<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



介護施設に入所している母を見舞いに従兄弟の一人が来てくれたときのこと。
この従兄弟は私よりも20歳近く年上で、従兄弟の中では最年長。
もちろん定年を迎えており現在は隠居生活。
先年すこしばかり大きな病気をしたこともあって無理をせず、三人いる息子の一人とカミさんと一緒に生活をしている。
親子ほど年の離れたこの従兄弟を私は物心付く前から「お兄ちゃん」と呼んでいて、どちらも一人っ子であることから、いろいろなことを相談をしたり教えてもらったりしている。
私にとっては大切な身内である。

このお兄ちゃんが母を見舞ってくれたあとに実家に寄ったとき、よもやまの話から自分が勤めていた会社の話を始めた。

お兄ちゃんは四国の国立大学を卒業したあと、外資系の製薬会社に就職。
世界的な会社でプロパーをしていた。
私の身内にしては優秀な人なのであった。
実家のアルバムには就職が決まって家に来た時に一緒に撮った写真が今も残っている。
方や大学卒業のニューフェイスで凛々しく、かたやおもちゃの自動車を持ってアスファルトの道路の上を転がして遊んでいる幼児=私。
その風景の面白いこと。

それはともかく、入った外資系を定年まで勤め上げたのだ。
で、お茶を飲みながらここんところ政治的話が話題に上がると、一緒にいた私の父に自分の経験を語り始めた。

「そりゃ、おじさん。外資系なんかに『忖度』なんかないよ。そんな文化はありゃあせん。何かあればはっきりものをいう。賛成ばかりじゃなく、相手が誰であっても反対もする。」

お兄ちゃんは戦中に岡山で生まれで戦後広島と大阪堺で育ち、愛媛で学生生活を送って、長らく所沢で居を定めて新宿に通っていたという人で今は大阪に住んでいるのだが、未だに話すと中国地方の方言と関西弁の中間である。

「ほー」
「でもね、反対を表明したらその理由と、その反対に対してどうすればいいのかという考えもきっちりと説明できんと、これだからね」

と人差し指でもって自分の首を掻っ切るジェスチャーをした。

「退職してから2社ほど日本の会社で働いたけど、ありゃなんじゃ、というようなシーンに何度も出会うたんよ。偉い人が阿呆なことを言う取るのに反論もせずにニコニコ笑って拍手しとる。呆れ返って物も言えんかった。こっちは付き合いでおるからもうなにも言わんかった。」

外資系で働いた親しい身内から聞くこの一言は痛烈に私の心を打ったのであった。

そう言えば私が働いていた会社は超内向きで「忖度」の塊だった。
忖度しないと叱られるくらいのレベルだった。

代表的なのは社内会議。
議事の大半は部長級以上の人のワンマンショー。
会議にいる人で最も役職の高い人が話題をリードして、それに対する反対意見は普通誰も言わない。
「何か意見のある人は?」
との質問がでると、誰も挙手しないのがいわば文化になっていた。
その中で私のようなはみ出しものが、意見を述べて提案するとどういうことになるか。
推して知るべし、というところだろう。

もちろん外資系が必ずしも良いとは言えず、私の得意先の大手企業にはじゃんじゃん意見を言い合う会社もある。
そのかわりその会社は会議の冒頭、
「今日は2時間でまとめられるようにしましょう」
と時間を区切ってじゃんじゃんやる。
私が会社員だったころからの得先だが、そこの会社でお客さん相手に議論をするとスムーズにいくのに自分の会社ではそうはいかない、というジレンマがあった。

従兄弟の体験談で日本の組織の硬直性を思い出したひとときなのであった。

そりゃ既存政党が選挙で負けるわ。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




会社を退職して自営を初めて二回目の年末を迎えている。
昨年はとあるプロジェクトに関わっていて、それはそれで忙しかったのが今年よりは大幅にマシなのであった。
今年は夏から横浜に本社のあるとある会社のアドバイザリーをやっていて、これが昨年以上に忙しい。
自営になって忙しいのは大変ありがたいことだが、忙しすぎて休みがないのが玉に瑕なのだ。
働き方改革は自営業者には関係ないのかもしれない。

で、仕事だけならまだマシ。
というのは今年は年初からプライベートに振り回されて、ついにこのブログも1ヶ月に1回か2回のアップロードになってしまっている。
今月などもう終わりなので今回が初めてだ。

何が大変なのかというと親の介護なのである。
ついに私にもその役回りが巡ってきたのが今年なのであった。

父と母はそれぞれ1931年と1932年生まれ。
四捨五入すると90歳になる年齢なのだが、少なくとも今年の正月までは例年通りとあまり変わらなかった。
父が一昨年大病を患ったこともあり体力がいささか頼り投げになってしまったいるのだが、問題は母なのであった。

母の認知症が急速に進み、正月には雑煮を作ることができていたのに、3月には料理が次第に作れなくなり、伝え歩きになり、市指定の病院で認知症診断を受けたときはかなり進んでいて自分の誕生日も言えない状態に悪化していた。
MRIの検査で、

「水頭症の可能性が大です。まずは水頭症を治療する必要があります。」

と専門医の先生の診断が出たので市内の総合医療センターを紹介してもらい受診。
ところがそこの脳神経外科医は、

「そんなに問題になるような状態じゃないですね」

と言い切り入院もさせない。

「そうなのかな」

とどうするか考えている2週間ほどの間に増々悪化してついに言葉も発しなくなり失禁もするようになったのでかかりつけの病院に相談したら入院となった。
どうしても総合医療センターの診断が信じられず認知症の先生に再度相談して別の病院を紹介してもらった。

「水頭症ですよ。こことここ。隙間あるでしょう。ここが圧迫されているので、まずはシャント手術という方法が有効だと思います。」

86歳で手術を受けても大丈夫かと悩んだのだったが、このまま何もわからなくなって寝たきりになる可能性が大きいとのことで手術を受けることにした。
手術を受けて1ヶ月間は何も改善は見られなかったのだが、3ヶ月ぐらいを迎える頃には表情もしっかりしはじめ、一見もとに戻りつつあるように思えたのだが、すでに多くは手遅れというか手の施しようがなかったのだ。

最近の記憶はまずない。
病院を訪れるたびに「なんでここがわかったん?」という。
私のかみさんと孫の顔は忘れ、ついに先日息子である私の顔を見て「誰や?」と言ったので愕然としてしまったのであった。
10分ほど一緒にいると私が息子であることを思い出すようで、今ではその繰り返しとなっている。

特老を申し込んでもいっぱいで入所は順番待ち。
正直誰かが亡くならければ入れないという、なんとも言い難い社会環境なのだ。

そんなこんなで仕事をして親の面倒を見て、家族の相手をしているうちに、クリスマスであることなどどうでも良いと思うようになっていたのか、クリスマスケーキの発注を失念していて昨日は売れ残りのショートケーキを買ってきた次第なのだ。

かみさんはこんな状態でもパートで頑張ってくれているし、母のオムツなどを届けたり相手をしてくれたり介護も頑張ってくれている。

自営はうまくいき始めているが、なかなか仕事だけではない体力と気力のいる年末なのだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




JR山陽本線の西条駅を降りてすぐ、ロータリーの東側は賀茂鶴を筆頭に日本酒の蔵元が並ぶなかなか風情のあるエリアだ。
広島県の酒造りの中心地と言っても過言ではないだろう。

私は仕事で広島大学に何度か足を運んだことがある。
西条駅は広島大学の最寄り駅なのだ。
ここへ来ると、この西条駅周辺の雰囲気に魅了され仕事中にもかかわらず、

「一杯飲もか^^」

となってしまう。
その引力はなかなかである。

テレビのニュースを見ていてその西條が大変なことになっているという。
先日の豪雨のため山陽本線は不通。
復旧工事は急がれているが、完全に復旧するのは11月になるというのだ。
西条駅は列車が来ないために現在は休業中。
この魅力あふれる酒好きにはたまらない西条の蔵元を訪れる観光客は昨年の3割まで落ち込んでいるという危機的状態だ。

西条は広島から快速電車で45分ほどかかり、

「ようこんなところに広島大学を作ったな」

と思えるような遠隔地なのだ。
でも、新幹線なら東広島駅からバスで20分ほど。
西条駅は新幹線が乗り入れていないけれども東広島駅から移動という手がある。
こだま号しか止まらない難点はあるものの行けないことはない酒処西条。

今密かに仕事にかこつけて酒を飲みに行けないかどうか計画しているところだ。
不謹慎かもしれないが、酒を飲んで酒処の被災地を少しでも元気にできるのであれば、それは酒飲みの本望でもあるのだ。

なお、広大の学生の多くは電車で広島市内にバイトにでかけていると聞いていたが、今どうしているんだろ?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )







私は子供の頃から何かが壊れると自分で修理をするように心がけている。
修理するほうが新しいものを買うよりも、ずっと安価だと信じているからだ。
しかし多くの場合、修理は容易ではない。
だいたいが途中で挫折するか、さらにひどい状態にさせてしまうか、違うものになってしまうかなのだ。

現実は難しい。

共通しているのは「部品が無駄になる」こと。
せっかく買い求めた部品が台無しになってしまい、なんのために高い費用をかけたのかわからなくなる。

最近の成功事例は10年ほど前に購入したP社製の電動ひげそり。
長い間使用してきたために電池が弱り、充電式にも関わらずAC電源を接続していないと動かないという事態になっていた。
これを修理に出すのか、それとも自分で電池を交換するのか大いに悩んだ。
結果、インターネットで動画た機種の電池交換手順が載っていたのでそれを参考に交換することにした。

ネットでは電池はアマゾンで買え、となっていたが近所の上新電機に確認したらアマゾンの1/3ほどの価格だったのでそこに注文することにした。
なにもかもネットが安いとは限らない好例であった。

届いた数百円の電池は普通はメンテナンス会社が使用して取り替えることになっているのだが、私はネットに乗っている手順に従い電動ひげそりを分解。
古くなった電池と新しい電池の交換に成功した。
復旧する時にいたうものようにケースを破損しそうになったがなんとか組み合わされ、無事に充電できることも確認した。
なんと新品と同じ元気さを取り戻し、もはや常にAC電源に接続する必要もなくなった。

この電動ひげそりに自信をつけて修理に挑んだのが「傘」なのであった。

傘と言えばとっても簡単な構造で、正直言って修理する価値があるのか不明なくらい安価なものである。
100円ショップで200円も出せば立派な折り畳み傘が購入される時代だ。

それでも少々高価な日傘やかみさんや娘が気に入った模様の傘は壊れたからと言って簡単に捨てるわけに行かず、折り曲がった骨のまま無理して使っていることもあるのだ。

先日、娘が折り曲がった骨の日傘を使って学校に行っているので、

「おい、そりゃ格好悪いやろ。お父さんが修理したるわ」
と言って買ってきたのが100円ショップで売られている修理キットなのであった。

修理キットには傘の先っぽのプラスチック部品や折れた骨をつなぐ金具数種類。
ぱっと見は何に使うかわからないちっこい金具などがセットされていて取説もついている。

「これはすごい」
とばかりに傘の修理にかかったのだが、これが意外に難しい。
傘の骨というのは簡単のようで頑丈に作られていて折れた部分を小さな金具でかしめたところで十分に接合できないことがわかった。
てこの原理で長い2本の骨に風などの力がかかり反り返ると全長4cmほどの金具など一瞬で折れ曲がるのであった。

「傘など簡単さ」

と言った手前、なんとしてでも修理を完了したいと思ったのだが、ペンチを使ってかしめたり折り曲げたりしたりするほど、どうしようもなくなり傘は単なる線細工と貸してしまったのであった。

「アートや」

と言ってごまかすには明らかに無理な造形になってしまっていたのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この春から私の地元の公立図書館の開館時間が変更になった。
これまでは10:00から17:00だったのが、10:00から20:00に変わったのだ。
これで仕事帰りでも図書館を利用できるチャンスが広がり、土日メインで訪れていた時間は別のことに費やすることができる。

そもそも公共図書館が役所と同じ営業時間というのはいただけないとものだと思っていた。
私の住む大阪府南部はとりわけ保守的考えが強く田舎的である。
地域のコミュニティはつながりが深いのだが、深い分だけ地域で完結してしまう。
発展性が希薄だ。
従って、
「魅力的なまちづくりをしよう!」
と、掛け声をかけても市外には目が向かず、コミュニティ内で満足すればそれでおしまい。
地域の活力を削ぐ結果となってしまっていた。

図書館は地域の教育レベルのバロメーターでもあり、運営を大切にする街は少なくない。

例えば鳥取県は人口70万人程度の小さな自治体だが、書籍に費する予算は人口150万人の神戸市よりも多いと言われている。
またひところ話題になった佐賀県武雄市は図書館運営をTSUYATAに委託。
開館時間も朝9:00から夜9:00で年中無休だ。
その他にも兵庫県伊丹市の市立図書館ことば蔵、神奈川県大和市のシリウス、東京都千代田区立日比谷文化図書館、ビジネス専門大阪府立中之島図書館など、個性あふれる図書館が街の文化レベルを上げている。

しかしまだまだ図書館を「無料図書レンタル屋」ぐらいにしか思っていない幹部が巣食う自治体が数多く存在している。
そういう街は図書館の蔵書数が少ないばかりか開館時間は役所と同じで利用者の利便性にはほとんど配慮していないのが一般的だ。

私の住む街もそういう頂けない街だと最近は諦めていたのだが、ここにきて大きな変化が起こった。

図書館運営の外部委託の徹底である。
職員や氏で採用したパート職員で運営するのではなく、図書館運営に長けた専門業者に委託するのだ。
これにより市としてはコスト管理がやりやすくなる一方、利用者側としても専門職員と同等、或いはそれ以上のスタッフにより丁寧な扱いを受け、図書に関するやりとりもより容易で便利になる可能性がある。

図書館の役割が書籍の閲覧や貸出だけではなくなっている現在、次なる一手はいったいなんなのか。
南大阪の硬直した文化に風穴をあけることはできるのか。
楽しみではあり、ここまでかな、と思うところもなくない。
そんな図書館のちょこっと進化なのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「来月いっぱいで退職させていただきます」

と当時の直属の上司であった常務に告げたのはちょうど今ごろ。。
早いものであっという間であった。

昨年私は一昨年発生した品質の問題点解決のための得意先からの改善プロジェクトチームの窓口を担当した。
それが退職する決心をしたのは12月末でそのプロジェクトが終了することに加え、5年間に渡って某国立大との連携開発をしていた製品の完成目処もついたので退職しても迷惑はかからないと判断したからであった。

そもそも20年以上も勤務した会社を退職するに至った理由はただ一つ。
いくら改善を目指してもファミリー企業である経営陣では理解できない、と判断したことに尽きる。
企業としての利益よりも前にファミリーの利益優先は今は良くてもいずれ躓くと確信したからだった。
改善指導を受けることになっても、それを相手に感謝せず、創業者の息子である取締役は、
「○○社はそこまで首を突っ込む権利があるの?」
という始末だった。
「だったら▲▲社とやったほうが良い」
とも言った。
▲▲社は取締役を手のひらで泳がす術に長けている。このことは社内外で評判なのであった。

一方○○社は子供でも老人でも誰でも知っているある分野のトップ企業なのだが、その企業を経由して納品した什器が大きなトラブルを発生させた。
でもそのトラブルを「いい機会なので一緒に改善に取り組みましょう」と先方からの提案のカイゼンプロジェクトであった。
取引額も示唆。
例外的善意の提案で社長も納得して始まったプロジェクトにも関わらず社内の硬直した人治システムのために思うように進まず。
多くの社員は得意先のことよりも会社上層部の顔色を伺いながらであったため、結果は想像するまでもないものになった。

「うちの内部資料をお見せします。あくまでも秘密ですので。」
プロジェクトが始まって1ヶ月ほどすると東京で先方の品質担当者が私の会社への品質評価表を内緒で見せてくれた。
驚いたことに100点満点中30点が最高点。
その他は20点が並ぶ状態で、これを上層部に見せたら卒倒するかも知れない。
いやそれよりも怒り出して「取引しない」と言い出すかも知れない、と思った。
「これを合格点の60点を目指していきたいと思います。協力してくれますね。」
と、担当者は真剣な表情で私に話してくれた。

黙っているわけには行かないので上司であった常務に口頭で報告した。
ペーパーにして残るとヤバイと思ったからだ。
案の定、常務は恐れをなして経営トップに報告することなく、昨年の夏をすぎることになった。

結果的には60点評価をもらうことができたが、私自身納得できるものではなかった。
もう、限界だな、と思ったのだ。

この一連の流れが結局「退職」に至る結論を導いてしまったわけだが、こういうことが最後の10年間ほどに3度ほどあり、家族にも相談して区切りを着けることにした。
カミさんは「いいんちゃう。これだけやったんやもん。なんとかなるよ。」と言った。
もう50なんだから辞めても行くとこないよと言っていたカミさんが、そう言ったのだ。

