<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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人気漫才コンビだった太平サブロー・シローのシローが亡くなったというニュースを聞いてビックリした。
享年55歳。
死んでしまうには若すぎると思ったのだ。

太平サブロー・シローの漫才を一度だけライブで聞いたことがある。
彼らが解散する数カ月前。
なんばグランド花月にたまたま誰かを見たいという目的もなく吉本のお笑いを見に行ったときに出演していたのだ。

当時、サブロー・シローは人気も絶頂期を少し過ぎたばかりで、まだまだエネジェネティックに活動していた時期だったと思うのだが、漫才はちっとも面白くなかった。
テレビとは全く違ったサブロー・シローの漫才が展開され、会場はクスクス程度にしか笑い声を上げることはなかった。
見ていてヤル気がないのがあからさまに分かるような漫才だったのだ。

まもなく吉本興業退社とコンビ解消が報道されて、ふたりともテレビのスクリーンから姿を消した。

漫才ブームの思い出の漫才コンビになった。

やがてサブローは吉本興業に侘びを入れて復活。
今は大阪のラジオ番組には頻繁に顔を出して、パーソナリティーとしての才能を発揮しているようだ。
一方シローの方は長い間、ラジオにもテレビにも出なかったので色々なことが噂され、「あの人は今」みたいなことになっていたのだ。

私は十年以上も前に紳助竜介の松本竜介を会社の同僚と行った大阪のキャバクラでウェイターとして働いている姿を目撃して強いショックを受けたことがあった。
あの人気漫才師も、キャバクラのウェイターをして糊口を凌いでいるのかと思うと、すっかり遊び気分は抜けてしまい、店を出るまで暗澹とした気持ちになっていた。

もしかすると太平シローも同じように、底辺の生活をしているのではないかと、他人ごとながら人気芸人さんの今を心配したのであった。

今回の訃報に接してニュースを読むと、太平シローは関西で放送作家として活躍していたということを知って、その笑いに対する才能は無駄にしていなかったと、すこしばかり安堵した。
担当していた番組は関西ローカルとはいえ人気番組で弟子も抱えていたようで、かつての相方サブローとは違った生き方を選んでいたようだ。

とは言っても、55歳とは若すぎる。
プロが笑いを熟成させ、芸から芸術に変えるのは60代以降と説もあるだけに、かなり残念なニュースなのであった。


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ずっと以前、中学生の頃、夢中になって読んでいたマンガに手塚治虫の「三つ目がとおる」がある。
有史以前に栄えた文明を築いた第三の目を持つ民族の生き残り写楽保介が起こす数々の古代の謎や超常現象にまつわる物語は実に魅力的なSFマンガだった。。
当時好んで読んでいた雑誌「UFOと宇宙」とあいまってサブカルチャー要素たっぷりで随分と楽しませていただいたものだった。

南米マヤ文明の謎。
京都の地下を流れる巨大な水路。
オーストラリアの絶滅した鳥モア。

などなどが登場し、イマジネーションが広がって、しばし考古学の世界を旅したものであった。

今「ブラックジャック」を夢中で読んでいる中1のわが娘がそれをひと通り読み終えたら、次はこれを読ませようと思うくらい、現代でも通じる作品だ。

この写楽保介。
三つ目族の生き残りだが、額にある第三の目は人類の想像を超える超能力が備わっていて数々の超常現象やスーパーマシンを創りだす。
とりわけスーパーマシンは圧巻で、現代のハイテクを駆使しても作れそうにないものを、古代の知識で創りだしてしまうというところにミステリアスな魅力があった。

古代には今の人類が知らない高度な文化が存在したのかも知れない。

なんてイマジネーションも広がったものだ。

「アンティキテラ 古代ギリシャのコンピュータ」(文春文庫)は、そういった古代の科学技術をリアルに浮かび上がらせたノンフィクションだ。
20世紀初頭にギリシャのアンティキテラ島沖の沈没船から引き上げられた小さなギアユニット。
それは紀元前に作られた天体運行を計算するコンピュータなのであった。

本書はこのアンティキテラと名付けられたギアユニットを如何にして人々が解読したのか。
その科学的競争と技術とイマジネーションから発するミステリー解読が実に面白いのだ。
実際には2008年にどのような用途に使われたものなのか、学会で発表されセンセーションを巻き起こしたという。
このアンティキテラは手のひらサイズのギアユニットながら数十個のギアが組み合わさり、その作りは精巧を極めるという。

本書を読んでいると、「三つ目がとおる」の世界は意外にも、ホントにあったのではなかと思えるほどの高度な科学技術がすでにギリシャ時代に存在したことを示していたことを知って愕然とする。
アンティキテラ。
アテネを訪れて実物を目にしたいと思ったのであった。

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今年、なんとあの「ひらパー」が100周年を迎えるという。

「ひらパー」

なんて言われても、関西の人以外にはなんのことやらさっぱり分からないに違いない。
ひらパーとは枚方パークという京阪電鉄系の遊園地の名前なのだ。

その昔、ひらかたパークと阪神パークは秋になると「大菊人形展」という福島県の二本松市のようなイベントを繰り広げ、近畿では誰でも知っている有名な遊園地だった。
しかし、阪神パークは閉鎖され、遺されたひらかたパークも「大菊人形展」は開催されなくなった。
もしかしたらひらかたパークも無くなってしまうのでは、と少しばかり心配していたら、なんと「ひらパー」という大胆なネーミングで復活。
一昨年は「ひとりバンクーバー」という大胆なキャッチコピーで関西のCMポスターで注目を集め、存在感を示した。

そのひらパーが100周年。
京阪電鉄が江戸時代以前から面々と続いてきた龍馬も小五郎も利用した京と大坂を結ぶ淀川の三十石船を駆逐して、秀吉から免状を受けたと言われる「くらわんか船」と京大坂間の宿場町・枚方にオープンしたのが「ひらパー」なのであった。

関西は元々多くの電鉄系遊園地が林立していて、それはそれはアミューズメント施設の数としては首都圏に負けるとも劣らない質を量を誇っていたのだった。

私が小学生の頃はざっと名前を上げても以下のような遊園地が存在した。

南海電鉄系 みさき公園、さやま遊園、大阪球場
京阪電鉄系 枚方パーク
阪神電鉄系 阪神パーク
阪急電鉄系 宝塚ファミリーランド
近鉄系   あやめ池遊園地、伏見桃山キャッスルランド、玉手山遊園地
その他   エキスポランド、奈良ドリームランド、関西サイクルスポーツセンター、

どこもかしこも、ある一定の活況を呈していたのだが、少子化とバブル崩壊、メジャーテーマパークUSJの開園と娯楽のあり方が大きく変化して、時代に対応しきれなかったこれらのテーマパークのうち半数以上が姿を消してしまったのだ。
とりわけ東宝映画も宝塚歌劇も経営する日本のエンタテイメントのトップ企業・阪急電鉄の宝塚ファミリーランドが閉園されたときのショックは世間的にも大きく、新聞紙面のかなりのパーセンテージを占めて報じられたぐらいであった。

従って、現在の遊園地市場において「ひらパー」の健闘は驚きに値するのだ。

新聞の報道によると、年間100万人程度の入場者をコンスタントに達成しているという。
これはすごい。
大阪市営フェスティバルゲートを企画立案し、わずか10年程度でおとりつぶしになって市に数百億円という膨大な損害を与えた大阪市職員は京阪電鉄の爪の垢を煎じて飲んでいただきたいのはもちろんのこと、橋下徹市長に切られる前に、是非とも自らリストラされていただきたいと思うところだ。

この絶好調「ひらパー」のコンセプトはUSJなんかでは遊べない小さな子供抱えたファミリー層が楽しめるところ、とのこと。
例えば絶叫マシーンは少なく、子供が安心して乗ることのできる「ゆる~い」アトラクションを多く設営。
また食べ物の持込みOKが特長だ。
つまり高い入場料を払って、高くて詰まらなく、あまり美味しくもないファーストフードに似た料理を食べる必要はまったくなく、実にリーズナブルに楽しめるようになっているという。
そういえば冬はアイススケート、夏はプールが有名であることも、元気な遊園地である印なのかも知れない。

ひらパー100周年。
単なる遊園地の100周年ではないように感じられるところが、ビジネスの模範となりそうで注目してたいところだ。



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寒い日々が続くと晩酌が楽しみになる。

以前、函館を訪れた時に立ち寄ったラーメン屋さんでそこの女将さんと「寒さ」について話をしたことがある。
女将さんによると「函館よりも大阪のほうが寒いですよね」ということだったが、なかなか実感がわかなかった。
北海道の方が断然体感的に寒いと確信していたのだ。

ところが昨日、おとといの寒さを考えると、やはり寒い時の大阪の凍えるような体感温度はなるほど、雪が降りしきる北海道よりももしかした寒のかも知れないと思えるのであった。

函館にいたその日は真冬で雪が降り積もり函館空港を離発着する空の便は欠航。
函館市内見物も箱館山はロープーウェイが運休だったたし、歩いて登るには吹雪になっていて下手をすると八甲田死の行軍になりかねないので、市内を路面電車に乗ってブラブラするしかなかった。
でも、今思い出してみてもそれだけ雪が降ってもメチャクチャ寒いという感じはまったくなかった。
降り積もった新雪をミシミシと踏みしめながら五稜郭の中さえ歩いて見学したものだった。

もしかすると、その時に小さな居酒屋さんで北海道の地酒と小鍋を食べて心と身体が暖かくなったからかも知れないし、ホットビールなる変わりビールを飲んだことも暖かなイメージとして残ることになった原因かもわからない。
なんといってもビールを燗にして飲むなんて発想はそれまでなかったのだから。

燗をするというとやはり日本酒。
最近日本酒人気が丁重で、酒造メーカーはどこもかしこも販売に苦戦しているという。
それと比べると焼酎は善戦していて、居酒屋さんへ行っても清酒よりも焼酎のほうが種類が豊富だったりして私はちょっとがっかりすることがある。
焼酎が嫌い、というわけではなく、日本酒の方がいざというときは食べ物の味を引き出してくれるような気がするのだ。

この嫌いというわけではない焼酎が、最近かなり口に合わなくなってしまって困っている。
きっかけは「燗にした焼酎」を飲んでしまったからであった。

昨年の暮。
忘年会で京都四条河原町にある小さな居酒屋さんで忘年会があった。
京都での飲み会は趣があるようで、無いようで。
しょせんは会社の飲み会なので、場所なんか河原町でも出町柳でも鞍馬でもどこでもいいのだが、この居酒屋さん。何を慌てたのか日本酒の熱燗を注文したら徳利に焼酎を入れ間違えて燗にして持ってきたのが。
運悪くそれを最初に飲んだのが私だった。

「うぇ!これ、焼酎ですやん。焼酎の熱燗なんか、飲まれへんちゅうに」
と指摘する私に、横浜出身の上司が、
「酔っ払いが、何いってんだよ。」
と信じない。
で、再度飲んでみるけれどもやっぱり焼酎。
「飲んでみてくださいって。これ、芋焼酎の熱燗ですよ!」

匂いと独特のアルコールの熱気に気分が悪くなったのは言うまでもない。

考えてみると蒸留酒は燗に向かない。
ビールを燗にして飲めたのは蒸留酒ではないからで、ビールを蒸留したウィスキーの燗、というのももしかあれば飲めたシロモノではないに違いない。

ということで、寒い毎日が続いているが、土佐鶴か司牡丹の辛口のやつで、グイッといきたいと思っている、今日この頃の私なのだ。

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