歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福井市・高柳遺跡 「漆紙文書」が付着した土器片が出土

2011年12月08日 | Weblog
 福井市の高柳遺跡で、福井県内で初めてとなる漆紙(うるしがみ)文書が付着した土器片(9世紀)が出土し、同市文化財保護センター(同市渕4丁目748)の企画展「ミゾ・MIZO・みぞ~高柳遺跡の溝展~」(12月3日~25日)で展示されている。漆紙文書にはわずかに文字が見られる。
 11日午後1時半から同3時まで、展示解説と発掘調査成果スライド発表会がある。
[参考:福井新聞、福井県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.23高柳遺跡 古墳前期の金属加工に使う炉や羽口の破片が出土
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐賀市 佐賀城石垣の石切場跡を発見

2011年12月06日 | Weblog
 佐賀市教委は5日、同市大和町梅野地区の神社「乙文殊宮」の参道と近くの嘉瀬川上流の中州で、佐賀城(古名は佐嘉城、1611年完成)の石垣を切り出しや加工をした作業跡を確認したと発表した。
 「川上石切場」(仮称)の作業場跡は、麓の神社・乙文殊宮(おつもんじゅぐう、同市大和町上都渡城)から山頂に向かう登山道沿いで、花崗岩の巨石が約250mの間に15か所に点在していた。 石質を調べたところ、佐賀城の石垣に使われたものと一致した。 巨石には、「矢穴」(長さ、深さとも17~18cm)の溝があり、佐賀城石垣に見られる矢穴の跡と痕跡が同じだった。 石に打ち込んだ楔(くさび)を玄翁(げんのう、金槌)で叩き、運びやすい大きさに割っていたとみている。
 佐賀藩の文書「勝茂公譜考補(かつしげこうふこうほ)」(慶長14年(1609))に、一帯を指す地名「川上」から石材を調達したとの記述があり、石材の供給拠点だったと判断した。
 採石に残した刻印などから、同所から運び出された石は佐賀城の石垣だけでなく、同市の肥前国一宮である与止日女神社(よどひめじんじゃ)や取水施設・石井樋(いしいび)でも使われたとみられる。
[参考:2011.12.1&6佐賀新聞、2011.12.2朝日新聞、2011.12.5NHKニュース、2011.12.読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・東大寺 東面僧房の礎石と石列が出土

2011年12月06日 | Weblog
 奈良市埋蔵文化財調査センターが5日、東大寺大仏殿の北側で、鎌倉時代に再建され500年以上前に焼け落ちたとされる東面の僧房の3つの礎石が見つかったと発表した。 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、大仏殿、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂を東・西と北の3方向でコの字形に取り囲んでいたとされ、東面で僧房の礎石が確認されたのは初めて。
 今回の調査で、約3.9m間隔で東西に並ぶ礎石(幅約1.4m、高さ約40cm)とその南側に平行に並ぶ石列が出土し、石列は僧房基壇の南端を示すとされる。正倉院に残る奈良時代の古図と柱の位置が一致したという。古図によると、僧房の規模は南北約130m、東西約240m。 礎石間の柱間は西側が通路、東側は壁だったことも分かった。
 遺構は鎌倉時代の再建時のものとみられる、奈良時代創建時の規模を受け継いでいることから、僧房の変遷を知る上で貴重な遺構という。
 また、講堂と大仏殿の間は、少なくとも平安時代後期まで、深い谷だったことが確認され、東大寺造営期の大仏鋳造に関連するとみられる銅屑や大量の木炭などとともに、「大安寺式」軒瓦や表に「□守 受鞴 一口」、裏に「九月九日」と記された奈良時代の木簡なども出土した。 これらごみの上に土をかぶせて整地していたことも分かった。
 現地説明会は8日(木)午前10時から開かれる。
[参考:産経新聞、共同通信、日経新聞、毎日放送、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横手市・陣館遺跡 10世紀前半とみられる墨書された須恵器が見つかる

