雀の手箱

折々の記録と墨彩画

石蕗

2010年11月27日 | すずめの百踊り

 毎年繰り返し描いている石蕗です。石蕗は今夏に他界した妹が殊に好んで愛しんだ花です。
 今年はなにか特別に色も鮮やかな気がます。

 戯れにノートを横にしたサイズのミニ屏風に、2枚連続で描いてみました。左右どちらからも連続性を持つように描いたつもりです。


 おまけの一枚は、郁子(うべ)の綿を、色を探るつもりで、何枚か引いて見るうち、色が決まったところで、決まったのなら、それから絵を作るべきだといわれての挑戦です。飛び出した駒、自分では気に入っています。











11月例会

2010年11月24日 | 日々好日
 風邪でお休みしたので、久しぶりの墨彩画の例会でした。
 軽くなったと好評でしたが、本人は納得していません。黄葉の見事な零余子(ムカゴ)を、織部の尺八の掛花入れにいれて、何枚か試みました。そのうちに枯れ葉に変わって、更に軽やかなたたずまいが、造化の妙を誇示しています。

 秋の名残の果実も気が進まないながらの提出です。今回では、つわぶきが本人には一番の気に入りでした。
 











出光美術館の午後

2010年11月19日 | 日々好日
 小春日和の穏やかな陽射に誘われて、門司港の出光美術館まで出かけました。
 風邪の気はまだ残っていますが、奈良への旅で留守をしたこともあって、誘いを断れませんでした。

 開館10周年記念の出光コレクションの第4回は「日本陶磁名品展」です。
 縄文時代の火焔型土器から、奈良、平安を経て桃山までの古陶磁と、鍋島、古九谷、柿右衛門、そして近代の板谷波山までの出光自慢のコレクションが展示されていました。

 絵唐津の柿文三耳壺は何度も見ていますがやはり目を惹きます。渋い唐津の土肌に墨だけで無造作に置かれる点が巧まない変化で力を感じます。(桃山時代 重文)
 そのほか志野橋文茶碗。織部の千鳥の向う付けの絵変わりは、どれもモダンで緑の釉薬が上手く文様とマッチして現代風でした。
 きらびやかな古九谷や、鍋島も勢いがあって美しく、いいものですが、やはり、私には桃山の志野や織部に目が行きます。鼠志野の草花文が青みを帯びた灰色の中にさっと描かれた本歌の前ではしばらく立ち止まっていました。よくこの図柄はお借りして絵付けをしました。

 同じく桃山の絵唐津葦文の壺(水指)の別面には、蔦唐草が描かれているのに初めて気付き、迂闊ながら今日の収穫でした。好きな形、絵付けです。

 仁清の色絵鶏の香合、色絵尺八の香合など珍しく拝見しました。チラシの重文・芥子文茶壺は、金、銀、赤の芥子が穏やかな張りをもつ大壺の造形の中で咲き誇っていました。

 会場を出て、何時ものコースで、海峡の、本州と九州を繋ぐ関門橋のたもとで早鞆の急流を行き交う大型船を眺めながらしばらく散策して引揚げました。海峡の紅葉の盛りはもう1週間ほど先でしょう。



若草山ドライブ

2010年11月15日 | 雀の足跡
 奈良を4時ごろ発つつもりでした。平城宮を展望するレストランで昼食の後、若草山には登ったことはないでしょう。と妹が言い出して突然の山登りになりました。

 土曜日の渋滞を避けて、奈良山越えのコースを採りました。万葉集にしばしば登場する大伴家持一族のゆかりの地です。

 途中、峠にある「翁舞」発祥の神社で、能楽に関係深い奈良豆比古神社(ならつひこ)にお詣りして行きました。前回は、転害門から般若寺を経て歩いてお参りした神社です。今も10月の例祭には、この舞殿で翁舞の奉納があるそうです。
 拝殿のすぐ裏手の谷に大楠があるというので、行ってみました。私は急な坂を降りることは出来ませんでしたが、上から眺めていても霊気の漂うパワー・スポットと感じました。


