<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



阪神大震災の時、日本の本社機能を神戸に置いていたとある生活化学製品のメーカーと同じくスイス系インスタントコーヒーのメーカーは他の企業や人々と同様甚大な被害を受けた。

「本社は東京に移すんですか」

と訊いたのは両社の研究開発部門と親しかった後に私にいろいろと理科学の仕事を教えてくれたXさんだった。
壊滅的被害を受けた神戸市中央区のど真ん中にあった両社の回答は、

「いいえ」

なのであった。
非常時の悲惨な状態にも関わらず両社の回答にXさんはいたく感動されたという。
両社の日本本社機能は今も神戸に置かれている。

その後少し経って、某ゴム製品大手の会社が本社を東京から大阪に移すと発表。
もともと大阪創業の会社だったがご多分にもれず東京に本社を移していたのだが、戻ってくると発表して少し話題になった。
理由は「社員の負荷がそのほうが少なくて済むから」なのには驚いたのだった。

東京を中心とする首都圏は情報とお金の集積地になっている。
ほとんどの大手企業が本社を構え、それらに関連する無数の企業や研究機関、それに学校などがこの地域に集中。
実に日本人の5分の1が居を構える世界に類を見ない人口密集都市へと発展した。

今回のコロナウィルス禍でこの社会形態がよくないことが次々に判明。
人口密集のためにパンデミックが起こると対策が取りにくい。
6〜7割の人は行政の指導に従うが、そうでない人々も3〜4割いる。
こうなると制御もなかなか効きにくくクラスターが至るところで形成されて事態収拾に時間がかかる原因にもなっている。
しかも、ここにきて通信技術が発達していたので何も東京にいなくても情報の交換ぐらいスムースに行えることがわかってきた。
必要に応じてテレビ電話やデータのリアルタム閲覧なので打ち合わせ程度の仕事の大半は済んでしまう。
通勤に膨大な時間をかけることもないし、仕事が終わったら即余暇の時間に入ることもできる。

こうなると東京や大阪に居を構える必要性もなくなってきて、できれば地方の自然豊かでパンデミックにも強く、健康な生活ができる地方でのびのびと生きたほうが幸せだという感覚も生まれてきた。

先に上げた外資系2社と日本の会社の関西本拠の大きな理由は、社員の生活に余裕が生まれるということであった。
通勤時間は短く、地価も安いので住みやすい。
首都圏にあるものはたいてい揃っているし、歴史的にはこっちのほうがずっと古いので文化レベルも低くない。
満員電車で長時間揺られ、高い家賃やローンの狭い家に住む必要もない。

コロナウィルスによる社会の変化は首都圏はおろか京阪神でも仕事のためにそこへ住む必要性が無いことを見せつけている。
製造業や農業のようにそこでないとできないものもあるけれども、農業に至っては東京都は2%も存在せず、食料供給という意味でも居住地域は分散することが望ましいのは明らかだ。

コロナウィルスによる非常事態宣言の長期化。
地方は沈静化しているのに継続されるのは明らかに首都圏一極集中のツケでもあるに違いない。



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拝啓 南海電鉄社長さま

雨の日も風の日も、正月・盆も関係なく走り続ける電車は生活に欠かせない交通インフラ。
中でも大阪南部に居を構える私にとって南海電車はJRと並んで大切な移動手段です。
さて実は先日、貴社路線を利用していてとんでもないことに気づいたのでお手紙を書かせていただいている次第です。

3月に誕生日を迎える私は今月から運転免許証の更新機関です。
そこで泉北ニュータウンにある光明池自動車運転免許試験場へ出向きました。交通費のかからない近くの警察署て手続きをしなかったのは光明池だと即日交付をしてくれるからです。
往路は問題はなくスムーズに到着することができました。
即日交付とはいえ同じ目的で来ている人が非常に多く試験場内は大混雑。
手続きは迅速だったんですが人数が多いだけに終了するまで3時間近くもかかりました。
午前中に終わって午後は実家に寄ってから仕事に戻ろうと考えていたのです。

