雀の手箱

折々の記録と墨彩画

本日の習作

2012年03月27日 | できごと

 やっと春を実感できる日和となりました。
 珍しくパソコンの中の掃除を思い立って、ドキュメントの不要になった古いファイルを片端から削除していて、うっかり一緒にOutlookデーターファイルも削除してしまい、mailの送受信ができなくなり、大慌てしていました。2日間頭の痛い日を憂鬱に過ごしていましたが、やっと復元できて、もっと物事は慎重に運ばねばとひそかに反省したことです。

 遅れていた土筆も、背伸びして川風が心地よげです。土手は一面の菜の花。
 盛りを過ぎようとする馬酔木を記念にとどめました。黄水仙はもう盛りを過ぎました。















春は駆け足で

2012年03月21日 | 日々好日



 猫柳がそそけだってきたと思っていたら、遅れていた春の足取りが一気に加速して、すっかり春の陽気となりました。
 土佐水木は彩りも鮮やかに、黄色のラッパ水仙と妍を競っています。蝋梅に始まって黄色は春の訪れを告げる色です。菜の花の黄色い絨緞がお彼岸と結びついています。

 今年は桜の開花も1週間ほど遅れそうという予報ですが、庭ではサクランボの花盛りです。
 今日は4月上旬の気候だそうです。暖かなのは大歓迎です。気温が上がると足の具合も快調になります。



Carnaval do Rio

2012年03月18日 | できごと
 毎年送られてくるリオのカーニバルの映像は、今年はDVDにしてビデオファイルと1248枚の写真という大量で送られてきました。
 2月20日、3日間の熱狂の祭りの最終日に撮影されたものが中心です。
 いかにお祭り好きのわたしでも、これほどの大量で迫力ある画像を見せられると退いてしまいます。
 アピート(サンバ・ホイッスル)で指揮される打楽器のアンサンブルの音もビデオの中で鳴り響いていて、20年前を懐かしみました。

 ラテンのひとたちの、そしてカリオカたちの、夜になっても36℃を超す南半球の熱気の中での底抜けの陽気をお楽しみください。

 ポルタ・バンデイラ(Escola de sambaの女性旗手)と補佐のメスト・サラの男性の誇らしげな踊り、フロート車の一番上で歌い踊り続ける豪華な衣装をまとって注目を集めるた一人。
 パレードの中の集団は、アーラ・ダス・バイアーナとよばれる千人を超す集団です。
 街中でも、特にコパカバーナや、イパネマでもパレードがあります。誰でも参加できるものもあり、中には怪しげな集団もありますが、町を挙げてのお祭りです。






  あまりの数なので、適当にUPしました。東日本大震災の1周年の日に届いた、場違いなものでした。
下の右端ボタンで拡大映像がみられますescで戻ります。

例会の準備

2012年03月15日 | すずめの百踊り
 今年は1本にした甘夏柑に実がたくさん生りました。そのためか、いつもより少し小ぶりです。食べきれない分をお福わけしています。
 今日の画題にも登場です。
 相変わらずの椿の学習ですが、東日本の不気味な余震に思いをはせての一枚もUPします。






















追悼の日

2012年03月11日 | 塵界茫々

今日3月11日で、あの悪夢の東日本大震災から1年が経ちました。
もう一年というのが私の感覚ですが、それはまだ一年という受け止め方の人もあることでしょう。
報道によれば、死者15854人、行方不明者3155人、19000人余の犠牲者です。
 かけがえのない人を、なすすべもなく理不尽に奪い去られ、財産のすべてを失った人たちは、命永らえても、癒えることのない傷を負って生きてゆかねばならない被災者です。 いまだに34万人が避難生活を送っておられます。

 午後2時46分には心からの哀悼の思いで、式典のテレビに向かって黙とうを捧げました。

 この出来事は程度の差はあれ、わたしたちに考え方の変化をもたらしました。直接の被災者とは比べようもない次元であっても、私も自分のなかで物への執着、価値観に変化が生じているのを感じています。ささやかな義捐金のほかには何の手立ても持たない身です。
 ただ祈る思いで、遺された方たちが、前に向かって踏みだす気持ちを取り戻される日が訪れることを願っています。


 遅れてやっと咲きそろった梅を鎮魂に捧げます。


豊の国

2012年03月07日 | 雀の足跡
 帰りは、午後から雨の予報が朝からの小雨になりました。高速自動車道を使わず国道10号を通ってゆっくり帰ることにして10時にチエックアウトして、道の駅「新吉富」に寄り道し、時間も早いので、通りすがりに案内標識を見ては一度参詣したいと思っていた綱敷天満宮に車を回しました。梅の季節とあって道路沿いには「梅まつり」の赤い幟が並んでいました。
10号線から1キロほど海岸に出たところに海に向かって真っすぐに、松の古木に囲まれて浜の宮 綱敷天満宮は厳かなたたずまいでした。