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 この3日間の私達の歩きを見ていて、多分、若草山に登るなら、秋晴れの今日が最後の機会と思ったのでしょう。私と弟とは六つ違いですが、妹と私では、一番上と一番下で20も齢が離れています。もうみんな年老いてきました。

 車で山頂近くまで登ることができます。知らなかったのですが、山頂には「鶯陵」と称される前方後円墳がありました。鹿もかなりの数がいて、煎餅をねだります。
 どのような方がこの眺望をほしいままにする地に眠っておいでなのでしょう。案内板には枕草子にも取り上げられているとありました。遠く生駒山系から、二上山まで見渡すことができ、眼下には東大寺の屋根の鴟尾が小さく光っていました。
 近鉄奈良駅で、妹夫妻に見送られ、8時半に帰着しました。


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*マークは2枚です。

「祈りの回廊」

2010年11月14日 | 雀の足跡
 三日目、これという予定はないというので、祈の回廊の最後は、一度は拝んでみたかった法華寺の十一面観音が2週間限定で開扉公開されているようだから行きたいと私がいいだして、大極殿からだとすぐ近くなので、みんなで出かけることになりました。
 
 東大寺が全国の総国分寺で、総国分尼寺がこの法華寺です。光明皇后をモデルにそのお姿を写したとされる十一面観音立像には、2回訪れてご縁がなかった身には期待に弾みがついていました。
 会津八一はじめ、文人達に歌われたお姿は想像していたよりは、ずっと小さく整った豊かなお顔で慈悲に溢れてお堂の中央に佇んでおられました。
 慈光院(収蔵庫)も開扉されていて、妹も初めてというので拝観しました。小さな建物の中一杯に掛けられた、雄大な阿弥陀三尊と童子を描く掛幅(国宝)は、思いがけなかっただけに四人とも驚きの声を発したことです。
 宣伝もされてなくて、人にあまり知られないこうした傑作が、さりげなく迎えてくれるのが奈良詣での楽しみの一つです。
 特に可憐な童子と美しい蓮弁の舞う一幅は、光明皇后ご臨終の枕仏に相応しく、「阿弥陀来迎図のうちでも最も貴重な作品」という解説を心から納得したことです。この来迎図にお会いできたのが、十一面観音とともにこの日の最高の感動でした。

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 庫内に上がる前から気になっていた大きな水鉢も、聞けば奈良時代のものと教えられました。案内板も何も立ってはいません。
 左手の階段を登った収蔵庫に展示されている寺内出土の瓦は、平城宮瓦と同じものや二彩の釉薬が見られる美しいものが多数でした。鬼瓦まで尼寺のものらしく優しい顔立ちだと語り合ったことでした。


 浴堂(カラフロ)は、日本史の教科書にも登場する皇后自ら薬草を煎じてその蒸気で病者を救済されたといわれる天平のサウナの建物です。室町時代に改築されたものですが、敷石の一部は天平のものと記されていました。以前は中に入れたのですが。

から風呂

 直ぐ傍だからというので車は法華寺に置いたままで、海龍王寺(平城宮の東北隅に位置するので隅寺とも呼ばれ、藤原不比等の邸宅跡)へ回りました。ここでも、日ごろは拝観できない本尊十一面観音立像(重文)がご開帳されていました。

 はじめてこの寺を訪ねた40年前は、草を分けるようにしてて道を辿った荒れた寺院でした。僧玄が遣唐使として渡唐の帰途、東シナ海で暴風雨に遭い、4隻の船団のうち玄の乗る船だけが種子島に漂着し帰ることができました。そのとき持ち帰った五千余巻の経典と、海龍王経を唱えつづけて、九死に一生を得たことにちなみ、玄の住持するこの寺では海龍王経を用いて遣唐使の航海の無事を祈願したので、聖武天皇から海龍王寺の寺号と勅額を賜っています。
 西金堂内に安置される戒壇の儀が執り行われた五重小塔は国宝です。ここも見違えるほどの修復整備がなされていました。
 連日1万歩を超える歩数計に驚きながらの、祈の回廊の巡礼でした。自分はもう何度も出かけているのに、付き合って案内してくれた妹に感謝しています。