2011年12月05日 | Weblog
 横手市教育委員会が、金沢柵(かねざわのさく)推定地「陣館遺跡」(横手市金沢中野)から、昨年10月に内耳鉄器が見つかった場所から約10m離れた山裾で、10世紀前半のものとみられる、県内では呪術文字(まじない文字)と考えられる前例のない記号が墨書されていた土器が出土したと発表した。
 側面に「凡」の字(注1)を横にしたような墨書されていた須恵器の中に、割れた肌色の土師器が重ねられた状態で二つ並んでいた。 埋まっていた地層に、915年頃に噴火したとされる十和田火山の火山灰が混ざっていることや土器の形状などから、10世紀前半のものと推定した。
 平安期の「払田柵(ほったのさく)」(大仙市)の祭祀場とされる「厨川谷地遺跡」(美郷町)でも、同じ火山灰の地層から、別の記号が墨書された土器が、既に多数見つかっている。
 現地説明会が11日(土)午後1時半~3時に開かれる。集合場所は後三年の役金沢資料館(0182・37・3510)。

(注1)その後の調べで、「出」か「之」を崩したものと推定されるという。
[参考:2011.12.5読売新聞、2011.12.7朝日新聞、2011.12.9毎日新聞] 2011.12.9修正

過去の関連ニュース
 2010.11.9陣館遺跡 11世紀から12世紀頃の内耳鉄鍋が出土、日本最古の可能性
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市市・筆ヶ崎古墳群 約1400年前の横穴式石室を持つ古墳と判明

2011年12月05日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターは3日、四日市市小牧町の筆ヶ崎古墳群(ふでがさきこふんぐん)の発掘調査現場で現地説明会を開いた。
 同古墳群は、標高55~60mほどの緩やかな南向きの斜面に約10基の古墳(直径10m前後の円墳)が見つかっているが、未調査のままとなっていた。
 9月から2基の発掘調査を行い、古墳時代の終わり頃から飛鳥時代に造られた横穴式石室の古墳だったことが判明した。人頭大の川原石を積んで造っているのが特徴。 木曽川流域の古墳などと共通し、石室を造る技術の広がりが分かるとしている。
 銅に金箔を施した「金環(きんかん)」と呼ばれる珍しい耳飾りが石室内から出土した。
 谷を挟んだ南側丘陵上には、同センターが発掘を進めている中野山遺跡や北山A遺跡があり、筆ヶ崎古墳群と同じ時期の集落が見つかっているため、筆ヶ崎古墳群には周辺の集落の有力者が埋葬されていると考えられる。
[参考:読売新聞、2011,11,26伊勢新聞、三重県HP]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盛岡市・石森山 本誓寺

2011年12月04日 | 盛岡
せきしんざん ちょうげんいん? ほんせいじ
真宗大谷派 石森山 重願院 本誓寺 (盛岡市名須川町3-16)
木造阿弥陀如来立像、木造親鸞上人坐像、木造聖徳太子立像が盛岡市指定文化財となっている。 また「ホンセイジシダレ」(桜)は盛岡市指定記念物である。

左は本誓寺本堂、 右は本堂前の説明板

 本堂の前に立つ説明版には、下記のように記されている。
 『本誓寺  真宗 大谷派
 浄土真宗の教えをひろめる親鸞聖人(1173-1262)の弟子は百人も数えるが、その中の主な弟子たちのことを書いたものに「親鸞門侶交名牒」とよばれるものがある。 その十番目に奥州和賀郡一柏(ひとつかしわ)(注1)の是信房(ぜしんぼう)(注2)の名がある。
 親鸞聖人が常陸稲田におられた時、奥州の人たちが弥陀の本願の教えに救われるようにとの念を深くして、当 開基の是信房に命じ、その任にあたらせた。 その時、お別れを惜しむと親鸞聖人は「後の世の記念に残す面影は弥陀たのむ身のたよりともなれ」とうたわれ、御自身肖像を彫りまた、阿弥陀如来の尊像の両側に南無阿弥陀仏と書かれた=名体不離の本尊=を是信房に与えられた。 時は建保三年(1215)であった。
 その後是信房は一寺を紫波郡彦部村松田に創建(注3)、石森山重願院本誓寺と称しておよそ52年(注4)、大いにこの道をひろめられ、そのため、聖人より光明本一幅を与えられるが、文永三年(1266)十月十四日86才で亡くなる。(注5)
 寛永十二年(1635)十六世の賢勝が南岩手郡米内(よない)村に本誓寺を移し(注6)、かわりに正養寺(注7)を彦部に建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世の是伝が寺祖の墳墓を村内三ッ割に移して現在に至る。親鸞聖人の教えをはじめて奥州へ伝えてから七百年余りになるが、近世末期までは五十六の末寺を数え当本誓寺には、初期教団としての宝物も数多く蔵されている。
 なお本誓寺宝物には「御真影」「光明本尊」「名体不離本尊」それに「光明攝取本尊」が伝わっている。』

