萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

萬紅、始暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-11-26 20:05:04 | 陽はまた昇るanother,side story
そうして、ひとつ生まれたものは




萬紅、始暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」

かすかな、…なんの音?

ゆっくり睫を披くと、定まりきらない視界に笑顔が見える。
焦点がゆっくり合わされると、端正な顔が微笑んで覗きこんでいた。
微笑うれしい。名前、呼びたい。

「…えいじ?」

大好きな人の名前が呼べる。うれしくて、周太は微笑んだ。
微笑んで見つめる想いの真中で、きれいに英二が笑ってくれた。

「周太、おはよう」

きれいな低い声が、自分の名前を呼んでくれる。
うれしい。うれしくて、見つめる頬へ右掌を静かに伸べた。
きれいに笑って、周太も答える。

「おはよう、英二、」

右掌すこしだけ惹きよせる。
惹きよせられるまま、静かに白皙の顔が近よせられる。
間近に見つめる瞳、きれいな切長い目に自分が映りこむ。
間近くよせられた唇、ふれる吐息があたたかで。ふれる吐息に結ばれて、そっと唇を周太から重ねた。

「ん、」

重ねて、そっと静かに離れて、微笑んだ。
見つめる切長い目が、うれしそうに笑ってくれた。

「おはようのキス、うれしいよ」
「ん、俺もね、うれしい」

きれいな長い指が、前髪をかきあげてくれる。
気持良いなと伏せた瞳に、ふと英二の左手首が目に映る。
英二の左手首で、クライマーウォッチは9時前の表示だった。
そんなに眠ってしまったんだ。驚いて周太は英二を見た。

「あの、英二、…いつから起きていた?」
「うん?そうだな、最初に起きたのは3時。ちゃんと起きたのは、7時半かな」

随分と寝過ごしてしまった。
その原因は、山から戻った疲れ。でも、ほんとうの原因は、昨夜の“あの時”のせい。
気恥ずかしい、けれどまず謝りたい。周太は唇を披いた。

「…ごめん、俺、ずいぶん寝坊したな」
「謝らないでよ。だって俺、寝顔いっぱい見られて、幸せだったから」

きれいに笑って、白いシーツに頬つけて、見つめてくれる。
その英二の襟元は、きちんとカットソーを着ていた。
先に着替えたんだな。そう気付いた途端、周太の首筋に熱が昇った。

だって自分だけ服をきていないこんなのはずかしいどうしたらいいの?
自分だけこんなかっこうでずっと見つめられていたなんて。
困ってしまうどうしよう。途惑って周太は、くるまるシーツをそっと掻きよせた。
周太の様子を見ていた英二が、おかしそうに微笑んだ。