海龍王寺山門


海龍王寺境内


十一面観音(重文・鎌倉時代)


五重小塔(国宝・奈良時代)

大極殿 開門の儀

2010年11月13日 | 雀の足跡


 復元作業が続いていた大極殿正門が1300年祭にあわせて完成し、春以来のイベントの衛士たちによる「開門の儀」の再現が、今日(6日)で終了だから、見て行くようにと勧められて、朱雀門から入場して広場の群集の一人となりました。

 奈良に人出が多い理由の一つがこのイベントを含めた平城遷都1300年祭です。さまざまな記念の行事のなかで、秘仏の公開に劣らず人気のある行事で、観光バスも朝9時というのにもう沢山到着していました。



 左手の広場の一角には遣唐使船も復元されていて、鑑真和上や、「天平の甍」の世界にタイム・スリップさせます。
 この大極殿内で繰り広げられた政治権力の抗争のさまざまを甦らせながら、直ぐに始まった、長閑な学生アルバイトとみえる若い平成の衛士たちによる最後の開門の儀を20分近く見物していました。
 
朱雀門より望遠
開門に向う衛士たち

開扉された正門


ささなみの志賀の都

2010年11月12日 | 雀の足跡
 湖西線の大津京駅は乗降客も少なく、天智天皇の都のあとも定かでない古都はどこか哀愁を帯びていました。
 石山寺には何度もお詣りしているし、三井寺は初めてという三人にあわせて、今回は大津に出かけることにしました。

 一つには大津市歴史博物館で開館20周年の記念展として「大津 国宝への旅」が開催されていて、大津の名宝の国宝35点、重文55点が、展示替えはあっても今までにない規模で展示されているという妹の情報で、こちらに決めました。

 湖西のみ仏にはお目にかかる機会も少ないので期待を持って向いました。この日から後期の展示で県内初公開という国宝「御骨大師」の坐像(木造智証大師坐像―三井寺に伝わる円珍の遺骨を納めているので「お骨大師」と呼ばれるわが国肖像彫刻の白眉といわれている)をはじめ、大津の代表格で、多くのファンを持つ盛安寺の木造十一面観音(重文・平安時代)にも初にお目にかかりました。穏やかなイ化のも平安朝のみ仏という風情で温かく出迎えてくださいました。


 聖衆来迎寺に伝わる国宝の六道図は、13幅も並べられると、地獄絵の最高傑作とされるだけ、その鬼気迫るおぞましさには目を背けたくなりました。

 バルコニーの展望台に出て、琵琶湖を眺めながら、昔とはすっかり様変わりした湖岸に建つ色鮮やかな建造物に目をやりながら、もはや近江朝の興亡も人麻呂の嘆きも幻影としても浮かんではきません。午後の時間をたっぷり堪能して、直ぐ隣の園城寺へと向いました。





 三井寺は昔のままの面影を漂わせてひっそりと紅葉の季節を迎えようとしていました。
重文の仁王門、三井の晩鐘で知られた鐘楼、閼伽井屋(み井寺の呼び名の起源の霊泉)などを巡りましたが、私はここで回遊をやめ、天台寺門宗の総本山、国宝の園城寺金堂のきざはしに腰をおろして、三人が帰ってくるのを待ちました。
 平安朝で「寺」とだけいえば、この園城寺を意味した長い歴史と再三の兵火でかつての偉容は失なわれているとはいえ、もの古りた樹木のたたずまいにも、今、弁慶が鐘を引きずって現れても不思議ではないパワーのようなものを感じていました。

