歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 竹姫の娘・菊姫(眞含院)の墓

2011年03月17日 | 瑞泉山祥雲寺

 今日3月17日は、徳川綱吉および吉宗の養女であった竹姫(浄岸院、1705-1772)の娘であり、黒田重政(1737-1762)に嫁いだ菊姫(眞含院、1733-1808)の旧暦ではあるが命日である。
 広尾の祥雲寺の墓には、「文化五戊辰年三月十七日 眞含院殿實高慈清大襌定尼」と刻まれている。
 左隣には筑前福岡藩第6代藩主・継高室「圭光院」の墓、右隣には同7代藩主・治之室「瑶津院」の墓が並ぶ。

過去の関連情報
 2010.12.27 東京都目黒区・祐天寺 江姫・崇源院宮殿を初公開/江戸東京博物館

臨済宗大徳寺派 瑞泉山祥雲寺(しょううんじ)
 黒田忠之(1602-1654)は元和9年(1623)に、父長政(1568-1623)が没すると冥福を祈るために赤坂溜池の邸内(注1)に一寺を建立し、長政の法名・興雲をとって龍谷山興雲寺(注2)と号し、長政が崇敬した龍岳宗劉(大徳寺164世、?-1628)を講じて開山としたのが当山の始めであるという。

(注1) 寛永9年頃に作成されたとみられる武州豊嶋江戸庄図(江戸初期の地図)には、赤坂溜池の東側に黒田右衛門佐(忠之、1602-1654)の大きな屋敷が見られる。 忠之は1612年に右衛門佐に任官され、1623年に筑前福岡藩主になっている。
(注2) 渋谷区HP(区指定文化財→区指定文化財 黒田長政の墓)には、前述のことに加えて、「福岡藩主黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和9年に長政が 没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立しました。寛文6年(1666)には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文8年(1668)2月1日、寛文の大火(注3)により現在の地に移りました。」としている。
 また、江戸名所図絵では、「昔は赤坂の藩邸にありしが、麻布谷町の上の方へ移し、つひに明暦4年(1658)今の地に引くとぞ。」と書いている。
(注3) 寛文8年(1668)2月、牛込酒井忠直邸からの出火他2件と、同月6日小日向(現・文京区)からの出火を合わせ、被害は武家屋敷2,400余り、寺社130余り、町屋132町、農家170に及ぶ。

 これらの記述は、いずれも黒田家側からみたもので、祥雲寺に墓がある戦国時代から江戸時代にかけての名医師・曲直瀬東井玄朔(二代道三、1549-1632)について調べていくと違う見方もできる。 朝日日本歴史人物辞典では、「玄朔は麻布に薬園地を与えられ、そこに生前建てていた瑞泉山祥雲寺(のち渋谷へ移転)に葬られた」としている。 さらに、現在の祥雲寺は、玄朔の下屋敷があった場所だとしているものもある。

 別の角度から見ると、京都・大徳寺の塔頭に、長政が黒田如水(1546-1604)の菩提を弔うために建立した龍光院があり、一方、曲直瀬正琳(3代道三、1565-1611)が初代道三・曲直瀬正盛(1507-1594)の菩提を弔うために建立した玉林院がある。 初代道三および二代道三(玄朔)はともに法印であった。
 黒田家、曲直瀬家とも大徳寺とは深い関係があったわけである。

2011.3.20追記
 資料「大徳寺の歴史」(注4)によると、
 「初在江戸麻布、名曰龍谷山興雲寺、元和中建、龍岳禾上為開祖、寛永中、移麻布南岡、改曰瑞泉山祥雲寺、寛文八年移渋谷、属玉林院、筑前国主黒田氏檀護干此」
 と記されている。また、祥雲寺近くにある仏陀山天真寺(開祖仙渓宗春)も属玉林院となっている。
[(注4)参考資料. 「大徳寺の歴史」 山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行]


