萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 曙空act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-10 23:00:40 | 陽はまた昇るanother,side story
「ごめんなさい」の約束に想いこめて、




第35話 曙空act.5―another,side story「陽はまた昇る」

光一の祖母の農家レストランは、のどやかな森のなかに佇んでいた。
いまは冬で雪残る森だけれど、春になれば花が咲く気配がそこかしこに眠っている。
きっと春は、やさしい花たちが明るくて綺麗だろうな?
きれいな光景の予祝に微笑んで、周太は光一に付いて店内へと入った。

「ばあちゃん、連れて来たよ、」

愉しげなテノールの声がカウンターの奥へ呼びかけてくれる。
立派な梁の古民家を改装した店内を見あげていると、奥から気配がして周太は振り向いた。
振向いた視線を愉しげな明るい目が受けとめてくれる、その目の持ち主は温かに微笑んだ。

「あらまあ、ほんとに可愛い子ね。こんにちは、周太くん?光一の祖母です」
「あ、あの、こんにちは。…すみません、急にお邪魔してしまって、」

名前で呼ばれて驚きながらも周太はきちんとお辞儀をした。
急に来てしまったことも気恥ずかしくて、ついまた首筋が熱くなってくる。
また顔が赤くなってしまうな?困りながらも顔をあげると光一の祖母が愉しげに笑ってくれた。

「まあ、ほんと赤くなって可愛いのね?可愛い子は大歓迎よ、急でもなんでも、いつでも遊びに来て頂戴な。さ、座って?」

居心地良いソファに座らせてくれると、温かいほうじ茶をすぐに出してくれた。
茶を勧めてくれるエプロン姿の彼女は、気さくで明るい人柄が笑顔にやさしく表れている。
祖母とは言うけれど、彼女の若やいで弾んだ空気は母親と言った方が自然な雰囲気だった。
ずいぶん若いお祖母さんなんだな?そう見ていると彼女は周太に笑いかけてくれた。

「あら、こんなお婆ちゃんは珍しいかな?ちょっと私、賑やか過ぎってよく言われちゃうのよね、」
「あ、いえ、…お若くて、お母さんみたいな感じだな、って思って…あ、すみません、」

思ったままをつい言ってしまって周太はまた赤くなった。
不躾なことを言ってしまった?そんな気恥ずかしさに困っていると彼女は嬉しそうに笑ってくれた。

「あらあ、うれしいこと言ってくれるのね?ほんと可愛い、光一とは大違いだわ。あんたもね、ちょっと見習いなさいよ、」
「無茶言うなよ、ばあちゃん。ハードル高すぎ、無理、」

祖母から急に矛先向けられても底抜けに明るい目は「またか、」と笑っている。
笑って、ほうじ茶を啜りながら光一は飄々と呑気な顔で答えた。

「周太、ほんとに可愛いだろ?だからさ、俺はちょっと見習えないね。育てた本人が一番わかるよね、ばあちゃん?」
「あんたって、ほんと可愛くないわね。宮田くんもだけど友達は可愛いのに?あ、周太くんは宮田くんとも仲良しなのでしょ?」

ほんと可愛くないと言いながら、彼女は孫の光一を愛しげに見て微笑んでいる。
どうやら口達者なのは祖母とこの孫はよく似ているらしい?なんだかそんな遺伝が温かくて周太は微笑んだ。

「はい、英二…あ、宮田とは、警察学校から一緒です」
「あら、周太くんも警察官だったの?」

ちょっと驚いたように周太の顔を見る彼女の目が「意外ね、」と微笑んでくれる。
そんな祖母に光一はからり笑って答えてくれた。

「俺、言わなかったっけ?周太はね、宮田の同期なんだよ。で、警察学校の時からさ、あいつ、ずっと周太を可愛がってるよ」
「可愛がってる、のとこしか聴いてないわね。うん、宮田くんが可愛がるの納得ね。私も周太くん、可愛がらせてほしいもの?」

楽しそうに話しながら彼女は周太に笑いかけてくれる。
気さくで率直な人柄が温かい、こういう人は自分は好きだなと周太は素直に微笑んだ。
それにしても、こんなに「可愛い」と言われてばかりいるのを、警察学校の同期達が知ったら驚くだろう。
春になったら初任科総合で皆と再会するだろうけれど、今の自分を見たら皆はどんな反応をするのだろう?
そう考えている横で底抜けに明るい目は「当然だね」と笑った。

