雀の手箱

折々の記録と墨彩画

美人画の系譜

2009年08月30日 | 雀の足跡


 北九州美術館が「美人画の系譜」と題して、鏑木清方の作品23点を中心にした展覧会を開催していました。福富太郎氏の蒐集品です。

3章構成で1章は清方の明治から昭和にいたる作品23点、2章が東の美人画、3章が西の美人画となっていました。天保13年の作品が一番古いもので、明治大正昭和の日本画による美人画の系譜が展開されていて、美人の定義、衣装の変遷、着物の図柄の時代による好み、背景に描かれている道具や風景は、一種の風俗史の観がありました。
 7月半ばから開催されていたのですが、いまひとつ気が乗らないでいました。いよいよの会期末になって誘いが掛かりました。美人には日ごろ縁がないのだから仕方がない付き合いますかと腰をあげました。
 鏑木清方の作品では“緑のショール“と題した額装の小品、”紺屋高雄”これも小さな軸装が印象に残っています。
画題も歌舞伎や物語草紙に採ったものが多いようでした。東西の美人画では、目が行く絵の作者名をみると、上村松園、堂本印象といった西の作家に肩入れしたいものがありました。

 別館の版画展示室では“北斎と広重”のコレクション展を開催していました。
北斎の富岳三十六景 神奈川沖浪裏は、何度見ても構図の発想の斬新さも浪の勢いの躍動感にも感嘆します。
広重の京都名所の内 あらし山満花も、思い切りのよい斜めの構図に「ヒロシゲブルー」が風景の中に活かされて、大胆です。“紫陽花に翡翠“”笹に雀“”狂歌ねぼけ百首“”魚づくし“と多彩な幅広い活躍を見ました。




寄り道

2009年08月28日 | 雀の足跡
 九国博の阿修羅展拝観の余韻のなかで、天平のいにしえを偲びながらの帰り道の道筋で、同行のKさんが、観世音寺にお参りしたことがないといわれました。それではと、急遽、立ち寄ることにしました。

 このお寺は天智天皇が、朝倉宮でなくなられた母斉明天皇の供養のために創建を祈願された勅願寺です。

 かつては西日本一の規模を誇った七堂大伽藍も、今は純友の乱以来、度重なる火災と大風による倒壊で、昔の偉容を偲ぶことは難しい有様です。 
 楠の並木に続く参道の萩はもうすぐ花が開きそうでした。午後の境内に人影はなく、お参りを済ませて隣接する戒壇院へと向かいました。
 造観世音寺別当として左遷された僧、玄肪の墓があったはずと探すと、今は石垣と塀でで囲われ、花が供えてありました。昭和30年代の初めに観世音寺を訪ねた折には、農家の庭先で、このお墓に布団が干してあったのを思い出しました。
 南大門や、五重塔の礎石をはじめ、講堂(本堂)裏の礎石の列が方3丁といわれた往時を偲ぶよすがです。
 丈六(5mくらい)の仏様を拝すことができるのは北部九州ではここにしかないと、乏しい知識を披露すると、是非拝観したいといわれるので、閉館時間を気にしながら、宝蔵(宝物館)に入りました。
 いつも九国博展覧の帰りは疲れていて、素通りするので、好きな大黒天像と、馬頭観音に久しぶりにお目にかかってきました。二人だけの宝蔵には明るい空気が流れていました。館内には多数の国重要文化財(15点)があり、私が実物の舞楽面の納曽利面と陵王面(平安時代)を初めて見たのもここでした。
 ここの馬頭観音は高さ5mの巨大な観音菩薩で、わが国馬頭観音の代表作といわれています。
 大黒天もほっそりした1,7mの立像で、わが国で最も古いすぐれた尊像とされている平安時代作の国重文です。この木造は福徳を現す後の大黒天とはおよそ異なる厳しい表情です。
 ほかにも珍しい地蔵菩薩の半跏像があり、十一面観音立像と不空羂索観音の丈六のみ仏が佇んでおいでになります。
 一日を十分に散策して、満ち足りた思いをだいて帰途につきました。