光明池駅から何も考えずになんば行きの電車に乗ったところ大きなミスをしたことに気づいたのです。
乗ったのが区間急行で高野線と地下鉄の乗換駅である「中百舌鳥駅」を通過してしまったのです。
仕方がないので堺東駅まで乗車して改札を抜け、堺東商店街(私が学生時代バイトをしていた商店街です)でランチを食べて別途きっぷを買って引き返しました。
私の実家は大阪府立大学の直ぐ側にあります。
大阪府立大学の最寄り駅は中百舌鳥駅または白鷺駅です。
どちらも中百舌鳥駅で降りるのか、乗り換える必要があるのです。

以前、泉北線が泉北高速鉄道だった頃、泉北線のなんば行き電車は途中の堺東駅まですべての駅に停車しました。
それが一つのスタイルだったのです。
私の卒業した高校は泉北線の沿線にあり、3年間それに通い慣れていたと思っていたのですが大違いでした・
泉北高速鉄道は泉北線として貴社に買収されてから各停と区間急行の種別になり、区間急行は中百舌鳥駅と百舌鳥八幡駅と三国ヶ丘駅を通過するようになってしまったのです。

これはなぜなんですか?

ご存知のように三国ヶ丘駅はJR線と、中百舌鳥駅は大阪メトロ御堂筋線との連絡駅です。
三国ヶ丘駅ではJR線は特急を除く全ての種別の列車が停車します。
中百舌鳥駅の御堂筋線は起点駅。大阪の地下鉄のメイン路線の起点駅なのです。
どうして停車させないのでしょう?
お客さんを奪われるからでしょうか?
JR線は乗ると大阪駅まで乗換なしで行くことができます。
御堂筋線は乗ると梅田駅(大阪駅)から新大阪駅、千里中央まで乗換なしで行くことができます。
乗客の利便性を考えると停車させて乗り換えを認めるべきではないでしょうか。
きっと両方の線から南海電車に乗り換える乗客も少なくないことでしょう。

別の路線ですが現在の大阪の与党維新の会が大阪メトロをもっと早く民営化していたら今里筋線のアクセスを良くすることができたのに、と言っている話をご存知ですか?
市営だったために市のことしか考えていない交通局の経営陣のためにわずか数キロで阪急電車と接続させなかったのです。
これは利便性と経営面に大きな禍根を残しました。

自分のことしか考えない。
貴社も同じ発想で社会インフラを経営されているのでしょうか?

これから大阪南部と北部を結ぶ「なにわ筋線」の建設が始まります。
関空と大阪北部を結ぶアクセス線の役目を果たす予定ですが、ここにはJR線と貴社線と阪急線が乗り入れることになっています。
でも、中百舌鳥駅や三国ヶ丘駅に自社都合で電車を止めない南海電車には乗り入れてほしくありません。
その権利もないと思います。
JR環状線は和歌山・関空方面からの阪和線だけではなく奈良方面からの大和路線も乗り入れていて超過密ダイヤです。
これがなにわ筋線に入ると、東京の湘南新宿ラインのように専用線でダイヤにゆとりが生じます。
関空から京都、滋賀までJR線なら一本です。

阪急線は線路幅が違うのでどうするのか知りませんが、少なくとも南海の特急ラピートが他社線のターミナルである新大阪駅に乗り入れは今の考え方ではありえないと思います。

敬具


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出張から戻ってきて関西空港駅からJRに乗ると向かいわせの席に口紅を真っ赤に塗って必要以上にファンデーションで肌を白くしている若い女性が乗ってきた。

「外国人かな....」

関空から電車に乗ると乗客の大半が外国人ということも少なくない。
まさにインバウンドウンドの時代。
だからその一種異様な化粧も異国を感じさせるものがあったのだった。
やがて連れと思われる若い男の子がやってきたら、