 菅原道真公が大宰府配流の折(901年)、周防灘で暴風にあい、この椎田の浜に漂着されたのを村人たちがとりあえず船の網綱を巻いて敷物として差し上げたところからの命名のようです。
 浜から延びる参道には祭りの小屋掛けも出ていて、「梅が枝餅」など売っていました。
 境内にはそこここに歌碑や句碑が建てられていて、学問の神様を祭る社らしく、受験生の絵馬も多く奉納されています。
 神楽殿では土地の人の奉納する「おろち舞」が舞われていました。素朴な神楽囃とやまたのおろち退治の舞に古事記の世界にしばし浸っていました。
 ここも梅の花の開花が遅れていました。



























 補注 現在の社殿は、寛永14年(1634)豊前国主小笠原忠眞公と豊後国主木下延俊公によって造営されたもの。
    説明板によると、多くの知名人の参詣があり、貝原益軒も海岸の景を称え、菅公を偲び、各務支考(蕉門十哲)も「昼がほよ今宵はここにはまの宮」の句を残しているそうです。

豊後の国

2012年03月06日 | 雀の足跡

 3日は、久しぶりの快晴だったので、仲哀トンネル抜け、椎田道路経由で宇佐別府道路から大分ICで降りるコースを取りました。待ち合わせの大分東洋ホテルまで夫を送って、久しぶりの気ままな一人の時間を大分市内中心部を回ることにしました。
 ただ別府温泉の入湯にも、足のためにはたっぷり時間を取りたいので、2時間を車で回れるところに絞っての歴史散歩です。お猿の高崎山や水族館の海たまごが観光の目玉なのでしょうが、何度も出かけているので、割愛です。

 見違えるほど整備された市内は、府内城跡周辺にはやたら大分ゆかりの人の銅像が建っていました。車からの見物です。府内城跡は公園になっています。廊下橋も復元されて(平成8年)いて、お堀端では鷺が張り番を務めていました。
 
 
 古代には豊後の国衛が置かれ、中世には豊後の国の守護大名大友氏の拠点となった歴史ある府内の地ですが、私は明との交易や南蛮貿易で繁栄を誇ったキリシタン大友宗麟(21代)ぐらいしか知りませんでした。
 慶長2年、秀吉によって改易され、福原直孝が12万石で入封し新たに築城したもののようです。訊ねてみると大友氏館と呼ばれるものは2か所あり、どちらも今は記念の石碑があるぐらいというので、今回は府内城に限定してゆっくり回りました。

特に平成8年に復元された廊下橋が珍しく現存するものは堀と石垣、宗門櫓、人質櫓、天主台ぐらいです。


入口に設置されていた「大分県道路元標」の石碑



大手門




廊下橋入口




廊下橋




案内図



 宿泊は、遅く大分から戻る夫の便宜を考慮して、別府駅に近い北浜のホテル清風を予約していました。創設80年の老舗ホテルで、かつては菊池 寛や武者小路実篤などが定宿にしたとされていて、「実篤の湯源泉」などと表示が下がっていましたが、今では他に立派なホテルが多数建築されて昔の面影は薄くなっているようです。夫には新日鉄大分製鉄所建設のころ宿泊した思い出もある宿のようでした。いつもは観海寺や鉄輪、明礬地区の温泉をとるので、北浜は私には初めてでした。

 9階の和洋室から見下ろす窓の下はすぐ別府湾の波が寄せて、風を受けて走るセーリングのボートの群れや、ヨットハーバーの眺めは珍しいものでした。屋上の展望露天風呂の海風も心地よく、左に遠く延びる国東半島、右には高崎山を眺めて、寒さを忘れてくつろぎました。












淡雪

2012年03月02日 | すずめの百踊り

 朝、床の中で雨音を聞いてまた今日も雨の一日かと思っていました。起きてカーテンを引いて屋根に残る雪を見て、ああ、この雪解けの音だったのだなと知りました。

 すっきりしない日が続いています。
 明日は、所用で大分まで出かけます。雨の日の運転は避けたいので、晴れることを祈っています。時間が遅くなるので、久しぶりに別府で一泊します。

 先日来の稽古の中から選びました。
 椿と夜の梅に絞って描いています。無理があり、まだ模索中ですが、その中から特徴的なものを3枚ずつ選んでみました。