「周太、恥ずかしい?」

そんなこと訊かないで、わかっているなら。
でもなんだか今は、まだ頭がはたらかない、言葉がそのまま出てしまう。

「…ん、恥ずかしい…だって、ゆうべのあとだから」

目の前で、すこしだけ切長い目が大きくなった。
あ、この顔かわいいな。うれしくて周太は微笑んだ。
切長い目の微笑みかけた顔が、すこし心配そうに訊いてくれる。

「周太、気分どう?」
「ん、いいよ、」

答えて、ん?と思った。
そういえば今朝は、あまり痛くない。気怠さも少ない気がする。
気恥ずかしさは、いつもより、だいぶ、相当ひどいけれど。

「そっか、よかった、」

うれしそうに、英二が笑ってくれる。
こんなふうに心配してくれる、やさしい英二。誰よりも大切な、この隣。
笑いかけながら、英二が訊いてくれる。

「周太、風呂、行きたいだろ?」
「あ、ん。行きたい、な」

答えたと思ったら、シーツごと抱きあげられた。
抱えたままで、英二は歩いて浴室の扉を開けてくれる。
びっくりする隙もないままで、周太をバスタブへと立たせてくれた。

「はい、ゆっくり温まってこいな?」

そっとシーツを脱がせてくれながら、英二は微笑んだ。
微笑んで額にキスをして、見つめてくれる。

「着替、持ってきておくから」

そう言って微笑んで、シャワーカーテンを閉めてくれた。
ほんとうに、恥ずかしがる暇も無いまま。
いつもほんとうに英二は、手際があざやかだ。感心してしまう。

「…ん、」

シャワーの栓を開いて顔を仰むける。
ふりそそぐ湯が温かくて、そっと心がほどけていく。
ゆっくり瞳を閉じて、温かな湯にふれる。頬ぬらす湯が温かい。

昨夜もこうして、温かい湯を浴びた。そうして、ひとつの覚悟をした。
自分の心と体、全てを懸けて「絶対の約束」を英二と結ぶこと。

「…約束、結べた、」

温かい湯に、そっと想いの呟きがこぼれる。
温かな湯に、涙がそっととけていく。

必ず隣へ帰ってきてくれる「絶対の約束」を、昨夜一夜に結ぶことが出来た。
その約束を、きっと英二は全力を懸けて守る。

きのう初雪が降った。
冷たく抱かれる冬山の死が、厳然と起きあがる季節を、迎えてしまった。
凍死、凍傷、滑落、そして雪崩。冬山には死の罠が、密やかに蹲っていく。

そしてこの冬に初めて、英二は山岳救助隊員として雪山遭難の任務に立つ。
初めて立つ、それは経験の少なさに、殊更に危険多いこと。
けれどきっと大丈夫、「絶対の約束」を英二は全力で守るから。
だからきっと大丈夫、雪山からも英二は、必ず無事に帰ってくる。

「ん、…だいじょうぶ、」

呟いて、湯に温まる体をながめてみる。
あわい湯気も透かして、体いっぱいに、赤い花の痕に肌が埋もれている。
赤い花の痣、いつもより尚更に色濃く艶めいて、あざやかに咲いている。

―周太、今夜は、好きなだけ抱かせて
 愛している俺の想い、ぜんぶ周太に刻ませて。そして約束を、刻ませて

そんなふうに英二は、「絶対の約束」を結んでくれた。
そうしてこの赤い花、ひとつ一つに、想いと約束すべてを、深く刻みつけてくれた。

そして昨夜の「好きなだけ」は、初めてのこと。
“初めて”のことに、不安が心を迫あげて、卒業式の夜を想いだした。
“初めて”の、あの一夜で全てを変えられた、翌朝の苦しみを独り抱く途惑い。それが怖いと不安になった。
好きなだけを“初めて”されたなら、自分は変えられて、また独り苦しみ途惑うのか?そう、不安になった。

けれどもう、自分は決めていたから。
あの愛する隣の為になら、きれいな笑顔を見つめられるなら、自分は何だって出来る。
だからもう、不安も苦しみも、痛みだって構わない。あの隣が笑ってくれるなら、それでいい。
そう思って「好きなだけ」を、ゆうべ初めて受け入れた。
愛してほしい、もっとたくさん。
だって約束してくれた「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから」
だから愛して自分のこと、そして必ず帰ってきて。だってその為だけにもう、自分は生きる覚悟をした。

だから昨夜、自分は望んだ、「好きなだけ」を受け入れた。
お互いの全て、心、体、想い全てを懸けて、愛し、愛されることを望んだ。

―愛しているだけ、隣へ、帰ってこられる―

その約束に全て懸け、きれいな笑顔を守る。だから全てを懸けて、愛し愛されて、「絶対の約束」を結んで刻んだ。

心に体に想いを刻まれる、熱が心も体も充たす。
その涯に心も体もほどかれとけて、甘やかに幸せに、深い眠りへ誘われる。
いつもなら誘われて、そのまま眠りへと安らいでいく。
けれど昨夜は「好きなだけ」あの強い腕に抱き起こされ、深い眠りの誘いから惹き戻された、幾度も。
惹き戻されるその度に、自分も愛する隣の唇を求めた。

いっぱいに肌、埋めつくす赤い花。
愛する隣が想いのままに「好きなだけ」刻みつけ、咲かせた花。
殊更に深く、濃く艶めいて、色鮮やかに、強く咲きほこる。右肩には尚深く。
そして右腕の赤い痣、尚更に深く濃い、消えない深紅に刻まれた。

昨夜、一夜で変えられたもの。
右腕の消えない深紅。自分から唇を求める想い。愛する隣の求め全てに応えられる心と体。
そして自分の心深くに、あざやかに刻んだ勇気ひとつ。

そう、昨夜一夜に。
自分の心深い大切な想いの場所に、勇気ひとつ強く刻みこんだ。
そんなふうに変えられた自分は、もう不安にも克つことができる。
だからもう信じて待つことが出来る。必ず無事に自分の元に、愛する隣が帰ってくることを。

「…ん、もう、俺は、大丈夫」

ひとつ頷いて、確かめる想いの呟き。
昨夜一夜に結んだ絶対の約束、想いと勇気が刻まれた自分。
そして奥多摩で過ごしたこの日々の、記憶と想いの全てが、自分と約束を支えてくれる。

初めて名前を呼んだ。
初めて自分からキスをした。
初めて一緒に山の、沈む陽と夜と暁を見つめて、抱きしめられた。
錦繍の紅葉、半分ずつのリンゴ、山の水、ヘリコプターの風。全ての“初めて”がうれしい。

そして、初雪すらも、きっと“初めて”の喜び。
初雪が降った、そのために。
初めて自分から望んで求めて「絶対の約束」を刻んで結んだ。愛する隣の無事の帰りを守る為に。
初めて自分も刻みつけた、愛する隣の肩へと自分の想いを。
そうして、初めて手に入れた、この心深くへ強く刻んだ、ひとつの勇気。

山の傍と山の上とで過ごした、3つの夜と3つの暁。
きっとずっと、どの“初めて”も、自分は忘れることは出来ない。
そしてこの後の4つめの夜は、新宿で次の約束を結べたらいい。
ふたり寄り添う夜と暁を、過ごすため約束を重ねて。
そうして約束を重ねたら、いつも夜と暁を隣で、ふたり見つめる日々が来る。

シャワーの栓を止めて、カーテンを開ける。
髪を拭いて、鏡を覗きこんで、自分の瞳にともる力を見た。
いつのまにか、置いてくれた着替。
置いてくれた想いの人、その優しさに微笑んで、あわい藤色のシャツに袖とおす。
きちんと着替えて、もう一度だけ鏡に瞳を見つめて、それから浴室の扉を開いた。

「着替、ありがとう、」

お礼を言って微笑んだ、見つめた先に笑顔が咲いた。
きれいな笑顔、端正な長身、自分を見つめて立っている。

「うん、シャツ似合ってる。かわいい周太、」
「そう?なら、よかった、」

うれしくて微笑んで、周太は小さなカウンターに立った。
インスタントのドリップコーヒーを、マグカップにセットする。
ゆっくり湯を注いで、芳ばしい香が燻らされた。
注がれた湯は、色も香も変えて、白いマグカップに充ちていく。

フィルターを通って、香り豊かに変わる湯。
自分も昨夜一夜を透されて、ひとつ豊かになっている。
たぶんそれは勇気と自信、そして幸せの記憶が充たすもの。
幸せな想いは今もほら、心に充ちて温かい。心が充ちた、だから体も楽に温かい。

「…ん、しあわせ、だな」

幸せに微笑んで、周太はふたつのマグカップを持った。
サイドテーブルに1つを置いて、1つを英二に手渡す。

「はい、英二」
「ありがとう、」

英二はもう、コーヒーを巧く淹れられる。先週、周太が教えたばかり。
けれど英二は望んでくれた「俺にはさ、一生ずっと周太が淹れてくれること。それなら覚える」
その約束通りに、これからずっと、コーヒーを淹れてあげたい。
そう、ずっと。
だってもう英二は、ずっと隣に帰ってきてくれるから。
そのための「絶対の約束」を昨夜、ふたり繋いで結んで、刻みあったのだから。

買ってきてくれたクロワッサン、きちんと、おいしい。
淹れたコーヒーも、きちんと香も味もする。
同じ“初めて”でもやっぱり、昨夜一夜に変わったものは違う。
ほんの少し気怠さは残る。けれどゆっくり眠らせてくれたお蔭で、ずっと楽なのが解る。
そんなふうに温かな眠りをくれた、想いと気遣いがうれしくて幸せだ。

「周太のコーヒー、うれしいな」

そんなふうに微笑んで、英二は楽しそうに啜ってくれる。
その笑顔がうれしい、微笑んで周太は見つめていた。
のんびり軽い朝食をとりながら、他愛ない話が楽しい。

「周太、美代さんと楽しそうだったね」
「ん、なんか楽しかったな」
「国村がね、周太と美代さんは似ているってさ」

自分でも少し、そう思った。
どこか遠慮がちに問いかける、そこが似ているかもしれない。
この隣は、どう感じたのだろう?

