ただひとつだけの想い、伝えたいのは唯ひとりだけ
萬紅、仲暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」
車窓はまだ夜の底だった。
夜明け前の昏さが、そっと稜線をくるんで眠りこんでいる。
朝一番の車内も、まだ空いていた。
「いまの時期、夜明けが遅いからな」
宮田が微笑んで、マフラーを巻きながら教えてくれる。
誕生日に贈ってくれたマフラーは、夜明前の寒さにも温かい。
いつも優しい宮田、こんなふうにいつも気遣ってくれる。
やさしい心遣いが嬉しくて、周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう。温かい」
「よかった、周太が温かいと俺、うれしいよ」
きれいな、やさしい笑顔。ほんとうに、愛している。
いつもこうして自分を温めてくれる。
愛する、やさしい穏やかな、きれいな笑顔。
いつもこんなふうに、周りの人へ、目の前の人へ、やさしく微笑んでいる。
そんなところが、ほんとうに好きだ。
そんな優しさが一層、山岳救助隊の任務へと、この隣を打込ませていく。
だから不安になる。一途な優しさが躊躇なく、危険な救助へと向かうことが。
この隣の優しい笑顔、どうか無事で、そうしてずっと隣に居てほしい。
どうか、自分が、この笑顔を守れますように。
そんな想いで周太は、そっと隣を振返った。
見ると隣は、胸ポケットに長い指を入れている。
長い指はiPodのイヤホンを取出すと、片方を周太に差し出してくれた。
「はい、周太」
すこし首を傾げて、周太は隣を見あげた。
「俺も持ってきているけど、」
「同じのを一緒に聴くと、うれしいから。だから片方ずつ」
言いながら、耳許へとイヤホンをセットしてくれた。
きれいな長い指先が、耳元に首筋にふれる。
その感触が昨夜のことを蘇らせて、熱が首筋から耳へと昇ってしまう。
きっともう赤くなっている。気恥ずかしさに周太は睫をそっと伏せた。
I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.…
iPodのイヤホンから、穏やかなあの曲が流れだした。
宮田専用の携帯着信音も、この曲になっている。だからいつも、この曲が流れる時は離れている時だった。
それをこんなふうに、ひとつのiPodから聞いている。
一緒に聴けると嬉しい、周太は微笑んだ。
「ん。なんだか、うれしいな」
「だろ?」
他愛ない話をしながら食べる、サンドイッチがおいしい。
缶のココアも、きちんと味がする。
ああいう夜の、翌朝は、いつも不思議なほど気怠い。でも今朝は楽だ。
なんでなのだろう、こういうことはよく解らない。
それどころか卒業式の翌朝は、何を口にしても味が無かった。
けれど次にこうなった、田中の通夜の翌朝は、きちんと味がした。
卒業式の翌朝と違って、あまり痛くは無かった。けれど、そのぶん気怠かった。
それからの朝は、痛みは減っていき気怠さが増している。
だから今朝はどれも楽なことは、周太には不思議だった。
何でなのだろう、けれどとても恥ずかしくて訊けない。
そう思いながらふと、周太は他の訊きたい事を思い出した。
パンの最後の欠片を飲みこんで、周太は唇を開いた。
「あのさ、一昨日のメールなんだけど」
「ああ、夜間捜索に入るときの?」
「そう、それ」
一昨日の夜、非番だった宮田は遭難救助の召集を受けた。
その時に宮田は、メールを送ってくれた。
From : 宮田
subject: 今から山に
本 文 : 遭難救助の召集が来た。道迷いの捜索、今からだとビバークになると思う。
大丈夫、必ず俺は隣に帰るから。
でもさ、話はちょっと、危ういかもしれない?
本文の最後の一行、よく意味が解らない。
周太は首を傾げながら、訊いてみた。
「文面にあった、“話題はちょっと危ういかもしれない”って、どういうことなんだ?」
「ビバークの時にさ、国村に訊かれる話題が、危ういなってこと」
訊いた周太に、笑って宮田は答えてくれる。
危うい話題なんてあるんだな、何気なく周太は訊いた。
「どんな話題なんだ?」
いつものように笑って、宮田は答えた。
「周太はね、全て俺が初体験だっていう話題」
いまなんていったのだろう?
そう思った途端「初体験」という言葉には、国村の言葉がイコールで結ばれた。
― 俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?―
「…っ、」
どうしていつもそういうことばかりはなしするんだあのひと。
国村は嫌いじゃない、むしろ好きだと思う。
真直ぐで底抜けに明るい瞳は、暗さが全くなくて話しやすい。
実直で裏表のない宮田とは、良いパートナーだろうと思う。
この大切な隣にとって、とてもいい友人で山ヤ仲間でいてくれる。
文学青年風の繊細な風貌、けれど酒好きで豪胆な本性の国村。
そういうギャップも好きだけど、けれど。
けれどちょっとそういうはなしがすきすぎるんじゃない?
首筋もう、真っ赤になっている。恥ずかしくて仕方ない。
けれど、宮田はなんて、答えてくれたのだろう。
気になってしまって、周太は遠慮がちに訊いた。
「…訊かれて、なんて言ったんだ?」
「うん、俺?」
穏やかに微笑んで、宮田は言ってくれた。
「運命だから。て、言った」
運命 その言葉ことんと、心臓におちて響いた。
運命 それは、出会うべくして廻り会うこと。
ほんとうは思っていた、
自分と出会ったことで、この隣の運命を狂わせたんじゃないかと。
きれいな笑顔の、大切なこの隣。
きれいな笑顔に相応しい、幸せな運命があったはず。
それを自分の為に、捨てさせ壊させてしまった。そんな罪悪感がずっとある。
けれど「運命」と、この隣は言ってくれた。
自分たちのことを、運命と言ってくれるの?
出会うべきだったから出会った、そんなふうに言ってくれるの?
ほんとうに?
そんな想いが心あふれて、瞳から熱があふれてしまう。
そっと周太は唇を開いた。
「…そんなふうに、言ってくれたんだ」
「だって、そうだろ?」
見上げる瞳から零れかける涙を、隣は長い指でそっと拭ってくれた。
そして周太の瞳を真直ぐみつめて、きれいに笑って宮田は言った。
「周太の初めてが俺で、本当に嬉しくて、俺の幸せなんだ」
ほんとうに? そんな想いが切なくて、うれしい。
だって自分は本当は、この隣を、愛している。
そんな相手に、そう言われて。もう幸せが温かい。
名前で、呼びたい。
「…っ」
名前、声になって出てこない。
どうして呼べないのだろう、こんなに心では呼んでいるのに。
愛していると、心でこんなに告げている。けれどそれも言葉に声になってくれない。
昨夜だってもう何度も、呼びたかった、告げたかった。
それでもお願い、想いだけでも伝えたい。
両掌に温かいココアの缶が、ふっと周太の意識に映りこんだ。
父との幸福な記憶と言葉が、ほろ苦く甘い香に頬を撫でる。
「 周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ?」
「そうなの?」
「ん、そう。だってね周、次いつ言えるか解らないだろう?だからね、その時を大切に、一生懸命に伝えてごらん」
ほんとうにそんなふうに、父はいつも生きていた。
そうして最期の瞬間まで大切にした、温かな想いだけを懸命に伝えて、きれいな想いだけを遺して死んでいった。
自分を殺害した男にも、自分のために復讐を願う男にも、そして息子の自分にも。
お父さん、今、すこし勇気を分けて。
父の記憶と想いと一緒に、ココアを周太は飲みこんだ。
飲みこんで息をつくと、唇はかすかに開いてくれた。
「…ゆうべ言ったとおり…くれる初めては全部うれしい…幸せだから」
隣を真直ぐに見つめて、周太は言った。
きっと顔も真っ赤になっている、けれど少しでも伝えられた。
「うん、」
頷いて宮田が、きれいに笑って言ってくれた。
「この先もさ、初めてがあるから」
この先も、初めて。
幸せに微笑んで、周太は頷いた。
「ん、」
この先も。 これから先ずっと、一緒だと言う約束。
初めて。 ふたりで一緒に経験を、積み重ねていく約束。
そんな優しい約束が、そっと心を温めてくれる。
ほんとうに、今、伝えられて良かった。そんな想いがどこか、すこしだけ強さに変わる。
繋いだiPodから、やさしい穏やかな曲が流れる。
やさしい静かな隣に座って、秋の長い夜に籠められる車窓を眺めていた。
この隣にいると、そっと心が安らいで、温かくて居心地が良い。
それはもうずっと、警察学校時代から感じていたこと。
安らかで温かくて、息をするたびごとに、この隣への想いが深くなる。
こんな隣に掴まえられている自分は、心から幸せだと思う。
けれど、どうして宮田も国村も、ああいう話が出来るんだろう。
そんなふうには周太は、夜の話などしたことが無い。
そういう機会も相手も居なかった。
気恥ずかしいけれど訊いてみようか、周太はそっと隣を見あげた。
見上げた先、言ってごらんと宮田は微笑んでくれる。
思いきって周太は口を開いた。
「…あのさ、ああいう話って、どういう流れで出来るものなんだ?」
「ビバークで国村と話していたこと?」
「ん、」
宮田は楽しそうに笑って、答えてくれた。
「うん、酒を呑むとさ、楽しい話題かな」
「そうなのか、」
頷きかけて、ふと周太は止まった。
いま「酒を呑むとき」って言わなかっただろうか?
けれど「ビバークで国村と話していたこと」と宮田は言っていた。
なんだか困った予感がする、けれど周太は訊いてみた。
「でもそれって、捜索の任務中の、ビバークだったんだろう?」
訊かれて、宮田は正直に笑った。
「そうだけど?」
そう、って。
だってそう、ってことは。
捜索任務中のビバーク中に酒を呑んで話していた。そういう事だろうか?
でも、それって、それじゃあ…呆気にとられて周太は言った。
「…任務中に酒、呑んだのか?!」
こんなに驚いて困って、こちらは訊いている。
けれど宮田は、きれいに笑って言った。
「仕方ないよ周太。山ではさ、山のルールで生きないと」
そう言って笑った宮田の顔が、なんだか眩しい。
山ヤとしての誇りと矜持が、そんな言葉もさらりと言わせている。
そんな雰囲気が、なんだか大人びた風貌に悪戯っ気が漂って、惹かれてしまう。
高級住宅街の世田谷で、不自由ない家庭に育った宮田。
そんな宮田が今は、奥多摩で山のルールで生きている。
そして宮田は、今の方がずっと良い顔になった。
人の運命は不思議だと、この隣を見ていると思う時がある。
そうして、その隣にいる自分の運命も、とても不思議だと思える。
冷たい現実に生きていた、けれど、この隣の運命に掴まれて、こんなに想いが温かい。
だから想ってしまう。不思議なままにずっと、想いの温かさに生きればいい。
たったひとつの想い、唯一人への想いに。
車窓の稜線が、かすかに明るんでラインを示しだす。
まだ日の出に間のある時間、けれど太陽の気配は空へと見えている。
穏やかに隣が微笑んで言ってくれた。
「天気良さそうだな、きっと夜は山荘で星がきれいだよ」
山荘に泊れる。もし晴れていたら、星の降る夜が見られるのだろう。
幼い頃の、父と母との幸せな記憶が蘇る。
もう二度と、そういう幸せは自分には無い。そんなふうに思っていた。
けれどきっと、この隣は今日、こうして約束を果たしてくれる。
うれしくて、周太は微笑んだ。
「ん、うれしいな。連れて行って山に」
「うん、連れていく。ほら周太、もうじき奥多摩駅に着くよ」
そんなふうに話して、奥多摩交番に6時過ぎに着いた。
登山計画書を出して、宮田は山岳救助隊副隊長の後藤と打ち合わせを始める。
9月の台風で崩落が起き、雲取山も何箇所か登山道が一般通行止めになっていた。
そして紅葉盛期を迎えた先日、いくつか林道が再開された。その巡視をしながら登山する。
周太は交番表から外を眺めて、宮田を待っていた。
そんな周太に、奥多摩交番勤務の畠中が声を掛けてくれた。
「奥多摩は初めてかい?」
「小さい頃に何度か、お邪魔させて頂きました」
あの頃が懐かしい、周太は微笑んで答えた。
あの頃はどの山に登ったのだろう。そう思っていると、畠中は何気なく周太に訊いた。
「ご家族が山好きなんだね、」
何気なく訊かれて、一瞬だけ周太は止まりそうになった。
山好きだったのは、殉職した父だった。
父の記憶へ向き合うことは、少し前までは辛くて。
だから父の記憶と一緒に、山のことも忘れていた。
けれど今はもう、きっと大丈夫。
だって宮田は真直ぐに、事件を見つめさせてくれた。微笑んで周太は答えた。
「はい、父が山好きでした」
畠中の目が少し大きくなった。きっと過去形で、周太が話した事に気がついたのだろう。
きっと優しい人なのだな。思いながら周太は笑って、言葉を続けた。
「父が山好きだったお蔭で、私は植物の名前を覚えられました。父には感謝しています」
「そうか、うん、俺もね、山の植物はちょっとだけ覚えているよ」
言って畠中が、やさしく微笑んでくれた。
「とても良いお父様なんだね、」
いつも笑って、夜には本を読んでくれて、山では植物を教えてくれた。
そうして最期まで、温かな想いのままに亡くなった父。
そんな父は自分の誇りだ、きれいに笑って周太は言った。
「はい、とても良い、自慢の父です」
そんなふうに畠中と話していると、後藤副隊長が笑いかけてくれた。
「日原は今、最高の錦繍の秋だぞ」
「うれしいです、」
山の秋が見られる、それも最高の。
13年間ずっと、山のことも木のことも、周太は忘れていた。
そんな自分を、山が待ってくれていたように思えて、温かい。
きれいに笑って、いつもの落着いた声で周太は答えた。
「そんな良い時に来させて貰えて、ありがたいです」
「そうか、ありがたいか」
嬉しそうに後藤は微笑むと、周太を見て言ってくれた。
「明日、下山したらまた寄ると良い。一杯おごってやろう」
後藤の目は温かくて、すこし寂しげだけれど明るい。
国村の底抜けの明るさとは違うけれど、暗さがない目はきれいだった。
こういう人と話せたら、きっと楽しいだろう。素直に周太は頷いた。
「はい、ありがとうございます」
奥多摩駅からバスに乗ると、空はだいぶ明るんでいた。
山の稜線あざやかな夜明けが、車窓に広がっていく。
本当に、山へ登ることが出来る。その想いは優しく寄り添ってくる。
父が殉職した13年前の瞬間から、父の記憶の全ては辛い現実を痛ませる傷になった。
山で過ごした、懐かしい父との記憶、幸福だったあの頃の時間。
それらも全て哀しくて、13年間ずっと山も木も忘れて生きていた。
けれど気がつくと、いつも周太は実家の庭に佇んでいた。
そしてあの公園を歩いて、ベンチで過ごす時間が安らげた。
あの庭は、山を好んだという祖父の趣向で、山の自然を写すよう造ってある。
あの公園のベンチの場所は、奥多摩の森を写した造園だという。
忘れたようで本当は、自分はずっと山を自然を求めていた。
だから今、こうして山へ来ていることが、心から嬉しくてならない。
終点でバスを降りると、宮田はクライマー時計の時刻を記録した。
クライマー時計は、父の生前にはまだ発達していない。
いつも宮田の左腕で見ていても、実際に使うのを見るのは周太は初めてだった。
「こうしてペースチェックをすると、帰路の時間調整が解るだろ?」
「あ、そういうことなんだ」
クライマーウォッチの機能を教えてもらいながら、静かに街道を歩く。
まだ朝早い集落は、それでも活気の気配が静かに漂っている。
紅葉シーズンで一般客も多いのだろう。
集落内の水場に着くと、宮田は水筒へ給水を始めた。
給水しながら、周太に笑いかけてくれる。
「周太、ひとくち飲んでごらん。うまいよ、」
「ん、」
素直に頷いて飲んでみる。
どこか懐かしい口当たりに、周太は微笑んだ。
「あ、水が軟らかいな」
「うまいだろ。この水もな、この先のブナ林が抱いた水なんだ」
木が水を抱く。
宮田がそう話すたび、どこか周太の心に響く。
そして、宮田が話してくれた、ブナの巨樹の物語を思い出す。
「周太、後藤副隊長と楽しそうだったね」
「あ、ん。話しやすかったな」
宮田が大切にするブナの木は、後藤副隊長から譲られたと聴いている。
さっき後藤と話して、そのブナの物語の主人公に相応しい。
そんなふうに周太も感じた。
「俺ね、後藤さんに言われたことがあるんだ」
歩きながら、宮田が話してくれる。
「大切な人がいる奴は救助隊員には向いている。
その人に会いたくって必ず生還しようとする。
その生きたいという救助隊員の気持が、遭難者をも救うんだ。そんなふうにね、教えてくれた」
そうかもしれないと周太も思う。
生死を分けるのは生きようとする意志、そう読んだことがある。
そう思い出す隣で、微笑みながら話を続けてくれる。
「だから俺さ、周太とは約束したいよ。
周太を想うほど、どんな現場からも俺は、生きて必ず帰ることが出来る。
周太との約束を大切に想う気持ちがね、生きたい意思になってさ、救助隊員として任務を全うできるだろ?」
名前、呼びたい。
「…っ、」
今このとき、名前を呼んで想いを告げて、気持ちに応えたい。
けれどやっぱり声にはならない、でも想いのかけらだけでも伝えたい。
周太は微笑んだ。
「ん、…約束、たくさんしたい」
「ああ、約束しような」
きれいに笑って、宮田が見つめてくれた。
こんな会話が出来ることが、周太はうれしかった。
こうして山へ来る約束をして、こんなふうに現実に出来る。
ありふれた事だと思う。けれど自分達には得難いことだから。
警察官は非常事態に向かう任務、それは自分も同じこと。
けれど宮田は山岳救助の現場にいる、そこでは年間40件を超える遭難事故が起きている。
その数はそのまま、宮田が危険に立つ回数になる。
警察官で山ヤであることは危険な日々、だから本当はいつも周太は不安でいる。
それでも、大切な隣の願いの通り、いつも笑って約束をしていたい。
林道に入ると宮田は、クリップボードにセットした登山地図を眺めて歩いた。
巡視任務の確認個所をチェックしながら歩いている。
都心で勤務する周太は、物珍しくて横から覗きこんだ。
「周太、興味あるんだ」
「ん。俺の業務とは全く違うから、おもしろいな」
「そうだな、でも折角の山だよ。景色もちゃんと楽しんでくれな」
言われて、その通りだと思った。
今日は山を楽しむために、この隣は周太を連れてきてくれた。
「あ、そうだな」
素直に頷いて周太は、登山道の脇をながれる渓流に目を遣った。
日原川だと聴いた流れは、碧い水の飛沫が、陽光に白く輝いている。
谷底でこだまする水音が、周太の耳まで届いて砕けていく。
Five years have past;five summers,with the length Of five long winters!
and again I hear
These waters, rolling from their mountain-springs with a soft inland murmur.-Once again
過ぎ去りし五年の月日 五つの長き冬と、同じく長き五つの夏は、諸共に過ぎ去りぬ
そして再び、私に聴こえてくる
この水は再び廻り来て 陸深き処やわらかな囁きと共に 山の泉から流れだす
父の蔵書にあった「Wordsworth」の詩の一篇。
思いだして、そっと周太は呟いた。
「5年を13年にしたら…そのまま今の俺みたいだ、な」
13年間の冷たい孤独は、長い冬だった。今その孤独は終わり、この隣がいてくれる。
そして今、この自分の目前で奥多摩を流れる美しい水。この水が新宿へ廻り、再び自分の元へと辿りつく。
美しい自然この場所、そして想う人がいる場所と、自分がいる街を水が廻って繋げている。
なんだか嬉しくて、微笑んで周太は呟いた。
「この水が、新宿にも来るんだな」
「ああ、そうだな」
やさしい微笑みで、隣は見つめてくれる。
「ほら周太、川だけじゃなくて、周りも見てよ」
「ん、」
顔をあげた周太は、映りこんだ色彩に驚いた。
「…すごい、」
錦繍の秋が、周太を迎えていた。
ブナとミズナラの淡黄、落葉松の黄金、漆の透明な朱色、蔦の深い赤紫。
陽光に透ける真赤な紅葉、杉や檜の濃緑と黒い幹。
豊かな紅から黄色のあざやかな彩りと、濃緑から黒に深い森閑のコントラストに山は染まっていた。
梢ふる木洩日も、あわい赤から黄、緑と明滅して道を照らしだす。
日原の錦繍の秋は、光までも艶やかだった。
「うれしい、」
見あげて呟いた周太の声が、明るく微笑んだ。
こんなにたくさんの自然の色彩を、いちどきに見たのは久しぶりだった。
周太は隣へと笑いかけた。
「目の底まで、紅葉で染まりそうになる」
「ああ、きれいだろ?」
きれいな笑顔で、宮田が笑いかけてくれる。
この隣の笑顔が優しくて、うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、…連れてきてくれて、ありがとう」
きれいに笑って、宮田が言ってくれた。
「俺のさ、一番好きな場所へ寄ってもいい?」
宮田の大切な、ブナの巨樹の事だろう。
本当に大切な場所だと、いつもの電話から解る。
連れて行きたいと言ってはくれたけれど、本当に良いのだろうか。
そっと周太は訊いてみた。
「ん、俺も、行っていいの?」
宮田は可笑しそうに笑った。
それから周太の瞳を覗きこむように、やさしく言ってくれた。
「周太だけをさ、連れて行きたいから」
「…そういうふうに言われると恥ずかしいけど…うれしい」
ほんとうに嬉しい、恥ずかしいけれど。
それでもやっぱり嬉しくて、周太は気恥ずかしげ微笑んだ。
ちらっと登山地図を確認して、宮田は笑いかけてくれる。
「ちょっと歩くけど、連れていくな」
分岐点から右の尾根へ入ると、すこし急斜になる。
ブナ林の黄葉が光をおとし、陽に透けた黄色が美しい。
頬を撫でる樹木の香は、ブナの香なのだろう。そう見上げる周太に、宮田が声をかけてくれた。
「ここへと、入っていくから」
指さしたのは、木々の隙間のようなところだった。
言われてみれば、かすかに道の跡らしきものがある。
不思議な小道に思えて、そっと周太は訊いてみた。
「…ここ、道なのか?」
「うん、ほら周太、おいで?」
長い指の掌が周太の手をとって、樹間の道へと誘ってくれた。
手を惹かれるままに入った道は細く、落葉ふりつもる香が濃い。
消えかけた道は、不思議な森の通路のように思えてくる。
ふたりの落葉踏む音だけが、静かな山の空気にとこだました。
「もう、着くよ」
「ん、」
狭まって並んだ樹間から急に、あわい色彩の空間が拓けた。
「…あ、」
やわらかな草が覆った地面は、枯葉色あわい絨毯のようだった。
切株を2つ、倒木を1つ通り抜ける向こう側、木洩陽が広やかに照らし出す。
見上げると、黄金豊かな梢を戴いた、ブナの巨樹が佇んでいた。
「…きれいだ、」
そっと周太の唇から、吐息がこぼれる。
こんなブナを見たのは初めてだった。
静かに佇むブナの巨樹。
沈黙して何も語らない。けれど、その根には山の水を抱いている。
大きな包容力を秘めた、豊かな繁れる梢は空を抱いている。
あわく濃く、くすむ黄金に陽光輝いて、戴冠の梢に聳える大きな木。
静かな風が梢をゆらして渡っていく。風のたびにゆれる木洩陽が、きれいだった。
見上げたまま、そっと周太は呟いた。
「ここが宮田の、好きな場所なんだ」
「ああ、」
静かに頷いて、隣で微笑んでくれる。
誰かの大切な場所に、連れてきてもらうこと。周太には初めてだった。
こういうのは気恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。
そんな想いに周太も笑った。
「連れてきてくれて嬉しい、ありがとう」
きれいに笑って宮田が、静かに頷いてくれる。
宮田はそっとブナの幹に掌をあてると、周太に笑いかけてくれた。
「触れてみろよ、木の温もりが伝わると思う。それと、耳を幹へつけると、かすかだけど水音が聴ける」
「こう?」
周太は掌で幹にふれた。
それから耳を幹へとつけて、そっと瞳を閉じる。
樹幹の深いところから、かすかに何かが磨れあうような音が聴こえた。
「…ん。さぁっ、て聞こえるな」
「だろ?人間でいうと、血流の鼓動と同じなんだ」
「…そうか、…そうだな、すごいな…」
これがブナの水音なんだ。
静かに呼吸も整えながら、周太は幹に寄り添った。
穏やかな鼓動のように、すこしずつ水音が顕れてくれる。
「…ん、水音がはっきりしてくる」
周太の呟きに、きれいな低い声が穏やかに答えてくれる。
「聴いていると、耳が馴れるんだ」
「…ん、そうか、」
耳を澄ますほど、ブナの水音は輪郭を明らかにしてくる。
ああこの木は本当に、水を抱いて立っている。
そんな実感が耳元から、穏やかに広がって充ちていく。
とても不思議な音、ブナの水音。
ささやき声のように、鼓動のように、奥深くからノックするように響く。
樹木は、ただ黙っていると周太は思っていた。
けれどそうでないのだと、このブナの木は語りかけてくる。
ふっと気付くと、宮田の気配がひそめられている。
静かに瞳をあけると隣は、いつのまにか根元に座りこんでいた。
幹に凭れ片胡坐に寛いで、ぼんやりと切株を見つめている。
その視線を追った切株には、新芽の出る気配が見て取れた。
この芽を見つめているんだな。すこし微笑んで周太は、そっと隣を眺めた。
端正な横顔は大人びて、穏やかに深い。
枯葉色とブナの黄金の下、紅深いボルドーの登山ウェアが鮮やかだった。
黄金の木洩陽が白皙の頬にゆれ、きれいな髪に照り映える。
白皙の肌に、深紅と黄金と黒髪のコントラストが、きれいだった。
渋めの黄色にそまる梢から、やわらかな光がふりかかる。
午前中の明るい陽だまりは、森閑として穏やかだった。谷川の水の香が、時折の風にふれてくる。
ちいさな草地に横たわる、倒木をおおう淡い苔が光に瑞々しい。
あわい色彩の光の中、白皙と深紅と黒髪の鮮やかに端正な姿がきれいだった。
こんなに隣はきれいだ、そう思うと不思議に周太は思える。
こんなにきれいな存在が、どうして自分に想いをかけてしまったのだろう。
こうして見つめていると、ひどく大それたことのように思えてしまう。
けれどもう、自分はたった一つの想いを、この隣に掛けてしまっている。
代りなんてどこにもない、ただ一人への、唯一つの想い。
その想いをかけて、一昨日からもうずっと、心で名前を呼んでいる。
…英二、
呼びたい名前、けれど声にならない。
こんなに心で呼んでいる、想っている、それでも声は出てくれない。
愛してる。
この大切な隣、ただひとつの、この想い。
すぐ隣で静かに、大切な隣の姿を見つめていたい。
そのまま静かに座ると、周太はブナの幹へと頬寄せた。
きれいな横顔を見つめて、それからそっと瞳を閉じた。
閉じた瞳のなかで、きれいな横顔の残像が温かい。
その耳の奥へと、ブナの水音がしずかな響を届けてくれる。
…英二、
心にそっと呟いた名前が、温かい。不思議な想いにひたされる、静かに周太は微笑んだ。
愛する横顔の残像を見つめて、周太は水音を聴いた。
穏やかな時間が、ゆっくりと黄葉の木蔭をめぐる。
すぐ隣に佇む、静かで穏やかで、無言でも温かい居心地。
切なくて温かくて、それでも幸せで。周太の瞳から一滴、静かに頬をつたっておちた。
こぼれた涙は静かにそっと、ブナの根元へ浸みこんだ。
…英二、
名前、呼べない。
けれどもう、こんなに呼びたいと願っている。
…ほんとうは、愛している
もうこんなに想っている、それでも出ない言葉。
言葉が出ない、想いを告げられない。だから心だけでも、呟かせて。
周太はゆっくりと睫をひらいた。
見開いた瞳を、きれいな笑顔が見つめてくれている。
こうして見ていてくれた、嬉しくて周太は微笑んだ。
「ここに連れてきてくれて、ありがとう」
ほんとうに嬉しい、大切な場所へ連れてきてくれて。
そんな想いの真中で、きれいな笑顔で宮田が笑って、言ってくれた。
「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて、眺められたら幸せだろ?」
「…そういうこと言われると恥ずかしくなるから…」
嬉しいけれど恥ずかしい、呟いて周太は視線を落としてしまった。
首筋が熱くなってくる、きっと赤くなっている。
気恥ずかしくて、顔を上げられない。
そう困っている周太に、きれいな低い声が静かに言った。
「名前で呼んでくれないの?」
「…え、」
思わず周太は隣を見あげた。
一昨日からもう、ずっと自分が想っていること。
心が伝わってしまったのだろうか。
不思議で見つめる隣は、きれいに微笑んで言ってくれた。
「俺のこと、名前で呼んでよ」
名前、呼びたい。
ほんとうは、きっと、もうずっと前から呼びたかった。
そうしてもっと近づいて、特別な存在になれたら。
きれいに笑って隣が、ねだってくれる。
「英二、って呼んで」
名前、呼びたい。
でも、呼べないでいる。
それが哀しくて本当は、一昨日からずっと涙が止まらない。
どうしたらいいの?困ったままに周太の唇が動いた。
「…そういうの、慣れてなくて…名前で呼ぶとか、無かったから」
気恥ずかしい、けれど隣を見つめてしまう。
だってほんとうはもう、こんなに想いが深いのだから。
いつものように微笑んで、宮田は訊いてくれる。
「じゃあ、それも “初めて” なんだ?」
「…ん、そう、だな」
そう、これも初めてのこと。
だからどうしていいのか、解らないでいる。
途惑っている周太を、覗き込むように宮田が微笑みかけた。
「その“初めて”も俺にしてよ、周太。名前で、英二って呼んでよ」
「初めて…?」
恥ずかしい、でもこんなふうに言われたら。
だってもうほんとうは、こんなに想っている。
周太の瞳を見つめたまま、宮田が微笑んだ。
「わがまま訊いてよ、周太。ずっと俺の名前を呼んで?」
「わがままを、ずっと?」
わがまま。周太は少し頭を傾げて、隣を見つめた。
この隣の求めてくれる、わがまま。
どれも出来るなら、自分が叶えてしまいたい。
思っている周太を見つめて、きれいに宮田が笑った。
「そう、ずっと名前で呼んでもらう、わがまま」
「…ん、」
名前、呼びたい。
ほんとうは、きっと、もうずっと前から、呼びたかった。
そうしてもっと近づいて、特別な存在になっていきたい。
そのことをもう、この隣だってこんなに願ってくれている。
周太はそっと、ひとつ息を吸った。
どうか、唇きちんと動いて。
どうか、声もきちんと出てきて。
そう願いながら周太は、隣を見あげて唇をひらいた。
「…英二?」
英二を見つめて、呼んで、きれいに周太が笑った。
やっと名前、呼べた。
うれしくて、幸せで、周太は微笑んだ。
微笑んだ想いのまんなかで、きれいに英二が笑って、名前を呼んでくれる。
「周太、」
「…ん、なに?英二」
呼ばれて呼んで、気恥ずかしくて甘やかで。
気恥ずかしさに頬赤くなる、けれど幸せが温かい
見上げた隣が微笑んで、周太を見つめた。
「大好きだ、」
名前を呼んだ唇に、そっと英二が口づけた。
しずかに離れて、見つめられて周太は、きれいに笑った。
自分も想いに応えたい、そっと唇を周太はひらいた。
「英二、…俺も、大好きだから」
素直な言葉が告げられて、うれしい。
でもほんとうは、もっと深い想いがある。
それだってほんとうは、告げられたらいのに。
きれいに笑って、英二は言ってくれる。
「知ってるよ、でも俺の方がもっと好きだ」
笑って英二が、また口づけてくれた。
寄せられる唇がうれしくて、けれど伝えられない想いが哀しくて。
震えだしそうな周太の唇に、英二が深く重ねてくる。
静かな時間けれど熱い、ふれあう温もりが愛しい。この隣に、ずっといたい。
静かに離れて、きれいな切長い瞳を見つめた。
黄葉の木洩陽の下で、大人びた白皙の頬がきれいだった。
見つめたままの周太に、そっと英二が言った。
「周太から、キスしてよ」
顔も首筋も熱くなる。
どうしよう、そんなこと、どうやってすればいいの?