観世音寺本堂。参道を進んだ正面に建つかつての講堂で、1064年炎上、2年後再建されたが創建時より縮小された。1102年大風で倒壊し再建。1143年再度炎上。1688年黒田光之公の命で博多の豪商浦氏が再建。
阿弥陀堂。こちらが金堂。
宝蔵が完成するまではここに丈六の巨像はじめ多くの仏像が安置されていた。金堂が東面して五重塔と向き合う形式は飛鳥の川原寺と同形式。

鐘楼の前に残る五重塔の心礎。この心礎は発掘調査で、創建当初の位置にあるとされた。


鐘楼 国宝の梵鐘 (白鳳時代)
京都妙心寺の鐘、奈良当麻寺の鐘とともにわが国最古といわれる梵鐘です。妙心寺の梵鐘と同じ木型による兄弟鐘。以前は除夜の鐘で鐘の音を聞くことがありました。はじめてお参りした折はみんなで鐘を撞きましたが今は金網の中です。

戒壇院は、奈良・東大寺 下野・薬師寺と筑紫・観世音寺 の三箇所に設けられました。僧尼に受戒を授けるところです。鑑真創建。鑑真渡海の目的は戒壇院を設立し、登壇受戒の道場をひらくことにありました。 
本尊は平安時代作の昆盧遮那佛で国重文

駐車場、観世音寺、戒壇院は無料、宝蔵は値上げされていて、それでも500円でした。

戒壇院正面


禅寺の入り口でよく見かける碑ですが少し異なっています。「葷酒肉境内に入るを許さず」ですが、罰当たりが「許さざるに葷酒肉境内に入る」と読んでいました。

八部衆と十大弟子

2009年08月26日 | 雀の足跡


 阿修羅の仲間の八部衆の中で、一番の童顔をした沙羯羅(サカラ)の頭上には、首をもたげた蛇が頭を1周して左肩から胸を伝って腰まで下りています。後ろから見るとより写実的で立体感があり禍々しいはずですが、甲冑に残る金色のかがやき、あどけない姿態に乗せられたふっくらした頬で愛らしくさえあります。
 私のお気に入りの迦楼羅(カルラ)にもまた会うことができました。インド神話では龍を常食する巨鳥ですが、興福寺の一体は横を向いています。
、同じ迦楼羅でも、東大寺の伎楽面のような険しさはなく、この異形の像ですら体つきから、どこか優しげで、嘴の横に垂れた肉垂もユーモラスなものさえ感じます。彼の履くブーツの菱形に切った中の文様もモダンで、甲冑全体にも華やかに細かく模様が入っています。
 緊那羅の額際にちょこんと生えた小さな1本の角。額の、縦に刻まれた第三の目、彼の右腕は失われていて、心木が痛ましく覗き、乾漆の技法を教えています。一番険しい顔つきでした。

 興福寺の乾闥婆は目をつぶって頭の獅子のフードとは不似合いの悲しげな顔つきです。

 十大弟子像は須菩提、舎利弗、目犍連、富楼那の4体が展示されていました。
 舎利弗は般若心経に登場するので広く知られています。心経では釈迦の説法の相手をしていて、経の中に繰り返し「舎利弗」と呼びかけられています。「智慧第一」といわれた人です。いかにも聡明そうな気迫のこもったまなざしです。衣の襞も柔らかく表現されていました。
 目連は地獄で苦しむ母親を救ったとされる人で、盂蘭盆会の元となった方です。

 高弟の十大弟子はかなりな年配者と思われるのですが、事実、富楼那の肌の露出部は肋骨が浮き出た老相ですが、顔はふっくらとしています。後ろから見ると衣の朱の文様が1300年の時を超えて鮮やかです。

 これらの像を作製した将軍万福を中心とする工人達が、丈六の本尊を取り巻く八部衆や十大弟子にさえ、こうした成人ではない顔を与えたのは何故なのかと考えてしまいます。願主である光明皇后の好みが反映されているのか、そういえば橘夫人の念持仏のお顔も童顔だったなどと、拝観の主題から外れたことへ想像がゆくのも会場が空いていたからでしょう。