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画像は三枚です。

「上村松園」展

2010年11月11日 | 雀の足跡
 二日目は京都に出て、平安神宮でようやく進んだ京都の紅葉をに眺め、国立近代美術館での「上村松園」展を見ました。京都に生まれ育った画家だけにファンも多く、さぞかし混むことと思っていましたが、行列の待ちもなく、ゆっくりと鑑賞できました。東京展での様子を見聞しているので些か嬉しい拍子抜けでした。

 会場ではいきなりの「序の舞」との遭遇で、その大きさに圧倒されました。左手の軽く結んだ手の緊張感が伝わります。囃子の音も聞こえてきそうな静かな躍動感がありました。

 絵は描かれた年代順に並べられていて、代表作約80点と素描が展示されていました、
 謡曲や古典を題材にしたものや、浮世絵の構成を思わせるものなど多彩ですが、顔の表情を持たない後姿で、ここまでの情念が表現できるものかと驚きをもって見つめたことでした。繊細で、隅々まで心配りされた絵は、題材を掘り下げて捉えた情感と相俟って見るものに迫ります。

「序の舞」「砧」「雪月花」などの代表作は東京で所蔵されているため、このような形の集大成を彼女の本地である京都で見られたのは幸せでした。
「雪月花」も「皇室の至宝」展で見たときとは違って、しっくりと静かに壁面で華やいでいました。今の私は、晩年の作品で、市井に暮らす女性の日常の姿をやさしく表現した「夕暮」や「晩秋」「待月」などの穏やかな作品群を好ましくすばらしいと受け止めました。

 折角の京都だからと「おばんざい」の店で昼食。すぐ傍の細見美術館の「お江戸の琳派」に敬意を表しました。ただし、激しい情念を内に塗りこめる松園を見た後では、感興もいまひとつで、大津へ行くためにタクシーで京都駅へと向いました。

 リンクから多くの画像をご覧ください。



大和文華館の日本絵画

2010年11月10日 | 雀の足跡


 予定していた今回の見学のうち、私にとっての収穫の第一はこの「大和文華館の日本絵画」
展でした。開館50周年の記念特別展の期待に背かない所蔵品の逸品揃いの展示でした。
 出発前のネットの検索で、前期に国宝「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風)が出ていることはわかっていましたが、六曲一双の豪華な屏風は、等身大に描かれる遊女達の身に纏う着物の文様や手にする小道具の類は何度見ても目を楽しませてくれます。九国博の開館記念展で初めてお目にかかりましたが、所蔵するこの館で見るのは初めてでした。ただ、左隻と右隻が私の記憶間違いかもしれませんが九国博では逆だったようで意外に感じた覚えがあります。この館の形のほうが絵としての流れもあって正しいと思ったことです。


六曲一双のうち右隻


 そのほかに、はじめて目にした国宝の寝覚物語絵巻(菅原孝標の女の作とされる「夜半の寝覚」を絵画化した作品)の料紙の金銀の切箔や銀の砂子のきらびやかな料紙に描かれた絵を前にすると、平安時代、これを手にして読みふける姫君へと空想は広がります。



 わが家でのお正月には必ず出番を迎える復刻の小大君像の原本(佐竹家伝来の三十六歌仙絵巻の断簡)。伊勢集断簡の石山切も展示されていました。



 伝・宗達筆といわれる伊勢物語図色紙のよく知られた六段芥川も展示されていました。背にした女に、月光に煌く露を「あれは何か」と訊ねられて、振り返る男、二人を包む金泥の朧な輝きにこの場面の持つ叙情性と後の展開の悲劇が象徴的で、観るものを惹きつけてやみません。今の色紙のサイズよりもやや小振りでした。
 
