介護施設に入所している母を見舞いに従兄弟の一人が来てくれたときのこと。
この従兄弟は私よりも20歳近く年上で、従兄弟の中では最年長。
もちろん定年を迎えており現在は隠居生活。
先年すこしばかり大きな病気をしたこともあって無理をせず、三人いる息子の一人とカミさんと一緒に生活をしている。
親子ほど年の離れたこの従兄弟を私は物心付く前から「お兄ちゃん」と呼んでいて、どちらも一人っ子であることから、いろいろなことを相談をしたり教えてもらったりしている。
私にとっては大切な身内である。
このお兄ちゃんが母を見舞ってくれたあとに実家に寄ったとき、よもやまの話から自分が勤めていた会社の話を始めた。
お兄ちゃんは四国の国立大学を卒業したあと、外資系の製薬会社に就職。
世界的な会社でプロパーをしていた。
私の身内にしては優秀な人なのであった。
実家のアルバムには就職が決まって家に来た時に一緒に撮った写真が今も残っている。
方や大学卒業のニューフェイスで凛々しく、かたやおもちゃの自動車を持ってアスファルトの道路の上を転がして遊んでいる幼児=私。
その風景の面白いこと。
それはともかく、入った外資系を定年まで勤め上げたのだ。
で、お茶を飲みながらここんところ政治的話が話題に上がると、一緒にいた私の父に自分の経験を語り始めた。
「そりゃ、おじさん。外資系なんかに『忖度』なんかないよ。そんな文化はありゃあせん。何かあればはっきりものをいう。賛成ばかりじゃなく、相手が誰であっても反対もする。」
お兄ちゃんは戦中に岡山で生まれで戦後広島と大阪堺で育ち、愛媛で学生生活を送って、長らく所沢で居を定めて新宿に通っていたという人で今は大阪に住んでいるのだが、未だに話すと中国地方の方言と関西弁の中間である。
「ほー」
「でもね、反対を表明したらその理由と、その反対に対してどうすればいいのかという考えもきっちりと説明できんと、これだからね」
と人差し指でもって自分の首を掻っ切るジェスチャーをした。
「退職してから2社ほど日本の会社で働いたけど、ありゃなんじゃ、というようなシーンに何度も出会うたんよ。偉い人が阿呆なことを言う取るのに反論もせずにニコニコ笑って拍手しとる。呆れ返って物も言えんかった。こっちは付き合いでおるからもうなにも言わんかった。」
外資系で働いた親しい身内から聞くこの一言は痛烈に私の心を打ったのであった。
そう言えば私が働いていた会社は超内向きで「忖度」の塊だった。
忖度しないと叱られるくらいのレベルだった。
代表的なのは社内会議。
議事の大半は部長級以上の人のワンマンショー。
会議にいる人で最も役職の高い人が話題をリードして、それに対する反対意見は普通誰も言わない。
「何か意見のある人は?」
との質問がでると、誰も挙手しないのがいわば文化になっていた。
その中で私のようなはみ出しものが、意見を述べて提案するとどういうことになるか。
推して知るべし、というところだろう。
もちろん外資系が必ずしも良いとは言えず、私の得意先の大手企業にはじゃんじゃん意見を言い合う会社もある。
そのかわりその会社は会議の冒頭、
「今日は2時間でまとめられるようにしましょう」
と時間を区切ってじゃんじゃんやる。
私が会社員だったころからの得先だが、そこの会社でお客さん相手に議論をするとスムーズにいくのに自分の会社ではそうはいかない、というジレンマがあった。
従兄弟の体験談で日本の組織の硬直性を思い出したひとときなのであった。
そりゃ既存政党が選挙で負けるわ。