昨日の初登山、宮島の桟橋から先は二つのグループに分かれて行動しました。
タカ長たち精鋭部隊(?)は桟橋の前の要害山(標高27メートル)に登りました。
太陽の光線状態が良くないので、一目でそれと分かる写真は撮っていません。カメラを向けたのは山の方向です。
左の峰が弥山で、右側の尖った峰が駒ケ林です。本隊はその間の谷すじを登っています。
タカ長たちは、その時は意識していませんでしたが、結果的には古戦場めぐりをしていました。
その戦いとは「厳島の戦い」のことです。
1555年10月1日毛利元就が、大内氏の実権を握っていた陶晴賢を破った戦いです。戦国三大奇襲戦と言われています。
要害山(宮尾城跡)は毛利元就が陶晴賢を引きつけるために築いた城跡です。そのとき陶晴賢は塔の岡に陣を張り、元就軍が海から攻めてくることを想定していました。
ネットから借用した画像です。
五重塔が見えているところがその「塔の岡」です。
ところが毛利元就は博打尾から攻め下ってきました。そのため要害山の毛利方との挟み撃ちにあったことになり、陶軍は総崩れ、陶晴賢は宮島の大江浦で(他の説もあり)自刃することになります。
その博打尾は弥山から北方向に下がる尾根の、標高160メートルくらいの所です。毛利元就は1555年9月30日に風雨の中を、その尾根の向こう側の包みが浦に渡ってきます。
そして夜陰にまぎれて博打尾に登り、10月1日の未明に夜襲をかけたわけです。
数的には圧倒的に不利だった毛利元就は奇襲をかけることで活路を見出したのです。さすがは戦国の大大名になる毛利元就ですね。
その博打尾からの展望はご覧のように、木が茂ってあまり良くありません。一生懸命に撮ってこの程度です。
昨日、聖崎の近くで昼食を終えたタカ長たちは、同じ道を桟橋にひき返しても面白くないし、時間もあり余っているので、博打尾への登り口を案内するつもりで往路を離れたのです。
博打尾へのルートから最初の分岐を右折して町に帰るつもりだったのです。しかし、その前に本隊に電話をしたら、彼らは博奕尾に向けて下りているという返事。
その言葉を聞いてついフラフラ博打尾へ登る気になり、結果的に「古戦場めぐり」をすることになったのです。
タカ長的にはそれでも良いのですが、脚力に問題がある人には少しハードになったかも?
ゴメン、ゴメン。
タカ長たち精鋭部隊(?)は桟橋の前の要害山(標高27メートル)に登りました。
太陽の光線状態が良くないので、一目でそれと分かる写真は撮っていません。カメラを向けたのは山の方向です。
左の峰が弥山で、右側の尖った峰が駒ケ林です。本隊はその間の谷すじを登っています。
タカ長たちは、その時は意識していませんでしたが、結果的には古戦場めぐりをしていました。
その戦いとは「厳島の戦い」のことです。
1555年10月1日毛利元就が、大内氏の実権を握っていた陶晴賢を破った戦いです。戦国三大奇襲戦と言われています。
要害山(宮尾城跡)は毛利元就が陶晴賢を引きつけるために築いた城跡です。そのとき陶晴賢は塔の岡に陣を張り、元就軍が海から攻めてくることを想定していました。
ネットから借用した画像です。
五重塔が見えているところがその「塔の岡」です。
ところが毛利元就は博打尾から攻め下ってきました。そのため要害山の毛利方との挟み撃ちにあったことになり、陶軍は総崩れ、陶晴賢は宮島の大江浦で(他の説もあり)自刃することになります。
その博打尾は弥山から北方向に下がる尾根の、標高160メートルくらいの所です。毛利元就は1555年9月30日に風雨の中を、その尾根の向こう側の包みが浦に渡ってきます。
そして夜陰にまぎれて博打尾に登り、10月1日の未明に夜襲をかけたわけです。
数的には圧倒的に不利だった毛利元就は奇襲をかけることで活路を見出したのです。さすがは戦国の大大名になる毛利元就ですね。
その博打尾からの展望はご覧のように、木が茂ってあまり良くありません。一生懸命に撮ってこの程度です。
昨日、聖崎の近くで昼食を終えたタカ長たちは、同じ道を桟橋にひき返しても面白くないし、時間もあり余っているので、博打尾への登り口を案内するつもりで往路を離れたのです。
博打尾へのルートから最初の分岐を右折して町に帰るつもりだったのです。しかし、その前に本隊に電話をしたら、彼らは博奕尾に向けて下りているという返事。
その言葉を聞いてついフラフラ博打尾へ登る気になり、結果的に「古戦場めぐり」をすることになったのです。
タカ長的にはそれでも良いのですが、脚力に問題がある人には少しハードになったかも?
ゴメン、ゴメン。