歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

市川市・国府台遺跡 外郭柱列跡と溝跡か

2009年01月14日 | Weblog
 市川市国府台の「国府台遺跡」で、古代・下総国(千葉県北西部周辺)「国府」外郭の可能性のある柱列跡と溝跡が出土した。
 出土した柱列跡は東西約10mで、木柱を立てていた柱穴(直径60~70cm)が約1・5m間隔で並んでいた。木柱は、国府外郭の可能性があり、板塀、または萱葺きの塀などの支柱だったとみられる。柱列跡の南側約6mには平行して、幅約1m、深さ60~70cmの溝跡も出土した。木材などの出土物はないため、奈良・平安時代のどの時期かは不明。
 柱列跡の付近では、廃棄されたとみられる大量の軒丸瓦の破片が出土した。瓦の様式は、同遺跡北東にある下総国分寺跡周辺で出土した瓦と合致し、同じ所で焼かれ共有していた可能性がある。
 同国府はこれまで、遺構の出土例が少なく、全体像は謎に包まれたまま。
 今回の調査地点近くの北西では、以前の調査で同様の柱列跡が確認された。線をつなぐことで、わずかではあるが、国府の輪郭が浮かび上がり、国庁は出土遺構の北側にあった可能性が高くなったとする。
[参考: 読売新聞]
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松江市・西川津遺跡 弥生時代後期から古墳時代前期の卜骨が出土

2009年01月14日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは13日、松江市西川津町の西川津遺跡で弥生時代後期から古墳時代前期にかけてのものとみられる卜骨が出土したと発表した。 県内では松江市鹿島町古浦遺跡についで二番目、山陰では三番目の卜骨出土遺跡である。
 出土した卜骨はシカの肩甲骨を加工したもので、大きさは長さ15㎝、横6.5㎝、厚さ0.4㎝、重さは24.7g。
[参考:島根県HP]
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上野国新田郡庁跡 正殿跡と石敷き通路が発見

2009年01月14日 | Weblog
 太田市教育委員会は13日、国指定史跡「上野国新田郡庁跡」(同市天良町、約2・08ヘクタール)で正殿跡と石敷き通路が発見されたと発表した。
 同史跡は、奈良・平安時代の郡役所である新田郡衙の中心施設。2007年5~12月の発掘調査で、7世紀後半~9世紀前半のものとみられる一辺約50mの大規模な建物跡が敷地の東西南北で確認された。国内最大級の貴重な古代官庁遺跡として、08年7月に国史跡に指定された。
 同年11月から進められている第二期調査で、四方を長屋群に囲まれた中央部の建物跡に、礎石が据え付けられた跡が10カ所発見された。奈良文化財研究所にも見てもらったところ、柱の配置から、郡司が政務を行った正殿跡であることが分かったという。
 大きさは、横15m、奥行き7m程度で、ほぼ同じ場所に掘立柱建物の遺構も確認されたため、早い段階ではこの掘立柱の建物が正殿に使われ、後に礎石を使って正殿が建てられたとみられる。
 その南側で出土した石の遺構は、長さ10mにわたり、10~20cmの石が敷き詰められ、早い時点の正殿への通路と推定された。
掘立柱でなく、礎石の上に柱を立てる方式が使われており、このような正殿や石敷き通路の発見は、これまでに確認された全国の郡庁跡約40カ所ではいずれも初めての事例という。
 このほか、国指定区域の西側では、納税された米を蓄えるための「正倉」跡も4棟発見され、10m四方大の正倉10棟以上が2列で整然と並んでいた可能性が高いこともわかった。
 24日午前10時~午後3時に現地説明会が開かれる。問合せは市教委文化財課へ
[参考:読売新聞、東京新聞]
[関連] 上強戸遺跡群
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千葉・取掛西貝塚 日本最古の獣骨(イノシシ)祭祀跡

2009年01月14日 | Weblog
 船橋市教委は13日、同市飯山満(はざま)町1の取掛西(とりかけにし)貝塚から、祭祀とみられる儀式に使われたとみられる約1万年前のイノシシの頭蓋骨十数体分が見つかったと発表した。
市教委によると、儀礼目的とみられる獣骨としては国内最古。縄文時代早期の人類の宗教的観念について、これまでの考古学の通説を覆す可能性のある発見だという。
 市教委によると、イノシシの頭蓋骨は昨年6、7月の調査で、竪穴式住居跡の貝層下のくぼ地(直径約8m、深さ約1m)に幼獣から成獣まで整然と並べられた状態で見つかった。肉食後に捨てたなら雑然と放置されているのが自然であることから、使わなくなった住居に、儀礼のため骨を配置したとみられるという。同時に出土したヤマトシジミの年代測定で約1万年前のものと分かった。
 国立歴史民俗博物館によると、儀礼目的とみられる獣骨は、これまでに静岡県伊東市井戸川遺跡など国内4カ所で報告されており、北海道釧路市の東釧路貝塚で放射状に並べられた6000~7000年前のイルカの頭蓋骨が最古とされていた。約1万年前の縄文人については、精神生活の解明につながる史料がなかった。
 国立歴史民俗博物館の西本豊弘教授(動物考古学)は「これまで縄文時代早期の人たちには儀礼的な観念はなかったと考えられていたが、今回の発見で、動物を単なる食糧ではなく、信仰のような観念論的な対象物としてとらえていたことがうかがい知れる。画期的な発見だ」と評価している。
 また、赤褐色で厚みのある「大浦山式土器」も出土し、比較的大きく、良好な状態という。これまでは神奈川県東部を中心に出土しており、この土器が下総台地で見つかったのは初めてとされる。
 市内ではこれまで、縄文時代早期後半に当たる約七千年前の飛ノ台貝塚(同市海神四)が最古とされていた。
[参考:毎日新聞、産経新聞、東京新聞、共同通信、読売新聞]
獣骨を使った最古の儀式?貝塚にイノシシの骨…千葉・船橋(読売新聞) - goo ニュース

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平城宮跡 ごみ捨て穴から過去最多、数万点の木簡が出土

2009年01月14日 | Weblog
 平城宮跡(奈良市)の奈良時代の役所跡「東方官衙地区」から、数万点に上る大量の木簡が見つかり、宮内の木簡出土例として過去最多となることが、奈良文化財研究所の調査で明らかになった。
 これまでは、1966年、約1万3000点の出土が最大であった。すべての木簡を洗浄して読み終えるには数年かかるという。
 平城京内では、89年に二条大路木簡(約7万4000点)などの大量出土例があるが、中心部である宮内でこれまでに見つかった木簡は累計約5万点。今回は1カ所で宮内の総出土例に匹敵する。
 同研究所が昨春、周辺を発掘した際に大量の木簡が捨てられた穴を見つけた。穴は東西約10m、南北約7m、深さ最大約1m。宮内最大級のごみ捨て穴だった。木簡はほとんど削りくずだが、これまでの調査で「近衛」など天皇を守る軍隊組織「衛府(えふ)」関連の記述や、「宝亀2年」(771年)という年号の記述もあった。軍関係施設の造営に伴って捨てられた木簡の可能性がある。
同研究所は、付近の施設の再整備で出た廃材などを焼いた可能性があるとし、宮内のごみ処理方法がうかがえる初めての資料という。
 同研究所は「重要な役所が集まっていた場所で、貴重な史料が見つかる可能性がある」と期待を寄せている。
 穴付近からはそれぞれ時期の異なる2つの建物の柱穴も見つかり、同研究所は、大規模な建物が壊された後に穴が掘られて埋められ、別の建物が建てられたと推測。穴には炭などが残り、木くずや廃材などを焼いた可能性があるという。
ほかに、手習いらしい文字が書かれるなどした桧扇も見つかった。
 771年は、称徳天皇が亡くなり光仁天皇が即位した翌年であり、穴は建物の建て替えなどに伴い廃材などを捨てて焼いたと考えられる。
[参考:毎日新聞、産経新聞]
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