 九国博の特色といえる漫画による脱活乾漆の技法の解説は、製作過程が分かりやすく簡明に描かれていて、見学者をひきつけていました。

 そのほか、中金堂基壇から出土した多数の鎮壇具に見られる精巧な装飾に、遠い天平の工人たちのすぐれた技術は驚きでした。鎌倉期の四天王像や、釈迦如来頭部、光背の飛天なども展示されていましたが、飛天は時代が下った平等院のものに一歩譲るようでした。
 心満たされて、豊かな気分で会場を後にしました。九国博の粋な計らいの余慶を頂きただただ感謝です。






九国博の「阿修羅展」

2009年08月25日 | 雀の足跡
 思いがけない巡り会わせで、24日の月曜日、休館日の展覧の特別招待に出かけることができました。
 九国博が体に障碍のある方たちのために、混雑を避けて拝観できるようにと、初めて企画した思い遣りの招待です。事前に予約された駐車場も空いていて、並ぶこともありません。
 午後からの時間を3回に区切って調整されていました。私はITサークルの友人の介助者として出かけました。
 九州自動車道も工事は進められながらも開通していて支障なく、好天にも恵まれ、2時の指定時間には、渋滞にも無縁で1時間余りで到着です。
 豪雨がもたらした土砂崩れによる高速道の封鎖と、報道される混雑ぶりをみて、頂いていた招待券は人にあげ、行かないことに決めていました。
 九国博のホームページを見ていてこの企画を見つけ、「観たいのだけど混雑が大変のようだから」と嘆いておられたKさんに報せたところからこの幸運に恵まれました。
 私達のグループは30名くらいで、車椅子の方が多かったようですが、休日返上のスタッフのお世話も行き届いていて、まるでVIP待遇と二人して感激と感謝を繰り返しながら、広い会場をゆっくり思いのまま行きつ戻りつ、心ゆくまで1時間半掛けての鑑賞ができました。

 阿修羅像がこれほどのブームを呼んで一際人気が高いのも、153センチと言う等身大で、あどけなさの残る天平の美少年の姿が、どこか憂愁のかげを漂わせる表情は確かに日本人好みです。
 微妙にずれる三つの顔の目の位置は、怒りと哀しみのぎりぎりの境界に留まって、向って左側の下唇をかむ顔が観る者のまざまな思いを誘って三面の顔で人それぞれの物語が生まれます。
 腰でたくられて折り返された裙の写実的な襞の流れと文様、そして腕釧と首の瓔珞とは、ペアのデザインでなかなかのお洒落です。一人占めで対面する時間もあり、じっくり拝観しました。八部衆中ひとり素足にサンダル履きで甲冑を纏うことのない興福寺独特の阿修羅像は、記憶の中の像よりもずっと華奢な細身で悲しげでした。   





この項、続く

補注 八部衆=仏法を守護する八神。詳しくお知りになりたいときはwikipediaでご覧ください。

昼寝覚め

2009年08月22日 | 日々好日

 
 今年になってから、昼寝をすることがしばしばあります。目覚めどきの一種独特のもの憂いけだるさと、なにがなしの罪悪感のようなものがあって避けてきたのですが、このところの暑さで何をする気にもならず、本を読んでいても集中が続かず横になるとそのままのだらしなさです。
 画きたいものが思うように仕上がらないのも、やる気が起こらない一因でしょう。
 お盆までにはと意気込んでいたのですが、この辺が今の限度かも知れない1枚です。原画の全体はもう少しくすんでいます。


 朝顔も前の一輪だけ描いたものは、それなりに納得したのですが、垣根にはいまつわる朝顔をもう少し軽く画いてみたくて模索しましたがうまくゆきません。
 花の数を減して、どうにかましな1枚です。やはちこれでは昼寝したくなりますね。




残暑お見舞い申し上げます

2009年08月16日 | 日々好日


 お盆を過ぎて本格的な暑さがやってきました。それでもいつもの夏らしい青空は見られず、湿度の高い曇りがちの日々です。どうかお体を大事にお過ごしください。

 初盆を迎えた親戚を訪ね、亡き人の思い出話をする中で、新盆を迎えた故人の思いがけない素顔の一面を聞かされ、供養の席が賑わうのも遺影の人の微苦笑が思いやられていいものです。

 我が家に両親の盆参りに来る兄弟達もみんな例外なく近況報告は病状と、体の不具合の報告ばかり。威勢のいい話は聞こえず、かつての賑やかな酒盛りは「今は昔」で、車の運転をしているのも、もう私だけになり侘しいものに変わってしまいました。






 

鎮魂の鐘

2009年08月10日 | 雀の足跡
 昨9日は長崎に原子爆弾が投下された日。あれから64年の歳月が経過していても、傷跡は生々しく重く、苦しみは続いて消えることなくこの日には新たなものがあります。
 小倉に落とされるはずの爆弾が気象条件が悪く、目標が定められなかったために次の目標である長崎へと向ったものと聞いています。
 夫は長崎の高射砲連隊に配属されていた親友を失っています。小倉だったら、私達も無事ではすまなかったと思うと、この日は格別なものがあります。

 満州から引揚げ、苦闘の生活を耐えぬいて、地元で開業医として慕われていた従兄弟が、86歳で、この日病で他界しました。故人の強い意志により近親者だけの密葬で送りました。
 同じ時代を生きた一人です。周辺がまた寂しくなっていきました。



梅雨が明けて

2009年08月08日 | 日々好日


 例年より2週間遅れ、昨年よりは26日もおそく梅雨が明けました。
 お盆も目の前に迫っていて、延び放題の草の始末をするうち、膝の具合が怪しくなり、おとなしく引き篭もりです。
 気晴らしに絵筆を執って、博多の和紙の店で祇園祭の折に買い求めていた団扇になぐさみ描きをしていました。
 珍しい皮入り楮紙が貼ってあり、描きやすい団扇でした。

 1枚目は団扇のための下絵です。紙にあわせて団扇には墨だけで画きました。
鯊は美味しいダシが出て、麺類には一番です。自分の身を枯らしていい味を提供する優れものに感謝をこめて。
 今年は水引草の季節も早いようです。  クリックで3枚です。


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夏祭り

2009年08月02日 | 雀の足跡
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画像2枚は戸畑祇園の夜の提灯山と、昼間の幟山です。


 「今年は夏祭りにも出かけなかったね」「博多山笠を見たでしょう。」「あれは出掛けたついでだったから。」
 どうやら北九州の夏祭りが一斉集合で催される“わっしょい百万夏祭り”に出かけるつもりのようでした。それではと十数年ぶりに小倉まで祭見物のお付き合いをしました。
 この祭りは22年ほど前に、旧五市が北九州市として合併する前、各地で催されていた祇園祭を中心に各地区から出場するもので、地域の意地をかけた誇りがみられたものでした。

 お気に入りの湖月堂で夕食をすまして、夕闇のせまるころ、人出で混む魚町を抜けて小文字通りの会場へと向いました。孫が小学生のころの夏休みに連れて来て以来のことです。
 あのころはもっと混雑していたように思いますが、はしゃぐ幼い人たちを見るのは気持ちもやわらぎます。中の橋のモニュメントの台座に腰を下ろしての見物です。
 祭りも少し様変わりして、他郷からの輸入ねぶたなども加わり、子どもだけのグループもみられました。前とは何となく気合も薄れてきているように感じました。 折角出てきたというのに、40分もすると「もう帰る」とのたまう始末です。
 戸畑の提灯山をしばらく見ていないし、今年は雨で火が消えてしまったようだから、あれだけは見て帰りたいので「お先にどうぞ」と一人で居残りしました。
「ヨイトサ!ヨイトサ!!」の掛け声に元気をもらって、山を肩に駆け抜ける提灯山笠を2基だけ見て、早々に帰宅しました。今日は総踊りと花火でフィナーレです。


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<戸畑祇園山笠 昼の幟山の人々>

                画像は5枚です。