上里遺跡は、784年に長岡京が出来た時には北西端にあたる場所にあり、縄文時代から中世に至る遺跡である。
京都市埋蔵文化財研究所が10日、上里遺跡から出土した縄文晩期の堆積層から、3粒のコメと数10粒のマメが炭化した状態で見つかったことを発表した。
竪穴住居が並ぶ区域の脇にある深さ20~100cmの溝で見つかった。溝はごみ捨て場として使われたとみられ、炭化したコメやマメ、ドングリ、淡水魚の骨などが見つかった。
国立歴史民俗博物館(千葉県)に依頼し放射性炭素(炭素14)年代測定を行ったところ、コメは弥生前期の紀元前510-390年、マメは縄文晩期の同1190-1000年と異なる結果が出た。
同じ層から出土した土器は縄文晩期で、この時期の遺物の年代測定は誤差が大きく出やすく、コメの実年代が縄文晩期にさかのぼる可能性も指摘されている。九州では縄文時代中期終わりのコメが見つかっており、近畿でも縄文時代晩期に稲作が行われていた可能性が出てきた。
同じ場所からマメ30~40粒も出土。マメがこれだけ大量に見つかるのは珍しいといい、野生ではなく栽培種と考えられるという。京都大学大学院泉拓良教授(考古学)は「縄文時代にも栽培した穀物を食べる文化が近畿地方にあったと言える」と話す。
見つかった遺物は12~29日、市考古資料館(同市上京区)で展示される。
上里遺跡では、これまでに縄文時代晩期の集落跡、土器棺墓、翡翠の丸玉(直径7-8mmの円柱形、糸魚川市周辺産)、滑石製の勾玉などが出土している。
なお、泉教授は、今月14日(土)に行われる、日本文化財科学会第25回大会・2008年度総会(会場・鹿児島国際大学)時の口頭発表で、今回の成果を発表されると思われる。
題目:京都市上里遺跡縄文晩期層出土の植物遺存体と縄文農耕の可能性
発表者 泉拓良(京都大学)・高橋潔(京都市埋蔵文化財研究所)ほか
京都市埋蔵文化財研究所が10日、上里遺跡から出土した縄文晩期の堆積層から、3粒のコメと数10粒のマメが炭化した状態で見つかったことを発表した。
竪穴住居が並ぶ区域の脇にある深さ20~100cmの溝で見つかった。溝はごみ捨て場として使われたとみられ、炭化したコメやマメ、ドングリ、淡水魚の骨などが見つかった。
国立歴史民俗博物館(千葉県)に依頼し放射性炭素(炭素14)年代測定を行ったところ、コメは弥生前期の紀元前510-390年、マメは縄文晩期の同1190-1000年と異なる結果が出た。
同じ層から出土した土器は縄文晩期で、この時期の遺物の年代測定は誤差が大きく出やすく、コメの実年代が縄文晩期にさかのぼる可能性も指摘されている。九州では縄文時代中期終わりのコメが見つかっており、近畿でも縄文時代晩期に稲作が行われていた可能性が出てきた。
同じ場所からマメ30~40粒も出土。マメがこれだけ大量に見つかるのは珍しいといい、野生ではなく栽培種と考えられるという。京都大学大学院泉拓良教授(考古学)は「縄文時代にも栽培した穀物を食べる文化が近畿地方にあったと言える」と話す。
見つかった遺物は12~29日、市考古資料館(同市上京区)で展示される。
上里遺跡では、これまでに縄文時代晩期の集落跡、土器棺墓、翡翠の丸玉(直径7-8mmの円柱形、糸魚川市周辺産)、滑石製の勾玉などが出土している。
なお、泉教授は、今月14日(土)に行われる、日本文化財科学会第25回大会・2008年度総会(会場・鹿児島国際大学)時の口頭発表で、今回の成果を発表されると思われる。
題目:京都市上里遺跡縄文晩期層出土の植物遺存体と縄文農耕の可能性
発表者 泉拓良(京都大学)・高橋潔(京都市埋蔵文化財研究所)ほか