約束、言いたくて

one scene 或日、学校にてact.14 ―another,side story「陽はまた昇る」
京王線は思ったより混んでいなかった。
平日なら通勤ラッシュが酷いだろうが、土曜の朝はそうでもない。
外泊日の朝、今日も関根と瀬尾と新宿方面に向かっている。けれど今日はいつもと違う。
今日は、英二が一緒だから。
…初任科教養のとき以来だな、学校から一緒に新宿へ行くの
あの頃は毎週末、新宿へと一緒に出て夕方まで共に過ごした。
本屋に行って、ラーメン食べて、缶コーヒーを買って公園に行く。帰りがけ買物をして、駅で別れる。
それがお決りのコースで、いつも英二が食事をご馳走してくれた、だから自分は缶コーヒーと入園券をお返しして。
そして閉演時間の夕方まで、いつものベンチに座って本を読みながら、缶コーヒーを飲んで時おり話す。
特に何もしない、何を話すわけでもない。けれど穏やかな隣の空気は安らげて、ただ楽しかった。
いつも英二の気配は自分を遮ることが無くて、隣に誰かいても楽だったことは初めてだった。
あのころ学校での英二は賑やかな方で、けれど寮の部屋で2人きりになると物静かな空気に変わる。
それは外泊日の時間も同じで、適度な会話は温かで楽しくて、穏やかな深い森に似た静けさが心地よかった。
そして、ひとりじゃない事が、隣に誰かいることが幸せだと教えらえれた。
そんなふうに2人過ごして実家に帰った夜は、ベッドが広く感じて不思議だった。
小さい頃からずっと使っているベッドだから馴れているはず、それなのに「広い」のはなぜ?
狭く感じるのなら自分の成長の所為だろう、けれどその逆だなんて?まさか自分が小さくなった訳でも無いのに?
やっぱり「寮のベッドが狭いから」だろう、そう結論付けていた。今なら本当の「広い」理由が解かるけれど。
外泊日、ふたり過ごせる時間が嬉しくて、夜は広いベッドが不思議で寂しかった。
ふたりでいる喜びと、ひとりでいる寂しさを心が知っていく時間だった。
そんな外泊日の最初の時に英二は、恋に墜ちたと言ってくれた。
…全然、気付かなかったな?
あの時は、楽しかった。
あんなふうに目的もなく誰かと出掛けることは、初めてだった。
朝から夕方まで、一日をずっと誰かと過ごして楽しかったことは初めてで、それが不思議だった。
ただ楽しくて嬉しい、そんな気持ちで過ごしたあの日に、英二が恋してくれたことは気付かなかった。
そもそも「恋」という感情すら自分はよく解っていなかった。
…でも、いちおう9歳の時、光一のこと好きになっていたんだよね
小学校3年生の冬、雪の森で光一に出逢って、初めて恋をした。
まだ男と女の区別もよく解からない時だった、男同士で恋することも不思議に思わなかった。
ただ、初めて両親以外の人を心から好きになれて、嬉しかった。家族以外と一緒にいて楽しいことが幸せだった。
あの頃の自分は「男なのに変」と言われることが増えて、それが哀しくて両親以外と話すことが怖くなりかけていた。
けれど光一は「俺は好きだね」と全てを肯定してくれた、それが嬉しくて幸せで、一緒にいることが楽しくて時を忘れた。
きっと、あのとき光一が受けとめてくれなかったら、自分は他人と話せなくなった。
いつも「男なのに変」と言われるたび傷ついて、自分自身を否定してしまう痛みに壊れたかもしれない。
けれど、あのとき光一はストレートに「大好きだ」と言ってくれた、それが呼び水のよう「この人を好きだな?」と自覚できた。
そして好きな人に「大好き」と言われることが嬉しかった、こんな自分でも「大好き」と言って貰えることが自信になった。
だから自分を否定しないでいられた、こんな「男なのに変」な自分でも良いのだと、素直に想えたことが温かく嬉しかった。
あのときの気持ちを今は想い出している、でも初任科教養の頃は記憶ごと喪っていて、自分が初恋をした事すら忘れていた。
それでもきっと、心は初恋を憶えていた。
