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たとえば、吉村昭の小説は戦記物も時代物も小説ながらドキュメンタリー的要素の輝きが最大の魅力だ。
その活き活きとした汗の香りも漂ってきそうなくらいリアルな描写は、作者の綿密な取材に裏付けられていたという。

あるエッセイの中で吉村昭は歴史小説の執筆の舞台裏を紹介していた。
それは幕末のリチャードソン事件を扱った「生麦事件」を書いていた時のことで、どうしても事件発生当日のその時の天候がどうしても気になって横浜市鶴見区の現地まで出かけたという。
リチャードソン一行が島津久光の行列に対して無礼を働いた、まさにその時の天気が小説を描写するためにどうしても必要で、資料を探しまわったという。
ようやく、当時、庄屋の主が書いていた緻密な日記を発見し、事件当日の天候を特定。
小説を先に書き進めることができたのだという。

このように、歴史を描くことは並大抵なことではない。
歴史の伝承が、時には人が創造したり、誇張した内容であることも少なくなく、何が真実で何が虚実なのか。
神話のように事実と空想がない混ぜになったものも事実として存在し、判断するのが極めて難しいからだ。

今話題の南京大虐殺などもその例の一つ。
終戦暫く何も言われなかったものが、時間の経過と共に事件が創りだされ、犠牲者の数も時間を追って増えていき、その数はやがて南京の総人口を突破し、ついには国際間の問題へと発展。
方や政権を維持するためのプロパガンダの材料とし、方や政治的タブーをわざわざ作り出し、敗戦後遺症を増幅させ革新政党の宣伝材料と化した。
結果的に事件の物理的証拠は何一つ無く、出てくるのは南京へ進駐した日本軍を大歓迎で迎え入れる南京市民の無頼漢・蒋介石の集団を追っ払ってくれたという安堵感漂う写真ばかりという有様だ。

歴史は作りだされ、アレンジされる。

セス・シュルマン著、吉田三知世訳「グラハム・ベル 空白の12日間の謎」(日経BP)は電話発明にまつわる歴史の謎を扱ったノンフィクション。
実は初めて電話を発明したのはグラハム・ベルではなかった、という衝撃的な事実を扱っている。
MITの研究員でジャーナリストだった著者はまるで探偵のように次々と新しい証拠を見つけ出す。
その過程はスリリングで目が離せない。
今の私たちはベルの特許に関する異議申立て訴訟が10年も続いたことは知らないし、その特許でベル個人はほとんど利益を得ず、婦人が株式の大部分を所持し、おまけにベルはこのあと電話関係の一切から身を引いていたことさえ知らない。
また、この電話発明に関する疑惑が21世紀になって初めて彫り出されたわけではないことも著者は紹介している。
1930年代、1960年代、世紀末にと、幾度も出てきた数々の真実は常に闇に葬られ、

「ワトソンくん、こちらに来てくれたまえ」

という、伝説だけが生き続けている。
その理由と背景は何なのかという疑問が読者の好奇心を捉えるのだ。
そして、このグラハム・ベルの発明物語そのものが、巨大な利権構造のもとに真実を多い隠しているというところに行き着くことに、歴史は利益のためにならウソも真実も創りだすものだということを痛感させてくれる。

ウソと真実の間で生み出される、それが歴史なのかもわからないと、思わせる実に面白いノンフィクションなのであった。

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