退職の挨拶に○○社の部長の一人は「惜しいけど、辞めることになった気持ちはよく理解できます」とねぎらいの言葉をかけてくれた。
何も説明しなかったのにである。

LIFESHIFTという書籍がベストセラーになっているのを見ていて、まさか自分がLIFE SHIFTしてしまうとは想像だにしなかった。
まる23年の間に自分自身が開拓して取引の始まったお客さんもある。
リーマンショックもあって浮き沈みもあったが会社の売上は3倍になった。
創業者の努力はすごいとも思った。
大学の研究員もさせていただいた。
周囲から見ると羨むような仕事のようであった。
給料はあまり良くはなかったが、実際仕事そのものは充実していたと思う。
それでもピリオドを打つという気持ちに至ったのはファミリーが経営する中堅企業の限界を見たこと。
そして50を過ぎた自分の残りの人生を照らし合わせたからでもあった。

最後の出社をして以後、一度も古巣を訪問することなく年末を迎えた。
ただ一度だけ元上司の常務に会った。
梅雨のさなかであった。
取引先の社長が「自分のいた会社にご無沙汰するのはよくないよ」と言ってくれたので、会う決心をしたのだった。
「おー、元気にしとったか」
と常務は満面の笑みで喜んでくれた。
「仕事がなくて困っとるんやないか」
と冗談とも本気ともつなかい一言を発してその後のことを語り合った。
しかし話をしていると、状態は変わっていないことにすぐ気がついた。
たった半年程度で会社の環境が変るわけがない。
しばし酒を酌み交わしながら常務には悪かったが辞めたことは良かったと確認するような機会になってしまったのだった。

LIFE SHIFT。
まもなく独立1年経過。

50代のリセットもありであることを実感している2017年の年末である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日はバレンタインデーだ。
朝からカミさんと娘から共同で「はい、お父さん」と手渡されたのはスターバックスの紙袋。
中を開けてみるとココナツ+シュガーのふりかけのようなものだったので、
「ん? なにこれ?」
と一瞬戸惑ったのであった。
バレンタイデーのチョコレートにしてはかなり変形で、
「これ、ご飯に掛けて食べるん?」
と訊いたところ、
「食べられるもんやったら食べてみ〜」
とカミさん。
「コーヒーとかミルクに入れて飲むんやで」
と娘。
ありがたく頂戴したのであった。

ところで、バレンタインデーが近づいてくるとラジオから頻繁に流れてくるのが国生さゆりとおニャン子クラブの「バレンタイデーキッス」。
もう30年も前の歌なのだが、バレンタインデーになると毎年のように聴くことになる歌になっている。

「おニャン子クラブって何?」

と云うのは高校生の娘。

「昔のAKBや」

との説明に、

「ふーん」

と関心なさそうなそぶり。

ま、いずれにせよ「バレンタインデー・キッス」はクリスマスにおける山下達郎の「クリスマスイブ」の役割を達成しつつあるようだ。
と、いうようなことを聞くと山下達郎ファンは怒るかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






京阪神の新年最初のイベントは十日戎。

「えべっさん」と親しまれるこの祭は商売繁盛を占う結構大切な祭でなのだ。
とりわけ商業の街大阪ではえべっさんは天神祭と並ぶ大きなイベントでもある。
難波エリアの今宮戎か西宮の西宮戎が有名だが、えべっさんは各地で祀られ、ここにえべっさんの祭を開催しているのだ。

私は堺で生まれ育ったので、子供の頃は自営業を営んでいた父を中心にして堺戎神社にお参りをした。
堺戎神社は南海電車堺駅と堺東駅のちょうど真ん中。
チンチン電車の阪堺線が走る大道筋近くの開口神社の境内にある。
えべっさんの時は周囲に露天が立ち並び多くの人で賑わっていたものだ。

今は往時の賑わいから比べると随分と静かになってしまい、「えべっさん」の祭文化も少し変わりつつあるのではないか、と少し寂しく感じているところだ。

今年、私も久しぶりに「えべっさん」にお参りしてきた。
仕事が変わることもあり、願掛けに出かけたのだ。
参拝してきたのは岸和田駅前の天神戎神社。
境内には飴売り、焼きとうもろこし、回転焼きなどの何軒かの露天が並びそこそこの人出で賑わっていた。
スピーカーからは地元の歌手が歌う「商売繁盛で笹もってこい!」の歌声が響き少々騒々しいのだが、それはそれ。
商売繁盛の神様だけに静かなよりは良いのかもしれないと思った。

翌日。
同じ岸和田市内の兵主神社での「えべっさん」にも立ち寄った。
この兵主神社は地域でも最も古い神社の一つなんだそうだが、境内では松の大木が森をつくり、木漏れ日が本殿を照らし出し、ひと味違ったえべっさんを演出していた。
春木川に沿った参道では早くも梅が咲いていた。

温かいえべっさん。
商売は季節通りの気候がいいのだが、果たして今年は吉と出るのか。
ホノボノとした関西の春の始まりなのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今年はGWもお盆休みも旅行ができない。
できる旅行は出張のみ。
「え?いろんなところへ行けてええやないですか。」
と言うなかれ。
出張は仕事なのでどこへ行っても任務がついて回るので面白くないことこの上ない。
このブログも仙台のホテルで書いているのだが昨晩は牛タンも三陸の海の幸も食べること無くクタクタになってコンビニ弁当と缶ビールで済ませてしまったのであった。
かなりの後悔ではある。

なぜこうなってしまうかというと娘が受験生だからだ。
従ってこの我慢、運がよければ来年3月で終了することになる。
それまで旅立ちの欲求はひたすら抑え、娘の旅立ちを応援しなければならないのだ。

受験生の娘を抱えていると、色々な大学からパンフレとやらなんやらかんやらと送られてくるので、それらがなかなか興味深い。
関西の大学は当然のことながら関東や中京圏の大学も、どこで調べたのか娘の名前で、
「◯◯大学のキャンパスライフ」
とか、
「各界で活躍する卒業生」
といった「うちの大学は凄いでしょ」みたいなパンフレットが送られてくる。
パンフレットは厚手の紙に印刷され、デザイン事務所が精魂込めてレイアウトし、プロのライターが作文した文章、プロのカメラマンによる表情豊かな写真が散りばめられている。
まるで高級リゾートクラブのパンフみたいな学校もある。

郵送で送られてくるパンフがそんな塩梅なのでオープンキャンパスや説明会となるともっと凄いようだ。
しかも私学だけではなく国公立大学もオープンキャンパスを実施して色々なセミナーやアトラクションを用意して自分の大学がいかに素晴らしいかをPRしている。
それも地方の国公立大学ではない。
京大や阪大がオープンキャンパスを開催しているのだ。
こういうところは放っておいても志願者が集中しそうな気がするのだが、独立法人になってからは「うちは旧帝大です、えっへん!」みたいなところがなくなって来ているのかもしれない。
国公立がそんなのだから私学は苛烈だ。
現役の学生や卒業生などを招いて「当学の入学試験受験対策セミナー」といったものを2ヶ月に1回程度の割合で実施。
本来なら予備校や塾がやっていたことを専門に行っているのだ。
より優秀でやる気のある生徒の獲得を目指している大学と、より多くの学生の獲得だけを目指している大学では趣旨が違うのかもしれないが、大いに興味をもってしまうところである。

関東の大学の関西の高校生へのアプローチは奨学金をちらつかせるところも少なくない。
まるで地方行政の企業誘致みたいだが、昨今、慶応や早稲田といった関東のトップ私学とて関西をはじめとする首都圏以外からの学生の獲得には苦戦をしているようだ。
なんでもここ数年、バブル崩壊以来時間が経過するとともに、親の負担を考えてか地方から早稲田や慶応を目指す学生が激減。
これら大学は首都圏限定の地方大学になりそうな雲域なのだという。
そこで地方からの学生には寮を提供し、親の負担の軽減を図る援助制度を用意。
是非とも東京へ。
という政策に汗水を垂らしているというわけだ。

さて、肝心の我が娘だが建築家になりたいということなので心に決めている大学がありそうなのだ。
未来の隈研吾、安藤忠雄はたまたフランク・ゲーリーに成れるか否か。
高校3年生の短くも過酷な夏を頑張っている姿は、私には最大の励みになるのだ。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




ラジオを聞いていると米国共和党大会でのトランプ候補の相も変わらぬ下品なニュースが飛び込んできた。
で、一緒に聞いていたカミさんが一言。

「映画のエアフォース・ワンでもハリソン・フォードが大統領役やったからカッコ良かったんよ。トランプのエアフォース・ワンなんか考えられへん」

なるほど、我がカミさん。
なかなかな目の付け所だと思った。
もしドナルド・トランプがエアフォース・ワンに乗ったら、それは映画「エアフォース・ワン」の世界ではなく映画「フライングハイ」の世界ではないかと思った私の想像力に誤りはないと思う。

そんな一瞬なのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »