雀の手箱

折々の記録と墨彩画

体力UP教室

2010年04月23日 | すずめの百踊り
 今日23日から体力UPのための教室が始まりました。正式名称は通所型介護予防事業(運動器の機能向上)と書いてあります。
 初日とあって開講式があり、これからの3ヶ月間についてのプログラムの説明と主宰側の市の方の挨拶などがありました。その後、血圧、身長、体重などの測定があり、体力評価のためのテストが行なわれました。
 平衡感覚(片足立ち)や、柔軟性、耐久性のテストはかなりのレベルだったようですが、筋力の2種類のテストは情けない数値でした。
 次回27日に結果についての説明があるそうです。

 週2回、自宅まで送迎があって、私達の地域は、介護老人福祉施設が会場です。11時から13時まで、専門職の方がついてのトレーニングと講義が組まれています。
 メンバー9名の最高齢は92歳、かなり意欲的に体力テストを受けておられて、教室の雰囲気も和やかなものになっていました。

 降り続く雨の日々、見知らぬ人のなかで意図していなかった運動を続けるのは少し鬱陶しいものを感じていましたが、人の世話になり、人手を煩わすことにならないよう予防するのは、衰えを自覚する高齢者の義務だと自分を納得させての参加でした。
 参加してみると結構面白そうで、この分なら7月まで週2日の教室通いも続けられそうです。自分の計画の変更や中止が少々残念ですが、健康に過ごす日々のためには已むを得ません。



群生

2010年04月19日 | 日々好日
 陽気が戻ってきて、急に草木の新芽の色が生き生きと鮮やかになってきました。今日は庭に群生する今の季節の花たちを、白と紫に絞って取り集めてみました。あらためて荒れている庭を何とかしなくてはと反省させられます。
 あと数日もすると躑躅が花盛りとなり、彩りも賑やかになります。

 先日来、関東や日本海に面したところでは、41年ぶりに、四月中旬の雪に見舞われ驚かれたことでしょう。こちらは雪もなく、草も勢いを増して、マットを敷いての草取りに追われる毎日です。
 柿の木の下に広がる野生の蕗を毎日ご近所に配り届けています。筍と炊き合わせたり、きんぴらにしたり、蓬やどくだみなどと天婦羅にしたりするのにも、飽きてきました。



群生
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十二単
白の都忘れ
白い山吹
柿の木の根元は蕗の群生
大和より輿入れの苧環
白い躑躅
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松を描く

2010年04月16日 | 日々好日
 今月は松をテーマに、今までに描いていた松とは違った松を描くことにしました。
 
 目指すのは琳派の松を面影にして、私流の琳派もどきの松です。やきものの絵付けのための下絵のつもりもあります。
 左の乾山の蓋物に描かれた銹絵金銀彩の松をイメージして、約束事を押さえた他は自由にと思って筆を取りましたが、なかなか自由のところが難しいのです。
 模索でまだ落款は押せないのですが、描いた逆順に置いています。








井上ひさしさん

2010年04月13日 | 塵界茫々
 昨晩のTVニュースで井上ひさしさんが亡くなられたことを知りました。子供たちと“ひょっこりひょうたんじま”や”ねえ、ムーミン“を歌った日を、そして、数多くの戯曲や小説の場面がよぎりました。
 享年75歳、私より5歳年下です。ヘビースモーカーで、肺がんの治療中とは知っていましたが、「遅筆堂」と名乗る方にそぐわない早すぎる幕引きです。

