<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



誰も言わないけど前作の「舞い上がれ」の出来がひどかっただけに、NHK朝ドラ「らんまん」はその逆落差が面白い。
私は今度のは毎回NHKプラスで鑑賞しているのだ。

そもそも朝ドラは現代を舞台にしないほうが面白いものが多い。
イメージが広がるからかも知れないし、いやに現実味を感じてシラケることも少ない。
時代が異なると作る側にはある程度の創作の余裕が生まれ、見る側にはファンタジーとしての映像の魅力を無理なく感じさせることのできる膨らみが生まれるのだ。

それとちゃんとした方言を話せない役者がいるドラマは見るも無残。
その他の地方の人は楽しめるかもしれないが、当該地方に住む人には違和感ありありになってしまう。
「舞いあがれ」の大阪弁は悲惨なのであった。

そこんところからすると今回の「らんまん」はなかなか上手いスタートを用意していた。
土佐弁の達者な高知市出身の広末涼子を母親役に据えて、度々CMなどで口にしていた彼女の自然な高知弁が視聴者が持つかもしれないドラマに対する言葉の不自然さ払拭。
しかも歴史ファンタジーとしては坂本龍馬を登場させ、それを五代友厚役者であるディーンフジオカに演じさせたことだ。
このスターの起用と方言の自然さ、ファンタジーで一気にドラマの世界を魅力あるものにした。

すでに放送が始まって1ヶ月半。
主人公も普通ではない個性に魅力があってシリアスではなく、どこかコメディの要素があることも全体に雰囲気が明るくなっているのが、これまたいい。
実際の主人公はこの先すぐに実家の破産や東大での研究妨害などに遭遇するはずだが、今の明るさでどう展開していくのか。

ちょっとした毎日のささやかな楽しみではあるのだ。




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米国SFテレビドラマ「スター・トレック」で通信士官のウラ中尉を演じていた二シェル・ニコルスが先月末、亡くなった。
享年89歳。
私の母より1つ年下なのであった。

日本ではあまり報道されていないが、このニシェル・ニコルスは米国では非常に影響力のある女優さんであった。
というのも、彼女が演じたスタートレックのウラ中尉という役どころが1960年代終盤の米国社会に於いて非常に重要な立ち位置にあったというところが実に大きかった。
彼女は黒人であり、女性であり、若く知性があり、極めて有能である、という設定だった。
異星人との接触に押すれること無く任務を遂行。
ブリッジのメンバーとして地味だが常に冷静で大きな役目を果たしていたのだ。

このドラマが放送された当時の米国は、そうではなかった。
黒人はやはり差別の対象であり、重要な役どころにつくことはできない。
女性もそう。
そんなリアル社会の中にあってウラ中尉のキャラクターは若い女性、とりわけ黒人やマイノリティーの人々に大きな影響を与えたのだ。

宇宙をパトロールする宇宙船という設定ながらも黒人女性が活躍する姿は他のドラマや映画には未だ無い時代で、そんな彼女の役割が人々に勇気を与えないはずはなかった。
女優のウーピー・ゴールドバーグは彼女を見て女優になることを決心した一人だ。
またサリー・ライドを始めとする女性宇宙飛行士たちもその影響を受けウラ中尉と同じ職場を目指したのだ。

スタートレックは彼女のキャラクターだけではなく、そこに登場する多くのテクノロジーの具現化を目指して、多くの科学者や技術者が影響を受けながら一つ一つ実現してきている。
米国の技術立国の側面を支えているドラマの1つと言えるのだ。

ふりかって日本にはそういうドラマがほんとんど存在しないことに気がつく。
あのドラマを見て医者を目指しましたとか、政治家を目指しました、ということをなかなか聞くことがない。
踊りに影響を受けて家族で踊ってみました、というのはあるけれども社会現象にまでなるようなものがなかなかない。

ドラマ、映画、文学、その他。
社会に与える大きなインパクを持つ社会問題解決への方法やテクノロジーへのイマジネーション。
そういうものが、コンテツに求められるのではないか。

ニコルスの死去で改めて考える、ドラマや映画の存在は、そういうところに本当の価値があるんじゃないかと思えるのだ。


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往年の青春ドラマ「われら青春」で舞台になっている太陽学園(架空の高校)の教頭先生の腰巾着を演じていた俳優の柳生博が亡くなった。
享年 85歳。
老衰だったという。

柳生博は魅力的な俳優さんで大河ドラマや時代劇、刑事ドラマなどで活躍。
ナレーションや司会の仕事もしていたように記憶するが、最も印象に残っているのはやはり「われら青春」に出てくる塚本先生役。
穂積隆信演じる教頭先生との悪辣コンビぶりが「お笑い」でも真似されるなど、ちょっと輝いていたのは間違いない。

また一人、慣れ親しんだ俳優さんがいなくなった。


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先日のブログで、

「いっそのことロシアもNATOに加盟を希望したら」

と冗談で書いたのだが、ニッポン放送の「辛坊治郎 zoomそこまでいうか!」の2月
21日の放送をpodcastで聴いていたら、なんと!