「や、お疲れ様」

と日本語で話す。
なんと彼女は日本人なのであった。
関西空港で働いているのだろう、その話に耳を傾けていると旅行の話をしている。

「来週韓国に行くねん。一週間。」

みたいなことを言っているのだ。
未だ韓国旅行を趣味にしている女性がいるのは知っているが、その数まだまだ多いんだなと感心していた。

帰宅して同じく関西空港で働いているカミさんにこの話をしたところ、

「それ韓国で流行っているメールやで」

と教えてくれた。
ベースを白く、口紅は真っ赤か。

カオナシが口紅塗ったようなその表情が美しいとはとても思えないが、これも彼の国の文化なのか。
歌舞伎の女形もあんな辛子明太子みたいな紅はひかない。

ベースは美しいだろうけど、気の毒にと、若いうちはもっと美しいものを見る機会が必要なんだとつくづく考えたのであった。


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つい先日まで小学生、中学生だと思っていた娘がいつの間にか高校生、大学生となっていた。
どうりで体つきが大きくなってきたわけだ。
大きくなってきたのは体格だけではない。
態度も大きくなってきているのだ。
私はまだ大丈夫なのだが、カミさんは親子喧嘩をした時に不利になってきている。このため家庭内でのパワーバランスに微妙は変化が出てきている。
これはちょうど米国の国力が弱体化してきて中国・インドが第頭してきている世界情勢に似ているな、と想像すると笑えててくるのだが、それはまた別の話。

その娘が今、教育実習とやらで毎日教員免許を取るために大学から指定された中学校へ1ヶ月間通っている。
本人が指導教官から教えてもらう一方、本人が中学生を教えるために出かけているのだ。
でももしかすると中学生にも教えてもらっているのかもしれない。

本来であれば娘の大学の今の季節は9月いっぱいまでが夏休み。
だが、その夏休みを利用した教育実習は残酷で体力が必要なのだ。

朝、娘は4時半に起床。
5時になるまでに朝食を済ませて5時半過ぎの電車に最寄り駅から乗ってでかけている。
7時過ぎまでには中学校のある奈良市内まで移動する必要があるからだ。
そして帰宅は午後10時すぎ。
一般の授業が終わってから指導教官の先生を中心にした振り返りの講義と翌日の授業に関するミーティングがあるために午後8時過ぎまで帰ることができないためだ。
聞くところによると授業時間中は使うことはおろかスマホを見ることも許されず、授業をするために立ちっぱなし。
昼食は中学生と一緒にとりながら監視指導を行わねばならず実質10分間程度しか食べる時間がないという。
したがって帰宅したらヘロヘロなのだが、指導教官の先生から指導された翌日のための課題をこなすため自分の部屋でさらに色々と資料作りなどをこなさなければならないのだ。

迷惑なのは父母である私とカミさんだ。
教育実習を受けるのは私たちではないので「がんばれ〜!」と言えば済みそうなものだ。
だが、カミさんは弁当を作るために午前3時半起き。
私もカミさんがガチャガチャやるので午前4時には目が覚める。
しかも娘の帰宅時間が遅いので駅まで迎えに行くのは私の役目。
迎えに行って戻ってきて色々と雑用をしていると就寝時間は午前様。

娘の教育実習のために睡眠時間は夫婦ともに4時間を切るというナポレオンみたいな生活を余儀なくされている。

月末まで親の体力が持つかどうか大いに懸念されているところだ。


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二年前の夏の終わり、
「来期は名古屋勤務だから」
と決算日の前日に私は直属の上司だった事業部長に異動転勤を言い渡された。そしてその後すぐ家族と相談してその日のうちに会社を退職することを決断したのだった。
カミさんが「なんとでもなるわよ」と言った一言が効いたのはもちろんだが、家よりも会社を取れと暗に示唆した上司に対して元々煮えたぎりそうになっていた不信感が確固としたものに変わったのも大きかった。
しかし、それよりももっと大きな問題があった。

両親の介護の問題だ。

会社への不満があったことはもちろんだが当時私の父母は双方とも80代後半になり、生活に関して肉体的に若い時と同様の機動力を失いつつあった。
毎週実家に行っては自動車で買い物に連れて行く。
毎月の病院通いを同行する。
金銭の管理。
その他諸々。