「だろ?俺もね、そりゃ周太を可愛がってるよ。美代にも聴いただろ?」
「聴いてるわよ、美代ちゃんも周太くんのことが大好きだって言ってたわ。
さっきもね、周太くんの話を楽しそうにしてたわよ?いま美代ちゃん、裏の畑で手入れしてくれてるのよ。呼んでこようか?」

裏の畑はいつも美代が手入れをしているらしい、いったい美代はどんな畑を作っているのだろう。
どんなところか見てみたい、素直に周太は訊いてみた。

「あの、俺が裏の畑に行っても、良いですか?」
「ええ、良いわよ?そこの扉から出てね、小道を右に回るとすぐよ、」

頷きながら光一の祖母は立ち上がると、庭へ通じる扉へと案内してくれた。
やさしい気遣いが嬉しくて微笑んで礼を言うと、周太は扉を開いた。
樹木の気配が雪の冷気に薫って頬を撫でていく、聴いたとおりに周太は小道を右へと回りこんだ。
そこには冬の野菜たちが陽ざしに温まるなかで、頬を赤くしながら美代がしゃがみこんでいた。

「美代さん、」

見つけた友達の姿がうれしくて、周太は呼びかけた。
弾んだ声に気がついてすぐ美代の顔があげられる、そして周太を見つめてれた。

「…湯原くん!」

驚いた顔で、けれど嬉しそうな笑顔がすぐ咲いて立ち上がってくれる。
赤いエプロンと白いダウンジャケット姿が森の濃い緑にあざやかで、きれいだなと周太は微笑んだ。

「急に、ごめんね?でも、会いたかったんだ」
「うれしい、私もね、ほんとは昨夜、もっと話したかったの。ね、もしかして、昨日あの後に奥多摩へ来たの?」

嬉しそうに笑って軍手を外しながら美代が訊いてくれる。
自分のわがままも、自分の正直な想いも、恥ずかしい。それでも周太は素直な想いを答えた。

「ん…あの後ね、俺、英二に無理を言って、連れて来てもらったんだ。
ほんとはね…昨日は、朝から俺、一緒に奥多摩へ行こうって、勝手に決めていて…わがままだけど、ごめんね?」

「ね、どうして謝るの?」

不思議そうに美代が訊いてくれる。
こんな自分の本音は恥ずかしい、けれど周太は正直に言った。

「自分から、美代さんにも英二にも、デートしたら、って言ったのにね?…寂しかったんだ。
俺ってね、欲張りで…英二を独り占めしたい、でも美代さんのこと大好きだから、喜んでほしくて、デート勧めたんだ。
でも、やっぱり英二と一緒にいたくて。それで、二人が奥多摩へ帰る時に一緒に行こうって…仲間外れになりたくなかったんだ」

なんてみっともないのだろう?
言っていて自分で恥ずかしい、けれどこんな姿が今の自分なのだから仕方ない。
正直な気持ちをそのまま周太は口にした。

「ごめんね、美代さん。俺って、ほんとうに、わがままなんだ。ずるくて欲張りで…ごめんなさい」

こんな自分でも美代は、友達だと言ってくれるのだろうか?
言い終えて、ひとつ呼吸すると不安に周太は見つめていた。
けれど美代は周太に心から明るく笑ってくれた。

「どうして謝るの?恋人同士なら一緒にいたいの、当たり前なのでしょ?それなのに謝っていたら、恋なんて出来ないんじゃない?」

きれいに明るく笑って美代はちいさな掌に、周太の両掌をとってくれる。
そして真直ぐ周太の瞳へ笑いかけながら実直に口を開いた。

「私だってね、湯原くんのこと大好きで、でも宮田くんのことも憧れてるのよ?
宮田くん、すてきだから。憧れは『恋』になっちゃうかもよ?私も独り占めしたくなるのよ、きっと。
そうしたら、私と湯原くん同じになるよ?そのとき、もしお互い謝っていたら『ごめんなさい』しか台詞が無くなっちゃう、ね?」

いつもどおりの明快な論理で美代は楽しく話してくれる。
こういう明朗な美代が自分は大好き、やっぱり友達でいてほしい。
こんな自分でも受けとめてくれる?そんな想いと周太が見つめる先で美代はきれいに笑ってくれた。

「ね、『ごめんなさい』しか台詞が無いなんて?そんなの嫌よ、私。
もっと他のこと、いっぱい話したい。植物のこと、料理のこと、本のこと。いっぱい、湯原くんと話したいの。
だからね、そんな『ごめんなさい』ばっかり言っている暇は、きっと無いと思うのよ?…だからね、私達、約束しよう?」

「約束?」

そっと周太は訊いてみた。
楽しそうに美代は頷いて周太の目を見て言ってくれた。

「お互いにね、宮田くんのことで『ごめんなさい』を言うのは、ここぞ、って時だけにするの。
ね、湯原くんはもう、婚約しているんでしょ?だからね、いつか結婚するでしょ?その時にだけ、ちょっと私に謝って?」

いつか英二の籍に周太が入ること。
その話を周太は前に電話でしたことがあった、その時は何気なく話してしまった。
けれど今、美代はどんな気持ちでいるのだろう?締めつけられる想いが痛い、けれど今、美代は笑ってくれている。
だから自分も一緒に笑っていたい、ひとつ呼吸して周太は美代に微笑んだ。

「ちょっと、謝るの?」
「そう、ちょっと謝って?『ずっと独り占めすること本決まりです、ごめんね?』って感じで。そうしたらね、私も謝らせて?」

すこし言葉を切って、気恥ずかしげに美代は微笑んだ。
どうか許してね?そんなふうに綺麗な明るい目が告げてくれる。
告げながら、微笑んだ可愛らしい声が恥ずかしそうに、率直な想いを告げてくれた。

「あのね、…まだ、憧れだけど。でもね、宮田くんて、ほんとに素敵だと思うのね?
だから、きっと、私、すごく好きになると思う。だからね…きっと、宮田くんと湯原くんがね、結婚しても。
私はずっと好きだと思う。だから、謝りたいのよ?『人の旦那様を好きでいるけど、ごめんなさい』って言いたいの、その時には」

どこまでも実直な美代の言葉。
こんなこと言ってくれる友達が自分にいてくれる、言い得ぬ想いが瞳に昇っていく。
ひとしずく涙を頬にこぼしながら周太はきれいに笑った。

「ん、わかった。その時はね、謝るね?…きっと英二と俺は結婚すると思う、それが英二の約束だから。
でも、英二だって美代さんのこと、好きになるかもしれない。だって俺は、英二と違う気持ちで、美代さん大好きだから。
だからね…きっと、いろんな好きがある、と想う。だから英二も、美代さんをね、俺とは違う気持ちで、好きになるかもしれない」

ひとつ息吐いて周太は美代の目を真直ぐ見た。
どうか今この時に、率直に想いが言えますように。願いに祈るよう周太は口を開いた。

「でも俺は、英二と一緒にいたい。美代さんにとられたくない。
俺は、美代さんのこと好き…でも俺は、遠慮しない。英二にね、好きでいてもらう努力するよ?
だから、美代さんも俺に遠慮しないで?…英二を自由に好きになって、恋、して?そうしたら、英二もなにか応えるかもしれない」

きれいな明るい目で美代が真直ぐ見つめてくれている。
この目にどうか自分の想いが真直ぐ伝わりますように、見つめ返しながら周太は言葉を続けた。

「恋はね、辛いけど幸せだよ?だから、美代さんも遠慮しないでほしい、恋してね、幸せに、笑っていて?」

きちんと言えた。
ほっと周太は息を吐いて、気恥ずかしさに赤くなりながら笑った。
そんな周太に微笑んで、美代は素直に頷いてくれた。

「うん、遠慮しない…ありがとう、正直に言ってくれて」

うれしそうに美代も笑ってくれた。
ほんとうは恥ずかしくて堪らなかった、けれどこんな顔で笑ってもらえるなら嬉しい。
言えて良かったな?そんな想いに微笑んだ周太に、愉しげに美代は言ってくれた。

「ね、湯原くん。私たち、ライバルね?でも、友達でいられるね?…そうでしょう?」

どうかお願い頷いてね?
実直な綺麗な目が真直ぐ見つめて、周太の答えを待ってくれている。
もちろん、素直なまま周太は頷きながら微笑んだ。

「ん、友達でいて?きっとね、…俺は、英二のことで拗ねると思う、きっとみっともない。でもね、美代さんと友達でいたい」
「ありがとう、友達でいて?…でも、湯原くんが拗ねるの?なんかね、可愛いね?」

可笑しそうに笑ってくれる。
拗ねて可愛いなんて、英二と同じことを言ってくれるな?
そんな2人の共通点がなんだか愉しくて、周太は笑った。

「ん、…拗ねると、可愛いの?」
「うん、なんかね、可愛いよ?だからね、遠慮なく拗ねてるとこも見せてね?」

愉しげに目を笑ませながら美代は、あわい水色の登山ジャケットの袖をそっと掴んだ。
そして畑のなかへと周太を入れてくれた。

「ね、畑を見ていって?ここね、光ちゃんのお祖母さんの畑だけど、私がね、作らせてもらっているの」
「やっぱり、そうなんだ?…ね、これは、蕪かな?でも、黒いね?」

いきなり珍しい野菜が目に映りこんで周太はしゃがみこんだ。
周太の反応に美代も嬉しそうに笑って、並んでしゃがむと馴れた手つきで1つ抜いて見せてくれた。

「これね、黒丸大根って言うの。鎌倉野菜なんだけどね、奥多摩でも出来るかな、って試してるの」
「へえ、大根なの?…聖護院大根みたいに丸いんだね?これ、黒いのは皮だけ?」
「それはね、切って見せてあげるね?ね、お昼ごはん、ここで食べていくんでしょ?一緒に食べてくれる?」

昨日は結局、美代とは一緒にお茶も食事も出来なかった。
その埋め合わせが出来そうで嬉しくて周太は頷いた。

「ん、ありがとう。一緒に食べたいな?…あ、こっちの赤いのは何?」
「よかった。あのね、この赤いのは、紅園大根。皮ごとおろすとね、いい味なのよ?」

美代の畑には、彩豊かな野菜たちが雪の間から顔を出している。
きれいで珍しい野菜たちに周太は心が惹きつけられていた。
そんな周太に嬉しげに笑いかけて美代は1つずつ抜いては説明をしてくれる。
こうして美代の野菜籠には、あざやかな彩がいっぱいになった。

「これで、お昼ごはん作るね?開店前の仕込みしながら、すぐ作っちゃうから」
「ん、よかったら手伝わせて?…初めて見る野菜がいっぱいだから、調理法とか見てみたいんだ、」

きれいな自然の色彩つまった籠を抱えて、周太は微笑んだ。
川崎の家の菜園でも作れるだろうか?そう眺めていると美代が快く頷いてくれた。

「もちろん、手伝ってね?あのね、どの野菜も普通に使えるのよ?ね、よかったら種わけようか?」
「あ、嬉しいな…実家の畑はね、川崎だけど、作れるかな?」
「うん、大丈夫だと思う。ね、そうしたら、成長の過程を教えてくれる?こことの違いをね、知りたいの」
「あ、そういうの楽しそうだね?…ん、母にもお願いしておくね、」
「ほんと?うれしいな、お願いするね?あのね、うちの畑にも、いろいろ作ってるの。火曜日には見てね?」

自分が作った野菜に興味を示す周太に、嬉しそうに美代は話してくれる。
こんなに、いろんな野菜が作れる美代はすごいな?
素直に感心しながら周太は美代の話を聴いていた。



午後の御岳山巡廻にも周太は付いて行った。
朝に英二と廻った御岳山は、午後になって陽ざしの色が変わっている。
雪道をアイゼンで踏んで歩きながら、英二は一昨日の拳銃射撃大会後の話をしてくれた。

「あの後ね、駐車場で地域部長の蒔田さんとお会いしたんだ」

地域部長蒔田警視長。その名前に開会式でのワンシーンが蘇える。
ノンキャリアから出世したという初老の顔を思い出しながら周太は訊いてみた。

「ん、…開会式で拍手して、警視総監に意見してくれた?」
「そう、あのひとだよ。警視庁山岳会の副会長なんだ、それでね、後藤副隊長の後輩だそうなんだよ」
「…あ、山ヤの警察官だった?」
「うん。元山岳救助隊員で奥多摩交番所長も務めてね。救助対応の前線本部が奥多摩交番だから、本当に大変なポジションだよ」

話しながら英二は周太に笑いかけてくれる。
午後の陽ざしふる雪の梢を仰ぎながら、おだやかに英二は話してくれた。

「担当部署との連絡をする。事件性の判断も必要になる、遭難者の家族などへ連絡対応をする。
もし遭難が同時発生したら全部を同時に処理をする。有能で激務に耐えられる人で無ければ勤まらない、それが奥多摩交番所長」

緊急発生する遭難事故。その対応を迅速的確に指揮していくポジションになる。
冷静沈着で人心掌握と人遣いに長けている必要がある、きっと蒔田もそういう人柄なのだろう。
そんな蒔田だったら、絶妙のタイミングで拍手を入れ、警視総監はじめ会場の空気を掌握することは容易いに違いない。
感心と納得をしながら周太は相槌を打った。

「ん、…ほんとうに、すごい人なんだね?」
「そうだな?そういう人だからね、地域部長も務まるんだろうね。
でね、俺はその人とお会いしたんだよ。それがね、クライマーとしての任官を内定するための、最終面接だったんだ」

あの大会は周太にとって進路を決定する要素のひとつだった。
その当日に英二は進路が決定されている。
同じ日に決まるなんて?ふたりの運命の廻りに周太は、そっと微笑んだ。

「そうだったんだ…ね、もう書類は提出したの?」
「うん、朝、提出してきた。それでね、さっき後藤副隊長から連絡があったよ。人事部に午後一で受理されたそうだ」

これで英二の進路は決まった。
クライマー専門の警察官として英二は山岳レスキューの道に生きていくことになる。
そして公式的にも光一のアンザイレンパートナーを務めていくことが同時に定められた。

…これでもう英二は、警察官として山ヤとして、光一の立つ場所から離れられない…それは、

世界ファイナリスト・クライマーを警視庁山岳会から出す。
この目的のために後藤は、最高のクライマーの素質が高い光一を任官させた。
そんな光一の公式パートナーになることは、光一の8,000m峰14座の踏破に対して義務と責任を負うことになる。
そして英二が求められることは「光一の専属レスキュー」として最高の山岳レスキューに成ることだった。

…それは時に、光一の盾になること。いちばんの危険に英二が立つ、こと…

今日の午前中に英二は周太をレスキューして軽傷とは言え怪我を負った。
これと同じように英二は光一のレスキューとして体を張ってもサポートし、光一を無事に踏破させていく。
あの冬富士の雪崩にも光一と遭難者を、無事に連れ帰った時と同じように。

いちばん危険なところに英二は、立ち続けていく。
その現実が書類化され公式文書として収められてしまった。
この現実に潜む恐怖が心を撫でていく、昨夜と今朝と確かめた英二への想いが軋んで叫びそうになる。
「行かないで、」
そんな本音が叫びだしてしまいそう。
けれど、

「これで俺はね、本当に行けるよ?あの8,000m峰に…世界一に空へと近い場所にね、俺は立ちに行けるんだ。
警察学校でも周太と一緒に見たね?あの白銀と青の世界だよ。俺には行けないって思ってた、でも俺、本当に行けるんだ」

美しい切長い目がいま見ているのは、雪と氷の白銀、青い空に世界一近い場所。
健やかで実直な心が抱いているのは、荘厳で峻厳な高峰世界への憧れ。
綺麗な低い声はいつになく弾むように楽しげに、周太に笑いかけ話している。

「本配属になったらすぐ三大北壁に登りに行く。夏の間に6,000m峰に登って、適性次第で8,000m峰の1つも試すらしい。
海外遠征の訓練登山にも参加するんだ。夏は登ってばっかりだよ、でも、秋からは遭難救助が多いから奥多摩にいることになる」

いま話してくれる英二の顔は、誇らかな自由と夢に輝いている。
この笑顔を見たいと自分はずっと願っていた。
この生きる誇りと意味を見つめて輝く顔を、いちばんに自分が望んでいたい。
そっと呼吸ひとつで勇気を1つまた心に抱いて、周太はきれいに笑いかけた。

「ん、おめでとう、英二。…ね、ごはん作るから、無事に登って、帰ってきてね?」
「うん、ありがとう。…周太、」

ふっと英二は雪道に立ち止まった。
どうしたのかなと立ち止まった周太を、きれいな切長い目が真直ぐ見つめてくれる。
そして端正な口許が微笑んで、想いを言葉にしてくれた。

「周太、約束する。どんな時でも、どんな場所からも、必ず周太の隣に帰ってくる。必ず無事に国村を連れて、俺は帰ってくる」

切長い目の瞳からは、実直で真摯な想いと温かな約束が見つめてくれる。
その目があんまり綺麗で愛しくて、周太の瞳へと想いが一挙にせりあがった。

「…英二、帰ってきて…お願い、言うこと聴いて?必ず、帰ってきて…」

瞳から頬へ涙こぼれていく。
わがまま言いたい、「行かないで、ダメ」って言いたい。けれど英二の輝く笑顔をずっと見ていたい。
だからどうかお願い「必ず」の約束をして?そして絶対に帰ってきてほしい。
涙のまま周太は英二の目を真直ぐ見つめた。

「お願い、言うこと聴いて?必ず帰ってきて…あいしてるんでしょ?だったら独りにしないで、…離れないで」
「うん、お願いされたよ?独りになんかしない、もう絶対に離れないから…周太、」

冬の陽射しふる木洩日のなか、やさしいキスが周太の唇にふれた。
涙の紗に揺らめく視界に、伏せられた長くて濃い睫が映りこんでいる。
この今の瞬間も見つめていたくて周太は、スカイブルーあざやかな救助隊服姿にしがみついた。

…帰ってきて、

ふれるくちびるに涙が偲びこむ。
頬そっと伝っていく涙がふれあう唇へと解けていく。
どうかこの涙を忘れないで英二?そして必ず自分を想いだして?
この瞬間と約束をずっと心に抱いたまま、この先の危険に立ってほしい、
そうして自分を想いだしては「必ず生きて帰ろう」と意志を強くしてほしい。

ずっと覚悟していたこと。
そしてこの先は、もっと覚悟が必要になる。
それでも瞳も心も逸らさずに、ずっとこの笑顔を見つめ続けていきたい。

「…周太、約束だから。俺はね、必ず約束守るよ?」
「ん、信じてる。待ってる、ずっと待ってる…」

英二の言葉に微笑んで周太は頷いた。
こんな今の自分に、ほらやっぱり、と想ってしまう。
ほらやっぱり自分は、英二とすこしも離れていたくない。
それでも自分にもやるべきことが待っている、覚悟をひとつ見つめて周太は笑った。

「ん、平気…ね、英二?書類はね、どんなだったの?」

歩き始めて、周太は隣を見あげて訊いてみた。
長い指の掌で右掌を包みこみながら英二は教えてくれた。

「うん。連絡先をね、周太のお母さんにさせて貰ったんだ。内定が決ったときに、すぐ電話でお願いしておいた」
「そうだったんだ…でも、印鑑は?」
「実はね、周太。1つ預かっているんだ、お母さんから。年明けの時に預けてくれて。それを使わせてもらった」

いま英二は実家に帰れない。
ひとつに周太とのこと、ふたつめに山岳レスキューの現場が厳しいこと。
この2つの理由で英二は実母と衝突をするからと実家に帰っていない。
けれど身元引受人が必ず必要になる、それを英二は周太の母に今回から定めた。
そして書類に押す印鑑を母は英二へと預けてある。
母はもう英二を家族として認めてくれている、嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、…なんか、ね、本当にもう、…おむこさんなんだね、」

言ってしまって気恥ずかしくて首筋が熱くなってくる。
きっと赤くなるだろうと解っていた、けれど言ってみたくて素直に周太は口にした。
英二はなんて思うかな?そう見上げた先で英二が困ったように、けれど幸せに微笑んだ。

「うん、そうだな。お母さんに認めて貰って、嬉しかったよ、俺も。でも…困るよ、周太?そんな顔で言われると、」
「ん、どうして?」
「可愛くってね、ずっと見ていたくなって、閉じ込めたいから…周太、」

さらり風がふれるように温かな優しいキスが唇ふれていく。
気恥ずかしい、けれど、やさしいキスの温もりに微笑んだ周太に英二は言ってくれた。

「ね、周太?この任官の挨拶に、お母さんに会いに行きたいよ。
北岳からの帰りにね、川崎の家に行かせてもらいたいんだ。この時なら、俺と国村と、二人で行けるから」

「ん、会ってあげて?きっと、喜ぶから」

またひとつ、こうして決っていく。
またひとつ約束を重ねて、一緒に想いを重ねて正直に見つめ合う。
そうして「いつか」自分は、この想いの為に。


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