パソコン用の保護が入ったやや距離があるものと別にしていましたが、買い物の時や外出時は不自由なので、遠近両用のをもう一つ持つことにしようと眼鏡屋さんに出かけました。 メガネの注文をするときも聞き返すことが多くて、耳の状態をこぼしましたら、補聴器の性能の良いのが出ていますから「お試し用」を使ってみませんかとすすめられ、耳の聞こえの検査と補聴器の調整をして借りてきました。




 友人にも補聴器をつけている人がいますが、目立つので敬遠していました。これは厚さが6ミリ、2センチ幅で縦が1センチという小型で、透明のレシーバチューブで耳栓とつながっていて、よほど注意しなくては耳に掛けているのがわかりません。小さなボタン電池で作動していますが、かなり頻繁に電池の交換をしなくてはならないのが欠点と思いました。
 確かにチャイムも聞き取れるし、テレビの音量も5段階下げてちょうどよくなりました。ランクの低いものでも私にとってはかなり高額ですが、残り時間の少ない身の不自由を解消するために、思い切って購入することにしました。これで病院の会計で名前を呼ばれているのに気が付かなかったり,聞き間違えたりという不都合もなくなります。左右を色違いにしてわかりやすくしました。小さすぎて紛失を心配しています








今日の庭の秋草 水引草と秋明菊

このごろ

2015年09月20日 | 日々好日



 庭の周辺で季節の推移する姿をしみじみ眺めています。今年は彼岸の入りというのに、彼岸花はすでに盛りを過ぎようとしています。柿の色づきも例年よりも早いようです。
 サルスベリはその名のごとく、百日紅の色を保って咲き継いでいます。ホトトギスは例年並みの進行で、濃い臙脂のベレー帽をぬぎはじめました。
 やっと颱風の修復が終わった山の崖下では、栗も次第に笑み栗になってゆき、格好の画題を提供してくれています。
 今週いっぱいは連休中も行楽日和が続くようですが、「平衡感覚が怪しくなった」というあるじに付き合って、毎日、庭を回るのが日課です。水引草の紅い点も日ごとに大きく鮮やかになっています。



ルリマツリ





いろはもみじ

芙蓉

2015年09月13日 | すずめの百踊り
 今年は琳派誕生400年の記念すべき年で、春以来、京都では企画展が目白押しです。琳派の人たちは、古来美人のたとえでもあった芙蓉をよく画題にしています。

 庭の芙蓉は台風で痛めつけられはしましたが何枚かスケッチしたり、いろいろと模索した足跡です。
蓮の美称でもあり、紛らわしいので、蓮を水芙蓉、こちらは木芙蓉と区別する人もいます。
 「しとやかな恋人」の風情を写すことは私には難しいのですが、好みは咲き終わって落ちる前、花が萎みつぼんだ姿が好きです。










秋の先触れ

2015年09月08日 | 日々好日


 足元の草を刈り掃われた木槿の根元に、今年は早々と彼岸花が咲いています。彼岸の入りにはまだ十日もあるというのに、雨が多く、夏がことのほか暑かったせいでしょうか。どうやら植物の体内時計も少し狂いが来ているようです。例年だと10月半ばくらいから色づく柿も早々色めきだってきました。
 台風の騒ぎも一段落してやっと晴れ間が見えるようになりました。電気工事はまだ継続中ですが、ありがたいことに生活には支障はありません。


 



 画像ホルダにまでは入れながら、気が進まず、UPを怠っていたものの中から、睡蓮と蓮を掲載します。








付喪神

2015年09月04日 | 塵界茫々



 いつのころから家にあったものかわかりませんが、物置の片付けをしていて台に虫喰いが入っている糸車を見つけました。
 他のものへの影響を懼れて、空調の室外機の上に出し、珍しさもあってそのまま置いていました。気が付くと軒下でも、雨風にさらされて糸車の竹輪もはじけた部分もあり、ばらばらになる寸前でした。お盆が近い折からもあって付喪神を思い浮かべてしまい焼却処分も気が進まないでいました。

 この国では古来、長い年月、百に一つ足りない九十九をつくもと呼び、年老いた女の私のような白髪を「つくも髪」と言ったものですが、それとは別に、器物も百年を経過すると変化(ヘンゲ)となり、人に災いをもたらすことがあるとされていました。九州国立博物館で室町時代の「百鬼夜行絵巻」目にした時から、使い古した道具たちの変化して付喪神となった妖怪が気になっていました。
 それに、北原白秋の詩の「糸車」も独特の雰囲気があって、決してメルヘンな明るいものではありません。どんな人が、どんな思いを抱いて糸をつむいだものかと思いをめぐらし、自分では焼き捨てられずに、庭の手入れに来た造園業者に託したことです。
 今回の台風に重ねて付喪神の災いなどとは言いませんが、奇妙な符合です。

 古い家のことで、百年はとっくに越した什器や道具も多く、老い二人は、変化となるには、まだ少しだけ年数が不足していますが、付喪神が腰を据えて居そうなものばかりです。







註 「陰陽雑記」より、「器物百年を経て化して精霊を得てより、人の心をたぶらかす。これをつくも神と号すといへり。」


  「糸車」 
   糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
  その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
   金と赤との南瓜(たうなす)のふたつ転がる板の間に、
  「共同医館」の板の間に、
   ひとり座りし留守番のその媼(おうな)こそさみしけれ。

耳もきこえず、目も見えず、
 かくて五月となりぬれば、
微(ほの)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨(はっこつ)のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光の斜に射すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに黙(もだ)す手の紡(つむ)ぎ、
その物思やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。