(注1) 岩手県東和賀郡笹間村、現在花巻市中笹間。 法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌特別展『法然と上人』(2011.10.25~12.4 於:東京国立博物館)で展示されている、『親鸞聖人惣御門弟等光明』(滋賀県光照寺・明照寺とも)に「是信(セシン) オ〃 ワカ」と書かれている。 是信(房) 奥州 和賀のことである。
(注2) 是心房とも書かれる。 三位源頼政(1104-1180)の曾孫宗房説、吉田(大納言藤原)信明(しげあき)説があるが、寺伝では吉田信明(1181-1266)説をとる。
(注3) 彦部村松田の「松田」が不明。 是信房の墓がある紫波郡紫波町彦部字石ヶ森に草庵を創ったか、もしくは、後に石森山弘願院正養寺と改号した場所に創ったかが考えられる。 いずれにしても、山号の「石森山」は字名・石ヶ森からとったと思われる。 創建当初、彦部村を領していたのは、藤原秀郷を祖とする河村氏一族である。 『吾妻鏡』に、
■文治五年(1189)八月大十二日己亥。一昨日(阿津賀志山)合戰之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船迫驛。被尋仰其父。小童爲山城權守秀高四男之由申之。依之。於御前俄加首服。号河村四郎秀。加冠加々美次郎長也。此秀者。去治承四年。石橋合戰之時。兄義秀令与景親謀叛之後。牢篭之處。母〔二品官女。号京極局。〕相計而暫隱其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇士。企慇懃吹舉之間候御共。忽顯兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國府給。(略)
 とあり、河村千鶴丸(13歳)が先陣を切って活躍をしたことが記されている。 頼朝は、千鶴丸が、(河村)山城権守秀高の子であることを知り、目前で元服式を行い、河村四郎秀清と名付けた。 秀清の母は、頼朝の官女、京極局である。
■文治五年(1189)九月小四日辛酉。着御于志波郡。(略)今日。二品令陣于陣岡蜂杜給。(略)
 とあり、源頼朝が志和(紫波)郡に着き、陣ケ岡蜂杜(じんがおかはちもり)に陣を敷いた。
■文治五年(1189)九月小九日丙寅。鶴岡八幡宮臨時祭也。流鏑馬已下如例。今日。二品猶逗留蜂杜。而其近邊有寺。名曰高水寺。是爲 稱徳天皇(764-770)勅願。諸國被安置一丈觀自在菩薩像之隨一也。(略)
とあり、この日、蜂社に逗留したことと、近くに称徳天皇(764-770)の勅願した高水寺があることが記されている。 本誓寺近辺の情報が多少知ることができる。 先の河村秀清が、戦功により紫波郡の北上川東側を領有して、斯波氏が奥州管領に任じられる建武2年(1335)頃まで領有し続けたとも考えられるが、勢力的には小さくなっていった可能性もある。
また、天武天皇の第一子・高市親王の後裔・高階惟章(1053-1107)を祖とする彦部氏の歴史によると、惟章は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、そして、惟章の娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、惟頼は奥州検断職を命ぜられ、いわきに赴任し、惟頼の後、数代この地で過ごし光朝(1216~77)の代に、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗ったとしている。[参考:彦部家屋敷HPより]
惟頼が陸奥国菊多郡彦部郷大高(現在のいわき市勿来町大高)に居を構え、大高冠者と呼ばれたのを始めとして、光朝までの間に大高、滝口、窪田、彦部姓を名乗っている。 そのうち大高、窪田、彦部は当時の菊多郡(現勿来町)にあった地名でしかも直線距離で1kmほどのところにある。 それから考えると、彦部のもともとの地は現・勿来町にあり、そこから彦部氏が紫波町に移り彦部という名前ができたということも考えられるがいかがであろうか。
(注4) 本誓寺の創建が建保三年(1215)、その52年後の文永三年(1266)に亡くなったことを意味している。 『親鸞聖人正統伝』では寛喜3年(1231)に建立としている。
(注5) 石森山上(彦部字石ヶ森)に葬るとしている。是信房の墓(御廟)があるところ。
(注6) 南岩手郡米内村(現、盛岡市名須川町)に移る前に、1580年代の天正年中に彦部から対岸の二日町(紫波町二日町北七久保)に移転している。一説では、天正十二年(1584)に野火による堂宇消失と高水寺城主「斯波詮直」の招聘により現在地(二日町)に移るとしている。
(注7) 石森山正養寺 (紫波郡紫波町彦部川前110)
 寛永十二年(1635)本誓寺十六世賢勝が南岩手郡米内村に本誓寺を移し、代わりに昔、本誓寺があった彦部に弘願院正養寺を建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世是伝が寺祖の墳墓を米内村三ッ割に移して現在に至る。
 正養寺には、南北朝期のものとみられる板碑2基と400年以上前のものとみられる彦部氏の墓と伝えられている古碑が残っているという。

