🌸浄土真宗宗祖ー親鸞
☆結婚して子どもを持ち「非僧非俗」を宣言した異端僧親鸞
⛳親鸞、法然の念仏の教えに感化される
☆法然が開いた浄土宗からは、浄土真宗が派生している
☆法然が開いた浄土宗からは、浄土真宗が派生している
*この宗派の開祖となったのが親鸞である
☆親鸞は、比叡山にのぼり20年ものあいだ修行を続けた
*親鸞は死にものぐるいで求道に徹したが、悟りを得られなかった
*親鸞は山を下りる決意をした
☆親鸞は、比叡山にのぼり20年ものあいだ修行を続けた
*親鸞は死にものぐるいで求道に徹したが、悟りを得られなかった
*親鸞は山を下りる決意をした
☆親鸞、聖徳太子の六角堂に100日間参籠した
*95日目の明け方、聖徳太子の化身とされる観音菩薩があらわれ
*法然のもとを訪れるように告げた
*親鸞は、たちどころに専修念仏の教えに感化された
☆法然は旧仏教の教えを難行であると説いたため、危険視された
*奈良の興福寺が専修念仏を禁止すべく朝廷に奏上
*法然のもとを訪れるように告げた
*親鸞は、たちどころに専修念仏の教えに感化された
☆法然は旧仏教の教えを難行であると説いたため、危険視された
*奈良の興福寺が専修念仏を禁止すべく朝廷に奏上
*専修念仏停止の命令が下された
*法然と彼の門徒に対して流罪処分が言い渡される
☆親鸞は越後へ流されたうえ、僧籍をはく奪された
☆親鸞は越後へ流されたうえ、僧籍をはく奪された
⛳妻帯、そして息子の裏切り
☆逆境にあっても、親鸞は怯むことなく信仰を深めていく
☆自らの生きる姿勢として、非僧非俗の態度を示しはじめた
*「愚禿」(髪を落としただけの愚か者の意)と自称する
☆親鸞、恵信尼の女性と結婚
☆親鸞、恵信尼の女性と結婚
*彼女とのあいだに6人の子をもうけた
*当時、僧が公然と妻帯することはタブーだった
☆親鸞は、仏教の戒律を守れないありのままの姿をさらすことで
*そういう者こそが阿弥陀如来に救われることを示そうとした
☆親鸞は赦免され、関東一帯での布教活動に取り組んだ
☆親鸞は赦免され、関東一帯での布教活動に取り組んだ
*農民を中心に門徒が拡大の一途をたどる
☆京都へ帰った親鸞は、『教行信証』の執筆に力を注いだ
☆関東の門徒のなかに「悪人でも救済される」という教えを
*曲解した異説を唱える一部の者があらわれ、門徒が動揺した
*親鸞はそれを正そうと実の息子の善鸞を遣わした
*息子は、指導者にまつりあげられてしまったので親鸞は縁を切った
*すべては教えのためだった
*このとき親鸞はすでに80歳を超えていた
☆親鸞は、枕辺で仏と浄土のことを語り
*このとき親鸞はすでに80歳を超えていた
☆親鸞は、枕辺で仏と浄土のことを語り
*「南無阿弥陀仏」と念仏を称え90歳で静かに往生した
⛳親鸞死後の浄土真宗
☆本願寺中心にこ発展し、戦国大名とも対立した
☆親鸞は教団をつくらなかった
⛳親鸞死後の浄土真宗
☆本願寺中心にこ発展し、戦国大名とも対立した
☆親鸞は教団をつくらなかった
☆親鸞の死後、末娘・覚信尼の孫の覚如
*大谷廟堂の寺院化(本願寺)に尽力した
*教団(浄土真宗)の基盤ができた
☆本願寺8世の蓮如が御文(手紙)で平易に教えを説き
☆本願寺8世の蓮如が御文(手紙)で平易に教えを説き
*農民を中心に急速に教線を拡大する
*北陸では、門徒農民が一向一揆を起こすほど勢力を伸ばした
☆11世の顕如の子の時代には本願寺が東西に分裂
☆11世の顕如の子の時代には本願寺が東西に分裂
☆徳川家康が顕如の長男・教如に別の本願寺を開かせた
*従来の本願寺を西本願寺、教如の本願寺を東本願寺と称した
*江戸時代には東西本願寺が一大教団として発展した
*江戸時代には東西本願寺が一大教団として発展した
(敬称略)
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⛳出典、『比べてわかる!日本の仏教宗派』
「親鸞」「愚禿」「教行信証」「本願寺」
(ネットより画像引用)
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