「英二は、どう思った?」
「うん、すこし雰囲気が似ているなって、俺も思うよ」

雰囲気。
この隣が感じた雰囲気は、どこから生まれるのだろう?
美代と一緒にいて楽だったのは、実直さと穏やかな静謐が、英二と似ていたから。
あとは他には、これだろうか。少し考えこんで、周太は唇をひらいた。

「ん、なんか話しやすかったな?俺がね、好きな話ばかりだった」
「気が合うんだな、」

気が合う。そう、そんな感じ。
好きな話ばかりなのは、好みが似ているからだろう。

「そう?…ん、料理や植物をね、よく知っていて、話して楽しかった」

そういう人に会えたのは、周太にとっては初めてのことだった。
今までの他人との会話は、学校の勉強、大学の研究、射撃技術それから警察関係のこと。
あとはただ沈黙して、他人と話す必要が無かった。

そんな中で、英二だけは特別だった。
勉強の話から将来の話、そして誇りの話になった。
それから父の話ができた、悩みの話もできた、それから本の話。

そう、本の話。

父の蔵書は、祖父から受継いだものも多い。そして原書がほとんど。
仏文学の原書が多くて、最初は字面だけを眺めて。けれど内容を知りたくて、辞書ひきながら英文書から読み始めた。
父の軌跡を辿るために必要、そんな義務感だった。それに原書を読むことは、語学の勉強にちょうど良かった。
そうして本を読んでいれば、周りから話しかけられることも無い。
他人から距離を置きたかった自分には、孤独にこもれる読書は好都合だった。
だからずっと、趣味だとか好きだとか、思ったこともなかった。

けれど英二は違った。
初めての外泊日に初めて座った、あの公園のベンチ。
あの場所で初めて、すこしだけ本の話をした。
脱走の原因をつくった彼女と偶然再会して、凍りついた英二の顔。
放っておけなくて、隣に座っていたくて。偶然辿りついたあのベンチに、座ろうと自分から誘った。
誰かに一緒に座ろうと誘った、それも初めてだった。
傷ついた端正な顔、ただ静かに寄り添っていたかった。
だからいつものように、本を開いた。あの日に買ったばかりの本、フランス原書『Le Fantome de l'Opera』
あのベンチに初めて座って、初めてあの本を開いて眺めた。

あの本は、父の書棚にも遺されていた。けれどそれは、壊された本だった。
最初と最後のページしかない、真中がそっくり抜け落ちた本。
不思議だった。他の父の蔵書はどれも、端正な保存に破損は無かったから。
だから尚更あの本に、何が書いてあるのか気になっていた。

そしてあの日、書店で紺青色の表紙を見つけた。
けれど高い場所に納められていて、自分には届かなくて。
そうしたら隣から、長い腕を伸ばして本を掴んで、渡してくれた。
そんなふうに誰かに、さり気なく助けてもらったことは、初めてだった。
だからあの時、隣に英二がいなかったら。あの本も、手に取らなかったかもしれない。

『Le Fantome de l'Opera』
父の蔵書に遺されていた、最初と最後のページ。それだけ読んで、推理小説かなと思っていた。
けれどあの日あの後で、母に指摘された「あら、周が恋愛小説?…有名な恋愛小説だもの」
言われて恥ずかしかった。
だって知りもしない恋愛、それを綴られた本を、英二が取って渡してくれたことが面映ゆかった。
そして恋愛小説だと、英二が知らないでいたことに安心していた。
自分が安心した理由、今なら解る。
無自覚なほど深い心から求める人、その人から。恋愛の物語を渡されて、うれしかったから。
けれどその本心を、相手に知られることが哀しかったから。

だって、
自分は決めていた。父の軌跡を追うために、自分は孤独に生きていく。
その孤独な辛い運命に、想い求める人を巻きこむことは、決して出来ないことだから。
想いが深いほど、本心は知られたくなかった、自覚もしたくなかった。

だって、
孤独に戻るなら、誰かを想う温もりなんて、知るだけ孤独が辛くなる。
だから決して本心は、知らせない、自覚しない、想いの温もりは、孤独には辛いだけ哀しいだけ。
そうして無自覚に心に鍵かけた。いつか来る別れの、その日が辛くないように。