途惑ってしまう、けれど願いは叶えてあげたい。
「まだ、一度もしてもらったこと、無いんだけど?」
そう、まだ無い。
だってそういうのは、どうすればいいのか解らない。
でもほんとうは、一度だけ、夢のなかで、したことがある。
田中の葬儀の朝、この隣に眠った明方の夢。
夢のなかで、「好き、」て、言えた。
想いを伝えられたことが、うれしくて。
うれしくて幸せで、きれいな端正な唇へと、キスをした。
後で思いだした時、あんまり幸せな夢で、気恥ずかしくて、うれしかった。
だから本当はずっと想っていた。
あんなふうに自分から、想いを告げて、キスが出来たらいいのに。
きれいな切長い目に、瞳を見つめられている。
きれいな低い声は、静かな口調でねだってくれる。
「ほんとうは、俺、ずっと待っていたんだけど。わがまま訊いてよ、周太」
わがまま。この隣の願いなら、わがままなら、訊いてあげたい。
呟くように周太は訊いてみた。
「…わがまま?」
「そう、わがまま。俺のわがまま訊いてよ、周太」
わがまま、訊いてあげたい。
だってもう、本当は自分は、この隣を愛している。
たった一人への唯一つの想い。だから本当はもう、何だって出来ると想う。
「名前で呼んで、キスして」
気恥ずかしい、けれど叶えたい。
だって本当はもう、とっくに決めている。この隣の為になら、自分は何だってできる。
それが自分の想いを、伝えられる術になるのなら、出来ないわけがない。
そっと息を吸って、周太は愛する名前を呼んだ。
「…えいじ、」
呼んで、瞳を近寄せて、真直ぐに見つめて見返して。
それでもやっぱり、唇がふるえてしまう。
見つめる想いの真中で、きれいな笑顔が周太に願いを告げた。
「笑顔を見せて。俺の名前を呼んで、キスして」
求めてもらっている。
そんな幸せに微笑んで、きれいに周太は笑った。
「英二、」
ゆるやかに周太は、英二へと、穏やかに唇を重ねた。
ふれる熱が、あたたかい。
ふれる温もりが、しあわせに微笑ませる。
重ねただけのキス。けれど、こんなに温かで穏やかで熱くて、愛しい。
愛している、もうずっと
よりそった唇を、周太はそっと静かに離した。
今ふれあっていた唇が、穏やかに熱い。
気恥ずかしいけれど幸せで、想いを確かめたくて。
きれいに笑って周太は、愛する名前を呼んだ。
「英二、」
見つめる想いのまんなかの、きれいな笑顔。
どうかずっと、きれいなままで笑っていて。
冷たい孤独から、自分を救ってくれた。
壊され失っていた、自分の笑顔を与えてくれた。
殉職の枷に繋がれた、父も母も全て救って、真実と想いを示してくれた。
そうして約束してくれた、もう離さないと隣にいると。
愛している、もうずっと。
たった一つのこの想い、誰も代りなんていない唯一つの想い。
だから願ってしまう祈ってしまう。
どうかこの大切な、きれいな笑顔を守らせて。
愛しい笑顔が、きれいに笑って言ってくれる。
「周太のキス、すげえよかったんだけど」
顔が熱くなる気恥ずかしい、それでも周太は隣を見上げた。
よかった、ならうれしい。
訊いてみたくて、消えそうな小さな声で、周太は呟いた。
「…ほんと?」
「ほんとのほんと」
本当なら、うれしい、周太はほっと吐息をついた。
「…よかった」
安心した溜息が零れて、周太は微笑んだ。
周太の顔を覗きこむように、英二が笑いかけてくれる。
「おいで、」
長い腕が伸ばされて、体がそっと抱きしめられる。
髪に顔が埋められる、髪を透す吐息が熱くて、抱きしめられる温もりが幸せだった。
瞳を見つめられて、唇を重ねてくれる。
静かに重ねて離して、瞳を覗きこまれて周太は、きれいに笑った英二に告げられた。
「愛している、」
いま、なんて、いってくれたの?
愛している、そう聴こえた。一昨日からずっと、自分の心を廻る想い。
それと同じ想いを、この隣も抱いてくれると言うの?
もし、本当に、そうなら、うれしい。
想いが心から瞳へ漲って、熱が頬こぼれて雫がおりる。
そっと周太は呟いた。
「…俺で、いいのか」
きれいな笑顔で、真直ぐ見つめて、英二が言った。
「周太だから、愛している、」
うれしい、うれしくて幸せで、微笑んでしまう。
周太の黒目がちの瞳が、きれいに笑った。
どうか唇きちんと動いて。
どうか声きちんと出てきて。
真直ぐに見つめて周太は、英二に想いを告げた。
「…英二だから、愛している」
ああ、やっと、言えた。
言えたことがうれしい、伝えられてうれしい。
もう今、想いをすべて伝えておきたい。次なんて解らない、だから。
だから、唇、声、お願いどうか。
周太は微笑んで、きれいに笑って、想いを英二に告げた。
「もう、ずっと、愛しているんだ…言えなかったけれど、本当はもうずっと、愛している」
そう、もう、愛している。
だからもう、何だってできる、あなたの為に。
きれいな笑顔から、涙のしずくが零れて微笑む。
きれいに笑って周太は言った。
「愛している、英二」
切長い目から、涙がこぼれた。
見つめる想いの真中で、英二の目から熱があふれていく。
自分はもう、この隣を愛してしまった。そして自分はもう、この隣に愛されている。
大切なこの場所で、大切なひとと告げあって、大切な想いにおちる。
周太の瞳を見つめて、きれいに笑って英二が言ってくれた。
「きっと、俺の方がたくさん愛している」
そんなふうに言われて、うれしい。
言ってくれた端正な顔を、周太は微笑んで見つめた。
見つめていれば幸せで、今の瞬間が永遠になると思ってしまう。
これからきっと、ずっとこうして、隣で見つめていくのだろう。
見つめ合って、ふたりはお互いから、キスをした。
倒木に並んで腰掛けて、ブナの木を見あげていた。
あわい木洩陽の光が、ゆるやかに温かくふりかかる。
森と山の香が、やわらかく頬を撫でて、あたりの空気にとけていく。
この場所は好きだ、そしてこのブナの木は、本当にきれいだと思える。
静かに周太は呟いた。
「こんなふうに、静かに穏やかに、生きられたらいいね」
「俺もね、いつも、そう思って見あげるよ」
そんなふうに隣も、微笑んで言ってくれる。
誰にも知られず静かに、水を蓄える包容力を抱いて、ブナは佇んでいる。
そんなふうに、英二の隣で生きていけたらいいのに。
そんな事を思いながら見上げていると、長い指がリンゴを半分差し出してくれた。
「はい、周太」
「ん、ありがとう」
いま英二が素手で割ってくれた、半分ずつのリンゴ。
こういうふうに、1つを分け合うことも、周太にとっては英二が初めてだった。
そっとかじると、さわやかな香が唇から零れる。
甘酸っぱい果汁が、なんだか甘くて気恥ずかしい。
「山頂まではあと、3時間ほど歩くんだ。ちょうどいいおやつだろ」
隣で英二が、きれいに笑いかけてくれる。
そうだねと頷きながら、周太は英二の笑顔を見つめて微笑んだ。
この笑顔、どうか自分に守らせて。
そんな祈りをずっときっと、自分は抱いて生きていく。
(to be continued)
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】
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萬紅、仲暁act.1―another,side story「陽はまた昇る」
車窓はまだ夜の底だった。
夜明け前の昏さが、そっと稜線をくるんで眠りこんでいる。
朝一番の車内も、まだ空いていた。
「いまの時期、夜明けが遅いからな」
宮田が微笑んで、マフラーを巻きながら教えてくれる。
誕生日に贈ってくれたマフラーは、夜明前の寒さにも温かい。
いつも優しい宮田、こんなふうにいつも気遣ってくれる。
やさしい心遣いが嬉しくて、周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう。温かい」
「よかった、周太が温かいと俺、うれしいよ」
きれいな、やさしい笑顔。ほんとうに、愛している。
いつもこうして自分を温めてくれる。
愛する、やさしい穏やかな、きれいな笑顔。
いつもこんなふうに、周りの人へ、目の前の人へ、やさしく微笑んでいる。
そんなところが、ほんとうに好きだ。
そんな優しさが一層、山岳救助隊の任務へと、この隣を打込ませていく。
だから不安になる。一途な優しさが躊躇なく、危険な救助へと向かうことが。
この隣の優しい笑顔、どうか無事で、そうしてずっと隣に居てほしい。
どうか、自分が、この笑顔を守れますように。