 近年の護憲運動や、九条の会の中心メンバーとして、現代社会への発言も多かった作家でした。
 江戸戯作者を髣髴させる軽妙な語り口で、笑いのなかに多くの人を誘い込んでゆきながら、いつの間にか、待てよと考えさせられる鋭い切っ先があり、人間の生きるせつなさのようなものが提示されていました。
 新聞の文化面で目にした年表を見て、60余の戯曲、小説での受賞の数々、文化功労者にも選ばれておいでなのを知りました。
 朝日新聞社から出た“日本語相談“でも、日常生活から生まれる読者の疑問に回答する井上さんの回答は、大野晋、丸谷才一氏らの中にあって、ユニークで分かりやすいものでした。見掛けとは裏腹の日本語に対して、厳しい感覚で磨かれた文章には学ぶところの多かった作家でした。
 繰り返し口にされていた「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書く」の主張が紡ぎ出した多くの作品でした。
 手元にある“不忠臣蔵”“吉里吉里人”などを並べて、ご冥福を祈りました。

 囀りがやっと美しい音階を持つようになった鶯が今日はことのほかいい音色で囀り交しています。


25回忌法要

2010年04月09日 | 塵界茫々
 昨日、無事に義父の25回忌法要を営みました。
 兄弟のうちでも、父の世界へと移籍した妹のつれあい、九州大学病院で手術のため入院中の弟が欠けて、17回忌法要の時からは叔父や叔母を含めて4名の減少です。
 再来年の母の7回忌の集いまで顔ぶれの変化が無いことを祈るのみです。その次の13回忌の法要はもう私たちの手で催すことは考えられませんから。

 生前、桜をこよなく愛し、「花の盛りのころ死にたい」と、西行もどきに口癖のように言っていましたが、その通りに「花祭り」の日、花吹雪の舞う晴れた日に旅立ちました。
 今年は庭の桜は半ば葉桜となっていますが、八重桜が早くて、もう満開の時を迎えています。この八重桜は父が植えたものですが、親株は虫にやられて枯れていたので、伐ったところから生えたひこばえを夫が大事に育てた二代目です。

 日ごろの怠りを見透かして、東京から娘が1週間の予定で片付けや掃除、法要の準備のために時間をやりくりして帰省してくれました。
 若い人?の片付けは手早く要領よく、滞りがありません。要するに、思い切りよく捨てること、に尽きます。

 読経と、少し難しい説法のあと、会食はもう自分達の手で整えることは無理になっていますので、市街の料亭に席を移すことにしました。
 何か一つの行事を営むことが、段取りが悪く重荷になってきています。まるで大事業でもなし終えたように疲れて、自分の老いを厳しく自覚させられました。


門脇で盛りの八重桜 2枚



射干シャガの群生これも父の形見



連翹忌

2010年04月02日 | 日々好日
 今日4月2日は連翹忌です。「わが青春の智惠子抄」と自分で呼んでいる智惠子抄を遺した高村光太郎の命日です。
 この花を好んだ光太郎を偲んで連翹忌が催されます。

 連翹の名は、花が羽を広げた鳥に似ているところからのようです。原産国の中国では黄寿丹と呼ばれ、わが国には平安初期に薬用として渡来したそうです。古名は「いたちぐさ」「いたちはぜ」です。

 智惠子抄との最初の出会いは、女学生のころでした。田舎の女学校の生徒の私が自分で見つけ出すはずもなく、当時兵士として出征してゆかれた先生方の補充として奉職することになった若い女教師のどなたかが、熱っぽく絶賛する光太郎の、夫人智惠子への至純の愛をうたう絶唱というのに感化されてのことだったと思います。
 今でも“レモン哀歌”“樹下の二人”“千鳥と遊ぶ智惠子”などは、もう断片化していますが、かなり暗誦できます。
 精神を病む妻に向き合って「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うに行ってしまった智惠子」を受け容れ、自らもその清浄世界へひきこまれるさまを率直な言葉でうたいあげるその新鮮さに打たれたものでした。

 とっくに盛りを過ぎ、花もまばらになった一枝を折り取ってきて、告別式の日の演出に倣って、詩集に添え、「道程」を読むことで私の連翹忌としました。

花盛りの日の連翹

 佐藤春夫の「高村光太郎像」によれば、告別式の日の手向けには、ただ一枝の連翹が、無造作に生前愛用のビールのコップに挿して手向けられていたと書かれています。