『Le Fantome de l'Opera』
だから本の内容を、英二に訊かれるたびに途惑った。
けれど自分の読む本に、興味を持ってくれる。それがうれしくて、求められるまま説明をした。
英二もわりと、本を読む方だった。だから互いに読んだ、本の話が自然に出来た。
最初は、英二が読書なんて意外だった。いつも賑やかに周りと話していたから。

けれど寮の狭いベッドの上、並んで座って過ごす日々。
穏やかな静謐に佇んで、ゆっくり本を眺める横顔に、気がつくと見惚れて困った。
これがこのひとの素顔。そう気づいた時、初対面の冷酷な瞳を思いだした。
そして気がついた、そう初対面の瞬間からもう、自分はこの素顔を見てしまっていたこと。
実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。それが英二の心、真実の姿。

そしてあの日は、あの主人の店に初めて行った日。
あの日あの店に連れて行ってくれた、そしてあの店は、自分の特別な場所になった。
無自覚なほど深い心から求めている人。そんな人と向き合って、初めて食事した場所だから。
そして1週間前に知った、あの店の主人が、父の殺害犯だったこと。
けれどもう、あの店は自分の特別な場所だった。
だからあの時、あの主人を信じることが出来た、そして事件の真実を聴くことが出来た。
もしあの日、英二が外泊日の食事を誘ってくれなかったら。
そしてもし英二が、自分の隣にいてくれなかったなら。
きっとあの主人も、自分も母も、13年前の事件に執われたまま、冷たい孤独の底にいた。

初めての外泊日。
初めて、誰かに本を手渡された、そして初めて助けられる喜びを知った。
初めて、恋愛小説を買った、そして初めて恋愛を知った。
初めて、誰かと一緒に食事に行った、そして初めての特別な場所が出来た。
初めて、自分から一緒に座ろうと誘った、そして初めて本の話をした。
そうして初めて、あのベンチに座って、ふたり時を過ごした。
あの日も、たくさんの初めてが、ふるように自分に訪れた。そのどれもが、幸せだった。

「なんか、妬けるな」

隣の声に振り向くと、なんだか少し拗ねた顔をしている。
やける?
どういうことだろう、そして何が?
よく解らない、周太は素直に訊いてみた。

「やける?」
「周太がね、他の人と仲良いとさ、俺、嫉妬しちゃうんだ」

やわらかく微笑んで、英二が答えてくれる。
その答えに周太は、驚かされた。

英二が、嫉妬する?
どうして、なぜ、そんなこと?
だってこんなに、きれいな笑顔。なぜ嫉妬なんか?

「英二が、嫉妬?」
「警察学校の時からさ、ずっとそうだよ。俺の身勝手だけどね」

言われてみれば、そうかなと周太は思えた。
よく英二は、周太が他の人と話していると、そっぽ向いた。
そのときが嫉妬の時だったのだろうか。
でも、「ずっと」っていつから?

「ずっと?」
「ああ、ずっと。脱走した夜にさ、周太の部屋で泣かせてもらった。あの夜から」

あの夜から、ずっと?

「ずっとだよ、」

言って、英二が微笑んだ。

警察学校の寮から、英二が脱走した夜。
あの頃の彼女に「妊娠した、死にたい」そう告げられて、英二は規則違反を承知で寮を脱走した。
あの頃には英二は、警察官の道と真剣に向き合い始めていた。
そのことを周太は気づいていた。英二の真摯な素顔が、少しずつ顕れ始めたことに。
だからあの夜、英二の気配に気がついて、引き留めるために隣室の扉を開いた。

―どうしても行くなら、辞めてから行けよ!―

そんなふうに、怒鳴りつけた自分がいた。
警察官になる覚悟を突きつけて、周太は英二を引き留めようとした。
そしてあんなふうに、誰かを怒鳴りつけたのは、周太には初めてのことだった。
あんなにも、真剣に怒ってしまった自分に、驚いて途惑った。

けれど、英二は、彼女の元へと、行ってしまった。

「周太、あの夜ね、」

名前、呼んでくれて嬉しい。周太は隣の瞳を見つめた。
懐かしそうに微笑んで、英二は周太に言った。

「あの夜の俺はね、生まれて初めて憎しみを知ったんだ。自分も相手も、何もかも憎かった」
「…ん、」

そっと静かに、周太は頷いた。
そう、あの夜。戻ってきた英二の瞳は、捨てられた犬のようだった。
真剣に向き合い始めた道、それを捨てても走った想いが、報われなかった。
その痛み哀しみが、切長い瞳から光を奪っていた。

「けれど、」

英二はそっと微笑んだ。

「けれど周太が泣かせてくれた。俺を徹夜勉強に誘って、一晩中を隣ですごして、孤独にしないでくれた」

黙ったまま、周太は見上げて聴いていた。
あの時も同じように、この隣を見つめて話を訊いた。

「あの夜にさ、周太の部屋からもれる光が、俺を待ってくれている一つだけの場所に思えたんだ。だから俺は扉を叩いた」

冷たい嘲笑、端正で冷酷な目、大嫌いだった。
けれどあの時には、端正で冷酷な目の奥底、真実の姿を知っていた。
嘲笑の仮面で覆われた、切長い瞳の底からは、英二の想いの真実が、いつも自分を見つめ返していた。
いつも英二の想いが、ひそやかに自分に問いかけていた。

―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―

問いかけに、自分こそが答えたい。英二の真実の姿、ほんとうの笑顔を見てみたい。
そんな願いが、自覚も出来ないほど深く、深い想いの奥底に生まれていた。
ほんとうはもう、好きだった。だからそんなふうに、密やかな願いを抱いてしまった。

だから、自分から初めて、人の扉をノックした。
あの脱走した夜、引き留めたくて、自分から隣の扉をノックして、扉を開けた

どうしても、隣にいてほしかった。
だってまだ、ひそやかな英二の問いかけに、なにも答えられていないから。

あなたの真実の姿、実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。
あなたの真実の姿、そのままで、生きていて?
そのままの姿で、率直に素直に生きるなら。あなたなら、きっと見つめられる、見つけられる。
生きる意味、生きる誇り。それからあなたに、必要な全て。

そう、答えたかった、伝えたかった。
けれど自分には解らなくて。人へ想いを伝える術も、人の想いを受けとる事も、なにも解らなかった。

脱走を、引き留められなくて。
寮から出ていく背中、ベランダから見つめて。
ただ見つめて、哀しくて、自分は孤独だと思い知らされた。
あなたには、他に帰る場所がある。問いかけて答えを求める相手が、他にいる。

入校式前の出会い、初めて出会ったあのとき。
問いかけられたと思ったのは、自分の思い込みだった?

ほんとうは13年間ずっと叫んでいた。
孤独は寂しい、誰か隣にきてほしい―そんな想いの見せた、哀しい思い込みだったの、かな?
そんな想いと一緒に、ただ背中を見つめていた。
校門のむこうへ去っていく、あなたの背中を見つめる瞳から、ひとすじだけ涙がこぼれた。

それでも引き留めたくて、出ていった隣室の扉を勝手に開けた。
そしてデスクに置き去りにされた「退学届」を勝手に持ち出した。

だから、あのとき。
自分の扉を、叩いて、戻って来てくれた、あのとき。
ほんとうは、救われたのは、自分のほう。あなたの姿が、うれしかった、眩しかった。

「そして、」

きれいに笑って、英二が話してくれる。

「そして周太に抱きしめられて泣いた。あの時ほんとうにね、受けとめてもらえて俺、嬉しかったんだ」

そして、あなたは冷たい仮面を壊して、自分の胸で泣いてくれた。
抱きしめた胸、白いシャツを透して沁みた涙。あなたの涙の温もりを、感じた瞬間、ほんとうに、うれしかった。

「嬉しくて、温かくて、居心地が良くて。それからずっと、周太を見つめてしまっている」

ほんとうは、泣きたかったのは、自分。
ほんとうは、あの夜は、離れたくなかったのは、自分。
だからあのとき、そのまま徹夜勉強に誘って、そのまま一緒に朝を見た。

「…あの時、そんなふうに想ってくれたのか」

ほんとうに?
そうなら、ほんとうにそうなら、どんなにか、うれしいだろう。
きれいな切長い目を、周太は真直ぐ見つめた。
ほんとうに?目でもする問いかけに、きれいに笑って英二は、頷いてくれた。

「あの夜に俺は、孤独と憎悪に捕まりかけていた。それを救ってくれたのは、周太だ。
 あのときから、もうずっと、周太の隣の居心地が好きなんだ。だから俺、つい嫉妬する」

周太はひとつ息をすった。
このひとを、あのとき、自分は救えたの?
孤独と憎悪の暗さから、きれいな笑顔を自分が救った。そういうの?
それならどんなに、うれしいだろう。うれしくて微笑んで、周太は訊いた。

「俺が、英二を救けられたんだ。それなら嬉しい俺…すごく、うれしい」

もうずっと、愛している。そのひとを、自分が救えた。
だっていつも愛するひとは、自分を救ってばかりいる。
だからずっと願っていた、自分こそが救いたい。
うれしくて微笑んだ瞳から、涙がこぼれる。微笑んだまま、周太が告げた。

「いつも俺は、英二に救われている。そんな俺では、英二の重荷になってしまう。そう思って本当は苦しかったんだ」

いつも思っていた、重荷を背負って生きる自分なんて、と。
父の軌跡を追うという重荷、「父の殉職」その枷を外すための、辛い選択の道。
重たくて辛くて、自分で投げ出したい時が、幾度もあった。
けれど自分は解っている、これは逃げるほどに苦しくなる重荷。
だって方法はこれしかない、父の殉職から始まった、冷たい孤独と運命の枷を外す術は。
父の軌跡に遺された、父の真実その想い。その想いの全てを見つめ終わった瞬間に、初めて、重荷は消えるから。

けれどその重荷を、この愛する隣に負わせてしまった。
その痛みが哀しくて、その罪悪感が苦しくて、愛するひとの隣に自分が、居ても良いのか悩んでいた。
だから救いになれるなら。想いに周太は微笑んで、唇を披いた。

「だから、…うれしいんだ。俺も英二の救いになれるなら、俺は英二の隣にいて良い。そう信じられて、嬉しい…」

父の真実と想い、全てに向き合い見つめた時に、枷は外れる。
今はまだその途中、「父の殉職」の繋縛に、自由な自分の人生を、まだ見つめることは出来ない。
けれどいつか、父の真実と想いの、全てに向き合うことが終わる、そんな暁がくる。

その暁にこそ「父の殉職」という繋縛から自由になるだろう。
そうしてその暁には、自分は全ての選択を、唯ひとつの想いの為に選んで生きたい。
その暁からは必ず、この愛する隣の救いの為だけに、生きる道を選びたい。

その暁に明ける時を信じて、今は、辿り始めた父の軌跡を、潔く歩き通して見つめたい。
ただ真直ぐに立って、唯ひとり愛する隣を、唯ひとつの想いに守りながら。

「そうだよ周太、」

うれしそうに幸せそうに、きれいに英二が笑いかけてくれた。

「ずっと隣にいて。周太はね、いつだって俺の救いになっている。だからずっと離れないでよ」
「…ん。」

いつだって、救いに。
ならばもう、ずっと絶対に離れなくていい。
だから今このとき、この想いを告げさせて。きれいに笑って周太は告げた。

「離れない、英二の隣だけにいたい」

今日は4日目、夜が来ればまた、新宿と奥多摩に分かれて暮らす。
けれどこんなにもう、お互いが願っている、離れないで隣にいること。
だから大丈夫、離れずきっと隣にいられる。

きれいに英二が笑いかけてくれる。

「愛してるよ周太、ずっとだ」

そう告げた唇で、そっと周太の唇をふさいだ。
ふれる唇の温もり熱い、甘やかな幸せとけて、想いと一緒にながれくる。
そう今ほんとうに、しあわせで。想いを少しでも多く、今、告げたい

「…ん、英二、俺もね、…ずっと愛している」

ゆっくり離した唇、ふれあう吐息あたたかい。
周太の額に額ふれさせて、きれいに笑って英二が言ってくれた。

「うん、ずっと俺だけを見て、周太。俺もずっと、周太だけだから」

そう、あなただけ。
だから願ってしまう、祈ってしまう、想いの中心に据えていく。
どうかこの愛する隣を、自分こそに守らせて。




(to be continued)

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