星のふる山の上で
萬紅、仲暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」
山頂へ向かう道、隣の変化にすこし驚かされる。
歩く足取りからもう、別人のようになっている。
きれいな笑顔は、急峻な坂にも息切れが少ない。山を踏みしめる足許は、軽やかに確実に進む。
登山地図と手帳を片手に、英二は笑って答えてくれた。
「ああ、ほとんど毎日、山を歩くから」
ボルドーの深紅あざやかなウェア、その背中は細身でも逞しくて、頼もしい。
梢見上げる瞳は楽しげで、歩く姿が眩しくて、見惚れそうになる。
もうほんとうに、英二は山ヤになっている。
「こうしてさ、山にいることが、楽しいんだ」
「そう、良かった」
ほんとうに良かった、そう思う。
けれど本当はいつも、天気予報を見てしまう。やはり不安なのは仕方ない。
そんな不安を抱いた周太を、英二は覗きこんでくれた。
「だいじょうぶ、無茶は絶対にしない。俺は必ず周太の隣に帰るから」
必ず隣に帰る。
そう、この約束があるから、待っていられる。
だって自分は知っている。この愛する隣は、約束は全力を掛けて守ること。
あの山岳訓練の時のように。
「…ん、」
頷いて周太は微笑んだ。
そう、信じてまっている。だって全力で約束を守ってくれるから。
この愛しい大切な隣、唯一つの想い。
この隣の大切な場所で、想いを告げあって、初めて自分からキスをした。
きっと今日のことを、自分はずっと忘れない。
ふと英二は立ち止ると、落葉松に巻かれた赤いテープを指さした。
「ごめん周太、ちょっと待っててくれる?あれ直してくるから」
「ん、待ってる」
英二は枝に巻かれた赤いテープを、器用に外すと袋にしまう。
それから新しいテープを取出して、同じ場所へと巻きなおした。
たしか道迷い防止の標識だと、父に訊いたことがある。
そう眺めていると、英二が戻ってきてくれた。
「ごめん、お待たせ。あ、メモだけさせてな?」
「いや、気にしないで。俺、その辺を見てるから」
「ありがとう、すぐ済むから」
きれいに笑って英二は、登山地図と手帳に書き込み始めた。
きっと今の場所の記録を、とっているのだろう。
本当に一生懸命なんだ。そんな姿が眩しくて、なんだか首筋が熱くなってしまう。
だってこんなひとが、自分を想ってくれるなんて。
最初出会った時は、大嫌いだった。
苦労知らずで要領の良い人間らしい、他人の努力を嘲笑する冷たさ。
端正な顔だけに、愛想良い作り笑いの底が冷たくて、突き放される。
入校式前の下見に行った、校門前での初対面。もうあの時に大嫌いになった。
―こんど会う時まで、その無愛想なんとかしとけよ。結構かわいい顔、してんだからさ
父の殉職に苦しんで、父の軌跡を追う為だけに努力する自分。
そんな自分を馬鹿にして嘲笑っている、そう思えて悔しかった。
真剣に生きるなんて無駄だろう?できるだけ楽して生きればいい、どうせ何も意味なんかない。
そんな考えが透けている、いい加減で投げやりな冷たい笑顔。
そんな冷たさを、ぶち壊してやりたい。冷酷で端正な顔を殴ってやりたい、そんなふうに思っていた。
けれど、英二は脱走した夜、周太の胸で泣いてくれた。
泣いて泣いて、そして涙からあげた顔は、まったく違う別人だった。
―お前は真剣に俺を止めてくれたのに、俺、最低だよな。
ごめん、湯原…
辞めさせたくない、って言ってくれて。ありがとう―
冷酷だった端正な顔は、不器用なほど実直だった。
嘲笑に冷たかった唇は、思った事だけを言う率直が温かで、きれいだった。
そして涙からあげられた瞳は、きれいな笑顔が眩しかった。
そうしてそれからは、英二は周太の隣にいるようになった。
この男はずっと、無理に作った仮面をかぶっていた。
けれどもう、そんな仮面を壊して素直に生きる、そんな覚悟をした。
そんなふうに周太は、過ごす隣で気付かされていった。
そして今、きれいな笑顔で真直ぐ見つめて、この時を大切に生きている。
山ヤの警察官として、誇りと喜びに立っている。
こういう姿が見られて嬉しい。そして想われている幸せが温かい。
そんな想いと見た道の脇に、きれいな黄色が映りこんだ。
見覚えのある花の形が懐かしい。傍に寄って覗きこむとヤクシソウだった。
