<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



8月を目の前にした7月後半だからというわけではないが柳田邦男の「空白の天気図」を読んでいて「では原爆直後の広島のインフラはどうなっていたんだろう」という疑問が浮かんだ。
以前、広島の復興プロセスを調べたことがあり、そのスピーディさに驚いたことがあると昨日書いたのだが今回この本を読んでから原爆当日からの動きを調べてみると本書同様のびっくりする事実を知ることになった。

まず、広島市の水道は原爆で止まることはなかったという。
設備は被害を受けたし市街中心部は一瞬で更地になってしまうほどの破壊を受けたが、そういうところは除いて水道は止まることがなかったという。
むしろ翌月の台風では甚大な被害を受け、水道さえ止まってしまったのだという。

もっと驚いたのは国鉄の対応だ。
国鉄、今のJRは原爆投下の当日の午後には山陽線の西側を復旧させてたという。
投下当日の午後2時には西条行きの臨時列車を運行。翌々日には大阪方面への列車の運行も再開している。
記憶に間違いがあるかもしれないが以前、東京大空襲の後に根性を示すために国鉄マンたちは山手線を動かすことに全力を上げて実際数本の列車の運行をしていたというようなことを聞いたことがあった。

まさしく広島でも同じようなことが展開されていたわけで驚きなのであった。
また市内を走る広島電鉄も破壊を免れたところは早々に運転を再開させたというのだから、その生きるエネルギーの尋常ではないこと感動的ですらあったのだ。

そういえば当時岡山に住んでいた叔母が実家のある広島に入ったことで原爆手帳を持つことになったのだが、どのようにして広島に入ることができたのかと思っていたら列車が動いていたのだ。

もっと調べると驚くことがさらに幾つもあるのかもしれない。

その年の暮までに広島の人口の三分の一を死に至らしめた原爆の悲劇は永遠に語り継がなくてはならない悲劇だが、そこから街を復活させた当時の人々の動きもまた語り継がなくてはならない歴史でもある。
それらを私たちはあまりに知らな過ぎはしないか。
その負に対する正の記録こそこれからの時代には必要に違いないと思った今年の8月入りなのであった。



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4つの野党と朝日新聞と韓国の共通点
「韓国への輸出規制は日韓の友好関係を阻害する」
「安倍政治の外交は苦境に立っている」
ということで日本のことを考えると明日の投票は維新か自民党に投票したいと思います。
追伸 自民党大阪選挙区の候補者は太田房江元大阪府知事でした。 やっぱり大阪は自民党、あかんな〜。

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例えば、
「自分の家がゴタゴタして安心して住めないから勝手にお宅の家に上がらせてもらいました。あしからず。」
という人が現れて、
「だから部屋を勝手に使わせてもらうのは構わないでしょ。それに生活費も当面工面出来ないのであんたんちの家計で食わしてくれよな」
と言ってきたら、あなたならどうする?

トランプ大統領が自身の移民政策に反対する移民出身の議員をターゲットに呟いたツイッター。
「この国が嫌いなら出て行け」
もちろん議論を呼ぶ主張だろう。
しかしこれは今の日本人には理解しやすい主張でもある。
今の日本人がどこかからやってきた人々に対して今強烈に抱いている感情とかぶさっているからだ。
それだけになるほどと言わせる部分が少なくなく私たちには彼の次の選挙戦の戦略がよく見えてくるのだ。

それはさておき、彼いわく、
「不法入国した不法移民は受け入れない」
というのは正論じゃないか、と私は思っている。
アメリカは移民国家だが、不法に入ってきたものまで面倒を見る必要はない。
生活に窮してトボトボと歩いてきて国境を不法に越えてきた人たちの面倒を見なければならないという法律もないし理屈もない。

驚いたとことにマスコミや件の議員やそのとりまきは合法的に移住してきた人々と不法に入ってきた人たちを同列に扱うことを正義のように掲げている。
だから「不法入国者を取り締まるトランプ大統領の政策は悪」なのだと。
私はこのような人たちと価値観を共有するには少々無理があるように感じる。
大統領の直接的な言い方にも問題はあるかもしれないが、たぶん多くのアメリカ国民は「当たり前やん」と思っていることだろう。

昨夜NHKのニュースを見ていると一方的にトランプ大統領が「嫌なら出て行け」というのが悪でそれを非難している移民出身の議員が正義のようなことを言っていた。
ニュースウォッチ9の二人のキャスターはこれを「問題である」とまで指摘している。
外国のことにコメントする二人の偉大さは私には理解できないが、この二人は勝手に自分の家に上がってきた他人を無条件で住まわせて、さらに食わせることができるのだろうか。

テレビは正論ではない、という代表例を見たような気がした。


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家庭教師の「トライ」のCMが許せない。

このCMだけはセンスが悪すぎて見るに堪えないというものに「家庭教師のトライ」がある。
1970年代半ばに放送され、以後何回も繰り返し再放送されている日本アニメーションの名作「アルプスの少女ハイジ」を使ったCMだ。
ヘッドホンをかけたアルムおんじやトライを推奨するゼーゼーマン氏などが登場するが、はっきり言ってふざけているのか。
有名シーンをランダムに編集してそこへ講習料などを表示するやりかたもいただけない。

どんなものでもパロディにするというのは反対しないが、その作品の尊厳や品位を貶めるような作品は放送する側としては許してはならないものではないか。
こういうCMを見るとそんな感情がふつふつと沸き起こってくるのだ。

アニメ「アルプスの少女ハイジ」はスピリの原作をベースにしているものの、国際的にも高畑勲版アルプスの少女と呼ばれているほどその影響力は大きい。
日本でのヒットはもちろんのこと、本国スイスやドイツでも放送時は大ヒットした。
この物語をベースに2015年にはドイツで新作映画が制作されたほどの重厚さを持っている。

ところがこのCMはそのような作品に対する敬意や知っているもののイメージをぶち壊すことだけに焦点を当てているのか、これが面白いと思っているのか。
もし面白いと思っているのなら、センスは限りなく低い。

とかく色んな噂や事柄が報道される会社だけにイメージを名作の力で払拭したいのかも知れないが、これでは完全に逆効果。
私が親なら絶対にこういう会社とは講師の契約は結ばない。

名作を冒涜。
もっと真面目にビジネスに打ち込んではいかがか。






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参院選挙戦が活発化している。
駅、大通り、商店街、エトセトラエトセトラ。
人の集まるところは選挙関係の人々がビラを配り演説をしている。
あるいは握手をするため歩きまわっていたりする。
甚だ迷惑としか言いようがない。
なかでも駅で渡される政党や立候補者を紹介するチラシは最も迷惑な存在といえるかもしれない。
なぜなら単なる演説であれば音がやかましいのを我慢すれば済むところがチラシとなれば紙資源の無駄遣いに繋がり物理的環境にも良くない。
人の顔が印刷されていたりするので捨てる場所にも困ってしまう。

国民民主党のチラシが公衆便所の小便器の上に乗っていたのも不思議ではない。

そんな選挙戦のなかでも子供の頃から迷惑だ、と思っているものにNHKの政見放送がある。

普段見慣れた朝のテレビニュースを見ていると、突然「政見放送」という無味乾燥的なテロップが現れつまらない主義主張が流れ始めるのだ。
子供の頃から政見放送が始まるとチャンネルを変えるのだが、たたまたテレビをつけていたのが夜だったこともあり仕事の疲れでソファにひっくり返っていてこの日はチャンネルを変えるのも面倒くさくそのまま見てしまったのだ。

聞いているとどの政党も実行力が果たしてあるのかどうかわからない理想ばかりを述べている。
「民主主義を支える共産党」
「戦争をする国にさせない」
「アベ政治を打倒」
「現在の経済政策を変えなければならない」
「消費税増税反対」
などなど。

民主主義を支える共産党は以前笑ってしまったことがあったのだが、共産党の人々は共産主義と民主主義は別物なのに、それを同一で捉えてPRするところが姑息なのかアホなのか。
戦争をする国にさせない、と言うのは結構だが防衛政策については何も主張しないのはいったいなんなのか。国民の財産や生命は侵略されるに任される、というのが共産党、社民党、一部の〇〇民主党の主張なのだろうか。
アベ政治を打倒も結構だが、それを打倒して欲しくなるような政策と行動をしっかりと示していただきたいところ。人の悪口だけ言うのは幼稚園児でもできるというものだ。
現在の経済政策を変えないといけないと言っている枝野氏の主張を聞くと「反省しない人もいるものだ」とつくづく感じる。
消費税増税反対を叫ぶのも野党だが、その消費税増税を決めたのは自民党ではなく旧民主党政権時代。もう10年も前のことなので国民は覚えていないと思っているのか批判がブーメランになっている。

総合すると政見放送は戦後始まった新手の漫談ではないかと思えるようになってきた。


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今年の東京モーターショーでアウディ、BMW、フォルクスワーゲン、ポルシェ、ボルボが出展を見送るのだという。
これを取り上げマスコミは、
「日本の自動車市場の地盤沈下」
「各メーカーの中国シフト」
などと報道して、さも日本がダメダメになっているような印象を伝えようとしている。
まったくもって嫌らしいとしか言いようがない。
どこの国のマスコミなのか疑いたいところだ、と見てみると朝日新聞だった。

そもそも展示会そのものに存在価値があるのかどうかから考える必要がある。
多額の予算を投入して展示ブースを構築して、お客を集めて製品の魅力をPR。
モーターショーの場合は各ブースで説明やモデルになっているコンパニオンを写真に収めることが来場者の目的になっているということも無くはない。
でもこのコンパニオンに会えることを除くとインターネットのWEBサイトでスペックや写真をチェックしているだけで製品の性能的な魅力は理解できるわけだし、展示会では試乗会などなかなかないので体験したければディーラーへ足を向ければいい。
畢竟、展示会の価値はどうなのよ、ということになってしまう。

日本のように一般消費者が製品を知り尽くして、ある意味飽き飽きしている場合は展示会はマンネリを打破しない限りあまり魅力的ではない。
飽き飽きしている耐久諸費材をわざわざ遠くまで見に来るわけがなく、それなら家でゴロゴロしている方がマシなくらいなのだ。

自動車だけではない。
私の所属する業界はいわゆる科学機器や分析機器の世界なのだが、ここでは展示会のマンネリズムはすでに20年近くの歴史があり、正直欲しい機器があればカタログチェックで現物をメーカーのショールームへ行って使わせてもらえれば済む話になっている。
年に一度の展示会はお客さんとのコミュニケーションというよりも、ライバル他社や卸業者とメーカーの宴会場前室的な役割でしか無く、それなら単なる交流会でいいではないか、ということになってしまうのだ。

自動車業界、科学機器業界はこのような状態だし、電気製品やカメラなどはお近くのヨドバシカメラやビックカメラへ行くと展示会場よろしくほぼ全種類の製品にふれることができるので、展示会は全く無意味になっている。

ということで、朝日新聞の嫌味な書き方は別にして展示会の存在価値に結論を出さねばならないときが来ているらしい。



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JR東日本労組の組合員がたった一年間で激減。
労働組合のあり方が問われている、というような記事が最近の日経に掲載されていた。

労働組合のあるような会社に勤務した経験がない私には、もともとストライキもメイデイもないも関係はない。
賃金の安かろう、仕事の内容が厳しかろうといのも会社次第。
文句も言いにくければ言ったところでどうということのない会社で働いてきた。

大学を出て最初に勤めたは大手フィルタメーカーの子会社。
大手なので組合ぐらいあるかと思っていたが、子会社まで該当することはなく組合のないまま週休1日制の昭和な勤務体系で頑張っていたのだった。
その昭和から平成に変わった年に、従業員数100名ぐらいのメーカーに転職。
製品の企画・設計を担当していたのだが、社員数の少ない会社で企画職などするものではない。
他に代替えになる社員がいないために仕事は増えども減ることはない。
残業が翌日の朝まで続くということも珍しくはなかったのだが、製品が形になって市場に出ていくのはなんともい気持ちがよく、文句は盛んに言っていたがストライキに至ることはなかった。
で、あまりに忙しいので流石になんとかせねば、と思って転職した会社が一昨年退職した会社で不本意にも23年間も務めてしまったのであった。

ここは入社した時は社員数が200人ぐらいだったのだが、退職した時は800人近くに膨れ上がっていた。
しかし創業者が生きていて、その息子たちが引き継ぐような会社だったので労働組合はなく、文句があったらいつでも辞めてもらって結構だという風土もありストライキで労働環境改善要求などするどころの組織ではなかった。
ここで私は前半の10年間を営業職で過ごし、後半の13年間を企画職で過ごした。
その13年間のうちの6年間は某大学の連携研究員を兼任していたので、会社のクソったっれなムードからかなりの時間現実逃避することができ、組合がなくても大学の事由な環境で心の落ち着きどころがあったのかもしれない。

現在は個人事業を営んでいる関係で組合はない。
ないけれども協会や研究会には加盟していて一人ぼっちの寂しさを紛らわせているのだが、協会や研究会なるものは労働環境を改善したり整えたりすることはないので、畢竟すべてが自分次第というところが面白いのだ。

件の日本経済新聞の記事によると、私のような働き方改革で登場しているフリーランスや副業に励む人々が組合活動と相容れないことに加えて、戦後教育の到達点として『争いごとは避けるべきだ』という思想が浸透してストライキやデモにより力の活動を毛嫌いする人が増えたために組合へ加入する人が激減しているのだという。

労働組合の崩壊。
それは働き方改革がもたらした効果の1つなのかも知れない。


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「免許を返上した」

不服そうにそう私に言った時、父はまだ80歳前。
長年自営業を営んできていたが高齢を理由に廃業して数年しか経っておらず、本人にしては「まだまだできる」と考えていたところで免許の返上をしたわけだ。
私は勇気ある判断だと思った。
しかし、その理由を聞いて、「親父らしい」と思ったのであった。

「なんか講習を受けぇ言うんじゃ。タダか?と訊いたら金が要るという。それも何千円も。わしゃ即座に免許の返上することにした。」

単なるケチンボなのであった。

年金生活を始めたところで生活費は母の管理下にあって小遣いは制限中。
何千円もする高齢者講習を受けてまで運転免許を更新しようとは思わなかったところが、まさしく私の父なのであった。
それ以降、父は自転車で頻繁にでかけるようになって遠方は最寄りの駅から私鉄か地下鉄で移動している。
もはや車は必要ないらしい。
一度だけ「車があったら」と言ったのは郷里の岡山で兄が亡くなった時で、その時は新幹線で大阪から出かけるのがかなり億劫に感じたようだった。
岡山の実家の村には鉄道の駅はなく、最寄りのJR伯備線の駅からはタクシーかバスになる。
吉備王国としての観光地でもあるのでレンタサイクルも選択肢としてはあるはずなのだが、父にはそのことは頭になかったらしい。

大阪や東京は公共交通が発達していた高齢者でも歩くことができれば移動はさして難しくない。
しかし、父のふるさと岡山のような地方都市の場合はどの街にも鉄道が通っているわけではないし、路線バスも本数が限られる。
畢竟自動車なしの生活は考えるのが難しくなり、免許の返上が選択されることも難しくなるのだろう。

ただ1つ、高齢者の免許返上促進は高額な更新費を設定することである程度抑制できるのではないか。
私の父の例を思い出したら、そんな考えが浮かんだ。


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先月は京都の伏見で仕事の納品があって、週に何度か訪れた。
京都伏見といえば大阪方向からは京都の玄関口であり、造り酒屋が多く、古い町並みと淀川水系の河川の風景の美しいところだ。

伏見には大学時代の友人の一人が住んでいるのだが、伏見のエリアは非常に大きくいわゆる三十石船の船着き場があった伏見にはなかなか出向ことがなかった。
従って、坂本龍馬で有名な伏見の船宿「寺田屋」へ行くこともなかったのだ。

たまたま納品場所が京阪電車中書島駅から歩いて10分のところにあり、途中にこの有名な「寺田屋」がある。
予てからその寺田屋をひと目見てみたいと思っていた私は少しく道をそれ、伏見の古い町並みの一角に残る寺田屋の建物前に初めて立ち止まったのであった。

大学時代を京都で過ごした幼馴染の話によると「寺田屋には刀傷が当時のままで残っていて、なかなか歴史をリアルに感じせさせる面白い場所だ」なんてことを聞いていた。
だから私も寺田屋事件の舞台になったこの江戸時代の宿屋を一度訪れ、ぜひその「おいごと切れ!」などと凄い乱闘の合った場所の空気を感じてみたいと思っていたのだ。

実際に訪れてみると木造の古いその作りが当時を思い起こさせ、戸をあけるとお竜が出てきそうな雰囲気もないことはない。
小説で読んだり、地図で見るのと違って現場へ出向くと周辺との距離感も含めて感ぜられるのがこれまた面白い。
寺田屋からは伏見の船着き場は司馬遼太郎の小説の中に描かれていたようにすぐだし、歩いて100mもしないところに長州藩伏見屋敷跡(京都市伏見土木事務所)なんてものもある。
伏見の激戦場跡などという石碑もあったりして幕末維新の雰囲気が今も感ぜられるようであった。

ところが、帰宅してFBに写真をアップしたりしていると、その伏見の友人が、
「大きな声では言えませんが、江戸時代の伏見寺田屋維新後焼けて今あるのは明治に再建されたものなんでっせ」
とのこと。
刀傷なんかは詳細に復元されたディテールのひとつなんだという。

幕末維新から150年。
たった150年。
されど150年。

歴史の幻は幻のままであったほうが良かったのかも知れないと、すこしばかり考えてしまった令和最初の一ヶ月なのであった。



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来年に迫った東京オリンピック。
各競技の観戦チケットが発売されたが私は結局申し込まなかった。
買ったとしても見に行けるかどうかわからないし、場所が東京というところにもある。
交通費は馬鹿にならない。
宿泊先を確保できるかどうかという不安もある。
また記念にという意味だけで興味のない試合を見るのもなんだしな〜と思ったこともあるからだが。
もちろん雰囲気を味わうにはテレビでは不可能だということはわかっているのだが、なんとなく気分が乗らないのだ。

考えてみれば長野オリンピックのときはチケットで大騒ぎすることもなかった。
確か札幌大会でもそんなことはなかったように記憶する。
前回の東京オリンピックのとき私は1歳だったので当然覚えておらず、なんで今回の東京大会でそんなに大騒ぎしているのか、考えれば考える程わけがわからないのだ。

それだけ夏の大会は冬の大会よりも価値ありということなのかどうかは不明だが、なんだか今回は無理やり盛り上げようとしている感覚がある。
そう、国家的祭りと言うよりもビジネスという感覚が色濃く漂い、どうしても気分が乗ってこないというのがチケット購入に踏み切らせない、バリアなのかも。


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