 写真 上左:境内、上右:黒田長政墓、下左:曲直瀬東井玄朔墓、下右:秋月黒田家墓群


 祥雲寺の扁額に、「朝鮮国 花菴書」と書かれています。花菴こと李爾芳(1676-?)は、正徳元年(1711)に第8回朝鮮通信使の写字官として派遣されて日本にやって来ました。
 李爾芳については、日本はおろか韓国での情報も非常に少なく、出生などについてもわかりません。名前の読みについても、インターネットで調べられている方が時々いるようですが、今のところそれらしいものはありません。ただ、ハングル読みで이이방ですから、日本語読みにすると、「イ・イホウ」あるいは「リ・リホウ」でしょうか。

関連情報
 瑞泉山祥雲寺



キーワード:浄岸院(竹姫)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥取市・高住平田遺跡 立烏帽子姿の木製「人形代」が出土

2011年03月17日 | Weblog
 鳥取県教育文化財団が16日、鳥取市の湖山池南側にある高住平田遺跡で、首から下が欠けた立烏帽子(たてえぼし)姿の貴族の横顔をかたどった木製板状の厄払い用「人形代(ひとかたしろ)」(縦12cm、横5cm)が見つかったと発表した。立烏帽子は烏帽子の中で最も格式が高く、特徴から平安時代末~鎌倉時代(12世紀後半~14世紀前半)に使われたとみられる。
 人形代は、7世紀後半から我が身の穢れを祓う「おまじない」に使われ、身代わりとして川に流していたという。
 源氏物語(須磨)にも、「この国にかよひける陰陽師召して、祓ひさせ給ふ。 舟にことごとしきひとがた乗せて流すを見給ふ(略)」とある。
[参考:読売新聞、山陰中央新報]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金海・良洞里遺跡で弁韓時代の漆弓と三国時代の短甲などが出土

2011年03月15日 | Weblog
 国立金海博物館は14日、金海市大成洞古墳博物館と共同で、金海・良洞里(김해 양동리)遺跡(史跡454号)を調査した結果、木棺墓等、弁韓時代(변한 시대)の墓39基と石槨墓2基などを確認した発表した。
 遺物では木棺墓から長さ176㎝に達する漆弓が出土した。 木材に木の皮を巻いてその上に漆を塗っており、昌原茶戸里木棺墓で発見された長さ170㎝の弓と似ている。
 三国時代に作られた石槨墓では板甲(短甲)および冑、筒形銅器と有刺利器(미늘쇠)などが出土した。 良洞里遺跡主陵線上に造成された墓で、最高位層の墳墓であることが確実だとしている。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2008-11-28 慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天理市・ノムギ古墳 前方後方墳の後方部の一辺が40mと確定

2011年03月11日 | Weblog
 天理市教委が10日、前方後方墳としては国内最古級ともいわれる天理市佐保庄町のノムギ古墳(全長63m、3世紀末頃)の墳丘南側の調査で、後方部の南西角や葺石が見つかり、過去の調査と合わせて後方部の一辺が40mと確定したと発表した。
 また、後方部の周囲を方形に囲う周濠の外縁も確認された。
 現地説明会は12日(土)午後1時半~3時に開かれる。
[参考:産経新聞、天理市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.16ノムギ古墳 後方部裾で花崗岩の礫が多数出土
 2010.2.23ノムギ古墳 発掘調査を開始
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常陸太田市・日向遺跡 「日奈田」と書かれた墨書土器が出土

2011年03月10日 | Weblog
 茨城県教育財団は9日、常陸太田市亀作町日向(ひなた)の「日向遺跡」から、遺跡名にもなっている地名(字名)「日向」を裏付ける「日奈田」と書きれた平安時代の墨書土器(茶碗)が出土したと発表した。 外部から持ち寄られたと思われる「緑釉陶器」なども多数見つかった
 遺跡は、昨年6月から調査が続いており、古墳時代前期から平安時代の遺跡と見られ、今回調査で古墳時代中期の古墳1基と、竪穴住居跡約140軒が重なり合う大規模集落跡を確認した。
 古墳は、墳丘部直径30mにも及ぶ大型で、円墳か前方後円墳と想定される。横穴式石室を持つ古墳1基の存在も明らかとなり、遺跡周辺にいくつかの古墳が築かれていた可能性があるという。
 現地説明会が12日(土)午前10時半からを開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・西大寺赤田横穴墓群 土師氏一族の墓か 亀甲形など陶棺7基が出土

2011年03月10日 | Weblog
 奈良市教委埋蔵文化財調査センターが10日、奈良市西大寺赤田(あこだ)町の古墳時代後期(6世紀後半~7世紀中頃)の赤田横穴墓群で、亀甲形陶棺6基と小型陶棺1基が見つかったと発表した。近隣には大和朝廷で埴輪作りをした土師氏(菅原氏・秋篠氏)の居住地があり、一族夫婦や兄弟姉妹の墓の可能性が高いという。
 昭和58年に横穴墓2基が出土した地点の西側に隣接する約1千㎡を調査した。 東西約30mで、縦に並ぶ大小15基(長さ8~3・5m)の横穴墓が新たに確認され、実際に発掘した7ヶ所のうち5ヶ所で赤や緑で彩色された陶棺7基が出土した。
 陶棺3基は埋葬当時のほぼ完全な状態で出土した。 墓群中央付近の5号墓からは、表面が格子状の模様で装飾した亀甲形陶棺(長さ2m~2m10cm、幅45cm~60cm、高さ60cm)が2基並んで見つかった。 底部に円筒形の脚が数十個付いていた。棺は土で埋まり、副葬品の土器や壺15点がそばにあった。 北側の1基(長さ2・2m、幅と高さ0・7m)は6世紀後半の造営で、同形としては最古級とみられる。
 長さ1・1mの小型陶棺の下には、6世紀の埴輪の破片が敷いてあった。
 土師氏の技術者集団(工人)が技術力誇示のため彩色や細工を施したとみている。
 現地説明会は13日(日)午前10時から開かれる。近鉄大和西大寺駅の北西約1.2km。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞]

備考: 赤田の読み
 奈良市のHPで得られる情報では(1件)のみ、赤田横穴墓群(あこたおうけつぼぐん)としている。(20094.27)  ただし赤田町は「あこだちょう」と呼ぶらしい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観音寺市・平塚古墳 石室や墳丘規模が明らかに 13日に発掘調査現地説明会

2011年03月10日 | Weblog
 観音寺市大野原町大野原の県指定史跡「椀貸(わんかし)塚古墳・平塚古墳・角塚古墳」の保存・活用を図るため06年度から調査をしている同市教委は、昨年度までの調査で椀貸塚古墳は、墳丘37・2m、石室全長14・7m、玄室空間容積約70㎥であることを確認し、石室全長では四国最大規模であることなどが分かったとしている。
 今年度は、平塚古墳の範囲確認調査を行っている。 同古墳は7世紀初め頃には四国最大級の横穴式石室を有し、県内最大の円墳とされている。 今回の調査で、石室全長や墳丘の規模などが明らかになってきたという。
 現地説明会が、13日(日)午後1~3時に開かれる。
[参考:毎日新聞、観音寺市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.25 観音寺市・椀貸塚古墳 横穴式石室の羨道の一部を確認
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧之原市・宮下遺跡 平安時代末から鎌倉時代初期の県内最大規模の「柱穴内礎石建物跡」が見つかる

2011年03月10日 | Weblog
 牧之原市教委は9日、同市坂部4439の宮下遺跡から、平安時代末から鎌倉時代初期に建てられたとみられる、上屋を支えるため柱穴に礎石を入れた「柱穴内礎石建物跡」が見つかったと発表した。
 北西区域から中央にかけて南北8m、東西20mに及ぶ大きさで県内最大規模。 発掘された礎石の埋め込まれた穴(直径約40cm)は2~2・6mおきに配列されていて、約50基を確認した。
 また、建物跡の東側には、南北方向に流れる幅約3・5mの溝に、横幅2mほどの橋がかかっていたとみられる6本の橋脚が見つかった。 溝の中からは、皿などの墨書土器と、長さ75cmの六角形状で、墨で梵字や年号が書かれた木簡卒塔婆、男の顔が描かれた呪符(じゅふ)木簡も発掘された。 宗教色の強い拝殿のような特殊な建物とも考えられとみられる。
 宮下遺跡(6513㎡)は、牧之原台地南部丘陵の坂口谷川中流西側の標高10mほどに位置する。 1972年の調査で、隣接する若宮八幡宮(現在の坂部神社)との関連が推測できる「土・中・若」とかかれた小皿の「墨書土器」が出土し、平安末期から鎌倉初期の遺跡と推定されている。
 現地説明会が12日(土)午前10時半と午後1時半に開かれる。
[参考:静岡新聞、中日新聞、朝日新聞、毎日新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福岡県大刀洗町・高樋辻遺跡 弥生中期の墓地群が見つかる 甕棺墓、土壙墓、木棺墓など約150基

