歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

田ノ浦遺跡/山口県上関町 上関原発建設予定地内の発掘調査(半年間)を開始

2009年01月27日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは26日、中国電力の委託を受け上関原発建設予定地内にある田ノ浦遺跡で約半年の期間で本格的な調査としては2回目の発掘調査を始めた。
 田ノ浦遺跡は、原発建設計画が浮上する以前に見つかっている。発掘調査1回目は中電が現地の詳細調査に着手した05年に開始。06年春までに約2000㎡を完了し、縄文時代から近世までの遺物を各層で発掘。
 縄文期に大分県姫島から運ばれた黒曜石や香川県からのサヌカイトも見つかり、石器を舟で交易する拠点だったと見られる。奈良・平安期(750~900年)の層からは製塩土器が数多く出土し、当時の役人のベルトの留め金も出土したことなどから、官営で塩を作っていた可能性が高い。しかし、遺構の保存状態が悪く、現場保存はせずに埋め戻した。
 今回は、昨年10月に県の埋め立て許可が出たことを受け、中電が今春以降に原発敷地造成工事を始めるのに伴い委託。調査が完了した区域に隣接し、敷地造成工事にかかる範囲の約1000平方㎡を発掘する。中電は「よほど貴重な遺構などが出土しない限り、原発計画に影響はないだろう」と話している。
[参考中国新聞、毎日新聞、山口新聞]
田ノ浦遺跡、再調査へ 上関(中国新聞) - goo ニュース


上関原子力発電所(かみのせきげんしりょくはつでんしょ)
 中国電力が、瀬戸内海に面する山口県熊毛郡上関町大字長島に建設計画中の原子力発電所。
 改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)137.3万KW×2基の建設が計画されている。
 運転開始予定は平成25年度および平成28年度。
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三ツ城古墳/東広島市 年輪年代測定により築造年代が判明

2009年01月27日 | Weblog
 広島県内最大の前方後円墳「三ツ城(みつじょう)古墳」(国史跡、東広島市西条中央)1号墳(前方後円墳)の築造年代が、広島大や市教委などの調査で26日分かった。
 西側造り出しから出土した須恵器が大阪府南部の堺市を中心とした陶邑(すえむら)窯跡群で5世紀前半に焼いた「TK73型」と分かっていた。
 1996年、奈良市・平城宮朝集殿下層の溝の調査で、樹皮直下の年輪が残るヒノキ材が出土。廃棄されたTK73型須恵器が68年に見つかったのと同じ地層の溝だったことから、奈良文化財研究所が年輪年代測定法で調べ、412年伐採と判断した。
 広島大大学院の古瀬清秀教授(考古学)が、両遺跡とも須恵器の型式編年観と実年代に整合性があり、一型式が20年前後であることを総合的に検討。実年代がほぼ確定するのは全国で初めて。

 5世紀初頭に三ツ城古墳が築かれた東広島市・西条盆地は、奈良時代には安芸国分寺が置かれた。
 同古墳の出現は、西条の首長が広島市・太田川下流域の首長層も統括し、国分寺に先立つ350年前に「安芸」の地域的まとまりができたことを物語る。
 同古墳の須恵器は、大和政権と関係が深い陶邑で焼かれ、葬祭具として与えられた。多くの埴輪も近畿から運ばれた可能性がある。しかも全長92mの同古墳は、5世紀前半の履中天皇陵(365m)、吉備(岡山県西部)勢力の首長墓である造山古墳(360m)と相似形である。
 大和政権は4世紀末―5世紀前半、朝鮮半島との間で緊迫した状況にあり、国内的には強大な吉備勢力は脅威だった。瀬戸内ルートの安芸勢力との連携の背景には、そうした情勢がうかがえるとする。
[参考:中国新聞、産経新聞]
三ツ城古墳の築造年代判明(中国新聞) - goo ニュース
築造で「安芸」のまとまり(中国新聞) - goo ニュース

 三ッ城古墳は、丘陵を利用して造られた3基の古墳からなる古墳群です。
 1号古墳は全長92mの前方後円墳(後円部径62m、高さ13m、前方部幅66m、高さ11m)で、左右に造出がある。広島県内では最大の古墳です。墳丘は3段に築かれ斜面は葺石で覆われている。各々の段には、円筒、家形・短甲・鶏などの埴輪が約1800本立て並べられている。
 第2号古墳は円墳。第3号古墳は楕円形の古墳。3つの古墳とも埋葬施設には箱形石棺を採用している。


