🌸派閥で政治を支配した山県有朋
⛳山県有朋は、軍国主義の基礎を築いた
☆明治政府の近代化を推し進めていくなかで
*スローガンに掲げたのが「富国強兵」だ
*強兵の部分に力を入れた中心人物が山県有朋
*彼は二度の首相経験を持ち
*政界で大きな力を有した長州出身の政治家だ
☆奇兵隊にも参加していた山県
*武芸で身を立てようと考えていたようだ
*政治に身を投じてからもその体質は変わらず
*軍備の強化に心血を注いでいる
☆四国艦隊に占拠された長州軍の下関砲台事件
*山県は必要以上に軍部の力を増大させ支配した
⛳山県は軍部を意のままにした
☆山県が強力に推し進め、実現させたのが徴兵令
*彼は満20歳以上の男子全員に徴兵の義務を課した
*新たな負担を強いられる国民や
*仕事を失う士族から反発の声が上がった
*山県は反抗する者を弾圧して新しい日本の軍隊を作った
☆山県は、明治15年には「軍人勅諭」を発布させる
*軍隊を天皇の直属とし、政府を介さずに
*天皇から直接軍人に命令を下すことができる内容
*天皇から参謀本部へと指令が出されるシステムが完成した
☆軍人勅諭は天皇の名で出されていたが
*草案は山県の指示で彼のブレーンである西周らが作成した
☆勅諭では、名目上は天皇が軍隊の最高司令官
*実際は山県が権威をかさに着て
*軍部を自分の意のままに牛耳ろうとした
☆天皇は軍部の人事でさえ口をはさめなかった
⛳山県は、派閥をつくり自分の勢力を伸ばす
☆山県は容易に人を信用しない性格だった
☆政党政治を嫌っていた彼は、官僚制度の拡充を図る
*門閥や私的なつながりに左右されずに
*試験で、官僚に取り立てるシステムを構築した
☆山県は、育成した官僚で周りを固め
*自分の思い通りに政治を動かしていく
⛳山県は、武力と政治力の両方を手に入れる
☆山県は軍人政治家としては初めて首相の座についた
*軍隊と政治の両方を掌中に収めた
☆伊藤博文と山県同じ長州出身で年齢も近かった
*伊藤に比べると山県の評判は良くない
*現代に至るまで山県の人気は低い
☆山県は、国葬になったにもかかわらず
*彼の葬儀に訪れた一般人はほとんどいなかった
☆山県は、官僚や軍人を中心にして
*自分の息がかかった者を重用し
*「山県閥」ともいわれる一大派閥をつくり上げた
*政界に対し大きな影響力を持ち続けた
*表面的には大きな求心力を持った偉大な政治家だった
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