“Flidais”― 海、遥かな約束

第56話 潮汐act.3―another,side story「陽はまた昇る」
あまい潮の香が前髪ひるがえし、周太は目を細めた。
ゆれる髪透かした向う、青い海がひろやかに空と迎えてくれる。
そっと降りたテラコッタの床は温かい、スリッパ履きの足元を可憐な草花が風ゆれる。
ふわり花々の馥郁が頬を撫でて、広々としたテラスの風景に周太は綺麗に笑った。
「きれい…」
夏バラの薄紅と白が、青い海と空に香を送る。
千日紅の赤と白、金蓮花の黄色とオレンジに光がおどらす。
ローズマリーの薄紫やさしくて、ペチュニアの白と紫がシックに美しい。
星のようなアベリアの植込み、桔梗の紫紺、葡萄色のアイビーゼラニウム。
奥の可愛らしい家庭菜園には、プチトマトの赤に茄子紺と胡瓜の緑も見える。
木洩陽ふるカウチは居心地良さそうで、緑陰に涼しいテーブルセットの木目が優しい。
…ほんとうに空中庭園だね?
心のつぶやきに溜息と微笑こぼれてしまう。
こんな庭を作りだす二人の老婦人が、英二の縁故にいてくれる。それが嬉しくなってしまう。
嬉しい気持ちに眺める緑のなか、薄紅のダリアに周太は気がついた。
「あ、」
駐車場から入るエントランス、サイドテーブルには薄紅の花が優しい表情に活けられていた。
あのダリアとこの花は似ている、あの活け方の雰囲気はこの老婦人に相応しい?
そんな感想に周太は優しい青紫の瞳に笑いかけた。
「あの、エントランスの花を活けたのは菫さんですか?」
「そうです、よく解りましたね?周太さんも花を活けるの?」
周太の言葉に青紫の瞳は微笑んだ。
白いカフェエプロン姿の手は、人の為に遣ってきた優しい皺が刻まれている。
あの優しい花を活けた手に会えた、嬉しくなって周太は率直に微笑んだ。
「はい、茶花ですけれど活けます…さっき、あのダリアを見て僕、緊張が楽になれたんです。ありがとうございました、」
「私の花が、周太さんの役に立ったのですね?うれしいわ、」
楽しそうに青紫の瞳が笑ってくれる、その眼差しに嬉しくなる。
穏やかな菫色に心ほどかれる、訪問の緊張が消えていく。
…なんだか不思議で、すてきなひとだな?
不思議な優しい菫色に、父が読んでくれたイギリスの物語が蘇える。
それは不思議な力を持ったナニーと子供達の物語だった、いま隣にいるナニーも不思議な力を持っていそう?
そんなことを思いながら見た白い紫陽花の向こう、きれいなキャメル色に周太は瞳を大きくした。
「あの、あそこにいるのって、」
訊きかけた周太の言葉に青紫の瞳は微笑んで、軽く口笛ひとつ吹いた。
雲雀の鳴くような音にキャメルブラウンは立ち上がり、軽やかな足音に走り寄る。
すぐ足元に行儀よく座ると可愛い三角耳を立て、黒い瞳が見上げてくれた。
「海、周太さんですよ?」
アルトヴォイスの紹介に、やわらかな尻尾を振ってくれる。
やさしい明るい色の中型犬を見つめて、周太は明るく笑いかけた。
「こんにちは、カイ?」
呼びかけに黒い瞳は嬉しそうに見上げて、右手をあげてくれる。
うれしくなって周太はしゃがみこむと、なめらかな毛にくるまれた手を掌に受けた。
「ありがとう、仲良くしてくれるの?」
「クン、」
可愛く鼻を鳴らして、キャメルの鼻づらを寄せてくれる。
そっと白い顎を撫でると瞳細めてくれる、嬉しくて微笑んだ周太に菫は言ってくれた。
「海は周太さんを好きになったようですね?とても嬉しそうだわ、」
「ほんとうに?…うれしいな、カイ、俺も好きだよ?」
笑いかけるとキャメルの犬は寝転んで、白いお腹を見せてくれる。
このポーズの意味が嬉しくて、綺麗に微笑んで周太はやわらかなお腹を撫でた。
「ありがとう、カイ?かわいいね、きれいなお腹だね、」
真白な毛並みは優しく掌ふれる、その向こう温もりが柔らかい。
温かな陽射しのなか犬を撫でる隣、すらりとした長身もしゃがみこんで笑いかけてくれた。
「海はね?去年の秋に、海で顕子さんが拾ってきたのです。それで『海』と書いて、カイなのですよ、」
犬を拾ってくる、そういう優しさが英二の祖母にある。
それはとても納得できてしまう、あの涼やかな切長い目は、父とそっくりな目は見過ごす事は出来ない筈だから。
こんな確信が自然と出来てしまう、それが不思議で、嬉しくて周太は海の犬に笑いかけた。
「海の子なんですね?…素敵だね、海?」
言葉につぶらな瞳が見つめて、起きあがる。
そっとキャメルの犬は周太の懐にすりよって、甘えるよう鼻をならしてくれた。
「すっかり懐いてしまいましたね、周太さんは犬と暮らした事があるのですか?」
感心したようアルトヴォイスが訊いてくれる。
その質問に記憶がひとつ蘇えって、切なさと喜びに周太は微笑んだ。
「ありません、でも、本当は一緒に暮らす約束でした、」
「どんな約束を?」
優しいアルトが尋ねて、青紫の瞳が見つめてくれる。
よかったら話してみて?そんなトーンの眼差しに周太は素直に口を開いた。
「僕が10歳になったら、犬の友達を連れて来てくれる。そう父が約束してくれたんです…でも、その前に亡くなったので」
―…周、10歳の誕生日には、犬の友達を連れてくるよ?…その子も一緒に山に登ろうね、
懐かしい声が今、キャメルの犬に映りこむ。
あの約束はもちろん母も知っているだろう、けれど母も復職して犬を育てる余裕が無くなった。
まだ10歳の自分には、家事をしながら子犬を育てることも出来なかった。何より約束の記憶すら喪っていた。
けれど今、懐かしい父の約束がキャメルブラウンの犬に蘇えってくれる。
…海のお蔭で思いださせてもらったよ?ありがとう…いい子だね、
微笑んで撫でる手に、つぶらな瞳は嬉しそうに見つめてくれる。
こういう子と暮らしたかったな?そんな想い微笑んだ周太に、穏やかなアルトヴォイスが言ってくれた。
「大丈夫です。いつかきっと、その犬と出会えますよ?お父さまが連れて来るはずだった子とね、」
父が連れて来るはずだった犬と、いつか本当に出会えるのだろうか?
あの約束は果たされる?そんな望みに周太は青紫の瞳を見つめた。
「ほんとうですか?…約束は、叶えられますか?」
「ええ、きっとね、」
見つめた青紫の瞳は穏やかに微笑んでくれる。
潮風に銀髪を煌めかせながら、深いアルトの声は静かに教えてくれた。
「犬は、主人との結びつきが強いと言います。その通りに周太さんも、お父さまと約束した瞬間に犬との縁は定まっています。
いつか出会ったときは、お互いに自分たちを解かりますよ?周太さんと出会うべき日が来ることを、彼も待っているはずですから、」
優しい声の言葉は、ふるい秘密のお伽噺のよう響く。
その温もりに心ゆるめられて、瞳から熱がこぼれだした。
「…あ、」
泣かないと決めていた、それなのに涙が墜ちていく。
泣き声は無い、けれど涙は静かに頬つたう、その軌跡を柔らかい温もりが舐めてくれた。
「…海?なぐさめてくれるの?」
「くん、」
やさしく鼻を鳴らして、つぶらな瞳が見つめてくれる。
その無言の優しさが温かい、嬉しくて周太は綺麗に笑った。
「ありがとう、海?…菫さん、ありがとうございます、」
「本当のことを言っただけよ?」
優しい青紫の瞳が微笑んで、そっと腕を伸ばしてくれる。
ふわり、菫の香と青いストライプのシャツが頬ふれて、静かな温もりは犬ごと周太を抱きしめた。
「大丈夫、きっと出会えます。その子にも、たくさんの友達にも、幸せなことにも出会えます。そういう約束をしているのだから、」
「ん…約束しているの?」
やわらかな香から見上げて、青紫の瞳を周太は見つめた。
見つめた瞳は穏やかに笑いかけて、アルトヴォイスは教えてくれた。
「はい、お父さまが約束をしていますよ?自分の息子が幸せになれるよう、周太さんが生まれる前からずっと、」
自分が生まれる前からの約束。
その言葉に黒い瞳が心に映って、その名前が言葉になった。
「小十郎…?」
父が贈ってくれた、優しい瞳のテディベア。
いつも忙しかった父、その代わりに息子の傍にいるようにと願いを籠めて贈ってくれた。
困ったとき寂しいとき、抱っこして語り掛けると心が明るんで良い考えが浮ぶ、不思議なテディベア。
あの優しいクマのぬいぐるみが、父の約束なのだろうか?
「コジュウロウ?それは、お父さまからの贈り物の名前?」
アルトの声は優しく尋ねてくれる。
その声に周太は素直に笑いかけた。
「はい、僕が生まれる前から父が連れて来てくれた、テディベアなんです。小十郎って名前も父が付けてくれて…宝物なんです」
23歳の男がテディベアを「宝物」だなんて、きっと変だと解っている。
けれど大切な宝物であることは本当、父の想いのためにも嘘を吐きたくない。
そんな想いに羞みながら笑った周太に、優しい声は微笑んでくれた。
「素敵な宝物ね?きっとコジュウロウのように、お父さまは沢山の宝物を周太さんに贈っていますよ、いつかその全てに出会えるわ、」
これは本当よ?
そう青紫の瞳は微笑んでくれる、その瞳は温かい勁さに充ちて、美しい。
…こういう瞳は好き、
こういう人には初めて会うな?
どこか不思議な雰囲気のナニーに周太は、素直なまま微笑んだ。
「はい、ありがとうございます…ね、菫さん、お手伝い出来る事はありますか?」
このひとが贈ってくれた優しさに、すこしでもお返ししたい。
そんな思いに願い出た周太を見つめて、幸せそうな笑顔がほころんだ。
「お手伝いしてくれるんですか?うれしいですね、」
嬉しそうに青紫の瞳が笑ってくれる。
その優しい掌は周太の手をとって、一緒に立ちあがってくれると優しく言ってくれた。
「ではね、まず一緒にお茶を飲みましょう。顕子さんと英二さんとお喋りしながら、何をお願いするか考えますね?」
「あ、…お待たせしていますね?」
言われて思いだして、周太はすこし困ってしまった。
つい時間を過ごしてしまった、テラスの空中庭園が綺麗で、海が可愛くて、菫との話が嬉しくて時間を忘れた。
また自分はうっかりしてしまったな?羞みながらも今のひと時が幸せで、嬉しいまま周太は踵を返した。
その足元をキャメルの犬も付いて来てくれる、嬉しくて周太は笑いかけた。
「海も一緒に、お茶してくれるの?」
笑いかけた先、楽しげに尻尾を振って答えてくれる。
お茶のメニューに、犬も一緒に楽しめるものがあるかな?そう考えたときアルトヴォイスは教えてくれた。
「海はスコンが好きなのです、少しあげてくれますか?」
scone、スコンは自分も好き。
父も好きで休日は時おり焼いてくれた、自分も手伝って一緒に作って、いつも楽しかった。
そんな優しい記憶も犬も嬉しくて、並んで歩くエプロン姿へと微笑んだ。
「あの、僕があげても良いんですか?」
「ええ、もちろん。周太さんの手からもらったら喜ぶわ、そうでしょう、海?」
やわらかなアルトヴォイスの言葉に、キャメルの尻尾を振ってくれる。
こんなに仲良くしてくれて嬉しい、嬉しいままリビングの窓を覗くと安楽椅子で英二が白猫を膝に乗せている。
寛いだ笑顔で話しながら、ゆったり白皙の手に美しい猫を撫でる。その優雅に見惚れて周太は羞んだ。
…ほんとうに王子さまみたい、
天鵞絨張りの瑠璃色は白皙の肌に映え、ダークブラウンの髪とコントラストが美しい。
ライトグレーのスラックス包む長い脚は端正で、黒いブルゾンの肩は広やかに頼もしい。
綺麗な婚約者に羞んでしまう、そして、その膝に寝そべる白い猫が可愛い。
…ちょっと毛が長めで可愛いな…うれしそうにしてる、英二のこと大好きなんだね?
黒い服の美青年と綺麗な白い猫、ほんとうに美しい絵みたい。
きれいでつい見惚れている横顔に、楽しげなトーンで菫が笑いかけてくれた。
「可愛いでしょう?あの子は、雪っていうんです、」
「ゆき?」
優しいアルトヴォイスに振り向くと、青紫の瞳が微笑んでくれる。
その瞳は青い海を見遣って、懐かしむよう教えてくれた。
「もう5年前ですね、寒い雪の日に英二さんが拾ってきたんです。だから『雪』と英二さんが名前を決めました、」
「英二に…」
つぶやいて窓越し見つめてしまう、あの猫と自分が重なるようで。
この青紫の瞳をしたナニーは、周太と英二のことを知っているのだろうか?
そんな考え廻らせかけた隣から、やさしいアルトヴォイスは笑いかけてくれた。
「もしかしたら雪は、周太さんに嫉妬するかもしれませんね?英二さんをとられると思って、」
「え、」
驚いて見つめた先で、青紫の瞳が楽しげに微笑んでくれる。
そして楽しい内緒話をするよう菫は言ってくれた。
「婚約者なのでしょう?とても幸せな笑顔で教えてくれましたよ、英二さん。周太さんも幸せなのでしょう?」
そんなふうにもう話してくれたの?
嬉しくて気恥ずかしくて首筋が熱くなる、もう真赤だろう。
こんな時どうしたら良いのだろう、こんなこと慣れていないのに?それでも周太は綺麗に微笑んだ。
「はい…僕も幸せです、」
素直に微笑んだ周太に、青紫の瞳が優しく温かに笑ってくれる。
そしてアルトヴォイスは謳うように言ってくれた。
「よかった。それもきっと、約束の魔法ですね?」
言祝ぐよう微笑んで、菫はリビングの窓を開いてくれた。
いま言ってくれた言葉が温かい、優しい温もりと窓を潜って周太は綺麗に笑いかけた。
「英二?すごく可愛いね、海」
「カイ?」
綺麗な低い声に、周太の足元からキャメルの犬が顔を出した。
やわらかな三角の耳を立て、つぶらな黒い瞳は白皙の貌を見つめている。その様子に英二は綺麗に微笑んだ。
「お祖母さん、いつ拾ってきたんですか?」
「去年の秋よ、可愛いでしょう?海って書いてカイなのよ、」
楽しげに顕子が長い指を差し伸べると、嬉しげに海は走り寄ってサブリナパンツの足元にきちんと座った。
姿勢の良いキャメルブラウンにブルーの首輪がよく似合う、可愛いなと見ていると英二が笑った。
「お祖母さんは、いつも拾ってばかりいますね?」
「あら、雪は英二が拾ってきたのでしょう?それを私の所に連れてきて、」
可笑しそうに答えながら顕子は、長い指にティーポットを持ちながら周太に笑いかけてくれる。
その笑顔に笑い返した周太に、やさしく背中押してくれながら菫は教えてくれた。
「顕子さんが呼んでるわ、隣に座ってあげて?」
「はい、」
素直に微笑んで周太は、顕子の座るソファに並んで腰かけた。
ふわり、豊潤な花の香が頬なでる。自分も好きな香が嬉しくて周太は微笑んだ。
「いい香…ナポレオンですか?」
「あら、よく知ってますね?紅茶が好きなのかしら?」
嬉しげに顕子が尋ねてくれる。
尋ねられて周太は羞みながら微笑んだ。
「このお茶は、たまに母が飲むんです。それで知っています。あと、友達が紅茶を好きなんです、」
この紅茶は父が好きだった、ときおり母は父の話に微笑んでこの紅茶を楽しんでいる。
それで美代が3月に来てくれた時もこの紅茶を出して、美代も好きだと教えてくれた。
この大好きなふたりを想いながら笑いかけた周太に、顕子は楽しげに提案してくれた。
「じゃあ、お母さまとお友達は、私と趣味が同じね?こんど、良かったら連れてきて頂戴な?皆でティーパーティーしましょう」
楽しげな笑顔で、周太にティーカップを勧めてくれる。
ほんとうに皆でお茶を飲んだら楽しそうだな?カップを受け取りながら周太は訊いてみた。
「ありがとうございます…あの、本当によろしいんですか?」
「嫌なら誘いませんよ?若いお友達が来てくれたら楽しいもの。いつでも良いから連絡頂戴ね、メアド交換しましょう?」
嬉しそうに顕子はサブリナパンツのポケットに手を入れると、ゴールドベージュの携帯電話を取出した。
それに微笑んで周太も携帯電話を取出すと、赤外線受信でアドレス交換を始めた。
「車で来るなら駐車場もありますからね、遠慮なく英二を運転手に遣って頂戴な、」
「はい、あ…」
素直に頷いてしまって、周太は赤くなった。
人様の孫を「遣う」だなんて失礼だろうに?申し訳ない気持ちで周太は言い直した。
「…でも、悪いです、」
「悪いことなんか無いわよ?英二の顔も見られたら、私も菫さんも嬉しいですからね、」
楽しげに切長い目は笑って、周太に話しかけてくれる。
涼やかな切長い目は見るほど父とそっくりで、どこか懐かしげで温かく優しい。
どうしてこんなに父と同じ目なのだろう?不思議に思いながら周太はキャメルの犬に微笑んで、顕子に訊いてみた。
「あの、海にスコンを少し、あげてもいいですか?好きって教わったんですけど、」
「ええ、もちろんよ?ほら、もうすっかり待っているわね、」
嬉しそうに笑って顕子は、周太の膝に真白なリネンを広げてくれる。
スコンの粉で汚さないように。そんな配慮の温もりに微笑んで温かいスコンを取ると、さっくり割った。
ふわりバターの香がやさしい、小さくちぎると掌に載せてキャメルの犬に笑いかけた。
「海、どうぞ?」
「くん、」
嬉しそうに鼻を鳴らすと、ナプキンの上で周太の掌から食べてくれる。
かわいい鼻づらを眺めながら半個分をあげると、残りの半分にクロテッドクリームを塗って口にした。
「ん、おいし、」
やさしい甘みとバターの芳ばしさが口にひろがる。
ほろりとける生地を飲みこみ紅茶を啜りこむ。華やかな花の香が喉をおりて、周太は率直に微笑んだ。
「スコンもお茶も、すごく美味しいです。なにか、コツがあるんですか?」
「普通に作るだけですよ、」
優しいアルトで菫は嬉しそうに答えてくれる。
その青紫の瞳が周太を見、楽しい内緒話のように微笑んだ。
「でもね、私なりの魔法が入っているかもしれません、」
この青紫の瞳なら、魔法を使えるかもしれない?
そう納得できてしまう、優しい不思議がこのナニーにはある気がして。
こんな想像に微笑んで膝のナプキンを畳むと、空いた膝に白猫が軽やかに跳び乗った。
「あ、…こんにちは、雪?」
木洩陽のようなグリーンの瞳が見上げてくれる。
小首傾げて細い声で一声鳴くと、可愛い頭をカーディガンの胸にすり寄せてくれた。
「かわいいね…仲良くしてくれるの?」
「にぁ、」
まるで解かるよう鳴いて、雪は膝の上に座りこんでくれる。
やわらかな温もりが黒藍のパンツを透かして、ふんわりと重みが優しい。
寛いだよう猫は香箱を組んで目を細める、そんな様子に青紫の瞳が快活に笑ってくれた。
「周太さんは、緑の指だけじゃなくてソロモンの指輪も持っていますね?Flidaisみたいです、」
“Flidais”
アルトヴォイスの言葉に、記憶が1つ姿をもどす。
この言葉を自分は知っている、その自覚に唇が単語をくりかえした。
「フリディス…」
―…ケルトの森にはね、草花や木、それから動物たちの神さまがいるんだ…“Flidais”って名前の女神さまだよ、周?
森の女神さま?…僕、森は大好きだけど…フリディスさま、僕とも仲良くしてくれるかな?
そうだね、周なら仲良くしてもらえるかもね?…周は本当に森も植物も大好きだから、いつか会えるかもしれない
「…ケルト神話の、森の植物と動物の神さまですよね?」
懐かしい声に辿る遠い記憶、それが言葉に変わって周太は微笑んだ。
そんな周太に青紫の瞳はひとつ瞬いて、優しいアルトヴォイスは楽しげに訊いてくれた。
「よくご存知ですね?イギリスの文学も好きなんですか?」
「父が色々、読み聞かせてくれたんです…僕が植物を好きなので、フリディスのことも話してくれて」
“Flidais” 美しい森の守護神。
遠い国の森に住む女神の物語は、とても不思議で楽しかった。
いま目の前に広がる青い海、その遥か彼方に女神の森はあるという。そこに自分もいつか行ける?
そんな想い微笑んだ周太に、アルトヴォイスは楽しそうに訊いてくれた。
「良いお父さまですね、日本の方でFlidaisをご存知なのは珍しいでしょう?」
「あ…そうなんですか?でも、父は物知りなほうかなとは、思います、」
正直な答えに父の自慢をしてしまう。
物知りで穏やかで、山と文学を愛する父を自分は今も大好きで、誇らしい。
父は贖罪の死を選ぶほど任務に苦しんでいた、けれど、苦悩の底ですら父は世界の美しさを忘れていなかった。
それを今こうして蘇える記憶の欠片たちが教えてくれる、そんな父こそ自分は誇らしくて、心から愛している。
だからすこし自慢してみたかった、そんな想い羞んだ周太に低く美しい声が笑いかけてくれた。
「周太くんは本が好きなのね、英二や英理と同じね。食べ物なら何が好きなの?」
「オレンジが好きです、ココアと、チョコレートのお菓子も…あとらーめんすきです」
最後の言葉だけ恥ずかしくなって、頬が熱くなってくる。
この意味に顕子と菫は気づいてしまうかもしれない?
…らーめんはえいじがすきだから好きになったんだもの
気恥ずかしくてティーカップに口付けると啜りこんで、ほっと息を吐く。
その吐息に膝から翠の瞳が「どうしたの?」と見上げてくれる、その瞳に嬉しくて微笑んだとき顕子が提案してくれた。
「菫さんはね、とても美味しいオレンジのガトーショコラを焼けるのよ。菫さん、今、作ってあげられる?」
「はい、お土産にして頂いても良いですね?ちょっと買物に行ってきます、カイ、お散歩行きましょう」
気さくに笑って立ち上がるエプロン姿に、キャメルの犬も立ち上がった。
つぶらな瞳がこちらを見あげて「一緒に行こう?」と言うよう尻尾を振ってくれる。
…海と一緒に行きたいな?でも、中座は失礼だから…
そう黒い瞳に笑いかけた周太に、キャメルの犬が首傾げてくれる。
おいでよ?そんなふう尻尾を振って海は菫の方へ行き、姿勢よく座りこんだ。
そのブルーの首輪に白い手はリードを付けていく、それを見つめていると綺麗な低い声が笑いかけてくれた。
「周太?カイの散歩に行きたいんだろ、一緒に行ってきていいよ?」
ほら、英二はまた気がついてくれる。
いつもそう、言わなくても周太がどうしたいか気がついて、願いを叶えてくれる。
それが嬉しくて幸せになる、けれど中座になるのが顕子に申し訳なくて、短く周太は答えた。
「…でも、」
中座は申し訳ないな?
そう英二と顕子の顔を見た周太に、涼やかな切長の目は笑って促してくれた。
「海のお散歩コース、なかなか良いわよ?よかったら行ってらっしゃいな、百日紅が見事なお家もあるわよ、」
「さるすべり…きれいですよね」
花の名前を言われて、嬉しくなって微笑んでしまう。
見に行きたいな?こんなふう勧めてくれるなら中座させて貰おうかな?
そんな想いに首傾げた周太に、優しいアルトヴォイスがキャメルの犬と笑いかけた。
「深紅の見事な花ですよ、青い海に映えて綺麗で。よかったらご一緒してくださいな、カイも喜びます、」
行きましょう?そう青紫の瞳が笑ってくれる。
その穏やかで楽しげな眼差しが嬉しくて、もっと話してみたいと思ってしまう。その気持ち素直に周太は微笑んだ。
「じゃあ、ご一緒させてください、」
答えて周太は、膝の白い猫をそっと抱きあげた。
機嫌よく喉を鳴らしてくれる白い顔に頬よせる、やさしい毛並を透かす温もりが優しい。
いつもこうして触れ合えたら良いな?そんな想いと婚約者の前に佇んで周太は微笑んだ。
「英二、行ってくるね?…雪、またあとでね」
白い猫に微笑みかけて、そっと長い脚の膝におろす。
きれいな翠の瞳は周太を見、すぐ膝の上に寛いで呑気に香箱を組んだ。
そんな愛猫の姿を見つめる、睫あざやかな切長の目がきれいで、つい見惚れかけながらも周太は踵を返した。

(to be continued)
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第56話 潮汐act.3―another,side story「陽はまた昇る」
あまい潮の香が前髪ひるがえし、周太は目を細めた。
ゆれる髪透かした向う、青い海がひろやかに空と迎えてくれる。
そっと降りたテラコッタの床は温かい、スリッパ履きの足元を可憐な草花が風ゆれる。
ふわり花々の馥郁が頬を撫でて、広々としたテラスの風景に周太は綺麗に笑った。
「きれい…」
夏バラの薄紅と白が、青い海と空に香を送る。
千日紅の赤と白、金蓮花の黄色とオレンジに光がおどらす。
ローズマリーの薄紫やさしくて、ペチュニアの白と紫がシックに美しい。
星のようなアベリアの植込み、桔梗の紫紺、葡萄色のアイビーゼラニウム。
奥の可愛らしい家庭菜園には、プチトマトの赤に茄子紺と胡瓜の緑も見える。
木洩陽ふるカウチは居心地良さそうで、緑陰に涼しいテーブルセットの木目が優しい。
…ほんとうに空中庭園だね?
心のつぶやきに溜息と微笑こぼれてしまう。
こんな庭を作りだす二人の老婦人が、英二の縁故にいてくれる。それが嬉しくなってしまう。
嬉しい気持ちに眺める緑のなか、薄紅のダリアに周太は気がついた。
「あ、」
駐車場から入るエントランス、サイドテーブルには薄紅の花が優しい表情に活けられていた。
あのダリアとこの花は似ている、あの活け方の雰囲気はこの老婦人に相応しい?
そんな感想に周太は優しい青紫の瞳に笑いかけた。
「あの、エントランスの花を活けたのは菫さんですか?」
「そうです、よく解りましたね?周太さんも花を活けるの?」
周太の言葉に青紫の瞳は微笑んだ。
白いカフェエプロン姿の手は、人の為に遣ってきた優しい皺が刻まれている。
あの優しい花を活けた手に会えた、嬉しくなって周太は率直に微笑んだ。
「はい、茶花ですけれど活けます…さっき、あのダリアを見て僕、緊張が楽になれたんです。ありがとうございました、」
「私の花が、周太さんの役に立ったのですね?うれしいわ、」
楽しそうに青紫の瞳が笑ってくれる、その眼差しに嬉しくなる。
穏やかな菫色に心ほどかれる、訪問の緊張が消えていく。
…なんだか不思議で、すてきなひとだな?
不思議な優しい菫色に、父が読んでくれたイギリスの物語が蘇える。
それは不思議な力を持ったナニーと子供達の物語だった、いま隣にいるナニーも不思議な力を持っていそう?
そんなことを思いながら見た白い紫陽花の向こう、きれいなキャメル色に周太は瞳を大きくした。
「あの、あそこにいるのって、」
訊きかけた周太の言葉に青紫の瞳は微笑んで、軽く口笛ひとつ吹いた。
雲雀の鳴くような音にキャメルブラウンは立ち上がり、軽やかな足音に走り寄る。
すぐ足元に行儀よく座ると可愛い三角耳を立て、黒い瞳が見上げてくれた。
「海、周太さんですよ?」
アルトヴォイスの紹介に、やわらかな尻尾を振ってくれる。
やさしい明るい色の中型犬を見つめて、周太は明るく笑いかけた。
「こんにちは、カイ?」
呼びかけに黒い瞳は嬉しそうに見上げて、右手をあげてくれる。
うれしくなって周太はしゃがみこむと、なめらかな毛にくるまれた手を掌に受けた。
「ありがとう、仲良くしてくれるの?」
「クン、」
可愛く鼻を鳴らして、キャメルの鼻づらを寄せてくれる。
そっと白い顎を撫でると瞳細めてくれる、嬉しくて微笑んだ周太に菫は言ってくれた。
「海は周太さんを好きになったようですね?とても嬉しそうだわ、」
「ほんとうに?…うれしいな、カイ、俺も好きだよ?」
笑いかけるとキャメルの犬は寝転んで、白いお腹を見せてくれる。
このポーズの意味が嬉しくて、綺麗に微笑んで周太はやわらかなお腹を撫でた。
「ありがとう、カイ?かわいいね、きれいなお腹だね、」
真白な毛並みは優しく掌ふれる、その向こう温もりが柔らかい。
温かな陽射しのなか犬を撫でる隣、すらりとした長身もしゃがみこんで笑いかけてくれた。
「海はね?去年の秋に、海で顕子さんが拾ってきたのです。それで『海』と書いて、カイなのですよ、」
犬を拾ってくる、そういう優しさが英二の祖母にある。
それはとても納得できてしまう、あの涼やかな切長い目は、父とそっくりな目は見過ごす事は出来ない筈だから。
こんな確信が自然と出来てしまう、それが不思議で、嬉しくて周太は海の犬に笑いかけた。
「海の子なんですね?…素敵だね、海?」
言葉につぶらな瞳が見つめて、起きあがる。
そっとキャメルの犬は周太の懐にすりよって、甘えるよう鼻をならしてくれた。
「すっかり懐いてしまいましたね、周太さんは犬と暮らした事があるのですか?」
感心したようアルトヴォイスが訊いてくれる。
その質問に記憶がひとつ蘇えって、切なさと喜びに周太は微笑んだ。
「ありません、でも、本当は一緒に暮らす約束でした、」
「どんな約束を?」
優しいアルトが尋ねて、青紫の瞳が見つめてくれる。
よかったら話してみて?そんなトーンの眼差しに周太は素直に口を開いた。
「僕が10歳になったら、犬の友達を連れて来てくれる。そう父が約束してくれたんです…でも、その前に亡くなったので」
―…周、10歳の誕生日には、犬の友達を連れてくるよ?…その子も一緒に山に登ろうね、
懐かしい声が今、キャメルの犬に映りこむ。
あの約束はもちろん母も知っているだろう、けれど母も復職して犬を育てる余裕が無くなった。
まだ10歳の自分には、家事をしながら子犬を育てることも出来なかった。何より約束の記憶すら喪っていた。
けれど今、懐かしい父の約束がキャメルブラウンの犬に蘇えってくれる。
…海のお蔭で思いださせてもらったよ?ありがとう…いい子だね、
微笑んで撫でる手に、つぶらな瞳は嬉しそうに見つめてくれる。
こういう子と暮らしたかったな?そんな想い微笑んだ周太に、穏やかなアルトヴォイスが言ってくれた。
「大丈夫です。いつかきっと、その犬と出会えますよ?お父さまが連れて来るはずだった子とね、」
父が連れて来るはずだった犬と、いつか本当に出会えるのだろうか?
あの約束は果たされる?そんな望みに周太は青紫の瞳を見つめた。
「ほんとうですか?…約束は、叶えられますか?」
「ええ、きっとね、」
見つめた青紫の瞳は穏やかに微笑んでくれる。
潮風に銀髪を煌めかせながら、深いアルトの声は静かに教えてくれた。
「犬は、主人との結びつきが強いと言います。その通りに周太さんも、お父さまと約束した瞬間に犬との縁は定まっています。
いつか出会ったときは、お互いに自分たちを解かりますよ?周太さんと出会うべき日が来ることを、彼も待っているはずですから、」
優しい声の言葉は、ふるい秘密のお伽噺のよう響く。
その温もりに心ゆるめられて、瞳から熱がこぼれだした。
「…あ、」
泣かないと決めていた、それなのに涙が墜ちていく。
泣き声は無い、けれど涙は静かに頬つたう、その軌跡を柔らかい温もりが舐めてくれた。
「…海?なぐさめてくれるの?」
「くん、」
やさしく鼻を鳴らして、つぶらな瞳が見つめてくれる。
その無言の優しさが温かい、嬉しくて周太は綺麗に笑った。
「ありがとう、海?…菫さん、ありがとうございます、」
「本当のことを言っただけよ?」
優しい青紫の瞳が微笑んで、そっと腕を伸ばしてくれる。
ふわり、菫の香と青いストライプのシャツが頬ふれて、静かな温もりは犬ごと周太を抱きしめた。
「大丈夫、きっと出会えます。その子にも、たくさんの友達にも、幸せなことにも出会えます。そういう約束をしているのだから、」
「ん…約束しているの?」
やわらかな香から見上げて、青紫の瞳を周太は見つめた。
見つめた瞳は穏やかに笑いかけて、アルトヴォイスは教えてくれた。
「はい、お父さまが約束をしていますよ?自分の息子が幸せになれるよう、周太さんが生まれる前からずっと、」
自分が生まれる前からの約束。
その言葉に黒い瞳が心に映って、その名前が言葉になった。
「小十郎…?」
父が贈ってくれた、優しい瞳のテディベア。
いつも忙しかった父、その代わりに息子の傍にいるようにと願いを籠めて贈ってくれた。
困ったとき寂しいとき、抱っこして語り掛けると心が明るんで良い考えが浮ぶ、不思議なテディベア。
あの優しいクマのぬいぐるみが、父の約束なのだろうか?
「コジュウロウ?それは、お父さまからの贈り物の名前?」
アルトの声は優しく尋ねてくれる。
その声に周太は素直に笑いかけた。
「はい、僕が生まれる前から父が連れて来てくれた、テディベアなんです。小十郎って名前も父が付けてくれて…宝物なんです」
23歳の男がテディベアを「宝物」だなんて、きっと変だと解っている。
けれど大切な宝物であることは本当、父の想いのためにも嘘を吐きたくない。
そんな想いに羞みながら笑った周太に、優しい声は微笑んでくれた。
「素敵な宝物ね?きっとコジュウロウのように、お父さまは沢山の宝物を周太さんに贈っていますよ、いつかその全てに出会えるわ、」
これは本当よ?
そう青紫の瞳は微笑んでくれる、その瞳は温かい勁さに充ちて、美しい。
…こういう瞳は好き、
こういう人には初めて会うな?
どこか不思議な雰囲気のナニーに周太は、素直なまま微笑んだ。
「はい、ありがとうございます…ね、菫さん、お手伝い出来る事はありますか?」
このひとが贈ってくれた優しさに、すこしでもお返ししたい。
そんな思いに願い出た周太を見つめて、幸せそうな笑顔がほころんだ。
「お手伝いしてくれるんですか?うれしいですね、」
嬉しそうに青紫の瞳が笑ってくれる。
その優しい掌は周太の手をとって、一緒に立ちあがってくれると優しく言ってくれた。
「ではね、まず一緒にお茶を飲みましょう。顕子さんと英二さんとお喋りしながら、何をお願いするか考えますね?」
「あ、…お待たせしていますね?」
言われて思いだして、周太はすこし困ってしまった。
つい時間を過ごしてしまった、テラスの空中庭園が綺麗で、海が可愛くて、菫との話が嬉しくて時間を忘れた。
また自分はうっかりしてしまったな?羞みながらも今のひと時が幸せで、嬉しいまま周太は踵を返した。
その足元をキャメルの犬も付いて来てくれる、嬉しくて周太は笑いかけた。
「海も一緒に、お茶してくれるの?」
笑いかけた先、楽しげに尻尾を振って答えてくれる。
お茶のメニューに、犬も一緒に楽しめるものがあるかな?そう考えたときアルトヴォイスは教えてくれた。
「海はスコンが好きなのです、少しあげてくれますか?」
scone、スコンは自分も好き。
父も好きで休日は時おり焼いてくれた、自分も手伝って一緒に作って、いつも楽しかった。
そんな優しい記憶も犬も嬉しくて、並んで歩くエプロン姿へと微笑んだ。
「あの、僕があげても良いんですか?」
「ええ、もちろん。周太さんの手からもらったら喜ぶわ、そうでしょう、海?」
やわらかなアルトヴォイスの言葉に、キャメルの尻尾を振ってくれる。
こんなに仲良くしてくれて嬉しい、嬉しいままリビングの窓を覗くと安楽椅子で英二が白猫を膝に乗せている。
寛いだ笑顔で話しながら、ゆったり白皙の手に美しい猫を撫でる。その優雅に見惚れて周太は羞んだ。
…ほんとうに王子さまみたい、
天鵞絨張りの瑠璃色は白皙の肌に映え、ダークブラウンの髪とコントラストが美しい。
ライトグレーのスラックス包む長い脚は端正で、黒いブルゾンの肩は広やかに頼もしい。
綺麗な婚約者に羞んでしまう、そして、その膝に寝そべる白い猫が可愛い。
…ちょっと毛が長めで可愛いな…うれしそうにしてる、英二のこと大好きなんだね?
黒い服の美青年と綺麗な白い猫、ほんとうに美しい絵みたい。
きれいでつい見惚れている横顔に、楽しげなトーンで菫が笑いかけてくれた。
「可愛いでしょう?あの子は、雪っていうんです、」
「ゆき?」
優しいアルトヴォイスに振り向くと、青紫の瞳が微笑んでくれる。
その瞳は青い海を見遣って、懐かしむよう教えてくれた。
「もう5年前ですね、寒い雪の日に英二さんが拾ってきたんです。だから『雪』と英二さんが名前を決めました、」
「英二に…」
つぶやいて窓越し見つめてしまう、あの猫と自分が重なるようで。
この青紫の瞳をしたナニーは、周太と英二のことを知っているのだろうか?
そんな考え廻らせかけた隣から、やさしいアルトヴォイスは笑いかけてくれた。
「もしかしたら雪は、周太さんに嫉妬するかもしれませんね?英二さんをとられると思って、」
「え、」
驚いて見つめた先で、青紫の瞳が楽しげに微笑んでくれる。
そして楽しい内緒話をするよう菫は言ってくれた。
「婚約者なのでしょう?とても幸せな笑顔で教えてくれましたよ、英二さん。周太さんも幸せなのでしょう?」
そんなふうにもう話してくれたの?
嬉しくて気恥ずかしくて首筋が熱くなる、もう真赤だろう。
こんな時どうしたら良いのだろう、こんなこと慣れていないのに?それでも周太は綺麗に微笑んだ。
「はい…僕も幸せです、」
素直に微笑んだ周太に、青紫の瞳が優しく温かに笑ってくれる。
そしてアルトヴォイスは謳うように言ってくれた。
「よかった。それもきっと、約束の魔法ですね?」
言祝ぐよう微笑んで、菫はリビングの窓を開いてくれた。
いま言ってくれた言葉が温かい、優しい温もりと窓を潜って周太は綺麗に笑いかけた。
「英二?すごく可愛いね、海」
「カイ?」
綺麗な低い声に、周太の足元からキャメルの犬が顔を出した。
やわらかな三角の耳を立て、つぶらな黒い瞳は白皙の貌を見つめている。その様子に英二は綺麗に微笑んだ。
「お祖母さん、いつ拾ってきたんですか?」
「去年の秋よ、可愛いでしょう?海って書いてカイなのよ、」
楽しげに顕子が長い指を差し伸べると、嬉しげに海は走り寄ってサブリナパンツの足元にきちんと座った。
姿勢の良いキャメルブラウンにブルーの首輪がよく似合う、可愛いなと見ていると英二が笑った。
「お祖母さんは、いつも拾ってばかりいますね?」
「あら、雪は英二が拾ってきたのでしょう?それを私の所に連れてきて、」
可笑しそうに答えながら顕子は、長い指にティーポットを持ちながら周太に笑いかけてくれる。
その笑顔に笑い返した周太に、やさしく背中押してくれながら菫は教えてくれた。
「顕子さんが呼んでるわ、隣に座ってあげて?」
「はい、」
素直に微笑んで周太は、顕子の座るソファに並んで腰かけた。
ふわり、豊潤な花の香が頬なでる。自分も好きな香が嬉しくて周太は微笑んだ。
「いい香…ナポレオンですか?」
「あら、よく知ってますね?紅茶が好きなのかしら?」
嬉しげに顕子が尋ねてくれる。
尋ねられて周太は羞みながら微笑んだ。
「このお茶は、たまに母が飲むんです。それで知っています。あと、友達が紅茶を好きなんです、」
この紅茶は父が好きだった、ときおり母は父の話に微笑んでこの紅茶を楽しんでいる。
それで美代が3月に来てくれた時もこの紅茶を出して、美代も好きだと教えてくれた。
この大好きなふたりを想いながら笑いかけた周太に、顕子は楽しげに提案してくれた。
「じゃあ、お母さまとお友達は、私と趣味が同じね?こんど、良かったら連れてきて頂戴な?皆でティーパーティーしましょう」
楽しげな笑顔で、周太にティーカップを勧めてくれる。
ほんとうに皆でお茶を飲んだら楽しそうだな?カップを受け取りながら周太は訊いてみた。
「ありがとうございます…あの、本当によろしいんですか?」
「嫌なら誘いませんよ?若いお友達が来てくれたら楽しいもの。いつでも良いから連絡頂戴ね、メアド交換しましょう?」
嬉しそうに顕子はサブリナパンツのポケットに手を入れると、ゴールドベージュの携帯電話を取出した。
それに微笑んで周太も携帯電話を取出すと、赤外線受信でアドレス交換を始めた。
「車で来るなら駐車場もありますからね、遠慮なく英二を運転手に遣って頂戴な、」
「はい、あ…」
素直に頷いてしまって、周太は赤くなった。
人様の孫を「遣う」だなんて失礼だろうに?申し訳ない気持ちで周太は言い直した。
「…でも、悪いです、」
「悪いことなんか無いわよ?英二の顔も見られたら、私も菫さんも嬉しいですからね、」
楽しげに切長い目は笑って、周太に話しかけてくれる。
涼やかな切長い目は見るほど父とそっくりで、どこか懐かしげで温かく優しい。
どうしてこんなに父と同じ目なのだろう?不思議に思いながら周太はキャメルの犬に微笑んで、顕子に訊いてみた。
「あの、海にスコンを少し、あげてもいいですか?好きって教わったんですけど、」
「ええ、もちろんよ?ほら、もうすっかり待っているわね、」
嬉しそうに笑って顕子は、周太の膝に真白なリネンを広げてくれる。
スコンの粉で汚さないように。そんな配慮の温もりに微笑んで温かいスコンを取ると、さっくり割った。
ふわりバターの香がやさしい、小さくちぎると掌に載せてキャメルの犬に笑いかけた。
「海、どうぞ?」
「くん、」
嬉しそうに鼻を鳴らすと、ナプキンの上で周太の掌から食べてくれる。
かわいい鼻づらを眺めながら半個分をあげると、残りの半分にクロテッドクリームを塗って口にした。
「ん、おいし、」
やさしい甘みとバターの芳ばしさが口にひろがる。
ほろりとける生地を飲みこみ紅茶を啜りこむ。華やかな花の香が喉をおりて、周太は率直に微笑んだ。
「スコンもお茶も、すごく美味しいです。なにか、コツがあるんですか?」
「普通に作るだけですよ、」
優しいアルトで菫は嬉しそうに答えてくれる。
その青紫の瞳が周太を見、楽しい内緒話のように微笑んだ。
「でもね、私なりの魔法が入っているかもしれません、」
この青紫の瞳なら、魔法を使えるかもしれない?
そう納得できてしまう、優しい不思議がこのナニーにはある気がして。
こんな想像に微笑んで膝のナプキンを畳むと、空いた膝に白猫が軽やかに跳び乗った。
「あ、…こんにちは、雪?」
木洩陽のようなグリーンの瞳が見上げてくれる。
小首傾げて細い声で一声鳴くと、可愛い頭をカーディガンの胸にすり寄せてくれた。
「かわいいね…仲良くしてくれるの?」
「にぁ、」
まるで解かるよう鳴いて、雪は膝の上に座りこんでくれる。
やわらかな温もりが黒藍のパンツを透かして、ふんわりと重みが優しい。
寛いだよう猫は香箱を組んで目を細める、そんな様子に青紫の瞳が快活に笑ってくれた。
「周太さんは、緑の指だけじゃなくてソロモンの指輪も持っていますね?Flidaisみたいです、」
“Flidais”
アルトヴォイスの言葉に、記憶が1つ姿をもどす。
この言葉を自分は知っている、その自覚に唇が単語をくりかえした。
「フリディス…」
―…ケルトの森にはね、草花や木、それから動物たちの神さまがいるんだ…“Flidais”って名前の女神さまだよ、周?
森の女神さま?…僕、森は大好きだけど…フリディスさま、僕とも仲良くしてくれるかな?
そうだね、周なら仲良くしてもらえるかもね?…周は本当に森も植物も大好きだから、いつか会えるかもしれない
「…ケルト神話の、森の植物と動物の神さまですよね?」
懐かしい声に辿る遠い記憶、それが言葉に変わって周太は微笑んだ。
そんな周太に青紫の瞳はひとつ瞬いて、優しいアルトヴォイスは楽しげに訊いてくれた。
「よくご存知ですね?イギリスの文学も好きなんですか?」
「父が色々、読み聞かせてくれたんです…僕が植物を好きなので、フリディスのことも話してくれて」
“Flidais” 美しい森の守護神。
遠い国の森に住む女神の物語は、とても不思議で楽しかった。
いま目の前に広がる青い海、その遥か彼方に女神の森はあるという。そこに自分もいつか行ける?
そんな想い微笑んだ周太に、アルトヴォイスは楽しそうに訊いてくれた。
「良いお父さまですね、日本の方でFlidaisをご存知なのは珍しいでしょう?」
「あ…そうなんですか?でも、父は物知りなほうかなとは、思います、」
正直な答えに父の自慢をしてしまう。
物知りで穏やかで、山と文学を愛する父を自分は今も大好きで、誇らしい。
父は贖罪の死を選ぶほど任務に苦しんでいた、けれど、苦悩の底ですら父は世界の美しさを忘れていなかった。
それを今こうして蘇える記憶の欠片たちが教えてくれる、そんな父こそ自分は誇らしくて、心から愛している。
だからすこし自慢してみたかった、そんな想い羞んだ周太に低く美しい声が笑いかけてくれた。
「周太くんは本が好きなのね、英二や英理と同じね。食べ物なら何が好きなの?」
「オレンジが好きです、ココアと、チョコレートのお菓子も…あとらーめんすきです」
最後の言葉だけ恥ずかしくなって、頬が熱くなってくる。
この意味に顕子と菫は気づいてしまうかもしれない?
…らーめんはえいじがすきだから好きになったんだもの
気恥ずかしくてティーカップに口付けると啜りこんで、ほっと息を吐く。
その吐息に膝から翠の瞳が「どうしたの?」と見上げてくれる、その瞳に嬉しくて微笑んだとき顕子が提案してくれた。
「菫さんはね、とても美味しいオレンジのガトーショコラを焼けるのよ。菫さん、今、作ってあげられる?」
「はい、お土産にして頂いても良いですね?ちょっと買物に行ってきます、カイ、お散歩行きましょう」
気さくに笑って立ち上がるエプロン姿に、キャメルの犬も立ち上がった。
つぶらな瞳がこちらを見あげて「一緒に行こう?」と言うよう尻尾を振ってくれる。
…海と一緒に行きたいな?でも、中座は失礼だから…
そう黒い瞳に笑いかけた周太に、キャメルの犬が首傾げてくれる。
おいでよ?そんなふう尻尾を振って海は菫の方へ行き、姿勢よく座りこんだ。
そのブルーの首輪に白い手はリードを付けていく、それを見つめていると綺麗な低い声が笑いかけてくれた。
「周太?カイの散歩に行きたいんだろ、一緒に行ってきていいよ?」
ほら、英二はまた気がついてくれる。
いつもそう、言わなくても周太がどうしたいか気がついて、願いを叶えてくれる。
それが嬉しくて幸せになる、けれど中座になるのが顕子に申し訳なくて、短く周太は答えた。
「…でも、」
中座は申し訳ないな?
そう英二と顕子の顔を見た周太に、涼やかな切長の目は笑って促してくれた。
「海のお散歩コース、なかなか良いわよ?よかったら行ってらっしゃいな、百日紅が見事なお家もあるわよ、」
「さるすべり…きれいですよね」
花の名前を言われて、嬉しくなって微笑んでしまう。
見に行きたいな?こんなふう勧めてくれるなら中座させて貰おうかな?
そんな想いに首傾げた周太に、優しいアルトヴォイスがキャメルの犬と笑いかけた。
「深紅の見事な花ですよ、青い海に映えて綺麗で。よかったらご一緒してくださいな、カイも喜びます、」
行きましょう?そう青紫の瞳が笑ってくれる。
その穏やかで楽しげな眼差しが嬉しくて、もっと話してみたいと思ってしまう。その気持ち素直に周太は微笑んだ。
「じゃあ、ご一緒させてください、」
答えて周太は、膝の白い猫をそっと抱きあげた。
機嫌よく喉を鳴らしてくれる白い顔に頬よせる、やさしい毛並を透かす温もりが優しい。
いつもこうして触れ合えたら良いな?そんな想いと婚約者の前に佇んで周太は微笑んだ。
「英二、行ってくるね?…雪、またあとでね」
白い猫に微笑みかけて、そっと長い脚の膝におろす。
きれいな翠の瞳は周太を見、すぐ膝の上に寛いで呑気に香箱を組んだ。
そんな愛猫の姿を見つめる、睫あざやかな切長の目がきれいで、つい見惚れかけながらも周太は踵を返した。

(to be continued)
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