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口明塚南古墳/豊橋市 金銅装馬具が出土 現地説明会を開催2/1

2009年01月27日 | Weblog
口明塚南古墳 馬越長火塚古墳と同時に発掘調査現地説明会を2月1日に開催
 市教育委員会は26日、同市石巻本町の口明塚(くちあけづか)南古墳で、金銅装馬具の破片を発掘したと発表した。
県内では豊橋市内の別の古墳に次いで2例目。近くに東三河を治めた「穂国造(ほのくにのみやつこ)」が葬られたとされる馬越長火塚(まごしながひづか)古墳があり、口明塚南古墳が穂国造の子孫の墓である可能性が高いとみている。
 同古墳は直径22m、高さ1.5mの円墳。今月初めに発掘調査が始まり、これまでに横穴式石室の一部や、石室内に積まれている高さ1m超の石が確認された。
 見つかった金銅装馬具の破片は縦横とも1cmに満たないが、大和政権との関係が深いことを示していると言われる細い線が刻まれた「毛彫文」を確認。出土した須恵器の年代から、古墳は馬越長火塚古墳よりも遅い七世紀前半から中期までの築造とみられる。

馬越長火塚古墳および口明塚南古墳発掘調査現地説明会
日時: 2月1日(日)午前10時30分、午後2時(雨天中止) 
場所: 馬越長火塚古墳(石巻本町字紺屋谷) 
内容: 長火塚古墳と、隣接する口明塚南古墳の調査で明らかになった遺構を学芸員が説明。長火塚古墳の確認調査は今回が最後。
問合先: 美術博物館
[参考:中日新聞、「広報とよはし」平成21年1月15日(No.1280)]

 昨年5月2日の報道では、大塚南古墳(同市石巻本町)で、金銅装馬具が出土したことを明らかにした。中でも、轡の花形鏡板は愛知県下2例目で、大和王権から権威の象徴として地方の有力者に与えられたもので、近くにある馬越長火塚古墳に葬られた穂国造の後継者、あるいは国造を補佐した家臣など関係者の墓ではないかと見ている。[参考:2008.5.2東日新聞]
 また、2006年3月1日の報道では、馬越長火塚古墳(同市石巻本町字紺屋谷地内)で、金銅装馬具・辻金具が見つかった。これまでに副葬品の馬具関係では辻金具と雲珠など合わせて13点が見つかっているとする。[参考:2006.3.1]

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長塚古墳/名古屋市守山区 発掘調査現地説明会1/31

2009年01月27日 | Weblog
 名古屋市教育委員会より現地説明会のお知らせが発表されています。
 長塚古墳は6 世紀前半に築造され、推定墳長が81m。周辺には二重の濠が巡り、その間には周堤と呼ばれる土手が築かれている。
 今回の調査では外側の濠と周堤の一部が見つかり、周堤の周りの濠からは人物をかたどった形象埴輪や須恵器などが出土している。 
長塚古墳第3次発掘調査現地説明会
 日時:平成21 年1月31 日土曜日 午後2時から(雨天中止)
 場所:名古屋市守山区小幡四丁目地内
 内容:発掘調査で見つかった遺構と遺物の紹介
 問合先:名古屋市教育委員会見晴台考古資料館
[参考:名古屋市HP]         
長塚古墳(小幡長塚古墳)
 小幡丘陵の平坦な標高30m程の小幡台地辺りの小幡原にある前方後円墳では最大の、全長81m後円部径38m、前方部復元幅42mで前方部の大きな古墳。東側くびれ部に造り出しが認められる。 現在周濠部は埋め立てられているが昭和11年の記録によれば大規模な二重の濠がある。
 付近にはたくさん円墳があったようでこのあたりを「七つ塚」と呼んでいた。
 小幡は古書に尾幡・小畑の表記が散見され、「小治田」の転とする説もある。また、尾張も小治で土地を開墾するとの意味がある。滋賀県神崎郡五個荘町小幡の「小幡」も古い地名であり、小治田の略された称で、即ち開墾田から起こった名という。[参考:角川地名大辞典ほか]
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