宗像方面に出かけるときに、途中通過で気にかかりながらも、いつでも行けるとお参りしないままになっていた織幡神社(おりはた)です。
あまりに心地よい初夏の日差しに誘われ、海辺の散歩を提案したあるじに付き合って、宗像市鐘崎、岬の突端にある織幡神社を目指して車を走らせました。美しい海岸線をドライブして遠賀郡との郡境を越すとすぐです。
ここは宗像大社に次いで、延喜式にも登場する由緒ある式内社(補注1)です。現代の人は松本清張の小説「渡された場面」の事件の舞台として思い浮かべることでしょうが。
地元では、「しくあんさま」と呼ばれていますが由来はわかりません。
万葉集にも詠まれた「金の岬」は、今も多数の漁船が係留されています。鐘崎周辺はアワビ、サザエなどの豊かな漁場なのです
ここ鐘崎の先祖は鐘崎海人と呼ばれ、航海術に秀でていて、その進取の気性から各方面で大活躍したそうです。特に潜水技術に優れた鐘崎海女は西日本の海女の発祥であり、出稼ぎ地であった能登、長門、壱岐、対馬などにはその分村が出来たと言われています。
沈鐘伝説(補注2)で有名な巨石は、神社の鳥居のそばの参道に置かれていました。
補注 1 延喜式神名帖に記載されている神社の呼称
2 「ちはやぶる神の御崎」には、1400年前に貢物として朝鮮半島から運ばれてきた大きな梵鐘が、 この岬の突端で大波のため沈んだという伝承があり、鐘崎の地名の起こりとされていました。鐘は竜神に守られ、風の強い日には澄んだ音色を響かせたので、この地から東の海を響灘と呼ぶようになったと伝えられています。過去3回、引き揚げが試みられ、失敗。大正時代炭鉱王山本菊次郎氏が巨額の費用を投じて引き揚げたものが巨石だったというわけです。人々は今もどこかに鐘は沈んでいると信じています。
織幡の由来は『織幡宮縁起』(天和3年)に、神功皇后及び武内宿禰、洞の海より高津山に登られ、神々に祈られ、次いで波津(はつ)の浦で軍(いくさ)の旗を織らしめ給い、その所を名づけて「はたの浦、大旗、小旗という。今のはつの浦とは言いなまりなり。ここに織幡大明神とは号するなり。と記されています。波津はすぐ東の地です。
神功皇后の出兵の折、武内宿禰がこの地で紅白の旗を織らせたという伝承からも、宗像族は漁業や航海術だけでなく、高度な服飾文化を所有していたことがうかがえます。
13日、月曜日の散策のあと、この記事を書いた翌朝、主人がベッドから起き上がろうとしてよろけ、転倒した折に左手手首を骨折し、痛々しいギブスで肘の上まで固定されました。足の腫れは減ってきていたのですが、当分はまた整形外科通いの毎日となりました。