2011年03月10日 | Weblog
 福岡県三井郡大刀洗町教委は9日、同町高樋の高樋辻(たかえつじ)遺跡から、弥生時代中期の墓地群が見つかったと発表した。甕棺墓が54基、土壙墓や木棺墓が計62基出土しており、発掘中を含めると計約150基に上る見通し。
 遺跡は大刀洗川左岸の丘の頂部(標高約18m)にあり、2009年に甕棺が見つかった。
 甕棺墓は弥生時代、福岡県西部から佐賀県にかけての地域で埋葬の主流。 二つの甕を合わせて、甕の口を粘土で固めて棺にした様子が分かる状態で出土したものもある。 高樋辻遺跡では、直径80cm、高さ80cmほどの素焼きの甕棺が用いられている。中には、高さ40cm未満の子供用とみられるものも含まれていた。骨はなかったが、一部に歯が残っていた。 副葬品が見つかっていないことから、一般民衆の共同墓地だったらしい。
 現地説明会が12日(土)午前10時半から開かれる。
[参考:西日本新聞、読売新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大垣市・荒尾南遺跡 県内最古、弥生時代の組合せ式箱形木棺が出土

2011年03月10日 | Weblog
 岐阜県文化財保護センターは9日、大垣市荒尾町から桧町に広がる荒尾南遺跡の縄文時代晩期から古墳時代前期の河川跡縁辺部で、弥生時代の木棺墓群を発見し、そこから組合せ式箱形木棺9基を確認したと発表した。 木棺としては県内最古であり、弥生時代のものとしても初めて。東海3県では2009年に平手町遺跡(名古屋市北区)から出土した舟形の木棺に次いで2例目となる。 なお、古墳時代前期の木棺は大垣市・曽根八千町遺跡(そねはせんまちいせき)で出土している。
 発見した木棺墓9基は、底板、側板、小口板がそれぞれ残っているもの2基、小口板のみ残っているもの1基、小口板の痕跡のみ確認できたもの6基であった。 蓋板はなかったが、底板、側板、小口板がそれぞれ残っている2基は、長さ約1.5m、幅約42cm。 片方の木棺墓からは、管玉3個、少量の赤色顔料、土器片などが出土した。 ともに、人骨は出土しなかった。
 その他の木棺墓からも土器の小破片が出土した。出土した土器の年代や発見した土層の堆積状況から、木棺墓はおよそ弥生時代中期以前に造成されたと考えられるとする。
[参考:読売新聞、岐阜県HP(教育委員会文化財保護センター)]

備考: 昨年11月13日(土)に行われた現地説明会では、2基の組合せ式箱形木棺が出土しており、長辺170~190cm、短辺50~55cmとしていた。 さらに、今年2月14日(日)に赤坂総合センター (昼飯町)で行われた発掘調査報告会では9基の木棺が発見されたことが報告されている。

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.10 荒尾南遺跡 掘っ立て柱建物跡3棟、倭鏡、銅鏃が見つかる
 2010.7.6 平手町遺跡 昨年2月に見つかった舟形木棺はヒノキ製
 2009.11.11 荒尾南遺跡 弥生-古墳前期の遺跡としては岐阜県内屈指の規模を確認 11/14に現地説明会
 2009.2.21 平手町遺跡 日本最古(約二千年前)の舟形木棺が出土
 2008.11.11 荒尾南遺跡 現地説明会 11/15
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