 この館を訪問するうち何度か目にしている尾形光琳の、金箔を敷き詰めた上に扇面と団扇画を貼り交ぜた豪華な手筥が出ていました。今回も入り口中央のガラスケースの中に、弟、乾山の武蔵野隅田川図乱箱とともに並んでいました。乾山の乱れ箱の墨の線は、いかにも伸びやかで、晩年の境地が心地よく感じられ、きらびやかな光琳と並んでも引けを取らない存在感がありました。
 閉館も間近の時間のせいか、入場者も数えるほどで、中央吹き抜けに群生する竹もあって、ゆったりとした鑑賞の時に恵まれました。


奈良の一日

2010年11月09日 | 雀の足跡

今はもうこの位置関係では見ることができなくなった法華堂内の諸仏


 日程が短いため、早朝の「のぞみ10号」で出発したので、近鉄奈良西大寺には11時の到着でした。
 妹の車での出迎えを受け、好天なので奈良公園でお弁当にしようということになり、改装で見違えるようになった駅構内で松茸おこわの弁当を仕入れての出発でした。

 先ずは、いにしえに鑑真僧正が、東大寺大仏殿前の広場で聖武帝はじめ400人の貴人に戒を授けられたときの戒壇を移したという戒壇院へと向いました。古い寺院に遺る四天王中、私にとっての最高の戒壇院四天王に挨拶し、東大寺への道を辿りました。


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 弟が東大寺にお参りした記憶が残っていないというので、付き合うことにしました。
 平城遷都1300年祭と、正倉院展、修学旅行シーズンと重なって、平日というのにどこも人が溢れています。駐車場探しで合流が遅れた妹の情報では、正倉院展入場は150分待と放送されていたというので、即拝観はやめると決定。今は三月堂(法華堂)で、仏像修復のため日光月光の両菩薩が間近かに拝めるというのでそのまま三月堂へと進みました。

 三月堂は東大寺の諸堂中、焼失を免れた天平年間の創建になる最古の建物です。
 不空羂索観音はすでに修復が開始されていてお姿は拝めませんでしたが、和辻哲郎の日本精神史研究以来の憧れの仏像が今はガラス越しとはいえ目の前に立っておられます。これから修理が行なわれた後は耐震設備の整った「東大寺ミュージアム」に安置の予定だそうで、この堂内で拝めるのはあと1年くらいでしょう。
 何時もの薄暗い堂内の奧に両脇侍として立つお姿とは全く異なり、僅かに残る袖口の朱と緑の色もはっきりと見てとれ、やわらかに合わせられた合掌の手の美しさは、いつ拝んでも時を忘れるほどでした。ここには修学旅行生も入っては来なくて静かな時間が流れていました。

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 三月堂前の小さな校倉づくりの経庫が20日間に限り特別公開されていました。中には東大寺の僧侶になるための住職試験の折に使用された背の高い論議台が保管されていて、問答の緊張感が漂います。日ごろ入場できない重要文化財の建物の中に、特別入場というのは得した気分でした。

 地を接している手向山八幡で「このたびは幣もとりあえず」と菅原道真公に倣ってお参りして、奈良公演を斜めに若草山を眺めながら、ようやく紅葉が始まった樹木に目を休ませつつ駐車場へと向いました。

 入場待ちの4列の行列が幾重にも蛇行して団体入り口の人の渦も加わり、はたして2時間待ちくらいで入場できるのだろうかと話し合ったことでした。
 奈良博本館の、「なら仏像館」での「珠玉の仏たち」展を見て行くことにしましたが、会場一杯の国宝や重要文化財のオンパレードにはただ圧迫されて、余りの数の多さに茫然としてしまい、鑑賞もそこそこに会場を後にしました。法華堂の金剛力士像の大きさは圧倒的な存在感で特別公開としてここにご出張中でした。

 夕食までにはまだ早いというので、大和文華館でも改装が終わり、開館50周年の記念名品展で、「大和文華館の日本画」が開催中と妹がいうのでそちらに回りました。



三月堂の月光菩薩像 画像は総て寺院入場の折にいただくちらしよりお借りしました。
※印はマウス・オンで2枚です。