そんな想いで周太は、そっと隣を振返った。
見ると隣は、胸ポケットに長い指を入れている。
長い指はiPodのイヤホンを取出すと、片方を周太に差し出してくれた。
「はい、周太」
すこし首を傾げて、周太は隣を見あげた。
「俺も持ってきているけど、」
「同じのを一緒に聴くと、うれしいから。だから片方ずつ」
言いながら、耳許へとイヤホンをセットしてくれた。
きれいな長い指先が、耳元に首筋にふれる。
その感触が昨夜のことを蘇らせて、熱が首筋から耳へと昇ってしまう。
きっともう赤くなっている。気恥ずかしさに周太は睫をそっと伏せた。
I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.…
iPodのイヤホンから、穏やかなあの曲が流れだした。
宮田専用の携帯着信音も、この曲になっている。だからいつも、この曲が流れる時は離れている時だった。
それをこんなふうに、ひとつのiPodから聞いている。
一緒に聴けると嬉しい、周太は微笑んだ。
「ん。なんだか、うれしいな」
「だろ?」
他愛ない話をしながら食べる、サンドイッチがおいしい。
缶のココアも、きちんと味がする。
ああいう夜の、翌朝は、いつも不思議なほど気怠い。でも今朝は楽だ。
なんでなのだろう、こういうことはよく解らない。
それどころか卒業式の翌朝は、何を口にしても味が無かった。
けれど次にこうなった、田中の通夜の翌朝は、きちんと味がした。
卒業式の翌朝と違って、あまり痛くは無かった。けれど、そのぶん気怠かった。
それからの朝は、痛みは減っていき気怠さが増している。
だから今朝はどれも楽なことは、周太には不思議だった。
何でなのだろう、けれどとても恥ずかしくて訊けない。
そう思いながらふと、周太は他の訊きたい事を思い出した。
パンの最後の欠片を飲みこんで、周太は唇を開いた。
「あのさ、一昨日のメールなんだけど」
「ああ、夜間捜索に入るときの?」
「そう、それ」
一昨日の夜、非番だった宮田は遭難救助の召集を受けた。
その時に宮田は、メールを送ってくれた。
From : 宮田
subject: 今から山に
本 文 : 遭難救助の召集が来た。道迷いの捜索、今からだとビバークになると思う。
大丈夫、必ず俺は隣に帰るから。
でもさ、話はちょっと、危ういかもしれない?
本文の最後の一行、よく意味が解らない。
周太は首を傾げながら、訊いてみた。
「文面にあった、“話題はちょっと危ういかもしれない”って、どういうことなんだ?」
「ビバークの時にさ、国村に訊かれる話題が、危ういなってこと」
訊いた周太に、笑って宮田は答えてくれる。
危うい話題なんてあるんだな、何気なく周太は訊いた。
「どんな話題なんだ?」
いつものように笑って、宮田は答えた。
「周太はね、全て俺が初体験だっていう話題」
いまなんていったのだろう?
そう思った途端「初体験」という言葉には、国村の言葉がイコールで結ばれた。
― 俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?―
「…っ、」
どうしていつもそういうことばかりはなしするんだあのひと。
国村は嫌いじゃない、むしろ好きだと思う。
真直ぐで底抜けに明るい瞳は、暗さが全くなくて話しやすい。
実直で裏表のない宮田とは、良いパートナーだろうと思う。
この大切な隣にとって、とてもいい友人で山ヤ仲間でいてくれる。
文学青年風の繊細な風貌、けれど酒好きで豪胆な本性の国村。
そういうギャップも好きだけど、けれど。
けれどちょっとそういうはなしがすきすぎるんじゃない?
首筋もう、真っ赤になっている。恥ずかしくて仕方ない。
けれど、宮田はなんて、答えてくれたのだろう。
気になってしまって、周太は遠慮がちに訊いた。
「…訊かれて、なんて言ったんだ?」
「うん、俺?」
穏やかに微笑んで、宮田は言ってくれた。
「運命だから。て、言った」
運命 その言葉ことんと、心臓におちて響いた。
運命 それは、出会うべくして廻り会うこと。
ほんとうは思っていた、
自分と出会ったことで、この隣の運命を狂わせたんじゃないかと。
きれいな笑顔の、大切なこの隣。
きれいな笑顔に相応しい、幸せな運命があったはず。
それを自分の為に、捨てさせ壊させてしまった。そんな罪悪感がずっとある。
けれど「運命」と、この隣は言ってくれた。
自分たちのことを、運命と言ってくれるの?
出会うべきだったから出会った、そんなふうに言ってくれるの?
ほんとうに?
そんな想いが心あふれて、瞳から熱があふれてしまう。
そっと周太は唇を開いた。
「…そんなふうに、言ってくれたんだ」
「だって、そうだろ?」
見上げる瞳から零れかける涙を、隣は長い指でそっと拭ってくれた。
そして周太の瞳を真直ぐみつめて、きれいに笑って宮田は言った。
「周太の初めてが俺で、本当に嬉しくて、俺の幸せなんだ」
ほんとうに? そんな想いが切なくて、うれしい。
だって自分は本当は、この隣を、愛している。
そんな相手に、そう言われて。もう幸せが温かい。
名前で、呼びたい。
「…っ」
名前、声になって出てこない。
どうして呼べないのだろう、こんなに心では呼んでいるのに。
愛していると、心でこんなに告げている。けれどそれも言葉に声になってくれない。
昨夜だってもう何度も、呼びたかった、告げたかった。
それでもお願い、想いだけでも伝えたい。
両掌に温かいココアの缶が、ふっと周太の意識に映りこんだ。
父との幸福な記憶と言葉が、ほろ苦く甘い香に頬を撫でる。
「 周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ?」
「そうなの?」
「ん、そう。だってね周、次いつ言えるか解らないだろう?だからね、その時を大切に、一生懸命に伝えてごらん」
ほんとうにそんなふうに、父はいつも生きていた。
そうして最期の瞬間まで大切にした、温かな想いだけを懸命に伝えて、きれいな想いだけを遺して死んでいった。
自分を殺害した男にも、自分のために復讐を願う男にも、そして息子の自分にも。
お父さん、今、すこし勇気を分けて。
父の記憶と想いと一緒に、ココアを周太は飲みこんだ。
飲みこんで息をつくと、唇はかすかに開いてくれた。
「…ゆうべ言ったとおり…くれる初めては全部うれしい…幸せだから」
隣を真直ぐに見つめて、周太は言った。
きっと顔も真っ赤になっている、けれど少しでも伝えられた。
「うん、」
頷いて宮田が、きれいに笑って言ってくれた。
「この先もさ、初めてがあるから」
この先も、初めて。
幸せに微笑んで、周太は頷いた。
「ん、」
この先も。 これから先ずっと、一緒だと言う約束。
初めて。 ふたりで一緒に経験を、積み重ねていく約束。
そんな優しい約束が、そっと心を温めてくれる。
ほんとうに、今、伝えられて良かった。そんな想いがどこか、すこしだけ強さに変わる。
繋いだiPodから、やさしい穏やかな曲が流れる。
やさしい静かな隣に座って、秋の長い夜に籠められる車窓を眺めていた。
この隣にいると、そっと心が安らいで、温かくて居心地が良い。
それはもうずっと、警察学校時代から感じていたこと。
安らかで温かくて、息をするたびごとに、この隣への想いが深くなる。
こんな隣に掴まえられている自分は、心から幸せだと思う。
けれど、どうして宮田も国村も、ああいう話が出来るんだろう。
そんなふうには周太は、夜の話などしたことが無い。
そういう機会も相手も居なかった。
気恥ずかしいけれど訊いてみようか、周太はそっと隣を見あげた。
見上げた先、言ってごらんと宮田は微笑んでくれる。
思いきって周太は口を開いた。
「…あのさ、ああいう話って、どういう流れで出来るものなんだ?」
「ビバークで国村と話していたこと?」
「ん、」
宮田は楽しそうに笑って、答えてくれた。
「うん、酒を呑むとさ、楽しい話題かな」
「そうなのか、」
頷きかけて、ふと周太は止まった。
いま「酒を呑むとき」って言わなかっただろうか?
けれど「ビバークで国村と話していたこと」と宮田は言っていた。
なんだか困った予感がする、けれど周太は訊いてみた。
「でもそれって、捜索の任務中の、ビバークだったんだろう?」
訊かれて、宮田は正直に笑った。
「そうだけど?」
そう、って。
だってそう、ってことは。
捜索任務中のビバーク中に酒を呑んで話していた。そういう事だろうか?
でも、それって、それじゃあ…呆気にとられて周太は言った。
「…任務中に酒、呑んだのか?!」
こんなに驚いて困って、こちらは訊いている。
けれど宮田は、きれいに笑って言った。
「仕方ないよ周太。山ではさ、山のルールで生きないと」
そう言って笑った宮田の顔が、なんだか眩しい。
山ヤとしての誇りと矜持が、そんな言葉もさらりと言わせている。
そんな雰囲気が、なんだか大人びた風貌に悪戯っ気が漂って、惹かれてしまう。
高級住宅街の世田谷で、不自由ない家庭に育った宮田。
そんな宮田が今は、奥多摩で山のルールで生きている。
そして宮田は、今の方がずっと良い顔になった。
人の運命は不思議だと、この隣を見ていると思う時がある。
そうして、その隣にいる自分の運命も、とても不思議だと思える。
冷たい現実に生きていた、けれど、この隣の運命に掴まれて、こんなに想いが温かい。
だから想ってしまう。不思議なままにずっと、想いの温かさに生きればいい。
たったひとつの想い、唯一人への想いに。
車窓の稜線が、かすかに明るんでラインを示しだす。
まだ日の出に間のある時間、けれど太陽の気配は空へと見えている。
穏やかに隣が微笑んで言ってくれた。
「天気良さそうだな、きっと夜は山荘で星がきれいだよ」
山荘に泊れる。もし晴れていたら、星の降る夜が見られるのだろう。
幼い頃の、父と母との幸せな記憶が蘇る。
もう二度と、そういう幸せは自分には無い。そんなふうに思っていた。
けれどきっと、この隣は今日、こうして約束を果たしてくれる。
うれしくて、周太は微笑んだ。
「ん、うれしいな。連れて行って山に」
「うん、連れていく。ほら周太、もうじき奥多摩駅に着くよ」
そんなふうに話して、奥多摩交番に6時過ぎに着いた。
登山計画書を出して、宮田は山岳救助隊副隊長の後藤と打ち合わせを始める。
9月の台風で崩落が起き、雲取山も何箇所か登山道が一般通行止めになっていた。
そして紅葉盛期を迎えた先日、いくつか林道が再開された。その巡視をしながら登山する。
周太は交番表から外を眺めて、宮田を待っていた。
そんな周太に、奥多摩交番勤務の畠中が声を掛けてくれた。
「奥多摩は初めてかい?」
「小さい頃に何度か、お邪魔させて頂きました」
あの頃が懐かしい、周太は微笑んで答えた。
あの頃はどの山に登ったのだろう。そう思っていると、畠中は何気なく周太に訊いた。
「ご家族が山好きなんだね、」
何気なく訊かれて、一瞬だけ周太は止まりそうになった。
山好きだったのは、殉職した父だった。
父の記憶へ向き合うことは、少し前までは辛くて。
だから父の記憶と一緒に、山のことも忘れていた。
けれど今はもう、きっと大丈夫。
だって宮田は真直ぐに、事件を見つめさせてくれた。微笑んで周太は答えた。
「はい、父が山好きでした」
畠中の目が少し大きくなった。きっと過去形で、周太が話した事に気がついたのだろう。
きっと優しい人なのだな。思いながら周太は笑って、言葉を続けた。
「父が山好きだったお蔭で、私は植物の名前を覚えられました。父には感謝しています」
「そうか、うん、俺もね、山の植物はちょっとだけ覚えているよ」
言って畠中が、やさしく微笑んでくれた。
「とても良いお父様なんだね、」
いつも笑って、夜には本を読んでくれて、山では植物を教えてくれた。
そうして最期まで、温かな想いのままに亡くなった父。
そんな父は自分の誇りだ、きれいに笑って周太は言った。
「はい、とても良い、自慢の父です」
そんなふうに畠中と話していると、後藤副隊長が笑いかけてくれた。
「日原は今、最高の錦繍の秋だぞ」
「うれしいです、」
山の秋が見られる、それも最高の。
13年間ずっと、山のことも木のことも、周太は忘れていた。
そんな自分を、山が待ってくれていたように思えて、温かい。
きれいに笑って、いつもの落着いた声で周太は答えた。
「そんな良い時に来させて貰えて、ありがたいです」
「そうか、ありがたいか」
嬉しそうに後藤は微笑むと、周太を見て言ってくれた。
「明日、下山したらまた寄ると良い。一杯おごってやろう」
後藤の目は温かくて、すこし寂しげだけれど明るい。
国村の底抜けの明るさとは違うけれど、暗さがない目はきれいだった。
こういう人と話せたら、きっと楽しいだろう。素直に周太は頷いた。
「はい、ありがとうございます」
奥多摩駅からバスに乗ると、空はだいぶ明るんでいた。
山の稜線あざやかな夜明けが、車窓に広がっていく。
本当に、山へ登ることが出来る。その想いは優しく寄り添ってくる。
父が殉職した13年前の瞬間から、父の記憶の全ては辛い現実を痛ませる傷になった。
山で過ごした、懐かしい父との記憶、幸福だったあの頃の時間。
それらも全て哀しくて、13年間ずっと山も木も忘れて生きていた。
けれど気がつくと、いつも周太は実家の庭に佇んでいた。
そしてあの公園を歩いて、ベンチで過ごす時間が安らげた。
あの庭は、山を好んだという祖父の趣向で、山の自然を写すよう造ってある。
あの公園のベンチの場所は、奥多摩の森を写した造園だという。
忘れたようで本当は、自分はずっと山を自然を求めていた。
だから今、こうして山へ来ていることが、心から嬉しくてならない。
終点でバスを降りると、宮田はクライマー時計の時刻を記録した。
クライマー時計は、父の生前にはまだ発達していない。
いつも宮田の左腕で見ていても、実際に使うのを見るのは周太は初めてだった。
「こうしてペースチェックをすると、帰路の時間調整が解るだろ?」
「あ、そういうことなんだ」
クライマーウォッチの機能を教えてもらいながら、静かに街道を歩く。
まだ朝早い集落は、それでも活気の気配が静かに漂っている。
紅葉シーズンで一般客も多いのだろう。
集落内の水場に着くと、宮田は水筒へ給水を始めた。
給水しながら、周太に笑いかけてくれる。
「周太、ひとくち飲んでごらん。うまいよ、」
「ん、」
素直に頷いて飲んでみる。
どこか懐かしい口当たりに、周太は微笑んだ。
「あ、水が軟らかいな」
「うまいだろ。この水もな、この先のブナ林が抱いた水なんだ」
木が水を抱く。
宮田がそう話すたび、どこか周太の心に響く。
そして、宮田が話してくれた、ブナの巨樹の物語を思い出す。
「周太、後藤副隊長と楽しそうだったね」
「あ、ん。話しやすかったな」
宮田が大切にするブナの木は、後藤副隊長から譲られたと聴いている。
さっき後藤と話して、そのブナの物語の主人公に相応しい。
そんなふうに周太も感じた。
「俺ね、後藤さんに言われたことがあるんだ」
歩きながら、宮田が話してくれる。
「大切な人がいる奴は救助隊員には向いている。
その人に会いたくって必ず生還しようとする。
その生きたいという救助隊員の気持が、遭難者をも救うんだ。そんなふうにね、教えてくれた」
そうかもしれないと周太も思う。
生死を分けるのは生きようとする意志、そう読んだことがある。
そう思い出す隣で、微笑みながら話を続けてくれる。
「だから俺さ、周太とは約束したいよ。
周太を想うほど、どんな現場からも俺は、生きて必ず帰ることが出来る。
周太との約束を大切に想う気持ちがね、生きたい意思になってさ、救助隊員として任務を全うできるだろ?」
名前、呼びたい。
「…っ、」
今このとき、名前を呼んで想いを告げて、気持ちに応えたい。
けれどやっぱり声にはならない、でも想いのかけらだけでも伝えたい。
周太は微笑んだ。
「ん、…約束、たくさんしたい」
「ああ、約束しような」
きれいに笑って、宮田が見つめてくれた。
こんな会話が出来ることが、周太はうれしかった。
こうして山へ来る約束をして、こんなふうに現実に出来る。
ありふれた事だと思う。けれど自分達には得難いことだから。
警察官は非常事態に向かう任務、それは自分も同じこと。
けれど宮田は山岳救助の現場にいる、そこでは年間40件を超える遭難事故が起きている。
その数はそのまま、宮田が危険に立つ回数になる。
警察官で山ヤであることは危険な日々、だから本当はいつも周太は不安でいる。
それでも、大切な隣の願いの通り、いつも笑って約束をしていたい。
林道に入ると宮田は、クリップボードにセットした登山地図を眺めて歩いた。
巡視任務の確認個所をチェックしながら歩いている。
都心で勤務する周太は、物珍しくて横から覗きこんだ。
「周太、興味あるんだ」
「ん。俺の業務とは全く違うから、おもしろいな」
「そうだな、でも折角の山だよ。景色もちゃんと楽しんでくれな」
言われて、その通りだと思った。
今日は山を楽しむために、この隣は周太を連れてきてくれた。
「あ、そうだな」
素直に頷いて周太は、登山道の脇をながれる渓流に目を遣った。
日原川だと聴いた流れは、碧い水の飛沫が、陽光に白く輝いている。
谷底でこだまする水音が、周太の耳まで届いて砕けていく。
Five years have past;five summers,with the length Of five long winters!
and again I hear
These waters, rolling from their mountain-springs with a soft inland murmur.-Once again
過ぎ去りし五年の月日 五つの長き冬と、同じく長き五つの夏は、諸共に過ぎ去りぬ
そして再び、私に聴こえてくる
この水は再び廻り来て 陸深き処やわらかな囁きと共に 山の泉から流れだす
父の蔵書にあった「Wordsworth」の詩の一篇。
思いだして、そっと周太は呟いた。
「5年を13年にしたら…そのまま今の俺みたいだ、な」
13年間の冷たい孤独は、長い冬だった。今その孤独は終わり、この隣がいてくれる。
そして今、この自分の目前で奥多摩を流れる美しい水。この水が新宿へ廻り、再び自分の元へと辿りつく。
美しい自然この場所、そして想う人がいる場所と、自分がいる街を水が廻って繋げている。
なんだか嬉しくて、微笑んで周太は呟いた。
「この水が、新宿にも来るんだな」
「ああ、そうだな」
やさしい微笑みで、隣は見つめてくれる。
「ほら周太、川だけじゃなくて、周りも見てよ」
「ん、」
顔をあげた周太は、映りこんだ色彩に驚いた。
「…すごい、」
錦繍の秋が、周太を迎えていた。
ブナとミズナラの淡黄、落葉松の黄金、漆の透明な朱色、蔦の深い赤紫。
陽光に透ける真赤な紅葉、杉や檜の濃緑と黒い幹。
豊かな紅から黄色のあざやかな彩りと、濃緑から黒に深い森閑のコントラストに山は染まっていた。
梢ふる木洩日も、あわい赤から黄、緑と明滅して道を照らしだす。
日原の錦繍の秋は、光までも艶やかだった。
「うれしい、」
見あげて呟いた周太の声が、明るく微笑んだ。
こんなにたくさんの自然の色彩を、いちどきに見たのは久しぶりだった。
周太は隣へと笑いかけた。
「目の底まで、紅葉で染まりそうになる」
「ああ、きれいだろ?」
きれいな笑顔で、宮田が笑いかけてくれる。
この隣の笑顔が優しくて、うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、…連れてきてくれて、ありがとう」
きれいに笑って、宮田が言ってくれた。
「俺のさ、一番好きな場所へ寄ってもいい?」
宮田の大切な、ブナの巨樹の事だろう。
本当に大切な場所だと、いつもの電話から解る。
連れて行きたいと言ってはくれたけれど、本当に良いのだろうか。
そっと周太は訊いてみた。
「ん、俺も、行っていいの?」
宮田は可笑しそうに笑った。
それから周太の瞳を覗きこむように、やさしく言ってくれた。
「周太だけをさ、連れて行きたいから」
「…そういうふうに言われると恥ずかしいけど…うれしい」
ほんとうに嬉しい、恥ずかしいけれど。
それでもやっぱり嬉しくて、周太は気恥ずかしげ微笑んだ。
ちらっと登山地図を確認して、宮田は笑いかけてくれる。
「ちょっと歩くけど、連れていくな」
分岐点から右の尾根へ入ると、すこし急斜になる。
ブナ林の黄葉が光をおとし、陽に透けた黄色が美しい。
頬を撫でる樹木の香は、ブナの香なのだろう。そう見上げる周太に、宮田が声をかけてくれた。
「ここへと、入っていくから」
指さしたのは、木々の隙間のようなところだった。
言われてみれば、かすかに道の跡らしきものがある。
不思議な小道に思えて、そっと周太は訊いてみた。
「…ここ、道なのか?」
「うん、ほら周太、おいで?」
長い指の掌が周太の手をとって、樹間の道へと誘ってくれた。
手を惹かれるままに入った道は細く、落葉ふりつもる香が濃い。
消えかけた道は、不思議な森の通路のように思えてくる。
ふたりの落葉踏む音だけが、静かな山の空気にとこだました。
「もう、着くよ」
「ん、」
狭まって並んだ樹間から急に、あわい色彩の空間が拓けた。
「…あ、」
やわらかな草が覆った地面は、枯葉色あわい絨毯のようだった。
切株を2つ、倒木を1つ通り抜ける向こう側、木洩陽が広やかに照らし出す。
見上げると、黄金豊かな梢を戴いた、ブナの巨樹が佇んでいた。
「…きれいだ、」
そっと周太の唇から、吐息がこぼれる。
こんなブナを見たのは初めてだった。
静かに佇むブナの巨樹。
沈黙して何も語らない。けれど、その根には山の水を抱いている。
大きな包容力を秘めた、豊かな繁れる梢は空を抱いている。
あわく濃く、くすむ黄金に陽光輝いて、戴冠の梢に聳える大きな木。
静かな風が梢をゆらして渡っていく。風のたびにゆれる木洩陽が、きれいだった。
見上げたまま、そっと周太は呟いた。
「ここが宮田の、好きな場所なんだ」
「ああ、」
静かに頷いて、隣で微笑んでくれる。
誰かの大切な場所に、連れてきてもらうこと。周太には初めてだった。
こういうのは気恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。
そんな想いに周太も笑った。
「連れてきてくれて嬉しい、ありがとう」
きれいに笑って宮田が、静かに頷いてくれる。
宮田はそっとブナの幹に掌をあてると、周太に笑いかけてくれた。
「触れてみろよ、木の温もりが伝わると思う。それと、耳を幹へつけると、かすかだけど水音が聴ける」
「こう?」
周太は掌で幹にふれた。
それから耳を幹へとつけて、そっと瞳を閉じる。
樹幹の深いところから、かすかに何かが磨れあうような音が聴こえた。
「…ん。さぁっ、て聞こえるな」
「だろ?人間でいうと、血流の鼓動と同じなんだ」
「…そうか、…そうだな、すごいな…」
これがブナの水音なんだ。
静かに呼吸も整えながら、周太は幹に寄り添った。
穏やかな鼓動のように、すこしずつ水音が顕れてくれる。
「…ん、水音がはっきりしてくる」
周太の呟きに、きれいな低い声が穏やかに答えてくれる。
「聴いていると、耳が馴れるんだ」
「…ん、そうか、」
耳を澄ますほど、ブナの水音は輪郭を明らかにしてくる。
ああこの木は本当に、水を抱いて立っている。
そんな実感が耳元から、穏やかに広がって充ちていく。
とても不思議な音、ブナの水音。
ささやき声のように、鼓動のように、奥深くからノックするように響く。
樹木は、ただ黙っていると周太は思っていた。
けれどそうでないのだと、このブナの木は語りかけてくる。
ふっと気付くと、宮田の気配がひそめられている。
静かに瞳をあけると隣は、いつのまにか根元に座りこんでいた。
幹に凭れ片胡坐に寛いで、ぼんやりと切株を見つめている。
その視線を追った切株には、新芽の出る気配が見て取れた。
この芽を見つめているんだな。すこし微笑んで周太は、そっと隣を眺めた。
端正な横顔は大人びて、穏やかに深い。
枯葉色とブナの黄金の下、紅深いボルドーの登山ウェアが鮮やかだった。
黄金の木洩陽が白皙の頬にゆれ、きれいな髪に照り映える。
白皙の肌に、深紅と黄金と黒髪のコントラストが、きれいだった。
渋めの黄色にそまる梢から、やわらかな光がふりかかる。
午前中の明るい陽だまりは、森閑として穏やかだった。谷川の水の香が、時折の風にふれてくる。
ちいさな草地に横たわる、倒木をおおう淡い苔が光に瑞々しい。
あわい色彩の光の中、白皙と深紅と黒髪の鮮やかに端正な姿がきれいだった。
こんなに隣はきれいだ、そう思うと不思議に周太は思える。
こんなにきれいな存在が、どうして自分に想いをかけてしまったのだろう。
こうして見つめていると、ひどく大それたことのように思えてしまう。
けれどもう、自分はたった一つの想いを、この隣に掛けてしまっている。
代りなんてどこにもない、ただ一人への、唯一つの想い。
その想いをかけて、一昨日からもうずっと、心で名前を呼んでいる。
…英二、
呼びたい名前、けれど声にならない。
こんなに心で呼んでいる、想っている、それでも声は出てくれない。
愛してる。
この大切な隣、ただひとつの、この想い。
すぐ隣で静かに、大切な隣の姿を見つめていたい。
そのまま静かに座ると、周太はブナの幹へと頬寄せた。
きれいな横顔を見つめて、それからそっと瞳を閉じた。
閉じた瞳のなかで、きれいな横顔の残像が温かい。
その耳の奥へと、ブナの水音がしずかな響を届けてくれる。
…英二、
心にそっと呟いた名前が、温かい。不思議な想いにひたされる、静かに周太は微笑んだ。
愛する横顔の残像を見つめて、周太は水音を聴いた。
穏やかな時間が、ゆっくりと黄葉の木蔭をめぐる。
すぐ隣に佇む、静かで穏やかで、無言でも温かい居心地。
切なくて温かくて、それでも幸せで。周太の瞳から一滴、静かに頬をつたっておちた。
こぼれた涙は静かにそっと、ブナの根元へ浸みこんだ。
…英二、
名前、呼べない。
けれどもう、こんなに呼びたいと願っている。
…ほんとうは、愛している
もうこんなに想っている、それでも出ない言葉。
言葉が出ない、想いを告げられない。だから心だけでも、呟かせて。
周太はゆっくりと睫をひらいた。
見開いた瞳を、きれいな笑顔が見つめてくれている。
こうして見ていてくれた、嬉しくて周太は微笑んだ。
「ここに連れてきてくれて、ありがとう」
ほんとうに嬉しい、大切な場所へ連れてきてくれて。
そんな想いの真中で、きれいな笑顔で宮田が笑って、言ってくれた。
「好きな場所にさ、好きな人を佇ませて、眺められたら幸せだろ?」
「…そういうこと言われると恥ずかしくなるから…」
嬉しいけれど恥ずかしい、呟いて周太は視線を落としてしまった。
首筋が熱くなってくる、きっと赤くなっている。
気恥ずかしくて、顔を上げられない。
そう困っている周太に、きれいな低い声が静かに言った。
「名前で呼んでくれないの?」
「…え、」
思わず周太は隣を見あげた。
一昨日からもう、ずっと自分が想っていること。
心が伝わってしまったのだろうか。
不思議で見つめる隣は、きれいに微笑んで言ってくれた。
「俺のこと、名前で呼んでよ」
名前、呼びたい。
ほんとうは、きっと、もうずっと前から呼びたかった。
そうしてもっと近づいて、特別な存在になれたら。
きれいに笑って隣が、ねだってくれる。
「英二、って呼んで」
名前、呼びたい。
でも、呼べないでいる。
それが哀しくて本当は、一昨日からずっと涙が止まらない。
どうしたらいいの?困ったままに周太の唇が動いた。
「…そういうの、慣れてなくて…名前で呼ぶとか、無かったから」
気恥ずかしい、けれど隣を見つめてしまう。
だってほんとうはもう、こんなに想いが深いのだから。
いつものように微笑んで、宮田は訊いてくれる。
「じゃあ、それも “初めて” なんだ?」
「…ん、そう、だな」
そう、これも初めてのこと。
だからどうしていいのか、解らないでいる。
途惑っている周太を、覗き込むように宮田が微笑みかけた。
「その“初めて”も俺にしてよ、周太。名前で、英二って呼んでよ」
「初めて…?」
恥ずかしい、でもこんなふうに言われたら。
だってもうほんとうは、こんなに想っている。
周太の瞳を見つめたまま、宮田が微笑んだ。
「わがまま訊いてよ、周太。ずっと俺の名前を呼んで?」
「わがままを、ずっと?」
わがまま。周太は少し頭を傾げて、隣を見つめた。
この隣の求めてくれる、わがまま。
どれも出来るなら、自分が叶えてしまいたい。
思っている周太を見つめて、きれいに宮田が笑った。
「そう、ずっと名前で呼んでもらう、わがまま」
「…ん、」
名前、呼びたい。
ほんとうは、きっと、もうずっと前から、呼びたかった。
そうしてもっと近づいて、特別な存在になっていきたい。
そのことをもう、この隣だってこんなに願ってくれている。
周太はそっと、ひとつ息を吸った。
どうか、唇きちんと動いて。
どうか、声もきちんと出てきて。
そう願いながら周太は、隣を見あげて唇をひらいた。
「…英二?」
英二を見つめて、呼んで、きれいに周太が笑った。
やっと名前、呼べた。
うれしくて、幸せで、周太は微笑んだ。
微笑んだ想いのまんなかで、きれいに英二が笑って、名前を呼んでくれる。
「周太、」
「…ん、なに?英二」
呼ばれて呼んで、気恥ずかしくて甘やかで。
気恥ずかしさに頬赤くなる、けれど幸せが温かい
見上げた隣が微笑んで、周太を見つめた。
「大好きだ、」
名前を呼んだ唇に、そっと英二が口づけた。
しずかに離れて、見つめられて周太は、きれいに笑った。
自分も想いに応えたい、そっと唇を周太はひらいた。
「英二、…俺も、大好きだから」
素直な言葉が告げられて、うれしい。
でもほんとうは、もっと深い想いがある。
それだってほんとうは、告げられたらいのに。
きれいに笑って、英二は言ってくれる。
「知ってるよ、でも俺の方がもっと好きだ」
笑って英二が、また口づけてくれた。
寄せられる唇がうれしくて、けれど伝えられない想いが哀しくて。
震えだしそうな周太の唇に、英二が深く重ねてくる。
静かな時間けれど熱い、ふれあう温もりが愛しい。この隣に、ずっといたい。
静かに離れて、きれいな切長い瞳を見つめた。
黄葉の木洩陽の下で、大人びた白皙の頬がきれいだった。
見つめたままの周太に、そっと英二が言った。
「周太から、キスしてよ」
顔も首筋も熱くなる。
どうしよう、そんなこと、どうやってすればいいの?
途惑ってしまう、けれど願いは叶えてあげたい。
「まだ、一度もしてもらったこと、無いんだけど?」
そう、まだ無い。
だってそういうのは、どうすればいいのか解らない。
でもほんとうは、一度だけ、夢のなかで、したことがある。
田中の葬儀の朝、この隣に眠った明方の夢。
夢のなかで、「好き、」て、言えた。
想いを伝えられたことが、うれしくて。
うれしくて幸せで、きれいな端正な唇へと、キスをした。
後で思いだした時、あんまり幸せな夢で、気恥ずかしくて、うれしかった。
だから本当はずっと想っていた。
あんなふうに自分から、想いを告げて、キスが出来たらいいのに。
きれいな切長い目に、瞳を見つめられている。
きれいな低い声は、静かな口調でねだってくれる。
「ほんとうは、俺、ずっと待っていたんだけど。わがまま訊いてよ、周太」
わがまま。この隣の願いなら、わがままなら、訊いてあげたい。
呟くように周太は訊いてみた。
「…わがまま?」
「そう、わがまま。俺のわがまま訊いてよ、周太」
わがまま、訊いてあげたい。
だってもう、本当は自分は、この隣を愛している。
たった一人への唯一つの想い。だから本当はもう、何だって出来ると想う。
「名前で呼んで、キスして」
気恥ずかしい、けれど叶えたい。
だって本当はもう、とっくに決めている。この隣の為になら、自分は何だってできる。
それが自分の想いを、伝えられる術になるのなら、出来ないわけがない。
そっと息を吸って、周太は愛する名前を呼んだ。
「…えいじ、」
呼んで、瞳を近寄せて、真直ぐに見つめて見返して。
それでもやっぱり、唇がふるえてしまう。
見つめる想いの真中で、きれいな笑顔が周太に願いを告げた。
「笑顔を見せて。俺の名前を呼んで、キスして」
求めてもらっている。
そんな幸せに微笑んで、きれいに周太は笑った。
「英二、」
ゆるやかに周太は、英二へと、穏やかに唇を重ねた。
ふれる熱が、あたたかい。
ふれる温もりが、しあわせに微笑ませる。
重ねただけのキス。けれど、こんなに温かで穏やかで熱くて、愛しい。
愛している、もうずっと
よりそった唇を、周太はそっと静かに離した。
今ふれあっていた唇が、穏やかに熱い。
気恥ずかしいけれど幸せで、想いを確かめたくて。
きれいに笑って周太は、愛する名前を呼んだ。
「英二、」
見つめる想いのまんなかの、きれいな笑顔。
どうかずっと、きれいなままで笑っていて。
冷たい孤独から、自分を救ってくれた。
壊され失っていた、自分の笑顔を与えてくれた。
殉職の枷に繋がれた、父も母も全て救って、真実と想いを示してくれた。
そうして約束してくれた、もう離さないと隣にいると。
愛している、もうずっと。
たった一つのこの想い、誰も代りなんていない唯一つの想い。
だから願ってしまう祈ってしまう。
どうかこの大切な、きれいな笑顔を守らせて。
愛しい笑顔が、きれいに笑って言ってくれる。
「周太のキス、すげえよかったんだけど」
顔が熱くなる気恥ずかしい、それでも周太は隣を見上げた。
よかった、ならうれしい。
訊いてみたくて、消えそうな小さな声で、周太は呟いた。
「…ほんと?」
「ほんとのほんと」
本当なら、うれしい、周太はほっと吐息をついた。
「…よかった」
安心した溜息が零れて、周太は微笑んだ。
周太の顔を覗きこむように、英二が笑いかけてくれる。
「おいで、」
長い腕が伸ばされて、体がそっと抱きしめられる。
髪に顔が埋められる、髪を透す吐息が熱くて、抱きしめられる温もりが幸せだった。
瞳を見つめられて、唇を重ねてくれる。
静かに重ねて離して、瞳を覗きこまれて周太は、きれいに笑った英二に告げられた。
「愛している、」
いま、なんて、いってくれたの?
愛している、そう聴こえた。一昨日からずっと、自分の心を廻る想い。
それと同じ想いを、この隣も抱いてくれると言うの?
もし、本当に、そうなら、うれしい。
想いが心から瞳へ漲って、熱が頬こぼれて雫がおりる。
そっと周太は呟いた。
「…俺で、いいのか」
きれいな笑顔で、真直ぐ見つめて、英二が言った。
「周太だから、愛している、」
うれしい、うれしくて幸せで、微笑んでしまう。
周太の黒目がちの瞳が、きれいに笑った。
どうか唇きちんと動いて。
どうか声きちんと出てきて。
真直ぐに見つめて周太は、英二に想いを告げた。
「…英二だから、愛している」
ああ、やっと、言えた。
言えたことがうれしい、伝えられてうれしい。
もう今、想いをすべて伝えておきたい。次なんて解らない、だから。
だから、唇、声、お願いどうか。
周太は微笑んで、きれいに笑って、想いを英二に告げた。
「もう、ずっと、愛しているんだ…言えなかったけれど、本当はもうずっと、愛している」
そう、もう、愛している。
だからもう、何だってできる、あなたの為に。
きれいな笑顔から、涙のしずくが零れて微笑む。
きれいに笑って周太は言った。
「愛している、英二」
切長い目から、涙がこぼれた。
見つめる想いの真中で、英二の目から熱があふれていく。
自分はもう、この隣を愛してしまった。そして自分はもう、この隣に愛されている。
大切なこの場所で、大切なひとと告げあって、大切な想いにおちる。
周太の瞳を見つめて、きれいに笑って英二が言ってくれた。
「きっと、俺の方がたくさん愛している」
そんなふうに言われて、うれしい。
言ってくれた端正な顔を、周太は微笑んで見つめた。
見つめていれば幸せで、今の瞬間が永遠になると思ってしまう。
これからきっと、ずっとこうして、隣で見つめていくのだろう。
見つめ合って、ふたりはお互いから、キスをした。
倒木に並んで腰掛けて、ブナの木を見あげていた。
あわい木洩陽の光が、ゆるやかに温かくふりかかる。
森と山の香が、やわらかく頬を撫でて、あたりの空気にとけていく。
この場所は好きだ、そしてこのブナの木は、本当にきれいだと思える。
静かに周太は呟いた。
「こんなふうに、静かに穏やかに、生きられたらいいね」
「俺もね、いつも、そう思って見あげるよ」
そんなふうに隣も、微笑んで言ってくれる。
誰にも知られず静かに、水を蓄える包容力を抱いて、ブナは佇んでいる。
そんなふうに、英二の隣で生きていけたらいいのに。
そんな事を思いながら見上げていると、長い指がリンゴを半分差し出してくれた。
「はい、周太」
「ん、ありがとう」
いま英二が素手で割ってくれた、半分ずつのリンゴ。
こういうふうに、1つを分け合うことも、周太にとっては英二が初めてだった。
そっとかじると、さわやかな香が唇から零れる。
甘酸っぱい果汁が、なんだか甘くて気恥ずかしい。
「山頂まではあと、3時間ほど歩くんだ。ちょうどいいおやつだろ」
隣で英二が、きれいに笑いかけてくれる。
そうだねと頷きながら、周太は英二の笑顔を見つめて微笑んだ。
この笑顔、どうか自分に守らせて。
そんな祈りをずっときっと、自分は抱いて生きていく。
(to be continued)
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」詩文引用:William Wordsworth「Wordsworth詩集」】
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