〇背景
山口市教育委員会は昨年1月に、山口市大殿大路の国指定史跡「大内氏館跡」について、第34次の発掘調査を本格的に開始した。
同館跡に建つ国指定重要文化財「龍福寺本堂」が、文化庁などにより解体修理されるのを機に実施するもので、過去に手つかずの場所が掘り返される。大内氏館は、大内氏の当主が暮らした居館。江戸時代に描かれた「山口古図」には1360年(延文5年)に設置されたと記されているが、裏付ける遺構などは、見つかっていなかった。
また、龍福寺は、大内氏が滅亡した1557年(弘治3年)、毛利隆元が大内義隆の菩提寺として大内氏館があった場所に建立。1881年(明治14年)の火災焼失後、大内氏の氏寺である興隆寺(山口市大内御堀)の釈迦堂を移築し、これが現存する本堂となっている。
〇発掘調査結果
大内氏の邸宅があったとされる龍福寺本堂の発掘調査を進める山口市教委は15日、遺構から柱の跡とみられる穴や食器とみられる土器を発見したと発表した。16世紀半ばの大内氏滅亡まで約100年間、邸宅が存在したとする文献の史実を裏付けるものとする。
市教委は老朽化した本堂の解体修理工事に合わせ、08年1月から発掘調査に着手。その結果、現在の地層から約60cm下に、直径15~30cmの穴が10個、約9mにわたり水平に並んでいるのが見つかった。形状から柱を打ち込んだ跡とみられる。また、同じ地層からは、16世紀のものとみられる土師器皿も見つかった。京都風の茶色がかった様式で、京文化に傾倒した大内義隆(1507-1551)が当主の時代ではないかとみる。また、深さ約50センチの地下から17世紀後半~末頃の陶磁器が新たに見つかった。
旧本堂は、文献では1557年か1572年に建てられたとされており、大内氏が滅亡した1557年直後に建立されたと考えられていた。だが今回の発見で、焼失した旧本堂は江戸時代中期に建立された可能性が高いという。
市教委は17日午前11時、午後1時、同2時に現地説明会をする。問合せは文化財保護課へ。
[参考:2009.1.16毎日新聞、朝日新聞、2008.1.20読売新聞]
山口市教育委員会は昨年1月に、山口市大殿大路の国指定史跡「大内氏館跡」について、第34次の発掘調査を本格的に開始した。
同館跡に建つ国指定重要文化財「龍福寺本堂」が、文化庁などにより解体修理されるのを機に実施するもので、過去に手つかずの場所が掘り返される。大内氏館は、大内氏の当主が暮らした居館。江戸時代に描かれた「山口古図」には1360年(延文5年)に設置されたと記されているが、裏付ける遺構などは、見つかっていなかった。
また、龍福寺は、大内氏が滅亡した1557年(弘治3年)、毛利隆元が大内義隆の菩提寺として大内氏館があった場所に建立。1881年(明治14年)の火災焼失後、大内氏の氏寺である興隆寺(山口市大内御堀)の釈迦堂を移築し、これが現存する本堂となっている。
〇発掘調査結果
大内氏の邸宅があったとされる龍福寺本堂の発掘調査を進める山口市教委は15日、遺構から柱の跡とみられる穴や食器とみられる土器を発見したと発表した。16世紀半ばの大内氏滅亡まで約100年間、邸宅が存在したとする文献の史実を裏付けるものとする。
市教委は老朽化した本堂の解体修理工事に合わせ、08年1月から発掘調査に着手。その結果、現在の地層から約60cm下に、直径15~30cmの穴が10個、約9mにわたり水平に並んでいるのが見つかった。形状から柱を打ち込んだ跡とみられる。また、同じ地層からは、16世紀のものとみられる土師器皿も見つかった。京都風の茶色がかった様式で、京文化に傾倒した大内義隆(1507-1551)が当主の時代ではないかとみる。また、深さ約50センチの地下から17世紀後半~末頃の陶磁器が新たに見つかった。
旧本堂は、文献では1557年か1572年に建てられたとされており、大内氏が滅亡した1557年直後に建立されたと考えられていた。だが今回の発見で、焼失した旧本堂は江戸時代中期に建立された可能性が高いという。
市教委は17日午前11時、午後1時、同2時に現地説明会をする。問合せは文化財保護課へ。
[参考:2009.1.16毎日新聞、朝日新聞、2008.1.20読売新聞]