九国博の阿修羅展拝観の余韻のなかで、天平のいにしえを偲びながらの帰り道の道筋で、同行のKさんが、観世音寺にお参りしたことがないといわれました。それではと、急遽、立ち寄ることにしました。
このお寺は天智天皇が、朝倉宮でなくなられた母斉明天皇の供養のために創建を祈願された勅願寺です。
かつては西日本一の規模を誇った七堂大伽藍も、今は純友の乱以来、度重なる火災と大風による倒壊で、昔の偉容を偲ぶことは難しい有様です。
楠の並木に続く参道の萩はもうすぐ花が開きそうでした。午後の境内に人影はなく、お参りを済ませて隣接する戒壇院へと向かいました。
造観世音寺別当として左遷された僧、玄肪の墓があったはずと探すと、今は石垣と塀でで囲われ、花が供えてありました。昭和30年代の初めに観世音寺を訪ねた折には、農家の庭先で、このお墓に布団が干してあったのを思い出しました。
南大門や、五重塔の礎石をはじめ、講堂(本堂)裏の礎石の列が方3丁といわれた往時を偲ぶよすがです。
丈六(5mくらい)の仏様を拝すことができるのは北部九州ではここにしかないと、乏しい知識を披露すると、是非拝観したいといわれるので、閉館時間を気にしながら、宝蔵(宝物館)に入りました。
いつも九国博展覧の帰りは疲れていて、素通りするので、好きな大黒天像と、馬頭観音に久しぶりにお目にかかってきました。二人だけの宝蔵には明るい空気が流れていました。館内には多数の国重要文化財(15点)があり、私が実物の舞楽面の納曽利面と陵王面(平安時代)を初めて見たのもここでした。
ここの馬頭観音は高さ5mの巨大な観音菩薩で、わが国馬頭観音の代表作といわれています。
大黒天もほっそりした1,7mの立像で、わが国で最も古いすぐれた尊像とされている平安時代作の国重文です。この木造は福徳を現す後の大黒天とはおよそ異なる厳しい表情です。
ほかにも珍しい地蔵菩薩の半跏像があり、十一面観音立像と不空羂索観音の丈六のみ仏が佇んでおいでになります。
一日を十分に散策して、満ち足りた思いをだいて帰途につきました。
| 観世音寺本堂。参道を進んだ正面に建つかつての講堂で、1064年炎上、2年後再建されたが創建時より縮小された。1102年大風で倒壊し再建。1143年再度炎上。1688年黒田光之公の命で博多の豪商浦氏が再建。 |
| 阿弥陀堂。こちらが金堂。
宝蔵が完成するまではここに丈六の巨像はじめ多くの仏像が安置されていた。金堂が東面して五重塔と向き合う形式は飛鳥の川原寺と同形式。 | |
| 鐘楼の前に残る五重塔の心礎。この心礎は発掘調査で、創建当初の位置にあるとされた。 |
註
鐘楼 国宝の梵鐘 (白鳳時代)
京都妙心寺の鐘、奈良当麻寺の鐘とともにわが国最古といわれる梵鐘です。妙心寺の梵鐘と同じ木型による兄弟鐘。以前は除夜の鐘で鐘の音を聞くことがありました。はじめてお参りした折はみんなで鐘を撞きましたが今は金網の中です。
戒壇院は、奈良・東大寺 下野・薬師寺と筑紫・観世音寺 の三箇所に設けられました。僧尼に受戒を授けるところです。鑑真創建。鑑真渡海の目的は戒壇院を設立し、登壇受戒の道場をひらくことにありました。
本尊は平安時代作の昆盧遮那佛で国重文
駐車場、観世音寺、戒壇院は無料、宝蔵は値上げされていて、それでも500円でした。
戒壇院正面
禅寺の入り口でよく見かける碑ですが少し異なっています。「葷酒肉境内に入るを許さず」ですが、罰当たりが「許さざるに葷酒肉境内に入る」と読んでいました。