「2000年と2002年にプーチンがクリントン大統領に『ロシアもNATOに入りたい』と言ったことがある」

と筑波大の中村教授が話していたのだ。

「えええ!そんなことがあったんですか? じゃあ、NATOの仮想敵国の意味が無いじゃないですか」

と辛坊治郎が訊ねたところ、

「そんなことないですよ。中国があります。」

というのだった。

ん〜〜、もはや遅いがそういうこともあったのかと大いに驚いた放送なのであった。


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地震報道には一定の法則がある。

「それは被害の大きさに関係なく首都圏からの距離に反比例して扱いが変化すること」

東京からの距離が大きいほど、扱いが小さくなります。

阪神大震災は地下鉄サリン事件までの3ヶ月の報道。
熊本地震は在日米軍兵士による強姦殺人までの2週間。
で、今日発生した大分地震は発生から3時間ほど。

東日本大震災はキー局のある東京も被害を受けたので10年経った今も報道中。

メディアの存在ってなんなのか?
地方の扱いを見ていると、その本質がよく分かる。


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テレビを見ていたら小さな子どもが立っていて、何やらモジモジしている。
素人の子供であることは明らかで、なんとなくホンワカしたムードが伝わってくる。

「ピカピカの一年生のコマーシャルみたいやね」

と、一緒に見ていたカミさんが言った。

「ホンマやな」

と私。
その瞬間画面には、
「ピカピカの、一年生♫」
の歌が流れた。

小学館の小学一年生のCMなのであった。

なんと初々しいことか。
そしてなんと爽やかCMだろうか。
小学校入学前の子どもたちのワクワク感、ドキドキ感が伝わってきて思わずニコッとしてしまう。

ここんところ、ひどいCMが目立っていて不愉快になることが少なくない。
名作アニメ「アルプスの少女 ハイジ」を冒涜する家庭教師のトライのCM。
社員総出で制作スタッフが幹部の顔色を伺いながら作ったとしか思えない長谷工のCM。
子供が絶対言わない会社のPRをさも常識でしょみたいに子役に話させる東急リバブルのCM。
例を上げればきりが無い。

それと比べると明らかに小学館のCMのなんと爽やかなことか。
昭和のCMのリメイク。
でもそのホノボノ感がなんとも言えない内容だ。

今年も復活CM ピカピカの一年生。
昭和時代の凄さが今年も令和に輝いていると思った。


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阪神大震災が発生したのが1月で地下鉄サリンが3月。
このとき、報道の軸足が神戸・大阪から一気に東京へ移ったことは今も記憶に生生しく刻まれている。
サリン事件が発生したら神戸の地震が解決した、なんてことはもちろんなく、現場では懸命な救命活動と復旧活動が続けられていた。

以来、テレビもラジオも信頼しなくなった。
儲かればそれでいいというのが彼ら多くの姿勢なので、視聴率を稼げないテーマはたとえ何万人が災害に巻き込まれようが関係ない。
奇異なトピックに集まる姿は、暑い夏場、路上に落ちている犬のう○こに群がる蠅みたいなものなのだろう。

今朝、九州地方でM4の地震が発生。
ちょうどそのときにテレビの「ニュース番組」では今年の「大河ドラマ」の話題が放送されていた。
そもそもこれって報道番組でお伝えする内容なのかどうか疑ってかかる必要がある。
その時、字幕で地震があった旨伝えられたが大河ドラマの「番宣」が中断されることはなかった。

こういう放送局が一般市民から受信料をなる料金を強制的に徴収することを正当として叫んでいるのが理由がわからない。

地震より番宣が大切。
次回、阪神淡路大震災や東日本大震災級の地震が日曜夜に発生したら、多分ドラマが優先されるんだろうな、と思った朝のひとときであった。


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大晦日の紅白歌合戦をテレビで観ていて奇しくもミュージシャンをアーティストと呼ぶ理由がわかった。

テレビやラジオを視聴していると音楽がかかるとき、歌手やバンド、作曲家、作詞家のことを「アーティスト」と紹介されることが多い。
私はそういう呼び方を耳にしてから違和感いっぱいで、なにをもってして音楽関係者を「芸術家」としなければならないのか理解できかなった。

演歌歌手がアーティスト?
アイドルグループがアーティスト?
オーケストラがアーティスト?

なんじゃいそれ?
しっくりこんな。
という感じだった。

で、先日の紅白歌合戦。
テレビでこれを観ていると、というか聴いていると出てくる連中のほとんどを私は知らないことに驚きを覚えた。
いかに世間から隔絶した生活を私は送っているのだろうか。
たはまた世の中に関心を払っていないのだろうか。といささかびっくりしたのだった。

「知らへんのはお父さんぐらいやで」

とカミさんは指摘する。
しかし聴いたことがないことには間違いなく、オープニングの郷ひろみ以降、松平健まで完全にアウェーの状態に置かれてしまった。
誰が出てきて何と歌っても、私には新人発表会とほとんどかわらなかったのであった。

しかしそれだけに「聴くことの質」に関してはかなり公平な判断が付いていた。

まず、これら私の知らない出演者たちにはある特定の傾向があることがわった。

その1:単品のアイドルがいない。

アイドルといえば昔は単品が常識なのであった。
私の時代、山口百恵でも桜田淳子でも、その後の松田聖子にしろ小泉今日子にしろだいたいが単品歌手でグループではなかった。
グループもいたにはいたが、ピンクレディやキャンディーズを除き、特別に秀でた人はいなかったように記憶している。
しかも一人分のインパクトは小さくなく、今のAKBだか日向坂だかなど大集団に圧勝の華やかさがあった。
もしかすると家電や薬と同じようにアイドルの世界も量販になっているのかも知れない。

2:ビジュアル重視

見た目が重視で明らかに歌が二の次であることもわかった。
派手な衣装。
奇異な踊り。
コンピュータ画像や最新の照明設備を駆使したセット美術戦略。
したがって映像のないラジオで聴いていると単なるどんちゃん騒ぎに聞こえてしまう。
一体あれは何なんであろうか。

3:歌詞が聞き取れない

かつて五木寛之がさだまさしの歌詞を取り上げ優れた日本文学であると評したことがあった。
今の歌は歌詞の意味がどうのこうのという以前に何を言っているのか聞き取れないことが多い。
したがって文学どころではない。
発音は外国語のようなイントネーションとよくわからない滑舌の日本語。
日本語であると認識するまで少し時間がかかることもある。
そして頻繁に交じる外国語の単語。
初めてサザンを聴いた高校時代。
桑田佳祐の歌い方は「ありゃなんじゃい」と思ったことがあったが、むしろそれは今やノーマルだ。
しかもたまに聞き取れたらどんなうたも相手を呼ぶ呼び方が「君が」「君が」「君が」でほとんど同じ歌詞のような様相を呈している。

4:そもそも歌がへたくそ

紅白歌合戦ではなく「NHKのど自慢」だったら鐘1つの歌が続出する歌唱レベル。
これには参ってしまった。
あるシンガーは「愛を込めて歌います」といった。
だから期待して耳を傾けていたら声は出ていないわ、かすれているわ、甲高いわ、何を言っているのかわからないでズッコケたのであった。
ある者はソウルミュージック風のバラードを歌い始めたのだが、はやり声が出ていなくてマイクを持っていない方の手の動きだけが米国の著名シンガーのような振り付けで動きつづける。
盛り上がりの部分でも基本ができていないらしく音程が微妙にずれているし、声に伸びがない。
カラオケ大会の様相を呈してきたと思った。
つまり格好だけ洋楽のトップスターをモノマネしたソウルシンガーやラップミュージシャンが紅白に出ているというわけなのであった。

司会の大泉洋が歌い終わった歌手に対して、
「いや〜〜〜〜、感動しました!」
と言ったとき、カミさんが一言。
「心にもないことを言わなあかん商売なんやな〜」

要はシンガーともアイドルともミュージシャンとも言いにくい、そんな人達なのだ。
だから十把一絡げで「アーティスト」とボカして呼んでいるのだろう。
芸術家も舐められたもんである。

なお、東京国際フォーラムから中継ということだったが、あちこち別の場所からも頻繁に中継されるため紅白歌合戦を観ているというよりも、どちらかというと往年の「ザ・ベストテン」を観ている感覚に陥ってしまったのは私だけだろうか。
次回から司会は久米宏と黒柳徹子にしていただきたいと思うNHK紅白歌合戦なのであった。






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オリンピックの中継はもとより高校野球の中継を見ていると地上波のテレビ放送に限界が来ているのがよくわかるようになった。
これは従来であれば気が付かなかった部分だが、インターネットで中継ができるようになってからテレビ放送の弱点がとりわけスポーツ中継で現れてきているのだ。

例えば地上波テレビは以下の放送に対応できない。
・試合時間の延長(サブチャンネルを使うという苦肉の策があるけれども、チェネルを変えなければならないという手間が発生する)
・複数の競技・試合を中継できない。
・応援するチームあるいは選手の側からの選択ができない。
・CMが入る。
・実況や解説が入る。
など

とりわけ複数の競技や試合を中継できないのは致命傷だ。

オリンピックはすべての競技が中継されているわけではなく、人気種目が中心で、しかも自国の競技に重点が置かれて中継される。
だからマイナーな競技や有名ではない国の競技は見ることができない。
これは従来であればなかなか気づかなかっし、興味もなかった特徴だったが、今回の東京2020のように日本人選手が例えばフェンシングで例えば女子バスケットボールで、例えば競輪などで大活躍することになると、当然視聴者の注目はより多くの種目に広がることになり1つのチャンネルしか使えない地上波各局はその役割を十分に果たせなくなる。

そこで登場するのがWEB配信。
インターネットを使った放送だと、準備の問題はあるかも知れないが、すべての競技を放送することができる。
しかもどこででも視聴することができる。

もはや地上波放送はインターネットの付属物という感覚でさえある。
たまたまパソコンやスマホよりもテレビの方が見やすいからという理由程度で選ばれているのではないかと思えるところもなくはない。

高校野球しかり。
もしかすると祭礼の中継もしかりかも。

これから10年以内に地上波放送は大きくビジネス形態を変える時が来るのかも知れない。


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CMが詰まらない。
なぜこんなに詰まらないCMばかり作られるんだろう。

これにはきっと作る側としての「安全策」が悪影響をして「冒険」ができない製作環境になっているのだと推測される。
とりわけ安全や医療などに関係する分野や、不正競争防止法とか独禁法に抵触する可能性のあるものについては神経質になって、よけいに冒険ができないのだろう。

「こんなCMできました」
「そんなの放送するのは危険すぎるでしょ」
「薬事法に抵触しない?」
「他者を貶める内容になってない?」
「セクハラって受け取られない」
「このタレント、不祥事大丈夫?」
なんて具合に。

広告代理店はスポンサーに気を使うあまり、極めて詰まらないCMを生み出しているに違いない。
その反動として、広告代理店や制作側は「安全優先」「気に入られ優先」になってしまい、結果、ごますりCMが出現する。
どういうものかというと、第三者が見ても詰まらないが、内輪で見たらウケるというもの。
ちょうど、お笑い番組で未熟な芸人を見ていてスタジオ内で笑い声が聞こえるが見ている方は「?」という現象ににている。

で、その代表が「スポンサーの社員が出演している」と思しきCMだ。

ある天気予報番組ではスポンサーの不動産業者の店舗が映り、「いらっしゃいませ」のポーズや「どうしまたか?」というようなポーズをとっている。
それがやたら白々しい。
しかも社員には厳つい容貌の男も少なくない、5人ほどの社員が一斉に「いらっしゃませ」をすると、不動産屋ではなく〇〇組の人たちではないかとさえ思えるのだ。

またある大手建築会社のCMでは社員と思しき数十人から百人を越える人たちが現場の作業着やスーツ姿で音楽に合わせて腕を振っている。

ただそれだけ。

作り手側はミュージカルかなにかをイメージしての画面作りなのだろうが、素人にタップダンスやレビューは無理なので音楽に合わせて腕をふるだけ。
見ているだけで疲れてくる。

こういうCMは他にも多数あり、広告といいながら内輪に向けたメッセージ感が一杯で、それら会社とは関係のない視聴者としては「こういう会社の社員にはなりたくない」というその会社の世界に対する違和感がにじみ出てきて正直チャンネルを変えたくさえなるのだ。
でも社員がテレビの画面に出ているので経営側としては「お前たちテレビに出られていいだろう」みたいな空気も漂っているうえに「これで社員の一体感が得られる」なんて自己満足に陥っているのではないかと思えてならない。
なぜなら見えいる方は完全に白けているから。

社内に向けてはいい顔できるのかも知れないが、社員が出てきてそれが何なのが、受け手側の感覚になるのになぜ気づかないのだろう。
これが今のメディアの一角のクオリティだと思うと.........な気分になってしまう。


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