歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

最古の階段ピラミッドの調査 日本の最新技術で計測

2008年06月10日 | Weblog
カイロから西南に20kmのナイル西岸には史上初と言われる、紀元前2650年頃古代エジプト第3王朝の2代目のファラオであるジェセル王が建設した「階段ピラミッド」がある。三大ピラミッドなどとともに「メンフィスとその墓地遺跡」として世界遺産に登録されているが、年代が古いだけに傷みが激しい。
補修をするに当たって、現状を克明に記録するための調査が、日本のレーザー計測技術を用いて進められている。
 今回の調査では、大阪の測量会社デベロソリューションズが開発した4機の小型レーザー照射機を搭載した羽型の装置(幅約5m、重さ27kg)を背負った登山専門家がピラミッドの頂上から下ることで精密なデータを収集し、さらに他のデータを同期させて、ピラミッドの克明な立体像が3次元的に数cm単位で再現できるようになるという。
[参考:産経新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前原市泊リュウサキ遺跡  奈良後期から平安初期の木簡5点が出土 公的施設の跡地か

2008年06月10日 | Weblog
 9日、前原市教委は同市の「泊リュウサキ遺跡」から、8世紀後半から9世紀前半(奈良時代後期から平安時代初期)の木簡が出土したと発表した。
米俵の荷札などに使われたとみられる。
 木簡は5点。1点は破片で、4点に文字が残っていた。
(1)「豊乙阿子米(おつあここめ)五斗」(長さ約13cm、幅約3cm)
→「乙阿子」という農民が「米五斗」を年貢として納めた。「豊」は文字の削り残しとみている。
(2)「白米五斗」(長さ約10cm、幅約2cm)
(3)「三味米(さんみこめ)五斗」(長さ約13cm、幅2cm)
→「三味」という農民が「米五斗」を年貢として納めた
(4)「大」(長さ約6cm、幅約2cm)という文字がかすかに分かる。

 市教委は、公的施設があったことを想定させるとし、役人がこれらの木簡を米俵にひもでくくりつけていたとみている。
 木簡は井戸跡から水に漬かった状態で出土し、一緒に見つかった土器片から年代を推定した。
 鉄を船で運び出す港湾施設跡地で、年貢米を保管する蔵もあったのかもしれないと想像している。
[参考: 西日本新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川12代、13代将軍の正室・浄観院と澄心院の墓誌が見つかる 2.9m四方の最大の大きさ

2008年06月10日 | Weblog
浄観院、楽宮喬子(さざのみやたかこ)女王(1795~1840)
12代将軍・徳川家慶の正室 京都の宮家・有栖川宮織仁親王の王女
澄心院、一条秀子(寿明姫)澄心院(1826~1850)
13代将軍・徳川家定の正室 一条忠良の娘

現在NHKで放送中の大河ドラマ「篤姫」では、篤姫は13代将軍・徳川家定の正室であるが、浄観院・楽宮喬子は12代将軍・徳川家慶の正室であり、澄心院・寿明姫は13代将軍・徳川家定の正室である。
浄観院は1840年、澄心院は1850年に逝去している。1856年になって篤姫は初めて江戸城大奥に入る。
その浄観院と澄心院の墓誌が上野・寛永寺で見つかったとの報道である。
墓誌の大きさは、2.9m四方、重量約5トンで現存する最大の大きさ。
木棺には水銀朱が充填されていたため、遺骨や副葬品は朱色に染まっていた。
水銀朱は虫よけだったのではないかと考えられるという。
水晶製の数珠や、水晶の容器入りの仏舎利、金銅や黒漆塗りの厨子に入った念持仏などの豪華副葬品が出土。
大奥が相当の実権を握っていたことの大きな裏づけになる。
ちなみに、篤姫こと天璋院は明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去し、上野・寛永寺に家定の墓と並べて埋葬されている。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、共同通信など]

2012.10.29 追記
 2008年6月に、徳川幕府12代将軍・家慶(いえよし)の正室・浄観院(1795~1840)の墓から出土した念持仏2体(注1)が10月27日から11月18日まで修復した元興寺文化財研究所のある元興寺(奈良市)で初公開される。
(注1) 木製の阿弥陀如来立像(3.3cm)と不動明王坐像(2.8cm)で、ともに厨子(高さ8~9cm)に納められていた。仏像本体は、鎌倉~室町時代初期の作。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 浄観院
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする