歴歩

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宗像市・田熊石畑遺跡 弥生中期の青銅武器が出土 一墳墓から全国最大の数

2008年06月21日 | Weblog
 福岡県宗像市は21日、同市田熊2丁目で発掘調査を進めていた弥生時代の「田熊石畑(たぐまいしはた)遺跡」の墳墓から、同時代中期ころ(約2200年前)の青銅器の細形銅剣4本と銅戈1本が出土したと発表した。
 弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
 銅剣は長さ27‐43cm、銅戈は長さ24cmで、武器として実用的な細形。
 性別は分からないが頭骨とともに深さ約80cmの土中で見つかった。
 被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。
 近くから装飾品の翡翠製垂飾1点、碧玉製管玉十数点も発掘された。これらは髪飾りだった可能性がある
 墳墓は南北に縦2m、幅70cm、高さ80cmで、木棺墓か土壙墓かは断定できない。
 北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代、国内でこれまで1つの墓から複数の武器形青銅品が出土したのは、福岡市早良区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」と福岡県古賀市の「馬渡束ケ浦遺跡(まわたりそくがうら)」で、銅剣や銅戈、銅矛など計4点の出土が最多だった。
 中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。

専門家の意見
 柳田康雄・国学院大教授(考古学)「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」
 九州歴史資料館・西谷正館長「1人の墓から5本の銅剣、銅戈が出土したことは、宗像の地域に相当有力な首長が存在したことを裏付けており貴重だ」
[参考:西日本新聞、読売新聞]
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総社市・大文字遺跡・栢寺廃寺 岡山県内最古の文字瓦出土

2008年06月21日 | Weblog
 20日同市教委は、総社市南溝手の大文字遺跡から、県では最古となる文字瓦が出土したと発表した。
 4月初旬に市道拡幅工事中、隣接する白鳳時代(7世紀後半から8世紀初め)に創建されたとされる栢寺廃寺の瓦を廃棄した穴(幅約3m、深さ50cm)があるのを発見。コンテナ35箱分の古代瓦が出土し、その中に文字瓦2点があるのを確認した。文字は白鳳時代の平瓦凸面に線刻されていた。
 字の解読は京都橘女子大の狩野久元教授に依頼。
 1点(18×14×3cm)には2行に分けて「評」「太」などの文字が線で刻まれている。
「評」は大宝律令(701年)での「郡」以前の地方行政単位を示すことから、この地方が当時から吉備の国の中心地で、中央豪族が支配していた可能性なども考えられるとする。
 1点(20×17×3cm)も2行にわたって「人」「大」のほか、神仏など上位者に何かを献じる「奉」の文字があることから「瓦を祭祀に用いたとみられ、極めて珍しい」という。
「奉(たてまつる)」は神や仏、上位者に差し出す意味があり、瓦を用いて、祭祀に使用した珍しいケースとしている。

 同遺跡は、栢寺廃寺の付近に位置し、塔や講堂が南北に並ぶ四天王寺式の伽藍配置を想定すると、出土場所は寺の東端だったと推定される。
 県内での文字瓦はこれまで、岡山市の賞田廃寺など2カ所で出土しているが、いずれも年代は奈良時代で、今回は最古の文字瓦として歴史的価値が高いという。
 (写真の①は大文字遺跡 ②は栢寺廃寺跡)
 瓦は7月1日まで、総社市総合文化センター(同市中央)1階ロビーに展示する。
[参考:岡山日日新聞、山陽新聞、産経新聞]
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名古屋市守山区東谷山山頂 尾張戸神社古墳ほか 古墳の形・築造時期を確認

2008年06月21日 | Weblog
 市教委文化財保護室が今月中旬に初調査して、志段味古墳群のうち東谷山山頂にある尾張戸神社古墳など古墳三基が古代の豪族「尾張氏」の墓である可能性が高まったとする。さらに、曖昧であった古墳の形と築造時期を確認した。
 尾張戸神社古墳は、直径30mの円墳。築造は四世紀半ば。
 中社と南社の両古墳は、長さ55-60mの前方後円墳。築造は四世紀後半。
 中社からは祭礼に使う円筒埴輪の破片も多数、見つかった。築造時期は埴輪の有無や、格式を高めるために積まれる葺石の形などから決めた。
 尾張戸と中社からは、ヤマト王権があった近畿地方で、主として四世紀だけに古墳の装飾に使われた硅石(けいせき)を発掘した。硅石は東谷山のすそ野にある白鳥塚古墳からも見つかっているが、この地方の古墳では他に使われていない。
 尾張戸神社古墳上に今も立つ尾張戸神社は、尾張氏の祖先を祭神とし、日本書紀や古事記には尾張氏がヤマト王権に王妃を嫁がせたと記されている。
[参考:中日新聞]

<備考>
■志段味古墳群
 名古屋市の北東端・守山区上志段味に集中する前期~後期の大古墳群。
■白鳥塚古墳
 全長109mの前方後円墳。埴輪が見つかっていないことなどから4世紀後半の築造と考えられる。かつて墳丘斜面は葺石で覆われており、特に後円部の頂上部の葺石には白色珪石が使用されていたことから白鳥塚と名づけられるようになったと伝えられる。
■尾張戸神社
 東谷山山頂にあり、成務天皇5年、宮簀媛命による勧請と伝わる古社。尾張国造尾張氏の祖先を祀る。
ご祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと)天香語山命(あめのかぐやまのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと) 
延喜式に「山田郡 尾張戸神社」とあり、また国内神名帳に「従二位尾張戸天神」の名が見られ、かつては熱田神宮に次ぐ大社であったという。
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奈良市西大寺は巨大伽藍 -薬師金堂・文献と規模一致

2008年06月21日 | Weblog
 奈良市の西大寺旧境内で昨年見つかった薬師金堂の大きさが文献の記録と一致、東西35.7m、南北15.9mの巨大な建物だったことが奈良文化財研究所の調査で分かった。薬師寺(奈良市)の金堂(東西30m、南北18m)の規模に匹敵する。

 南都七大寺の一つである、奈良市の西大寺旧境内で、8世紀後半の創建当初の中心建物、薬師金堂跡が初めて確認されたのは、昨年5月であった。
7基の柱穴が出土。建物本体の南北が確認できたほか、北側ではひさしの柱穴も見つかった。
礎石を据え付けた穴4基のうち2基は、礎石の下に凝灰岩の板石(二上山産)を2枚ずつ敷く類例のない基礎工事をしていた。
奈良文化財研究所は、「7世紀の百済で礎石の下に切り石を据えた例があり、影響を受けたのかもしれない」と推測。
 薬師金堂は同寺の中心的な建物で、奈良時代780年に書かれた財産目録「西大寺資財流記(るき)帳」に「長十一丈九尺」「広五丈三尺」とある。
当時の小尺(唐尺)29.63cmで計算すると、冒頭数値とほぼ合致する。
 西大寺は称徳天皇の発願で765年に造営。薬師如来像が安置された薬師金堂、弥勒金堂、東西塔などがあった。平安時代以降、火災などで衰えたが、鎌倉時代に復興された。
[参考:奈良新聞、読売新聞(2007.5.3)]
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兵庫県豊岡市・祢布ヶ森遺跡 全国初めて「詩経」の木簡

2008年06月21日 | Weblog
市教委は20日、豊岡市日高町の祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡で、平安時代(9世紀)の木簡約200点が出土し、一部に全国で初めて中国最古の詩集「詩経」の注釈書の一節が書かれた木簡が含まれていたことを発表した。
木簡は203点見つかり、詩経が書かれた木簡は長さ39・5cm、幅10・9cm、厚さ0・7cm。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、注釈書「毛詩正義」のものとほぼ同文だった。下には「健児長」とあり、国府を警備する兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性がある。
(注)健児:、奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
詩経の注釈書は当時「大学寮」の教科書として使われたとされ、地方の役人も都と同様に「詩経」を学んでおり、木簡から但馬の文化水準が高かったことがうかがえる。同遺跡は縄文時代から平安時代の複合遺跡で、これまでの調査で出土した木簡から、延暦23(804)年に移転した「但馬国府」跡とみられる。
 別の木簡には桓武天皇の姪「従三位五百井女王(じゅさんみいおいのじょおう)」の名前が記され、五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年であり、また別の木簡の中には「弘仁四(813)年」の年号を記するものがあり、木簡の時期が特定できた。
 ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは、桓武天皇の皇子で五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)で、漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目される。
 木簡は21日~7月8日、豊岡市日高町の但馬国府・国分寺館で展示する。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、神戸新聞]



キーワード: 祢布ヶ森遺跡、但馬国府
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