歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

港区青山・梅窓院 青山幸成を初代とする郡上藩青山家菩提寺

2011年03月23日 | Weblog
浄土宗 長青山 寶樹寺 梅窓院 (港区南青山2―26−38)

 寛永20年(1643)、青山幸成(よしなり、1586-1643)が逝去した後、下屋敷内に側室・長青院(不明、?-1669)を開基、戴蓮社頂譽上人冠中南龍和尚(?-1670)を開山として建立された。 増上寺十二世・中興普光観智国師(慈昌、1544-1620)を勧請して開山祖としている。
 幸成の法名「梅窓院殿前大府香譽浄薫大禅定門」と、 側室の法名「長青院殿天譽利白大姉」 から寺号を「長青山 寶樹寺 梅窓院」という。


 山門の額「長青山」の文字は本山知恩院弟83世門跡量誉信宏(1888-1979)上人の筆による。 江戸名所図会によると、往時の惣門の額は黄檗悦山(おうばくえっさん、1628-1709)の筆によるものであったという。
 山門の瓦当には、12菊の左右に葉がある青山菊が描かれている。 新しい墓石にも同じ家紋が刻まれていた。


 墓地には、一角に青山幸成(右)と長青院(左)の墓が並んでいる。
 青山幸成の墓には「寛永二十癸未□ 梅窓院前大府香誉浄薫大禅定門 二月十六日 儀」と刻まれている。
 長青院の墓には「干時寛文九天 長青院殿天誉利白大姉 拾月十九日」と刻まれている。

 他には「梅窓院開基 青山宗家累代之墓」としてまとめられ、隣に「青山宗家歴代霊位」として初代から十三代までが刻まれた墓碑が建てられている。

 青山幸成の父は青山忠成(1551-1613)。 兄に青山忠俊(1578-1643)がいる。 幸成は郡上藩青山家初代と称されるが美濃郡上藩主の初代になるのは4代後、青山幸道(1725-1779)の時から。
  金森家の金森頼時の時に郡上藩主になるが、2代藩主金森頼錦(よりかね、1713-1763)の時に改易となった。

 なお、新本堂棟は隈研吾(くまけんご)氏の設計により平成15年(2003)に完成し、翌年11月に落慶式が執り行われた。

関連情報
 青山忠俊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

港区青山・玉窓寺 青山忠成息女で川口長三郎近次室が開基の曹洞宗寺院

2011年03月23日 | Weblog
曹洞宗・崑崙山 玉窓寺 (港区南青山2-7-8)

 青山忠成(1551-1613)の息女(玉窓秀珍大姉、?-1601、川口長三郎近次室)死去後、母・忠成内室(天方通興女?)が、その菩提を弔うため青山家下屋敷に、玉窓秀珍大姉を開基、青松寺(港区)八世頭室伊天(とうしついてん、普光禅師、1523-1600)を開山として慶長6年(1601)に建立した。 二世は青松寺九世一峯麟曹(いっぽうりんそう)大和尚。


 山門はビルに囲まれながらも、閑静さを感じる。 山門には鬼瓦とともに獅子あるいは狛犬の飾り瓦がありちょっとユーモラスである。


 歴代住職の墓が立ち並び、写真左の真中には当寺開山・普光禅師、2世・一峰麟曹(いっぽうりんそう、1567-1623)、3世・渓翁玄岳の名が刻まれている。
  当寺開山 勅特賜普光禅師、 二世 一峯麟曹大和尚、 三世 中興 渓翁玄岳大和尚


 歴代住職の墓の左手前に建つ宝篋印塔は、川口長三郎近次(注1)とその室であり当寺開基・玉窓秀珍大姉の名が並んで刻まれている。
  元和五巳未□ 六月十二日 天翁了雪居士、 慶長六辛丑天 六月十六日 玉窓秀珍大姉

(注1)川口長三郎については、新訂寛政重修諸家譜9に詳しい。
 「左馬充長三郎、実は松下右近将監高信が男。母は松下源太郎安秀が女。 高信遠江国頭陀寺城没落の時近次わずかに2歳。乳母に抱かれて川口合左衛門某が許に至り、後これが養子となる。」としている。 松下家は、宇多源氏(祖:源雅信)の流れを汲み、高長を祖として、遠江・浜松庄で活躍している。高長→長信→国長と続き、国長の長男・国綱の系統はその後徳川時代に大名を輩出するようになる。 国長の三男・長範の系統が為雲(注2)、高信そして長三郎となる。
 長三郎を養子にした川口合左衛門某は、遠江新居関所の初代関所奉行になった江馬一成の配下であるとしている。 その後の、長三郎については、
 「天正14年召れて東照宮につかへたてまつる。時に33才。のち小田原の役に属従し、文禄元年相模国のうちにおいて、采地200石をたまひ、二年下総国のうちにて100石の新恩あり、3年御使番となり、5年関原の役に供奉す。7年上総国のうちにをいて700石を加えられ、すべて千石を知行す。
 のち、台徳院殿に勤仕し、元和元年大阪の役にしたがひたてまつる。五年六月十二日死す。年四十六歳。法名了雪。青山の玉窓寺に葬る 。のち代々葬地とす。 妻は青山忠成が女。」
 と記されている。
 長三郎近次の後は正武(左門長三郎、1595-1640、法名宗見) → 正信(1616-1684、法名政信) → 政平(?-1693、長三郎、法名幼枝)と続いていく。
 正信は、正保4年(1647) 奉行として千住大橋(小塚原橋)の架け替えを行っている。
 政平室は青山忠俊(1578-1643)の息女である。

(注2)松下為雲(藤六郎)
 [「紹巴富士見道記の世界」内藤佐登子著 2002 続群書類従完成会発行]に、戦国時代の連歌師紹巴は、為雲とは十年も京にいた旧友と書いている。 さらに、為雲の子・高信には秀綱という弟がいて、後に都築雅楽助秀景の養子になる。通称惣左衛門。遠江国では今川氏真に仕え、秀景の死と今川氏衰退の後、徳川家康の配下となるとしている。


2017.5.8追記 
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」に登場する松下常慶について
国長の子、長男・国綱、三男・長範の間に二男・連長がいる。
連長→(安秀)→連昌→四男・安綱と続く。
安綱が「二諦坊」の主こと修験者・松下常慶(1558-1624)である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする