奈良文化財研究所は27日、橿原市の藤原宮(694~710年)跡で、大極殿院南門の南約30mから、国家的な儀式の際に立てた旗「幢幡(どうばん)」を支えたとみられる柱穴16個が見つかったと発表した。
周囲は一面に石が敷き詰められており、藤原宮で行われた国家儀式の様子を具体的に示す初の遺構。
柱穴は直径30~40cm、深さ約50cm。2本の柱で1本の幢幡を支えたとみられ、40~50cm幅で2本ずつの柱が東西方向に3m間隔で並んでいた。柱穴の深さからみて高さ4~5mの幢幡が、8本立てられていたとみられる。
未発掘の場所にも対称の位置に穴があるとみられ、藤原宮の中軸線の位置から推測して、13本の幢幡が並んでいたらしい。
「続日本紀」701年(大宝元年)に、天皇が貴族らの拝賀を受けた元日朝賀の際、四神などを描いた幢幡を7本立てたという記載がある。平城宮の例などから、7本は門の北の大極殿側にあったとみている。
30日~7月2日の午前10時~午後4時、現場を公開する。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞]
続日本紀 大宝元年(701)
春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
周囲は一面に石が敷き詰められており、藤原宮で行われた国家儀式の様子を具体的に示す初の遺構。
柱穴は直径30~40cm、深さ約50cm。2本の柱で1本の幢幡を支えたとみられ、40~50cm幅で2本ずつの柱が東西方向に3m間隔で並んでいた。柱穴の深さからみて高さ4~5mの幢幡が、8本立てられていたとみられる。
未発掘の場所にも対称の位置に穴があるとみられ、藤原宮の中軸線の位置から推測して、13本の幢幡が並んでいたらしい。
「続日本紀」701年(大宝元年)に、天皇が貴族らの拝賀を受けた元日朝賀の際、四神などを描いた幢幡を7本立てたという記載がある。平城宮の例などから、7本は門の北の大極殿側にあったとみている。
30日~7月2日の午前10時~午後4時、現場を公開する。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞]
続日本紀 大宝元年(701)
春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。