歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

磐田市 御殿・二之宮遺跡 鎌倉時代の工具一式が出土 全国2例目

2009年01月29日 | Weblog
 市教育委員会は28日、同市中泉の「御殿・二之宮遺跡」から、鎌倉時代の鉄製の建築工具5点が出土したことを発表した。中世以前の建築工具が一度にまとまって出土したのは大分県宇佐市の一木ノ上遺跡の11―12世紀の墓から出土したのこぎりなどに次いで全国で2例目という。
 建築工具は、袋式ノミ、突きノミ、カンナ、刀子(小刀)、キリの各1点。04年に、徳川家康が建てた中泉御殿跡の土塁の下の竪穴で、12世紀末から13世紀初頭の土坑墓の遺構から、砥石や釘、小皿などとともに見つかった。建材の接合部などの荒加工用に使われた袋式ノミがあることから、建築集団の棟梁のような人物の愛用の道具を副葬品とした可能性が高いことが、今年1月の鑑定で確認された。
 平安時代の荘園制の発達に伴い、地方にも荘園領主などの保護のもとで職業集団が生まれたとされ、市教委文化財課は「市内にも寺社や地方貴族に保護された建築工人(職人)の集団がいた可能性を示す貴重な資料」としている。
 市教委は、31日から2月15日まで同市上新屋の市立豊田図書館で開催する企画展「いわたのものづくり~木のあるくらし~」で公開する。問合せは文化財課。

 御殿・二之宮遺跡 弥生時代から近世(江戸時代)までの大遺跡で、奈良時代には遠江国府があったと推定され、木簡や墨書土器、祭祀遺物などが出土している。近世には徳川家康の別荘・中泉御殿や中泉陣屋も設けられた。
[参考:中日新聞、静岡新聞]



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伊勢崎市 大道西遺跡 奈良時代建設の道路遺構が出土

2009年01月29日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘を進めている「大道(おおみち)西遺跡」(伊勢崎市豊城町)で、八世紀後半ごろの奈良時代に建設されたとみられる、遺跡西側に存在した「郡衙」と周辺地域を結んでいたと考えられる道路の遺構が出土したことが分かった。
 遺構は遺跡内で東西約80mにわたって発見され、路面の基礎部分となる盛り土の部分がはっきりと確認できる形で残っていた。盛り土は、黄色土と黒色土を「版築」と呼ばれる高度な土木技術で何層も固めて造られており、下幅が6-8mあるため、道路自体の幅は5-6m程度あったと推測される。湿地などを避け、谷を渡るために築かれたとみられ、高い所で約1.4mの土が盛られた跡もあるという。
 平安時代後期の浅間山火山灰の一次堆積層があり、また、盛り土の崩落土から奈良時代の須恵器が出土していることなどから、奈良時代に築かれたものと推定される。
31日現地説明会を開催する。
 日時: 平成21年1月31日(土) 午前10時~午後3時
 主催: 財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団、大道西遺跡調査事務所
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韓国・慶州市 芬皇寺 中門、複廊跡が出土(昨年12月)

2009年01月29日 | Weblog
 韓国では今年1月に、百済時代の益山市・弥勒寺(미륵사)址の西石塔心柱から金製舎利具が出土して、その築造経緯が刻まれた金製舎利奉安記も一緒に現れて、創建年代が武王(在位600-641)の時代の639年と判明した。そして、創建者が武王と新羅真平王の娘の善花公主ではなく、武王の王后である佐平沙乇積徳女であることも分かった。「薯童謠」の説話は崩れたが、歴史の新たな発見の意義は大きい。
 昨年12月には、新羅時代の慶州市・芬皇寺(분황사)址から南門跡が出土し、寺の規模が一部わかったようである。
 芬皇寺は三国史記によると634年新羅善徳女王(在位:632-647)の時代に創建されている。弥勒寺が新羅真平王(在位579-632)の援助により作られたとの説話は、前述の新たな発見で違うようだし、共通遺物として残る九重石塔跡、幢竿支柱、鴟尾を見ても明確な共通点は見当たらない。5年後に造られた百済の弥勒寺は、先行して造られた新羅の芬皇寺に負けずと造ったのかもしれない。その後、新羅に滅ばされた百済の民衆を落ち着かせるために薯童謠(ソドンヨ서동요)の説話が作られた、あるいは作って流布したのかもしれない。
 さて、芬皇寺の出土状況に話を戻すと、国立慶州文化財研究所は模塼石塔(レンガ塔をまねた石塔)から南に30.65m離れた地点で中門の場所を確認したと昨年12月11日明らかにした。
中門は桁行12.63m(3間)梁間 2間の規模であり、これまでの調査成果を通して、石塔と金堂そして中門が揃って南北一直線に位置する典型的な平地伽藍形式を取っていたようである。
また、中門の両側では東西方向につながる南回廊の跡が確認され、梁間2間で2重の回廊をそろえた複廊構造であることも合わせて分かった。
南側回廊の中に中門を置いてみた時、左側の西南側回廊は東西長さ62.89m(桁行は19間)であったとし、その反対側東南側回廊跡は現在まで5間の桁行きが確認されている。南側回廊全体の東西全長は138.4mとなり、これは皇龍寺の176mに次ぐ規模である。
さらに、新羅時代古代伽藍の中で複廊構造は今まで皇龍寺が唯一だったが、芬皇寺でも同じ事例が確認されたということは注目に値するという。
[参考:2008.12.12聯合ニュース、前出・弥勒寺]

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