 以上、本殿前の『説明版』、さらに『盛岡の寺院/盛岡仏教会1995』をみても寺の歴史はかなり簡略化されている。
 インターネットに公開されている『真宗 石森山 本誓寺』のしおりがある。この本誓寺は紫波郡二日町新田郡山(現・紫波郡紫波町二日町北久保)で、区別しやすいように郡山・本誓寺と呼んでいる。それに対して盛岡市名須川にある本誓寺を盛岡・本誓寺。さらに、最初に開かれた彦部郷石ケ森の本誓寺を彦部・本誓寺と区別すると、それらの関係と歴史は複雑である。さらに、郡山・本誓寺のすぐ北にあった慈運山永光寺、そして彦部・本誓寺を改号した石森山弘願院正養寺を加えての説明が必要となるだろうが、ここでは省略する。
 ただ、郡山・本誓寺と盛岡・本誓寺は同じ山号寺号で「真宗大谷派 石森山 本誓寺」であるが、現在、郡山・本誓寺は本山(東本願寺)直末寺院となった。


 本堂の横に、赤いオダマキが咲いていた。愛らしい。(6月10日撮影)

追記 2014.1.6
幕末の本誓寺
慶応4年2月(1868年3月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。総督・九条道孝一行は6月3日盛岡に入り、一行の宿舎は寺院が当てられた。 本誓寺には九条殿本陣が置かれた。24日、秋田へ向って発ったというから、3週間ほどの駐屯であった。
当時の本堂は明治30年に類焼し、大正7年に再建された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛知県美浜町・大御堂寺 阿弥陀如来立像が快慶作と判明

2011年12月04日 | Weblog
 富山大・松浦正昭教授が2日大阪市内で、愛知・美浜町の大御堂寺(おおみどうじ)に伝わる阿弥陀如来立像が快慶の作と分かったと発表した。
 像は寄木造りで、高さ79cm。左足を踏み出し、亡くなった人を迎える来迎(らいごう)形をしている。当初は金泥で仕上げられていた。同寺では作者不明のまま厨子に祀られていた。作者銘が残る岡山・東寿院の快慶作阿弥陀如来像と、特徴ある襟の形などを含め表現様式が一致し、快慶作と判断した。
 足ほぞには15世紀の修理の際に書かれた「親鸞上人御彫刻」との銘があり、X線調査では、その修理で胎内納入物が取り出された跡があった。 松浦教授は、納入物の記述内容を足ほぞに記録したものとし、親鸞(1173-1262)が願主となって師・法然(1133-1212)入滅の際に供養のために作った像と判断できるとしている。
 同像は5日から22日まで、大阪市中央区大阪丸紅ビル1階「文化力の旅ラウンジ」で公開される(有料)。
[参考:時事通信、産経新聞]

真言宗豊山派 鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)
愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50
 創建は天武天皇の時代(673-686)、開基は役小角と伝わる。
 同寺は「野間大坊(のまだいぼう)」と呼ばれ、寺がある美浜町野間(旧・野間庄)は源頼朝の父・義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
そのため、源頼朝が訪れているほか以降、時の権力者から庇護を受けて現在に至っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川市・土井畑遺跡 紀元前3世紀頃の水田耕作に利用した用水路とみられる溝を発見

2011年12月03日 | Weblog
 県立考古博物館は、多可町中区坂本の坂本・土井畑遺跡(どいばたけいせき)で、弥生時代前期(紀元前3世紀ごろ)に水田耕作に利用した用水路とみられる溝が見つかったと発表した。 溝からは、弥生時代前期の壺の破片が出土した。
 博物館によると、溝は東西方向に延び、長さ約25m、幅約60cm、深さ約30cm。
 稲作に関連する同時代の遺跡としては加古川市加古川町大野の美乃利遺跡(みのりいせき)で水田跡が見つかっている。 加古川上流域で米作りが広まった時期を示す貴重な遺構としている。
 また、古墳時代後期(6世紀後半)の竪穴住居跡が大小2棟分見つかり、博物館では調査区域(約2600平方m)外に集落があると推定している。 他に平安時代の建物跡の可能性がある柱跡約200個も溝の周囲などで見つかった。
 現地説明会は3日午後1時半に開かれる。
[参考:神戸新聞、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、兵庫県教育委員会HP]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆市湯ヶ島・昭和の森会館 井上靖旧邸 と 紅葉

2011年12月03日 | Weblog
 昨日は、修善寺から天城方面へ紅葉散策にでかけました。
 朝のうちは小雨混じりに始まって、その後は一日曇りでした。途中で太陽がかすかに覗いて一瞬明るくなったのですが、再び曇りに戻ってしまいました。
 さらに、今年の紅葉は色付きがよくないようですが伊豆市湯ヶ島・昭和の森会館ではきれいな紅葉をみることができました。
 昭和の森会館は昭和55年にオープンし、その中にある「伊豆近代文学博物館」には川端康成(1899-1972)、井上靖(1907-1991)ほか伊豆を舞台にした文学者の資料を展示しています。
 井上靖は父が軍医であったため父の任地・旭川で生まれましたが、3才より母の郷里(井上家)湯ヶ島で祖母に育てられます。その旧邸宅が昭和の森会館に移築されています。


 井上靖は、大正10年(1921)、静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)に入学しました。けれど、翌年に静岡県立沼津中学校(現・静岡県立沼津東高等学校)に転校してしまいます。
 ジャズピアニストの上原ひろみと同じ浜松北高等学校の同窓生でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富山市・二本榎遺跡 古墳時代後期の円墳が見つかる

2011年12月02日 | Weblog
 富山市埋蔵文化財センターが1日、呉羽丘陵南西の標高約60mの地点にある、同市婦中町小長沢の二本榎遺跡(にほんえのきいせき)で、古墳時代後期・6世紀後半~7世紀初頭の円墳などが見つかったと発表した。
 円墳は直径約14m(注1)で、中央に横穴式石室があり、周囲には周溝が確認された。石室は玄室(縦3・7m、横1・2m、高さ1・5m)と羨道からなり、羨道の一部(長さ2m)が見つかった。 石室がある古墳は県内7か所目となる。周溝や石室など、この時代の円墳の全体像が確認されたのは県内で初めてという。
 石室周囲の溝からは、須恵器の甕など約250点が出土した。石室に遺体を納め、祭祀を行った後、廃棄されたとみられるという。
 この遺跡周辺には、古墳時代前期の王塚・千坊山遺跡群などがあり、県内有数の有力者が住んでいたことが分かっているが、その消息を示す材料は少なかった。 今回の発見は有力者の動向を知る手がかりになるという。
 同センターは「北陸地方の古墳研究で代表的な資料となる」としている。
現地説明会が3日(土)午前10時~12時に開催される。
[参考:福井新聞、読売新聞、毎日新聞、富山市埋蔵文化財センターHP]

(注1) 円墳の直径は報道では14mとしているが、富山市埋蔵文化財センターHPでは12mとなっている。
(注2) 毎日新聞では、出土した土器片の一部に高坏があったことから、7世紀初めの古墳としている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つくば市・上境旭台貝塚 約3千年前のほぼ完全な形のミミズク土偶が出土

2011年12月02日 | Weblog
 茨城県教育財団は1日、つくば市栄字毘沙門の上境旭台貝塚(かみざかいあさひだいかいづか)でほぼ完全な形のミミズク土偶(高さ約13cm)が出土したと発表した。
 つくば市東部にある縄文時代後期-晩期(約3千年前)の貝塚で、今回の調査で2か所の貝塚のほか、竪穴住居跡、土坑などを確認した。ヤマトシジミ・サルボウなどの大量の貝類、シカ・イノシシなどの獣骨、釣り針やヤスなどの漁具や装身具、大量の縄文土器片とともに県内でも数例目というほぼ完全な形のミミズク土偶(長さ13cm、幅9cm)が出土した。
 このほか、貝の層にはくぼみを利用し、2度にわたり火を炊いた焼土遺構がみられ、石棒や土偶などが一緒に見つかっていることから何らかの祭祀が行われていた可能性があるとしている。
 現地説明会が3日(土)午前10時半~12時に開催される。
[参考:産経新聞、東京新聞、茨城県教育財団埋蔵文化財部HP]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする