Out of human suffering 雪上の夢

第83話 雪嶺 act.22-side story「陽はまた昇る」
雪は音を吸う、その静寂が客のはざま横たわる。
夕食時の喧騒かすかに届く、けれど病室からはまだ遠い。
料理の匂うはずも届かない、ただ穏やかな雪の窓辺に英二は訊いた。
「輪倉さん、ガイドとの経緯を聴かせてくれますか?」
被疑者、犯人、そんな言い方は避けてあげたい。
だから職名で微笑んだ前、官僚は瞳やわらかに細めた。
「渡部君とは高校時代からの友人なんだ、同じ山岳部で飯盒ひとつ食った仲だ、」
旧知の仲、そう懐かしさが初老の貌を温める。
窓の雪灯に半白の髪ほのかに浮ぶ、その微笑ゆるやかに口開いた。
「彼は高校を出て家の畑を継いでな、農閑期の冬は山岳ガイドして金を貯めて、六千峰も登りに行くような山ヤだよ。私は大学の山岳部に入ったが何度も一緒に登ってきた、冬は一度はどこか登ってる。いつも高校時代のまま一緒に笑ってな、その時だけは自由だった、」
自由だった、
この言葉に他人事じゃなくなってしまう。
だって自分と同じだ。
―俺も山にいる時だけはって想ってきた、ずっと、
ずっと、なんて言えるほど自分の登山歴は長くないだろう。
けれど自分には永遠の時間でいる、そんな想いに山ヤの官僚は微笑んだ。
「宮田さん、私は子供のころからずっと偉くなれと言われて育ったよ?東大に行って官僚になれって言われ続けて育ったんだ、だから親には山岳部も出世の激務をこなす体を鍛えるためと言ってたよ。でも本心は、そういう親と家から自由になれる唯一の場所が山だったんだ、その自由は今も変わらないよ、」
ほら自分の心そのままなぞられる。
こういう男だから「試薬」に選ばれたのだろうか?
―観碕ならターゲットも計算して選んだはずだ、俺と似てると見たな?
偉くなれと言われて育った。
そう語られる男の過去も山への想いも自分と似ている、だから今向かいあう?
ならばあの男の意図はなんだろう、底深く覗きこむまま穏やかな笑顔は言った。
「渡部が解放を要求した相手は、渡部のザイルパートナーだ、」
そこにも絆ひとつある?でも解せない。
山ヤは仲間意識が強い、それが相互扶助の原則となり山で助け合う。
お互い危険から守り合っている、だから山仲間で30年つきあえば信頼関係も強い。
それなのに渡部は輪倉を危険に遭わせている、この関係を確かめたくて口はさんだ。
「ザイルパートナーは輪倉さんも同じですよね?」
「学生時代はそうだ、でも今の私では渡部についていくのは難しいよ?だから助けたくて私を人質にしたんだ、」
言って、初老の貌が小さくため息吐く。
その眼ざしどこか遠くて、それでも口もとすこし微笑んだ。
「渡部と彼はエベレストに登る計画をしてたんだがね、もうじきと言うとき逮捕されたんだ。今回の登山で私も聴いたんだが冤罪のようだね、」
おだやかな微笑と声、けれど言葉は厳しい。
警察官の自分は聞き逃せない単語に官僚は続けた。
「渡部は冤罪だと信じて、いつか共に登ろうと彼の釈放を待とうとしてた、でも癌が見つかってな、」
ああ、だからだ?
―余命が急き立てたのか、
なぜ彼が籠城事件まで起こしたのか、もう解かる。
その選択は決して賢明じゃない、それでも責められない本音に告げられた。
「余命は長くて1年だ、約束は今この時を逃せば叶わない。だから渡部は今回の事件を起こしました、」
山の約束が山ヤにどれだけ大切か?
今の自分にはよく解る、自分だって約束いくつも抱えて今日も現場に立った。
山ヤは山に登りたくて日々を生きている、そんな時間のなか穏やかな声は言った。
「いかなる事情も犯罪を正当化する理由にならない、でも助けたくてね…冤罪の再検討と情状酌量を私も訴えようと思います、」
山ヤは山ヤを助けたい、それが自分のザイルパートナーであれば尚更だろう。
けれどそのために誰かを傷つけて良いはずもない、それでも「解かる」からこそ何言えばいいのだろう?
―俺も光一のために命懸けたことがある、北鎌尾根とアイガーと、
あの雪嶺ふたつ、自分は何を望んだのか?
そこで選ぼうとしたことは本心の現実で、だから沈黙する前で官僚は微笑んだ。
「殺さないでくれて、ありがとう、」
半白の髪ゆるやかに下げられる。
雪明かりだけの暗い部屋、それでも初老の頬に光ひとつ伝った。
「スナイパーの彼にも伝えてくれないか、謝罪と、時間をありがとうと…若い君には解り難いかもしれないが、齢重ねると一秒が短く尊いんだ、」
時間をありがとう。
この言葉と似たことを今日すでに聴いた。
そんな人だから喜ぶだろう、その想い穏やかに唇うごいた。
「伝言お預かりします、」
伝えたら、きっと黒目がちの瞳は笑ってくれる。
あの笑顔にまた逢いたい、そう願うまま英二は綺麗に微笑んだ。
「輪倉さん、3分ほど二人で話せますか?」
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】
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英二24歳3月

第83話 雪嶺 act.22-side story「陽はまた昇る」
雪は音を吸う、その静寂が客のはざま横たわる。
夕食時の喧騒かすかに届く、けれど病室からはまだ遠い。
料理の匂うはずも届かない、ただ穏やかな雪の窓辺に英二は訊いた。
「輪倉さん、ガイドとの経緯を聴かせてくれますか?」
被疑者、犯人、そんな言い方は避けてあげたい。
だから職名で微笑んだ前、官僚は瞳やわらかに細めた。
「渡部君とは高校時代からの友人なんだ、同じ山岳部で飯盒ひとつ食った仲だ、」
旧知の仲、そう懐かしさが初老の貌を温める。
窓の雪灯に半白の髪ほのかに浮ぶ、その微笑ゆるやかに口開いた。
「彼は高校を出て家の畑を継いでな、農閑期の冬は山岳ガイドして金を貯めて、六千峰も登りに行くような山ヤだよ。私は大学の山岳部に入ったが何度も一緒に登ってきた、冬は一度はどこか登ってる。いつも高校時代のまま一緒に笑ってな、その時だけは自由だった、」
自由だった、
この言葉に他人事じゃなくなってしまう。
だって自分と同じだ。
―俺も山にいる時だけはって想ってきた、ずっと、
ずっと、なんて言えるほど自分の登山歴は長くないだろう。
けれど自分には永遠の時間でいる、そんな想いに山ヤの官僚は微笑んだ。
「宮田さん、私は子供のころからずっと偉くなれと言われて育ったよ?東大に行って官僚になれって言われ続けて育ったんだ、だから親には山岳部も出世の激務をこなす体を鍛えるためと言ってたよ。でも本心は、そういう親と家から自由になれる唯一の場所が山だったんだ、その自由は今も変わらないよ、」
ほら自分の心そのままなぞられる。
こういう男だから「試薬」に選ばれたのだろうか?
―観碕ならターゲットも計算して選んだはずだ、俺と似てると見たな?
偉くなれと言われて育った。
そう語られる男の過去も山への想いも自分と似ている、だから今向かいあう?
ならばあの男の意図はなんだろう、底深く覗きこむまま穏やかな笑顔は言った。
「渡部が解放を要求した相手は、渡部のザイルパートナーだ、」
そこにも絆ひとつある?でも解せない。
山ヤは仲間意識が強い、それが相互扶助の原則となり山で助け合う。
お互い危険から守り合っている、だから山仲間で30年つきあえば信頼関係も強い。
それなのに渡部は輪倉を危険に遭わせている、この関係を確かめたくて口はさんだ。
「ザイルパートナーは輪倉さんも同じですよね?」
「学生時代はそうだ、でも今の私では渡部についていくのは難しいよ?だから助けたくて私を人質にしたんだ、」
言って、初老の貌が小さくため息吐く。
その眼ざしどこか遠くて、それでも口もとすこし微笑んだ。
「渡部と彼はエベレストに登る計画をしてたんだがね、もうじきと言うとき逮捕されたんだ。今回の登山で私も聴いたんだが冤罪のようだね、」
おだやかな微笑と声、けれど言葉は厳しい。
警察官の自分は聞き逃せない単語に官僚は続けた。
「渡部は冤罪だと信じて、いつか共に登ろうと彼の釈放を待とうとしてた、でも癌が見つかってな、」
ああ、だからだ?
―余命が急き立てたのか、
なぜ彼が籠城事件まで起こしたのか、もう解かる。
その選択は決して賢明じゃない、それでも責められない本音に告げられた。
「余命は長くて1年だ、約束は今この時を逃せば叶わない。だから渡部は今回の事件を起こしました、」
山の約束が山ヤにどれだけ大切か?
今の自分にはよく解る、自分だって約束いくつも抱えて今日も現場に立った。
山ヤは山に登りたくて日々を生きている、そんな時間のなか穏やかな声は言った。
「いかなる事情も犯罪を正当化する理由にならない、でも助けたくてね…冤罪の再検討と情状酌量を私も訴えようと思います、」
山ヤは山ヤを助けたい、それが自分のザイルパートナーであれば尚更だろう。
けれどそのために誰かを傷つけて良いはずもない、それでも「解かる」からこそ何言えばいいのだろう?
―俺も光一のために命懸けたことがある、北鎌尾根とアイガーと、
あの雪嶺ふたつ、自分は何を望んだのか?
そこで選ぼうとしたことは本心の現実で、だから沈黙する前で官僚は微笑んだ。
「殺さないでくれて、ありがとう、」
半白の髪ゆるやかに下げられる。
雪明かりだけの暗い部屋、それでも初老の頬に光ひとつ伝った。
「スナイパーの彼にも伝えてくれないか、謝罪と、時間をありがとうと…若い君には解り難いかもしれないが、齢重ねると一秒が短く尊いんだ、」
時間をありがとう。
この言葉と似たことを今日すでに聴いた。
そんな人だから喜ぶだろう、その想い穏やかに唇うごいた。
「伝言お預かりします、」
伝えたら、きっと黒目がちの瞳は笑ってくれる。
あの笑顔にまた逢いたい、そう願うまま英二は綺麗に微笑んだ。
「輪倉さん、3分ほど二人で話せますか?」
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】

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