<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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今時の子供に、
「悪いことをしたら死んでから地獄に行くことになるで」
と言っても、
「ふーん」
でおしまい。

普段、地獄よりも恐ろしそうな映画やテレビ、ビデオゲームに親しんでいるための結果と思われる。が、それ以上に何かを恐れるという精神的要素が欠如しているのだろう。

考えてみれば今の子供は怖いものなしだ。
とりわけ中学生に恐ろしいものはない。
授業中に悪態をついて授業を妨害したり、学校から逃亡しても先生たち何もしない。
もし体罰を加えたりしたら後の保護者との揉め事が待っていることを知っている。
問題のある子供ほど親も問題があるのだ。
従って根本的な悪ガキも留年させたり退学させることもできないので、ひたすら卒業するまでダンマリを決め込む。
万引きや喧嘩、不純異性行為は未成年者だから補導はされてもお咎めなしなので警察さえ恐れない。

流石に殺人を犯したり人に瀕死の重傷を負わせるような悪事を働いたら少年院にぶち込まれることになるが、それでも死刑にはならないことを知っているし、逮捕された後は人権活動家という被害者には悪魔のような味方も控えているので悪事をはたらくことに躊躇もしないし、反省することも無い。

源信の世界を観ていてふと脳裏をよぎったのは昔の人は、この掛軸や巻物の世界で十分に世を恐れ、死後の世界を不安を持って想像していたのだろうということだった。
家族は大家族で子供も居れば年寄りもいる。
病魔に対する戦い方には限界があり、多くの子供が成人を待たずになくなり、高齢者も80歳、90歳まで生きるのは稀で風邪や転倒など今では何でもないことでも死ぬ可能性がたかった。
そういう社会では生きることへの感謝が強くなる。
科学も発達していないため、何故病気になるのか、何故死ぬのか、何故助かるのか、などのプロセスは謎なので、神や仏の世界との密接な関係を考えようとしたのだろう。

人は死を通じて生きることをナマで感じ、それを感謝したのだ。

今、人は死を恐れない。
それはきっと身近に死というものが存在しにくいからかもしれない。
恐れないどころか反対にテレビゲームや映画やテレビの番組で死というものが極めて安易に伝えられているという現実がある。
突出した例がテレビゲームで、ここでは多くの殺し合いが展開されている。
あるものはマンガチックで許される範囲のものがあるのかもしれないが、またあるものはリアルな映像で市街戦を展開させたり、異生物との格闘を体験させたりと現実と見分けがつかないようなゲームもある。

世の中、戦争を反対する人は多いけれどもこういうバーチャルだがリアルな戦争の世界を反対する人は少ない。

こうした現代のバーチャルな戦争は源信の描いた地獄そのものなのだが、痛みを感じることのできるリアルな生活がそばにないことが現代の様々な信じられない事件を引き起こしているのだろう。

奈良国立博物館の源信展。
そういう思いに至りながら実に面白く興味溢れる展覧会なのであった。

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