意外で、すこし周太は驚いた。
「ここでも咲くんだ、」
さっき渡った吊橋のあたりでは、幾度か見かけた花だった。
覗きこんだ英二の登山図では、あの辺りは標高1,000mと記されていた。
けれどここは山頂に近い。800m以上は標高差があるはずだった。
標高による寒暖差など、生育条件が違いすぎる。
薬師草、ヤクシソウ。
大きいと70cmになると父に教えられた。けれど目前の花は小さい、20cmくらいだろうか。
それでも、きちんと花をつけて咲いている。
どうして違う条件なのに、咲くことが出来るのか。不思議で眺めてしまう。
幼い頃に歩いた山でも、時折こんな不思議なことがあった。
「周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ」
こんなふうに植物の不思議と出会う時、父はそんなふうに教えてくれた。
父の言葉と見つめる花は、陽だまりに黄色が温かい。陽光を映して風に揺れると、黄橙が灯のようにみえる。
違う場所に生まれても、輝きを失わない花。そんな姿が愛しい。
見つめる周太の唇から、ぽつんと呟きが零れた。
「似ている、な」
世田谷に生まれても英二は、山へと生きる場所を決めた。
生まれ持った安楽の日常を選ばずに、山ヤの警察官として生死を見つめる厳しさを選んだ。
より高い場所で、標高の厳しさにも咲く、この花と同じように。
厳しさを選ぶことは愚かだと、嗤う人も多いだろう。
けれどそうして選んだ場所で、英二は誇らかに眩しくなっていく。
きれいな笑顔はより明るく輝いて、背中は頼もしく美しくなっていく。
そんな英二の姿は、周りの人を笑顔にしていっている。
そうして周太のことをも、冷たい現実から救って笑顔を与えてくれた。
…ほんとうにね、英二、愛している
風ゆれる花の灯にそっと、周太の瞳から一滴こぼれた。
涙を享けた花は、黄橙の光にゆれて、うなずいてゆれる。
いつも受けとめて笑ってくれる、あの笑顔みたいだ。
すこし微笑んで周太は、姿勢を伸ばして振り向いた。
ちょうど英二は鉛筆を胸ポケットに納めて、気づいて笑いかけてくれる。
「お待たせ、周太。行こうか?」
振り向いて見つめた真中で、きれいな笑顔が温かい。
うれしくて周太は、きれいに笑って頷いた。
山頂はもう、紅葉の季節は終わっていた。
澄明な空気と山並の向こう、すっくりと富士山が優雅に佇んでいる。
あわく青い霞に彩られて、きれいだった。
救助隊の訓練登山の日、写メールを送ってくれたのは、ここだろうか?
そんな気がする、周太は隣に訊いてみた。
「写メールで送ってくれた?」
「そうだよ、」
やっぱりそうだった。なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。
岩場に並んで腰掛けて、隣は握飯を頬張りながら、笑ってくれる。
山ではこっちの方がいいと言って、英二は握飯を選んでくれた。
確かにそうだなと周太も思う。
「こういうところで食べると、うまいね」
「だろ、」
英二は微笑んで、5つめを手に取った。
ほんとうによく食べる。けれど少しも太らず、体は引締まっていく。
そうして会うたびに、細身のまま逞しくなって、すっきりとした背中が頼もしい。
毎日の巡回に山に登り、業務合間に訓練をする。そんな日々が隣を鍛え上げている。
そうして夜は、勉強をしている。
吉村医師との会話から、借りた本から、そんな様子が見えてしまう。
どれだけいつも熱心に、救助に必要な知識への努力をしているか。
健やかに握飯を頬ぼっている、美しい端正な横顔。
その横顔は一ヵ月半で大人び穏やかさを深めながら、より楽しげに明るくなった。
山ヤの警察官としての誇りが、切長い目に、端正な口許に、表情にまぶしい。
つい見惚れてしまうな。
思いながら周太は、2つめの握飯を飲みこんで隣を見た。
そんな視線に振り向いて、きれいに英二が笑いかけてくれる。
「周太、俺に惚れ直してる?」
また図星を言われた。
どうしていつも、解ってしまうのだろう。
いつも気恥ずかしくなる、でもなんだか今は、素直に唇が動きそう。
ゆっくり首傾げて周太は微笑んだ。
「ん、そうだな、…惚れ直す、な」
想い告げられて、うれしい。気恥ずかしいけれど。