とりわけ気になりだしていたのは母のボケ具合。
何か障害があるというわけではなかったのだが、料理のレシピを忘れるような記憶の問題が起こってきていることと、足が悪いので歩行が大変になってきていることだった。
肉体面はともかく記憶についてが特に心配だった。

仕事の関係で毎週のように大阪から東京、仙台を往復するような出張生活をしていたので、どこかで転勤を申し渡されるのではないかと思っていたが、ついにその時が来たのかと思った。
出張だと毎週確実に両親の様子をこの目で伺うことができるが、転勤すれば帰阪することはままならなくなる。
このとき、年明けには娘の大学受験も控えていた。
私が大阪を離れるとカミさんが多くを一人で見なければならなくなる。
カミさんのほうにも一人暮らしの義母がいる。
カミさんへの負担は最小限にとどめたいとも考えていたのだ。

退職を決意してから次の仕事先を探していみたが年齢が年齢だ。
50を過ぎた男が簡単に仕事を見つけることなどできるわけはない。
会社を騙し透かししながら引き伸ばしに伸ばした退職日には無職となることが決定していた。
同僚たち、かつての部下たちは心配してくれたが自分が選んだ生き方なので特に辛いという感覚はなかった。
ただ生活をどうするのかという問題があった。

退職金は残っていた実家のマンションのローンへの繰り上げ返済に投入。
借金を完納させた。
私は退職金は暫くの生活の糧に必要かと思っていた。だが「借金がないほうが気持ちの上で有利やで」というカミさんの後ろ押しがあって全額はたいて支払ったのだ。
依願退職なので失業保険が出るまで3ヶ月。
その間は私の貯金を切り崩すことにした。

「生活、大丈夫なんか?」
面倒を見ているはずの実家の両親が心配する。
その都度、
「大丈夫。転職は初めてやないやろ。信用しておいて。」
というしかなかった。

その間も就職活動を続けるが芳しくない。
転職サイトに登録もした。
でも、オファーが来るのはタクシー運転手、バス運転手、塾の経営、内装フランチャイズ、不動産営業のようなものばかり。
私の専門と関連したものは特殊なのでなかなか見つからない。

たまにバイトをしたり、交流会、異業種会に出ては方向性を探るが就職は難しそうだった。
やがて失業手当が給付されはじめた。
でも仕事は見つからない。
その結果、意を決して決断したのは、
「もう会社には就職しない。自分でやる」
という起業なのであった。

起業するとすると何をやるのかというと、最後の仕事だった企画・マーケッティングおよび設計という総合的なデザインに関する業務だった。
でも心配が頭をよぎる。
個人としてのデザイナーの実績のない私と付き合ってくれる会社があるのか。
相手にもされないのではないか。
果たしてできるかどうか未知ではあったが、やるしかない。
まずは私は会社員時代に付き合いのあった当時のお客さんを手当たり次第に回ることにした。
ほんとは退職した会社との取り決めで、そこが取引する会社には一定期間出入りしないという取り決めがあったのだが、そんなことは言ってられなかった。

親の面倒を見る必要がある。
家族の面倒を見る必要がある。
娘の大学生活を支援してやる必要がある。
生きなければならなかったからだ。

回り始めて初めてわかったのだが、かつての取引先は私をしっかりと見てくれていたことだった。
辞めた会社で私が何をして、どんな実績を作っていたのか、どんなアイデアでもって実行している人間なのか、といったことを。
「会社との取り決めがあって、ホントは」
というと、
「秘密を守ればいいんです。出入りしないとか仕事をしてはいけないというのは憲法違反ですよ。」
と笑いながら言ってくれる会社もあった。
正直、一言一言が嬉しくて勇気が湧いてきたのだった。

暫く東京、大阪を回っているとある日、JRの駅で電車を待っているときに、
「今どうしています?元気にされていますか。相談があるんです。手伝ってほしいことがあって。少し難しい案件があるんです。」
と携帯に電話がかかってきた。
仲の良かったある会社の営業マンからの電話だった。
これが起業後、私の初めての仕事になった。
安定して食べられるほどではなかったけれどもしっかりした会社の仕事だったし、専門分野でもあったので金額も決めずに承諾した。

退職してから最初の仕事を貰えるまで約5ヶ月。
この間に娘の受験があり、父が誤飲性肺炎で生死の間をさまようこともあり、しかも私自身が咳が止まらずCT診察してもらうと肺がんのステージ1の疑いがあるとの診断が出て検査入院をするなど大変な5ヶ月だった。
私にがんの疑いが出たときだけは流石にカミさんは泣いた。
「酒は飲むけどタバコ吸わんのに肺がんなんてありえへんで」
と言って慰めたが、検査結果が出るまで不安は拭えず、思えばこの時期が一番つらかったかもしれない。
検査入院中に母が実家から悪い足をひきずってタクシーで見舞いに来てくれたことがあった。
病院は呼吸器専門の大型病院で結核患者も多いことから高齢の母になにかあってはとならないと思い、追い返すように帰らせたことを今も時々思い出す。
検査の結果は軽度の肺炎なのであった。

最初の仕事をもらってから2年少しが経過した。

その間、悪い予感は当たるようで生死の縁をさまよった父は2ヶ月の入院の後に退院。
肥満した体はガリガリに痩せてしまった。
勢いはなくなってしまったが、記憶力が年相応になったことを除けば認知症の気配は微塵もない。
それとは対象的に父の入院をきっかけに母が衰弱した。
物忘れだけではなく、買い物の決断もままならなくなってきたので専門医に見てもらうと認知症との診断。
アルツハイマーかどうかはわからないが、水頭症があるとも言われ母を連れての病院めぐりが始まった。
かかりつけの病院から認知症診断の専門病院、脳神経外科、内科などなど。

もし異動転勤を受け入れていたら、こんな対応はできなかったに違いない。
自営業だからこそ、自分で時間を割り振りして家族の面倒もみることができる。
もちろん仕事も熟す必要があるので朝早くから深夜まで資料作りや打ち合わせでアクセクすることも少なくない。残業何時間なんて関係ない世界だ。

昨年は会社員時代に所属した研究会の理事の一人から連絡を受け、その研究会の仕事をさせてもらったことをきっかけに研究会に復帰。
「わたし、個人資格で再参加させていただいていでしょうか?」
と聞いたところ、メンバー幹事の大学や研究所の先生方、かつての取引先や競合先の皆さんから「大歓迎」の返答をもらい、しかも歓迎会まで開いていただいた。
まだまだ安定しきってはいないものの、家族と一緒にいられて親を看取れて、会社員でありつづけるよりも、この判断は良かったのだとつくづく感じているところだ。

介護を理由に会社を退職する人が多く、それが社会問題になっているという。
親の介護をするには私のように50を超えて、ということがほんとどなのだろう。
日本の社会では高齢化社会と言いながら中高年の転職は難しい環境が続いている。
終身雇用が当たり前の感覚も崩壊しつつある今、働き方改革を進める上で中高年の転職環境の整備は重要だとつくづく感じている。
フリーランス、副業の奨励など。
現在の政府が取り組んでいる様々な試みはこのような社会情勢を背景に見据えたものに違いない。


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6月22日朝7時40分。
母が旅立った。
令和に代わったばかりの5月3日。
87回目の誕生日を迎えたばかりの母は今月に入ってから容体が急変。病院のスタッフの皆さんの懸命な介護も虚しく夏を前にして旅立ってしまったのだった。
今悲しみはありながら、なんとなく妙な感覚にとらわれている。
入院していた病院へ行くとまだ会えるような感覚と、今も施設でゆっくりと夕食を食べているんじゃないかという感覚だ。
また実家へ行って帰る時に見送りに出た母が私の姿が見えなくなるまで玄関先で手を降っているような、そんな感覚がある。
でもその姿を今後永遠に見ることはない。
これが寂しさというものなのだろうかと考えることしきりだ。

先々週の木曜日だったか金曜日だったか。
病院のベッドに寝ている母の横で丸椅子に腰をかけていたら、母が私の顔を見て、
「...元気にしいな」
と病と認知症に侵された弱々しい声で言った。

認知症と診断されて1年と半年。
次第に母は意識や記憶が混沌としているのか何を言っているのかわからないことが多くなった。
「今朝、お寿司作ったから持って帰るか?」
と言ってみたり、
「漬物そこにつけてあるから持って帰り」
と他の人のベッドの方へ行こうとしたり、正直どう対応したらいいのかわからないことも少なくなかった。
ところが「..元気にしいや」という一言がやけに正常でそれが別れの定型句の1つであるだけに私は心配になってしまった。
「何言うてんねん。ほら元気やで」
と言い返して私はその不安感を払拭しようとしていた。
安物のテレビのドラマや小説で肉親がそれとなく別れの挨拶をしてそれが最期の言葉になってしまうというようなことを想像してしまったのだ。
この後、なんとなく帰宅しずらくなったものの、まさかと思って後ろ髪引かれる思いは抱えつつ母の入院する病院から家路についたのだった。

あくる日。
夕食を食べさせに病院へ行ってみると昨日と同じ状態の母がいた。
ご飯を八割がた食べさせてデザートのヨーグルトを食べるかと訊いたところ食べるというのでゆっくりと食べさせてその後の様子を見て帰宅した。
さらに一日をおいて夕食時に訪れた。
配膳がまだ始まっていなかったので母のベッドの横の丸椅子に腰をおろしてぼんやりとその寝顔を見ていた。
めちゃくちゃ痩せたな。
昨年のお正月にはちゃんとお雑煮も作ってくれたのに、などと考えていると母がふいに目を開けた。
そして私の顔を見て、
「.......なんでずーっと黙ってるんや......」
と言った。
認知症になってから私の雰囲気をつかんで話しかけることはほとんどなかった。
なのに今度は私が黙っていたことを不思議に思ったのだ。
黙っているからと言葉をどう絞り出そうかと思案している瞬間に、
「三人でな....〇△☓〇☓....なあ」
と母。
「おかあさん、何言うてんのかわからへんわ」
私は母の「三人で」のところ以外は聞き取ることができず、それが面白いように感じていると母が思うように笑いながら言ったものの「三人で仲良く元気にしいや」と言ったのではないかと思われてならなかった。
なぜなら私の家族は妻と娘と私の三人だからだ。
それとも父と母と私の三人のことを言っているのだろうか。
その後、母は私の手を取って震える手で自分の胸元に持っていった。

夕食が運ばれてきたのでベッドのリモコンボタンを操作して母の上半身を起した。
そして母の口にスプーンとフォークで細かく切ったおかずやご飯を運ぶ。
喉を詰めないように時々味噌汁を飲ませながら口に運ぶ。
今夜は九割は食べきり、デザートについていた桃の缶詰を口元へ運ぶと美味しそうに食べきった。
「はーい、ごちそうさまやな」
「食べた...」
食べながら母の体が傾いてくるのが気になったが食べた量が他の患者さんよりも多いような気がしたし看護師の方も「よく食べましたね」と笑顔で言ったのでまだ大丈夫かなと思った。
「帰るよ、お母さん」
食事が終わって落ち着いたところで私は母の手を握ってから病室を出た。出る時に振り返ると少しだけ微笑んで母が弱々しく手を降っていた。
「気いつけや」
と小さな声で実家の玄関先で降ってくれていたときと同じように。

結果的に母に食事を食べさせたのはこれが最期になった。
それに実質的に会話をしたのもこれが最期だった。
看護師さんによると翌日母はいつもどおり朝食と昼食を食べたのだが、午後の床ずれの治療の後に眠り込んだ。
この日も夕食を食べさせようと母の元へ行った私は鼾をあげて寝ている母を見て、
「気持ちよさそうに寝ているな」
と思ってそのまま帰宅したのだ。
その夜から母は昏睡状態に陥いり三日後に帰らぬ人となった。

「元気にしいや」

どう思ってそう呟いたのか。
人は自分の死期を悟り、大切な家族への言葉を残すこともあるのか。
子供だった戦争中、家庭の事情で十分に学校へも行くことができなかった母。
一人息子に残した言葉は凡庸だが母にとっては重要なメッセージだったのかもわからない。





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平日の夕方。

実家で一人暮らしをしている父の様子を見に立ち寄ったら元気に相撲中継を見ていた。
大相撲を見なくなってずいぶん時間が経つのだけれども、子供の頃は相撲は大好きでテレビの前で熱く観戦していたものだ。
父とテレビを見るということもなかったので、しばらく一緒に相撲中継を見ていたら、ふと疑問が浮かんできた。

「はっけーよーい、残った残った!」

行司の掛け声「はっけーよい!」

「親父、はっけよーい、って何やろ?」
「?」
「はっけよーい、どんな意味何やろね」

「............そりゃ、チコちゃんにでも聞かにゃわからんじゃろ」

はっけよーいの疑問も不思議だったが、親父の口から「チコちゃん」が出てくるとは。
ほのぼのとした驚きの夕方なのであった。


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この連休前。
10年間ほど加入していた「ひかりTV」を解約した。
理由は番組を殆ど見なくなってしまったからなのであった。

10年前。
今の場所に引っ越してきてからどうしてもCSの番組を見たくてケーブルテレビではなくひかりTVに加入した。
もともと住んでいたところではJ-COMに加入していて、韓国製を除く海外ドラマを中心に各種番組を楽しんでいたので、J-COMのない地域だった現在の場所で継続して堪能するために加入したのがひかりテレビだった。

それから時間が経過するにつけ、仕事が忙しいこともあってテレビ番組自体を楽しむということが激減。
地上波放送もニュース程度。
ひかりTVを通じてのCS放送に至っては時代劇専門チャンネルの「鬼平犯科帳(吉右衛門版)」と月に1〜2本の映画だけを見るという有様。
これで毎月4000円近くを払っているのがとってももったいなくなってしまい、家族会議のうえで解約することに決めたのであった。

で、テレビはどうしているかと言うと、大半がネットでYoutube。
ニュースも、一部のTV番組も、全てネットなのだ。

考えてみればYoutubeを中心に動画をみるというとインターネットが主流になってしまい、しかも見方がテレビの前でどっしりとではなくパソコンの前で作業をするついでに、というスタイルに変わってしまった。

見なくてもいい、見ない番組にもお金を払うより、なにか見たいときには単品で購入するのが経済的なのがネットでの鑑賞の合理的なところでもある。

もしかするとCS放送は早晩なくなるかも。
ネットを活用すると、必要なものだけ、見たいものだけにお金を遣うことができる。
不要なチャンネルは淘汰され、ついでに受信チューナーもいらなくなるのでNHKの受信料も払う必要がなくなるので、メデタシメデタシなのだ。

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今年のGWは皇位継承があって改元のお祝いムードも伴って10連休。
とある調査によると4割以上の人々がありがた迷惑だと思っているという。
長い休みは結構だが、本当は休めない多忙な人、世間が連休のために自分は休めなくなるというサービス業の人はまだいいとして、日給月給で働いているように職人さんや職工さんには大いに迷惑な連休ということも言える。

私は自衛なので正直いって連休なんかどうでもいいのだが、この10連休について言えば休めない。
連休明けに設置しなければならない研究施設の装置の設計と製造指揮をやっていた関係で連休は協力会社さんにお願いして出勤していただいており、休むわけにはいかないのだ。

しかも、家族も忙しい。

関西空港でアルバイトをしているカミさんは重要インフラである関空が職場のため連休なんか関係ない。
なんといって1年365日、1日24時間稼働している国際空港なので設備が寝ている時間はないのだ。

一人娘は学校は休みだがTOEIC試験の高得点獲得を目指した勉強中のため、こちらも休めない。
大学にはいかなくても英会話学校には行かなければならず、家にいても何やら勉強。

双方ともかなり忙しそうだ。

友人にしても医者をやっている友人は10連休の中間の2日ほど開業して急患に対応しているし、建築士の友人は設計の仕事があるそうで、ウェブデザインアーの友人も山のように仕事を抱えていて休めないという。

こう考えてみるとこのような自営業者の面々やバイトに精出している面々、学生などは連休なんか関係ないのかも知れないと思えて仕方がない。

10連休、可能なようで可能でないありがた迷惑なシーズンだ。

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介護施設に入所している母を見舞いに従兄弟の一人が来てくれたときのこと。
この従兄弟は私よりも20歳近く年上で、従兄弟の中では最年長。
もちろん定年を迎えており現在は隠居生活。
先年すこしばかり大きな病気をしたこともあって無理をせず、三人いる息子の一人とカミさんと一緒に生活をしている。
親子ほど年の離れたこの従兄弟を私は物心付く前から「お兄ちゃん」と呼んでいて、どちらも一人っ子であることから、いろいろなことを相談をしたり教えてもらったりしている。
私にとっては大切な身内である。

このお兄ちゃんが母を見舞ってくれたあとに実家に寄ったとき、よもやまの話から自分が勤めていた会社の話を始めた。

お兄ちゃんは四国の国立大学を卒業したあと、外資系の製薬会社に就職。
世界的な会社でプロパーをしていた。
私の身内にしては優秀な人なのであった。
実家のアルバムには就職が決まって家に来た時に一緒に撮った写真が今も残っている。
方や大学卒業のニューフェイスで凛々しく、かたやおもちゃの自動車を持ってアスファルトの道路の上を転がして遊んでいる幼児=私。
その風景の面白いこと。

それはともかく、入った外資系を定年まで勤め上げたのだ。
で、お茶を飲みながらここんところ政治的話が話題に上がると、一緒にいた私の父に自分の経験を語り始めた。

「そりゃ、おじさん。外資系なんかに『忖度』なんかないよ。そんな文化はありゃあせん。何かあればはっきりものをいう。賛成ばかりじゃなく、相手が誰であっても反対もする。」

お兄ちゃんは戦中に岡山で生まれで戦後広島と大阪堺で育ち、愛媛で学生生活を送って、長らく所沢で居を定めて新宿に通っていたという人で今は大阪に住んでいるのだが、未だに話すと中国地方の方言と関西弁の中間である。

「ほー」
「でもね、反対を表明したらその理由と、その反対に対してどうすればいいのかという考えもきっちりと説明できんと、これだからね」

と人差し指でもって自分の首を掻っ切るジェスチャーをした。

「退職してから2社ほど日本の会社で働いたけど、ありゃなんじゃ、というようなシーンに何度も出会うたんよ。偉い人が阿呆なことを言う取るのに反論もせずにニコニコ笑って拍手しとる。呆れ返って物も言えんかった。こっちは付き合いでおるからもうなにも言わんかった。」

外資系で働いた親しい身内から聞くこの一言は痛烈に私の心を打ったのであった。

そう言えば私が働いていた会社は超内向きで「忖度」の塊だった。
忖度しないと叱られるくらいのレベルだった。

代表的なのは社内会議。
議事の大半は部長級以上の人のワンマンショー。
会議にいる人で最も役職の高い人が話題をリードして、それに対する反対意見は普通誰も言わない。
「何か意見のある人は?」
との質問がでると、誰も挙手しないのがいわば文化になっていた。
その中で私のようなはみ出しものが、意見を述べて提案するとどういうことになるか。
推して知るべし、というところだろう。

もちろん外資系が必ずしも良いとは言えず、私の得意先の大手企業にはじゃんじゃん意見を言い合う会社もある。
そのかわりその会社は会議の冒頭、
「今日は2時間でまとめられるようにしましょう」
と時間を区切ってじゃんじゃんやる。
私が会社員だったころからの得先だが、そこの会社でお客さん相手に議論をするとスムーズにいくのに自分の会社ではそうはいかない、というジレンマがあった。

従兄弟の体験談で日本の組織の硬直性を思い出したひとときなのであった。

そりゃ既存政党が選挙で負けるわ。




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