港区・増上寺 江姫のひ孫・奈阿姫の写経「紺紙金泥浄土三部経」を発見

2011年03月09日 | Weblog
 今朝の読売新聞の文化面で表題の記事が掲載されていた。 他にもと探してみると、7日の朝日新聞にもあったし、江戸東京博物館のHPにも3月15日から開催される企画展「芝 増上寺 ~秀忠とお江の寺」(3/15~5/29)の新発見資料として載っていた。
 1月末に、江戸東京博物館「江 姫たちの戦国」展で、次回の企画展「芝 増上寺 ~秀忠とお江の寺」のパンフレットをもらっていた。それを見返してみると、浄土三部経・尊光法親王(1645-1680)筆・大本山増上寺蔵と記され写真が載っている。 それが、尊光法親王でなく、奈阿姫筆と分かったわけである。
 奈阿姫は江姫のひ孫に当る。(下記参照)
 江姫(崇源院、徳川秀忠継室、1573-1626)→千姫(天樹院、豊臣秀頼正室のち本多忠刻正室、1597-1666)→勝姫(円盛院、池田光政正室、1618-1678)→奈阿姫(慈雲院、本多忠平正室、1634-1697)と続く。
 増上寺の「紺紙金泥浄土三部経」は奥書(おくがき)から、千姫が父・2代将軍徳川秀忠の供養のため施主となり、千姫の孫・奈阿姫が一人で書き写したものだったことがわかった。寛文五年(1655)に作られ、秀忠の廟所・台徳院に奉納された。
 千姫は、その翌年に亡くなった。
 そこで、奈阿姫は千姫を弔うために、千姫の菩提寺である茨城県常総市の弘経寺(増上寺別院)に紺紙金泥浄土三部経を書写し奉納している。 常総市HPでは、寛文年間(1661~1673)に書写されたものであるとしている。
[参考:読売新聞、2011.3.7朝日新聞、江戸東京博物館HP、常総市HP、1992.5.1浄土宗新聞]

備考:
■ 浄土三部経(阿弥陀経)とは、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』から成る。 
■ 奈阿姫は、池田光政の長女として生まれる。承応3年(1654)7月に、本多忠平に嫁ぐ。子が出来なかった。
■ 豊臣秀頼と側室・小石の方(成田助直の娘)との間に生まれた、同じ名前の奈阿姫(天秀尼、1609-1645)がいる。豊臣秀頼の正室・千姫(天樹院)がこの奈阿姫を自らの養女とした。大坂夏の陣(1615)による大坂城落城後は、出家し、「駆け込み寺」あるいは「縁切り寺」といわれる鎌倉の東慶寺に入り、その後、20世住持となる。東慶寺のHPでは、1616年、7歳のときに寺に預けられたとしている。

写真は東慶寺(鎌倉)の庭園に咲くミツマタ(三椏)2004.4.1撮影


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津市・関津遺跡 鎌倉時代の梁発見

2011年03月09日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が9日、大津市関津の関津遺跡(せきのついせき)内の琵琶湖に注ぐ川跡で、アユなど川を遡上する魚を捕った鎌倉時代の「梁」とみられる漁具がほぼ完全な形で出土したと発表した。200本以上の木の杭が川底に打ち込まれていた。
 水の流れを完全に堰き止めることをせず、部分的に流れを遮り、魚を捕りすぎないようにしていた。中世から湖の資源を守る漁法があったことを示す貴重な事例としている。
 現地説明会は12日(土)午前11時から開かれる。
[参考:産経新聞、中日新聞、NHK滋賀]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和郡山市・筒井城 13世紀の大型の井戸跡を発見

2011年03月09日 | Weblog
 奈良県大和郡山市教育委員会が9日、戦国武将・筒井順慶(1549-1584)の居城だった筒井城が、筒井氏が文献に登場する以前、遅くとも13世紀から約300年間にわたって城郭として存続していたことが発掘調査で分かったと明らかにした。
 城跡の中心的な場所で、13世紀中頃の筒井城の前身施設とみられる堀を埋めた厚さ40~50cmの盛土の整地面で、直径0.9m、深さ2m以上の大型井戸が見つかった。 一緒に出土した土器からみて、いずれも13世紀後半に掘り、14世紀前半までに埋め戻したとみられ、井戸の規模から邸宅用ではなく、城郭用とみられるとする。
 これまでの調査で14世紀末~16世紀末ごろまで存続していたと考えられていた。
 過去の関連ニュースで、
 筒井城の創築時期は不明だが、僧侶・満済(まんさい、1378~1435)が残した「満済准后日記」』(まんさいじゅごうにっき)に永享元(1429)年の条に、筒井館と記載されるのが初見である。当時の主は筒井順覚(?~1434)。
 としているので、筒井順覚の時代のものかもしれない。 筒井順覚の名前は、「東大寺薬師院文庫史料」の中で、至徳二年(1385)・11月11日 筒井順覚等連署置文案にて現れる。
 現地説明会は12日(土)午前10時~正午に開かれる。
[参考:産経新聞、奈良新聞、『東京大学史料編纂所報』第13号]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.12 奈良県大和郡山市・筒井城 破城令により堀の埋め戻し跡が出土
 2009.2.26 大和郡山市・筒井城跡 14世紀末から15世紀前半頃の『畝堀』が出土
 2008.9.25 伊賀市・上野城趾 筒井定次時代の土塁発見
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿賀野市・山口遺跡 唐三彩の弦楽器のミニチュア(玩具)の破片が出土、国内初

2011年03月09日 | Weblog
 新潟県埋蔵文化財調査事業団は9日、阿賀野市の山口遺跡で、「唐三彩」(618~907年)の玩具が出土したと発表した。唐三彩の玩具出土例は、国内で初という。 、遣唐使が土産として持ち帰った可能性があるとしている。
 昨年10月、同遺跡の9世紀前半(平安時代前期)の地層の穴から見つかった玩具は、唐の弦楽器「古琴(こきん)」を模したとみられるミニチュアの破片(縦2.5cm、横3.5cm)で、資料などから全長15cm程度だったと推定されるとしている。 このほか、壺のミニチュア玩具の一部とみられる破片も見つかった。
 山口遺跡は、阿賀野川右岸の沖積地の自然堤防上(標高約6m)に立地する。2008年度に発掘調査が実施され、これまで、弥生・古代・中世の遺構・遺物が出土している。
 昨年秋には、高床式倉庫と考えられる奈良時代から平安時代にかけての建物跡などが見つかり、当時の行政区域である沼垂郡(ぬたりぐん)(現在の阿賀北地域)の物資の集積場だったとみられとして、現地説明会が開催された。
[参考:時事通信、産経新聞、読売新聞、毎日新聞、新潟県埋蔵文化財調査事業団HP]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加須市・長竹遺跡 3500年前の土製耳飾が出土

2011年03月08日 | Weblog
 読売新聞のニュースで、埼玉県加須市大越の長竹遺跡から縄文後期~晩期(約3500年前)とみられる耳飾りが出土したと報じられた。
 2月5日に遺跡見学会が行われたばかりであるが、その時にも耳飾が出土しており、それと同じなのかあるいは新たになのかは不明である。 いわゆる土製耳飾(どせいみみかざり)で、直径8cm、厚さ1~2mm。祭事に使われたとみられる。 精巧な作りの渦巻き文様と透かし彫りがあり、色合いは白っぽい。他の地域で作られ、持ち込まれた可能性もあるとしている。
 県内ではさいたま市岩槻区の真福寺貝塚で土製耳飾の破片が多数出土しているが、大きさは最大でも径4.5cmほどである。また、同貝塚で出土したみみずく土偶(重文)は、大きな耳飾をしている。
 ほぼ同時代の土製耳飾が、3ヶ所で国の重要文化財に指定されている。
■東京都調布市・下布田遺跡(しもふだいせき) 1点 (直径9.8mm肉彫状の花弁様文)
■群馬県桐生市・上野千網谷戸遺跡(ちあみがいといせき) 170点以上、一例 半肉彫状の重花弁文
■群馬県榛東村・茅野遺跡(かやのいせき) 577点以上、一例 直径7.7cm、透かし彫り 
 このうち、茅野遺跡出品には白っぽい色合いのものがある。

 遺跡からは、他に、同じ時期と見られる体長約7cmの犬形土製品や、体長10cmくらいの人形土偶、ひもを通す穴の開いた1~2cmの石製装飾具なども出土している。
 規模、遺物の量ともに県下最大級の遺跡といい、当初、3月までの予定だった調査は来年度も継続することが決まったという。
[参考:読売新聞、埼玉県埋蔵文化財調査事業団HP、2011.2.12埼玉新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.4 加須市・長竹遺跡 2月5日遺跡見学会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする