謹賀新年
初詣は例年遠出をすることが多いのだが、今年は住んでいる場所の鎮守様である鷺宮八幡神社でした。しかも、2日に渡って。
一日目はカメラを持参しなくて、いろいろ境内の隅々を見回していたら、いままで軽々しく見ていた石碑(写真の右下)が由緒を刻んでいたことがわかって、次の日にまた出かけた次第。
石碑の日付は明治31年10月。石碑には要約すると、「当神社は往古「鷺大明神」と称していたが、慶長年間に今川氏が当地を知行し八幡神社に改めた。(山香山撰書)」というもの。
また、当社の境内には由緒を書いた説明板(写真の右上)が立っており、そこには要約すると、「康平7年(1064)源頼義が命じて、当地に社殿を建てた八幡神を祀ったのが始めであると伝えられる。里人は鷺宮大明神と称し、これが地名のもとになった。正保2年(1645)今川直房所領の頃、八幡神社と改称した。」とし、前者とはやや異なる。
当社に隣接する白鷺山正幡寺福蔵院は、往時の別当寺であるが、開山は文亀・永正の頃(1501-1521)と推測されるということからみても、当社も同時期の創建かもしれない。
今川氏の菩提寺である、杉並区今川の観泉寺の説明板には、
「当寺は、宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597)今の下井草二丁目付近に開山鉄叟雄鷟大和尚により創建され、観音寺といわれました。
正保二年(1645)今川十三代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村五百石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。(略)昭和五十四年二月一日杉並区教育委員会」と記されている。
したがって、先の慶長年間に今川氏が当地を知行したについては年代が合わない。後者が年代的には合致している。
初詣は例年遠出をすることが多いのだが、今年は住んでいる場所の鎮守様である鷺宮八幡神社でした。しかも、2日に渡って。
一日目はカメラを持参しなくて、いろいろ境内の隅々を見回していたら、いままで軽々しく見ていた石碑(写真の右下)が由緒を刻んでいたことがわかって、次の日にまた出かけた次第。
石碑の日付は明治31年10月。石碑には要約すると、「当神社は往古「鷺大明神」と称していたが、慶長年間に今川氏が当地を知行し八幡神社に改めた。(山香山撰書)」というもの。
また、当社の境内には由緒を書いた説明板(写真の右上)が立っており、そこには要約すると、「康平7年(1064)源頼義が命じて、当地に社殿を建てた八幡神を祀ったのが始めであると伝えられる。里人は鷺宮大明神と称し、これが地名のもとになった。正保2年(1645)今川直房所領の頃、八幡神社と改称した。」とし、前者とはやや異なる。
当社に隣接する白鷺山正幡寺福蔵院は、往時の別当寺であるが、開山は文亀・永正の頃(1501-1521)と推測されるということからみても、当社も同時期の創建かもしれない。
今川氏の菩提寺である、杉並区今川の観泉寺の説明板には、
「当寺は、宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597)今の下井草二丁目付近に開山鉄叟雄鷟大和尚により創建され、観音寺といわれました。
正保二年(1645)今川十三代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村五百石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。(略)昭和五十四年二月一日杉並区教育委員会」と記されている。
したがって、先の慶長年間に今川氏が当地を知行したについては年代が合わない。後者が年代的には合致している。