だから初めての外泊日のときも、どこか心舞うよう楽しい気持ちに自然と成れていた。
ただ一緒にいることが嬉しくて楽しい、その感情の理由は解からないけれど、それでも優しい時間だった。
あの優しい「ふたり」の時間は、9歳の雪の森と似ていて少し違う。その違いは「寂しい」こと。
離れているとき、光一とは次に逢える時を楽しみに想うだけだった。けれど英二とは離れると寂しかった。
あの初めての外泊日も寂しくて、そんな自分に途惑った。それも大切な記憶になって英二への恋が育ってくれた。
けれど思い出してしまう、あのときシャツを買ってもらった直後のことが今も痛むから。
あのとき英二の元彼女に偶然会った、あの彼女の声と表情が哀しくて、そんな貌をする理由も解からなくて。
それより哀しかったのは、あのベンチで話してくれた英二の貌と涙だった。
―…さっきの泣いていた女。あれが、この間の元彼女。前はさ、昔の女に会って縋られても、軽く躱していたんだ
相手に未練があろうが関係ない。相手の気持ち考えないから、平気だった…会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった
英二自身を嘲るような笑顔が、どこか冷たくて遠い人に思えた。
けれど最初に出逢った頃の「仮面」とは違う、その違いが何か嬉しかった。
どうして嬉しいのか解らなかったけれど、ただ「今の方が良い」とだけ自分は伝えた。
そして今、改めて思うのは「前は昔の女に会っても」の所にひっかかる、それが尚更に哀しい。
…きっとね、これは嫉妬
嫉妬なら光一にしたことがあるけれど、あの感覚とは少し違う。
相手が誰か解らないし、何人なのかも解からない。けれど相手の誰もが「女性」なことが大きい。
もう過去だと解ってはいる、英二が自分を想ってくれていると解っている、けれどコンプレックスが軋んで痛い。
…女の人だったら、子供を生めるかもしれないのに…英二の子供を、抱っこ出来るのに
心裡の想いに溜息こぼれてしまう。
自分が男であることを嫌だとは思わない、けれど英二の「妻」としては男性であるとマイナスが多い。
まず正式な婚姻が出来ない、養子縁組の形しか取れない。社会的容認がされ難いから英二の進路に影響する。
そして何より、子供を授かる可能性が0%だということが、哀しくてならない。
…ほんとうは英二の子供が欲しい、自分が生みたい…愛して、育てて、家族になりたい
こんな願いを自分が抱くなんて?
こんなこと誰かに思ったことが無かった、けれどもう想っている。
もし自分が女性だったら、英二の子供を授かることが出来たかもしれない。
そうしたら英二の母だって素直に認めてくれやすい、彼女に孫を抱かせて、彼女の孤独を和らげてあげられた。
もし、それが叶うのなら、もう、父の真相を辿ることすら自分は止める。
父を亡くして14年間、全てを懸けてきた「父の軌跡を辿る」事は、自分が生きることを赦す理由だった。
けれど、もしも英二の子供を自分がこの世に送りだせるなら、その道を迷わずに選んで生きていたい。
この14年に積み上げた努力を無にしても良い、英二の子供を選びたい。そして新しい幸福を贈りたい。
愛する人の命を授かる、その可能性が自分にあるのなら、過去の死より未来の生命を抱きしめたい。
けれど、これだけは努力しても、どんなに祈っても叶えられない。
だからこそ過去の女性にまで嫉妬してしまう、こんなこと仕方ないと解っているのに?
昨夜も英二は愛してくれた、もう幾つの夜を愛しみ慈しんでくれただろう?それなのに自分は子供を生めない。
どんなに愛してもらっても、その想いを結晶させて「子供」を贈ることが自分には出来ない。
そんな自分は、どうしたら英二の想いに応えられるの?
女性だったら、英二の愛情を生命に変えてこの世に残すことが出来る。
それが自分には出来ない、こんなに愛しているのに、想っているのに、本当に何も出来ないの?
それでも好きな人の子供を抱っこしたい、英二の心と命を新しい生命に残したい。そんな叶わぬ願いを抱いてしまう。
…こんなこと考えたこと無かった、英二とこうなるまで…こんな哀しいこと知らなかった
英二と出逢って、たくさん幸せを与えられて、嬉しくて。
ずっと抱え込んだ孤独も哀しみも熔かされた、隣に誰かがいる幸せを教えてもらった。
けれど、こんな哀しみも教えられた。解決方法など見つからない、努力も叶わぬ願いを抱いてしまう痛みを知った。
もう婚約する時に覚悟して、温かい家庭を贈れたら良いと決めた。それなのに愛されるほど願いは募って、哀しみ深くなる。
この傷みと哀しみに、英二に抱かれた全ての女性に対して嫉妬の苛立ちが起きてしまう。
なぜ、子供を生めるのにそうしなかったの?
どうして快楽だけ求めて、あのひとに愛を与えてくれなかったの?
それならその体を自分が欲しかった、子供を生める体を自分にくれたら良いのに?
こんな願いは自分勝手、そう解っている。
こんな願いを抱くことは命と体を与えてくれた両親への裏切り、こんな自分が赦せない。
けれど想ってしまうことは止められなくて、ほら、今もまた嫉妬が血で廻って全身を灼きそうになる。
どうしようもないと解っているのに止まない、この想い密やかに沈みかけていると、関根と話す瀬尾の言葉が聞えた。
「うん、明月院は有名だけど混むんだ。でもね、奥の菖蒲園は別料金だから行く人も少なくて、綺麗な庭だからお薦めだな。
あとは東慶寺の紫陽花も、珍しい種類が色々あって綺麗だよ。でもね、縁切寺って別名があるから、デートにはどうかなって、」
…あ、東慶寺って「女の人の縁切寺」だよね?
もし自分が行ったら、英二の過去の女性関係を気にしないようになれる?
子供を生めないコンプレックスから過去にまで嫉妬する、そんな弱い心と縁切り出来るかもしれない?
そうなれたら良いなと想ってしまう、子供が生めない事は仕方ないけれど、せめて嫉妬だけでも絶ち切りたい。
それから菖蒲園は小さい頃に行った記憶がある、とても静かな良い庭で、好きだと思った。
優しい父と母の愛情だけが世界の全てで、こんな嫉妬も哀しみも知らず幸せだった時。
あの頃のような幸せだけの時は終わってしまった、けれど今、こんな想いまで抱くほど愛する人がいる。
あの場所に愛する人と佇んだら、どんなふうに花は見えるだろう?
…英二と一緒に行けたらいいな、
静かな空気のなか一緒に花を見たら、きっと嬉しいだろうな?
あの緑あふれる庭園で、もう一度だけでも良いから清々しい空気にふれてみたい。
連れて行ってと言ってみようかな?そんなことを考えている前で、関根と瀬尾が楽しげに戯れ合いだした。
「なんだよ瀬尾、てめえ何が言いたいんだよ、こら、」
「あはは、やめてよ関根くん、こんなとこでヘッドギアは無しだって、」
車内の片隅で関根と瀬尾は、笑いだした。
この2人は仲が良い、生い立ちは見事に正反対だし雰囲気も全く違うのに気が合っている。
こういう友達関係は楽しいだろうな?思いながら周太は英二に笑いかけた。
「鎌倉、俺も小さい頃に行ったことあるよ?紫陽花のときも…明月院の奥の庭、行ったことあると思うんだ。すごく綺麗だった、」
…また行きたい、今度は英二と一緒に
そんな気持ちのまま口にして、周太は婚約者を見上げた。
きっと英二は言わなくても解かってくれるだろうな?そんな期待の先で綺麗な笑顔は言ってくれた。
「周太、近いうちに鎌倉、行こうか?平日に休みが合う時なら空いてるし、」
「ほんと?」
ほら、やっぱり解ってくれた。
嬉しくて微笑んだ周太に、英二は約束の予定を贈ってくれた。
「うん。来月なら紫陽花も少し残ってるだろ?もう許可も出るから車で行ってもいいしさ、海も行けるよ?」
警察学校に入校すると運転免許証は預け、車両の保有は初任総合科が終了するまで出来ない。
けれど来月なら初任総合が終わって、自動車の保有も運転も許可されるから、英二の提案通りに出来る。
そして、自分が車で海に行ったのは、もう14年前だろう。あれは父との最後の海だった。
…確か鎌倉の海と、三浦の海で桜貝を拾ったんだ…
あわい紅色の、うすい貝殻は本当に桜の花びらのようで。
1月の晴れた海辺は小春日和に温かで、時を忘れて海の桜を集めた。
きれいな小瓶を父は持ってきてくれていた、たくさん拾って瓶に詰めて、大切に宝箱のトランクにしまって。
あの貝殻たちは今も、トランクに納めた綺麗な木箱のなかに、あのときのまま眠っている。
あのときのように貝殻を拾えたらいいな?素直に微笑んで周太は、婚約者に頷いた。
「海、良いね?もう随分、行ってない…行きたいな、」
「じゃあ決まりな、またシフト出たら教えて?あと行きたいところあったら、言ってくれな、」
行きたい所なら、あるな?
幸せに微笑んで周太は思ったままに口を開いた。
「ん、あのね、東慶寺に行ってみたいな…珍しい紫陽花も見たいし、」
あの寺には、深紅の紫陽花があるはず。だから尚更に行ってみたい。
あの「縁切寺」で女性たちへの嫉妬を断ち切って、あの写真で見た深紅の花を見つめたい。
英二がモデルを務めていた頃の、雨と花に抱かれた姿を写した場所に佇んでみたい。
“ Lover of PLUVIUS ” Hydrangea
雨の神の恋人、紫陽花。
そんな題名が付けられた写真だった、きっと英二が15歳くらいの頃の写真だろう。
雨のなか深紅の紫陽花を髪に飾った姿は、本当に雨ふる神に愛されるよう綺麗だった。
だから同じ場所で英二を見てみたいと、あの写真集を見た時から想っていた。
…新宿に着いたら、本屋で確認してみようかな?
あの写真集は人気があるから、たぶん駅の本屋にもあるだろうな?
それを見て、撮影場所を確認して、そして英二に気持を言えたら良いな?
あなたの笑顔が、世界で一番きれい
たとえ花が無くても雨が無くても、きっと一番に美しい。
あなたの笑顔は何処にいても輝くことを知っているから、だからそう思えてしまう。
この笑顔を少しでも多く見たくて、自分は叶わぬ願いに泣くようになった。この哀しみは苦しい、けれど笑顔の喜びが勝ってしまう。
そんな笑顔のあなたは自分にとって、なにより大切で美しい。
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one scene 或日、学校にてact.14 ―another,side story「陽はまた昇る」
京王線は思ったより混んでいなかった。
平日なら通勤ラッシュが酷いだろうが、土曜の朝はそうでもない。
外泊日の朝、今日も関根と瀬尾と新宿方面に向かっている。けれど今日はいつもと違う。
今日は、英二が一緒だから。
…初任科教養のとき以来だな、学校から一緒に新宿へ行くの
あの頃は毎週末、新宿へと一緒に出て夕方まで共に過ごした。
本屋に行って、ラーメン食べて、缶コーヒーを買って公園に行く。帰りがけ買物をして、駅で別れる。
それがお決りのコースで、いつも英二が食事をご馳走してくれた、だから自分は缶コーヒーと入園券をお返しして。
そして閉演時間の夕方まで、いつものベンチに座って本を読みながら、缶コーヒーを飲んで時おり話す。
特に何もしない、何を話すわけでもない。けれど穏やかな隣の空気は安らげて、ただ楽しかった。
いつも英二の気配は自分を遮ることが無くて、隣に誰かいても楽だったことは初めてだった。
あのころ学校での英二は賑やかな方で、けれど寮の部屋で2人きりになると物静かな空気に変わる。
それは外泊日の時間も同じで、適度な会話は温かで楽しくて、穏やかな深い森に似た静けさが心地よかった。
そして、ひとりじゃない事が、隣に誰かいることが幸せだと教えらえれた。
そんなふうに2人過ごして実家に帰った夜は、ベッドが広く感じて不思議だった。
小さい頃からずっと使っているベッドだから馴れているはず、それなのに「広い」のはなぜ?
狭く感じるのなら自分の成長の所為だろう、けれどその逆だなんて?まさか自分が小さくなった訳でも無いのに?
やっぱり「寮のベッドが狭いから」だろう、そう結論付けていた。今なら本当の「広い」理由が解かるけれど。
外泊日、ふたり過ごせる時間が嬉しくて、夜は広いベッドが不思議で寂しかった。
ふたりでいる喜びと、ひとりでいる寂しさを心が知っていく時間だった。
そんな外泊日の最初の時に英二は、恋に墜ちたと言ってくれた。
…全然、気付かなかったな?
あの時は、楽しかった。
あんなふうに目的もなく誰かと出掛けることは、初めてだった。
朝から夕方まで、一日をずっと誰かと過ごして楽しかったことは初めてで、それが不思議だった。
ただ楽しくて嬉しい、そんな気持ちで過ごしたあの日に、英二が恋してくれたことは気付かなかった。
そもそも「恋」という感情すら自分はよく解っていなかった。
…でも、いちおう9歳の時、光一のこと好きになっていたんだよね
小学校3年生の冬、雪の森で光一に出逢って、初めて恋をした。
まだ男と女の区別もよく解からない時だった、男同士で恋することも不思議に思わなかった。
ただ、初めて両親以外の人を心から好きになれて、嬉しかった。家族以外と一緒にいて楽しいことが幸せだった。
あの頃の自分は「男なのに変」と言われることが増えて、それが哀しくて両親以外と話すことが怖くなりかけていた。
けれど光一は「俺は好きだね」と全てを肯定してくれた、それが嬉しくて幸せで、一緒にいることが楽しくて時を忘れた。
きっと、あのとき光一が受けとめてくれなかったら、自分は他人と話せなくなった。
いつも「男なのに変」と言われるたび傷ついて、自分自身を否定してしまう痛みに壊れたかもしれない。
けれど、あのとき光一はストレートに「大好きだ」と言ってくれた、それが呼び水のよう「この人を好きだな?」と自覚できた。
そして好きな人に「大好き」と言われることが嬉しかった、こんな自分でも「大好き」と言って貰えることが自信になった。
だから自分を否定しないでいられた、こんな「男なのに変」な自分でも良いのだと、素直に想えたことが温かく嬉しかった。
あのときの気持ちを今は想い出している、でも初任科教養の頃は記憶ごと喪っていて、自分が初恋をした事すら忘れていた。
それでもきっと、心は初恋を憶えていた。
だから初めての外泊日のときも、どこか心舞うよう楽しい気持ちに自然と成れていた。
ただ一緒にいることが嬉しくて楽しい、その感情の理由は解からないけれど、それでも優しい時間だった。
あの優しい「ふたり」の時間は、9歳の雪の森と似ていて少し違う。その違いは「寂しい」こと。
離れているとき、光一とは次に逢える時を楽しみに想うだけだった。けれど英二とは離れると寂しかった。
あの初めての外泊日も寂しくて、そんな自分に途惑った。それも大切な記憶になって英二への恋が育ってくれた。
けれど思い出してしまう、あのときシャツを買ってもらった直後のことが今も痛むから。
あのとき英二の元彼女に偶然会った、あの彼女の声と表情が哀しくて、そんな貌をする理由も解からなくて。
それより哀しかったのは、あのベンチで話してくれた英二の貌と涙だった。
―…さっきの泣いていた女。あれが、この間の元彼女。前はさ、昔の女に会って縋られても、軽く躱していたんだ
相手に未練があろうが関係ない。相手の気持ち考えないから、平気だった…会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった
英二自身を嘲るような笑顔が、どこか冷たくて遠い人に思えた。
けれど最初に出逢った頃の「仮面」とは違う、その違いが何か嬉しかった。
どうして嬉しいのか解らなかったけれど、ただ「今の方が良い」とだけ自分は伝えた。
そして今、改めて思うのは「前は昔の女に会っても」の所にひっかかる、それが尚更に哀しい。
…きっとね、これは嫉妬
嫉妬なら光一にしたことがあるけれど、あの感覚とは少し違う。
相手が誰か解らないし、何人なのかも解からない。けれど相手の誰もが「女性」なことが大きい。
もう過去だと解ってはいる、英二が自分を想ってくれていると解っている、けれどコンプレックスが軋んで痛い。
…女の人だったら、子供を生めるかもしれないのに…英二の子供を、抱っこ出来るのに
心裡の想いに溜息こぼれてしまう。
自分が男であることを嫌だとは思わない、けれど英二の「妻」としては男性であるとマイナスが多い。
まず正式な婚姻が出来ない、養子縁組の形しか取れない。社会的容認がされ難いから英二の進路に影響する。
そして何より、子供を授かる可能性が0%だということが、哀しくてならない。
…ほんとうは英二の子供が欲しい、自分が生みたい…愛して、育てて、家族になりたい
こんな願いを自分が抱くなんて?
こんなこと誰かに思ったことが無かった、けれどもう想っている。
もし自分が女性だったら、英二の子供を授かることが出来たかもしれない。
そうしたら英二の母だって素直に認めてくれやすい、彼女に孫を抱かせて、彼女の孤独を和らげてあげられた。
もし、それが叶うのなら、もう、父の真相を辿ることすら自分は止める。
父を亡くして14年間、全てを懸けてきた「父の軌跡を辿る」事は、自分が生きることを赦す理由だった。
けれど、もしも英二の子供を自分がこの世に送りだせるなら、その道を迷わずに選んで生きていたい。
この14年に積み上げた努力を無にしても良い、英二の子供を選びたい。そして新しい幸福を贈りたい。
愛する人の命を授かる、その可能性が自分にあるのなら、過去の死より未来の生命を抱きしめたい。
けれど、これだけは努力しても、どんなに祈っても叶えられない。
だからこそ過去の女性にまで嫉妬してしまう、こんなこと仕方ないと解っているのに?
昨夜も英二は愛してくれた、もう幾つの夜を愛しみ慈しんでくれただろう?それなのに自分は子供を生めない。
どんなに愛してもらっても、その想いを結晶させて「子供」を贈ることが自分には出来ない。
そんな自分は、どうしたら英二の想いに応えられるの?
女性だったら、英二の愛情を生命に変えてこの世に残すことが出来る。
それが自分には出来ない、こんなに愛しているのに、想っているのに、本当に何も出来ないの?
それでも好きな人の子供を抱っこしたい、英二の心と命を新しい生命に残したい。そんな叶わぬ願いを抱いてしまう。
…こんなこと考えたこと無かった、英二とこうなるまで…こんな哀しいこと知らなかった
英二と出逢って、たくさん幸せを与えられて、嬉しくて。
ずっと抱え込んだ孤独も哀しみも熔かされた、隣に誰かがいる幸せを教えてもらった。
けれど、こんな哀しみも教えられた。解決方法など見つからない、努力も叶わぬ願いを抱いてしまう痛みを知った。
もう婚約する時に覚悟して、温かい家庭を贈れたら良いと決めた。それなのに愛されるほど願いは募って、哀しみ深くなる。
この傷みと哀しみに、英二に抱かれた全ての女性に対して嫉妬の苛立ちが起きてしまう。
なぜ、子供を生めるのにそうしなかったの?
どうして快楽だけ求めて、あのひとに愛を与えてくれなかったの?
それならその体を自分が欲しかった、子供を生める体を自分にくれたら良いのに?
こんな願いは自分勝手、そう解っている。
こんな願いを抱くことは命と体を与えてくれた両親への裏切り、こんな自分が赦せない。
けれど想ってしまうことは止められなくて、ほら、今もまた嫉妬が血で廻って全身を灼きそうになる。
どうしようもないと解っているのに止まない、この想い密やかに沈みかけていると、関根と話す瀬尾の言葉が聞えた。
「うん、明月院は有名だけど混むんだ。でもね、奥の菖蒲園は別料金だから行く人も少なくて、綺麗な庭だからお薦めだな。
あとは東慶寺の紫陽花も、珍しい種類が色々あって綺麗だよ。でもね、縁切寺って別名があるから、デートにはどうかなって、」
…あ、東慶寺って「女の人の縁切寺」だよね?
もし自分が行ったら、英二の過去の女性関係を気にしないようになれる?
子供を生めないコンプレックスから過去にまで嫉妬する、そんな弱い心と縁切り出来るかもしれない?
そうなれたら良いなと想ってしまう、子供が生めない事は仕方ないけれど、せめて嫉妬だけでも絶ち切りたい。
それから菖蒲園は小さい頃に行った記憶がある、とても静かな良い庭で、好きだと思った。
優しい父と母の愛情だけが世界の全てで、こんな嫉妬も哀しみも知らず幸せだった時。
あの頃のような幸せだけの時は終わってしまった、けれど今、こんな想いまで抱くほど愛する人がいる。
あの場所に愛する人と佇んだら、どんなふうに花は見えるだろう?
…英二と一緒に行けたらいいな、
静かな空気のなか一緒に花を見たら、きっと嬉しいだろうな?
あの緑あふれる庭園で、もう一度だけでも良いから清々しい空気にふれてみたい。
連れて行ってと言ってみようかな?そんなことを考えている前で、関根と瀬尾が楽しげに戯れ合いだした。
「なんだよ瀬尾、てめえ何が言いたいんだよ、こら、」
「あはは、やめてよ関根くん、こんなとこでヘッドギアは無しだって、」
車内の片隅で関根と瀬尾は、笑いだした。
この2人は仲が良い、生い立ちは見事に正反対だし雰囲気も全く違うのに気が合っている。
こういう友達関係は楽しいだろうな?思いながら周太は英二に笑いかけた。
「鎌倉、俺も小さい頃に行ったことあるよ?紫陽花のときも…明月院の奥の庭、行ったことあると思うんだ。すごく綺麗だった、」
…また行きたい、今度は英二と一緒に
そんな気持ちのまま口にして、周太は婚約者を見上げた。
きっと英二は言わなくても解かってくれるだろうな?そんな期待の先で綺麗な笑顔は言ってくれた。
「周太、近いうちに鎌倉、行こうか?平日に休みが合う時なら空いてるし、」
「ほんと?」
ほら、やっぱり解ってくれた。
嬉しくて微笑んだ周太に、英二は約束の予定を贈ってくれた。
「うん。来月なら紫陽花も少し残ってるだろ?もう許可も出るから車で行ってもいいしさ、海も行けるよ?」
警察学校に入校すると運転免許証は預け、車両の保有は初任総合科が終了するまで出来ない。
けれど来月なら初任総合が終わって、自動車の保有も運転も許可されるから、英二の提案通りに出来る。
そして、自分が車で海に行ったのは、もう14年前だろう。あれは父との最後の海だった。
…確か鎌倉の海と、三浦の海で桜貝を拾ったんだ…
あわい紅色の、うすい貝殻は本当に桜の花びらのようで。
1月の晴れた海辺は小春日和に温かで、時を忘れて海の桜を集めた。
きれいな小瓶を父は持ってきてくれていた、たくさん拾って瓶に詰めて、大切に宝箱のトランクにしまって。
あの貝殻たちは今も、トランクに納めた綺麗な木箱のなかに、あのときのまま眠っている。
あのときのように貝殻を拾えたらいいな?素直に微笑んで周太は、婚約者に頷いた。
「海、良いね?もう随分、行ってない…行きたいな、」
「じゃあ決まりな、またシフト出たら教えて?あと行きたいところあったら、言ってくれな、」
行きたい所なら、あるな?
幸せに微笑んで周太は思ったままに口を開いた。
「ん、あのね、東慶寺に行ってみたいな…珍しい紫陽花も見たいし、」
あの寺には、深紅の紫陽花があるはず。だから尚更に行ってみたい。
あの「縁切寺」で女性たちへの嫉妬を断ち切って、あの写真で見た深紅の花を見つめたい。
英二がモデルを務めていた頃の、雨と花に抱かれた姿を写した場所に佇んでみたい。
“ Lover of PLUVIUS ” Hydrangea
雨の神の恋人、紫陽花。
そんな題名が付けられた写真だった、きっと英二が15歳くらいの頃の写真だろう。
雨のなか深紅の紫陽花を髪に飾った姿は、本当に雨ふる神に愛されるよう綺麗だった。
だから同じ場所で英二を見てみたいと、あの写真集を見た時から想っていた。
…新宿に着いたら、本屋で確認してみようかな?
あの写真集は人気があるから、たぶん駅の本屋にもあるだろうな?
それを見て、撮影場所を確認して、そして英二に気持を言えたら良いな?
あなたの笑顔が、世界で一番きれい
たとえ花が無くても雨が無くても、きっと一番に美しい。
あなたの笑顔は何処にいても輝くことを知っているから、だからそう思えてしまう。
この笑顔を少しでも多く見たくて、自分は叶わぬ願いに泣くようになった。この哀しみは苦しい、けれど笑顔の喜びが勝ってしまう。
そんな笑顔のあなたは自分にとって、なにより大切で美しい。
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