昨晩は90歳で逝った従妹の通夜でした。“みまき会”も毎年誰かが欠けてゆくようになり、解散後は、顔を合わせるのはこうした切ない別れの日だけとなっています。
私の母が一番末子ですから、高齢者ばかりであってみれば当然ながら、僧の読経の間ずっと自分の齢へのけじめを迫られている気がしていました。
弟に送ってもらい、自宅への坂道を登りながら、中天にかかる十六夜の月が寒々と黄金に冴えた光を放つ雲の多い空を眺めて佇んでいました。
前に描いたものの中から2枚を選びました。
昨晩は90歳で逝った従妹の通夜でした。“みまき会”も毎年誰かが欠けてゆくようになり、解散後は、顔を合わせるのはこうした切ない別れの日だけとなっています。
私の母が一番末子ですから、高齢者ばかりであってみれば当然ながら、僧の読経の間ずっと自分の齢へのけじめを迫られている気がしていました。
弟に送ってもらい、自宅への坂道を登りながら、中天にかかる十六夜の月が寒々と黄金に冴えた光を放つ雲の多い空を眺めて佇んでいました。
前に描いたものの中から2枚を選びました。
お正月あけに画いていたもののなかから、伊勢海老と、蛙さんのお庭の霜に美しく変色した冬の菊に触発されて描いたものを記念にUPします。この冬の菊は幼い日の思い入れがあって、まだ想が固まらず模索の途中ですが一応まとめたつもりです。
金柑は次回の例会に提出するつもりで何枚も画いています。こちらも幼い日の手毬歌がたゆたって、なかなか表現に昇華できないでいます。
久しぶりの暖かな日和に庭に出てみました。蕗の薹を探したのですが、ご覧の通りの小さな芽立ちです。わずかに猫柳の綿芽が春を告げて膨らんでいました。
特別に遅れた今年は、蝋梅もなんとなく色も香りも例年になく冴えない気がします。金柑を収穫して、画題にすべく甘夏柑を折ってきました。
海外で長く生活した身、遥かなアフリカの悲報に胸をいためながら、春本番の訪れを待ち遠しく焦がれています。
毎日曇り空で、ぐずついたすっきりしない日が続いています。画題を探して庭に出るのが気晴らしになっています。
今日は冬の名残の何枚かの中から、2枚を選びました。大根干しはもうこの辺りでも見られなくなった風景ですが、つい先ごろのような記憶の中の冬の風物です。
枯れ蓮は挫折の冬のオブジェといった友人がいました。彼女のイメージとは異なるかもしれませんが、敗荷のまがまがしいまでの悲しみは、冬の季節にふさわしいようです。
九州歯科大へ定期の検査に出かけたついでに、小倉城庭園出開催中の「印籠とたばこ入れ」展に立ち寄りました。
ここは寄るたびに、小笠原流の礼法に関しての季節ごとの展示に教えられることが多いのですが、今回は正月に関しての武家の礼法や祝い膳に目新しいものがありました。
印籠とたばこ入れは、いまは漆と根付制作に励んでいる娘の話についていくためもあって、「粋な男の洒落小物」の惹句を見せてそそのかし、連れ合いも誘っての見学でした。
展示は175点ほどで、掛川市二の丸美術館所蔵のものが中心で構成されたこじんまりとしたものでした。
今や肩身も狭くなった紙巻きたばこの殺風景とは違い、たばこ入れが男たちのステイタスシンボルでもあっただけに、“総合芸術”といわれる所以ももっともと納得しますが、それにもまして、江戸の職人達の工芸技術の技の高さとしゃれたセンスには目を見張るばかりでした。今の時代には已に不可能ではないかと思えるような卓抜した贅を尽くした細工のかもす異空間にほのぼのと満たされる思いで会場を後にしました。
例年は七草の頃には蕗の薹も顔を覗かせているのですが、今年は芹、はこべの姿もなく、爪ほどの蕗の薹を三つだけ見つけて、水菜や蕪、これだけはたくさん茂っている三つ葉と春菊を収穫しました。春の七草ではないのですが、この季節の葉物を取り集めての五草粥です。
手術以来、ことのほかお粥にうるさくなったあるじの好みににあわせて、昆布が多めの合わせ出汁でゆっくり炊きあげました。
最後に刻んだ若菜を入れ、塩で味を調えると、台所中に早春の香りが匂い立ち、目に鮮やかなさみどりが春を告げてくれます。
古人はうまく季節を賞味し、正月のご馳走で疲れた胃袋をいたわった智慧の持ち主だったことに感服します。
この人日の節句で正月気分にもけじめがつきます。塗り物の手入れをして、よい日和にも恵まれたので、片づけもはかどりました。
久女の句に 草の戸に住むうれしさよ若菜摘 という句があります。今年は数は揃わないものの今のご時世に庭先での若菜摘みはしわわせと思わねばなりません。
若菜を摘むついでに、藪の中に凛と咲いている水仙を切ってきたので、今日は久しぶりに、三枚ほど書いてみました。
何もかも水仙の水も新らしき 子規
水仙や古鏡の如く花をかかぐ たかし
水かへて水仙影を正しけり 草城
明けまして おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
雪の新年を迎えました。「今日降る雪のいや重け吉事」と、心からこの国の行く末に願いを込めたことです。
恒例の元日の朝風呂は、ブラインドを巻上げ、透明のガラス戸越しに雪見の半露天風にして、ささやかな贅沢を愉しみました。
今年は故障にめげず、身辺整理に精出す覚悟です。7回目の年女です。泉下のほうが友人知己が多くなりました。次の巳年は期し難いと、元日の「一里塚」をしみじみとかみしめています。気力だけはまだまだ人後に落ちずと自負しても、体の衰えは正直な現実を突き付けてきます。
皆様にとって充実の幸多い年でありますように。