想いを告げられた隣は、うれしそうに笑って喜んでくれる。
こういうのはきっと幸せだ。
雲取山荘は空いていた。
この時期では珍しいことだと主人が教えてくれる。
他には中年の夫婦が一組と、山ヤ仲間だという男3人組があるだけだった。
「静かで今夜はいいよ。山の夜に、存分にふれられる」
「楽しみです。本当に今夜は、訓練の時とは雰囲気が違いますね」
「そうだろう?あれはあれで楽しいのだけどね。あのとき宮田くん、ビールわりと飲んでいたろう?」
「はい、国村に飲まされて。あの時も楽しかったです、お世話になりました」
手続きをしながら、山荘の主人と英二は楽しそうに話している。
救助隊の訓練登山で、一度ここへ来たのだと聴いた。
その一度だけで、こんなふうに顔と名前を覚えられている。
こういうところも好きだな、そう見つめていた横顔が笑いかけてくれた。
「周太、部屋に行くよ。個室で今日は使えるって」
「そう、ん。うれしいな、」
空いている時は個室で使えるらしい。
よかったと周太はうれしかった。やはり初対面の相手は、周太は緊張しやすい。
それにやっぱり、ふたりだけで寛げるのは嬉しい。穏やかな静かな隣で、山の夜に座れたらいい。
荷物をおろした部屋は、窓からの空がきれいだった。
「ここの飯はね、山の水で炊いているんだ」
「へえ、おいしそうだね」
そんなふうに話しながら、山荘前の広場へと出た。
ベンチに腰掛けて眺める向こうに、山並が青く沈みはじめる。
「周太、夕焼けが始まる」
「ん、」
西へと向けた頬に、あかく太陽の光が照らされた。
真赤にふくらむ太陽は、山の稜線むこうへ超えていく。
投げかける光線に、雲が金色に輝いてまた朱紅へと翻った。
あわい朱、あわい紅、あわい紫色に、空は刻々と移ろっていく。
そっと周太はため息をついた。
「…きれいだ、ね、」
「だろ?」
見つめる空の向こう、太陽がそっと山嶺むこうへ眠りについた。
遺された残照の黄金が、光をあわくおさめていく。
透明な紺青の夜が空覆って、菫色の帳が中天をふり始めた。
そうして宵の明星をとりまいて、新たな星明が灯りだす。
山の空の、夕焼け、黄昏、彼誰時、そして夕闇、夜へ。
ほんとうに美しかった。英二と見られて、うれしかった。
ほっと息をついて、隣を見あげた周太に、英二が笑いかけてくれる。
「飯に行こうよ、山荘は夕飯が早いんだ」
「ん、腹空いたね?」
そう話しながら食堂へと向かうと、調度いい時間だった。
山荘の夕食は、お代わり自由のご飯がおいしい。
英二は丼飯を5杯たいらげたとき、他の宿泊客から拍手をされた。
「ほんとうに、見ていて気持良いな」
「ありがとうございます、」
そんなふうに笑って、英二は6杯食べて箸を置いた。
もしかすると昨夜は、やっぱり足りなかったかな。
思って周太は、今度からもっと多めに、食事は用意する事に決めた。
満足げに茶を啜りながら、隣は笑いかけてくれる。
「ちょっと部屋に戻ってさ、それから星見に行こうな」
星が見られる。
幼い頃に山で見た、ふるような星空がまた見られる。
うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、楽しみだな」
「ああ、楽しみにしていて」
部屋にいったん戻ると、据えられた炬燵が気になった。
こたつ布団を捲って見ると、炭を使う仕組みになっている。
豆炭の炬燵らしいよと、笑って英二が教えてくれた。
話には聴いていたけれど、じんわりと温まる感じが、なかなか良い。
秋の夜の山上は、きれいに晴れていた。半月に近いけれど澄明に月が輝いている。
ふるような星が、紺青と青紫の透明な夜空を輝かせていた。
夜闇の底に沈む足許は、空との境界をなくし融けあっている。
本当に英二が、教えてくれた通り。うれしさと驚きに、そっと吐息をついて周太は微笑んだ。
「ほんとうに、宇宙のなかに立ったみたいだな」
冷たい山の夜気が、気恥ずかしさに火照る頬に、気持ちいい。
すこし星座とか解るだろうか。そう思いながら空を見あげる。
暫らくして、きれいな笑顔が、おいでと声を掛けてくれた。
「はい、周太」
温かい湯気を立てるカップを、周太に渡してくれる。
クッカーという、コンパクトな野外調理器具で作ったらしい。
星を見ている間に手早く作った、そんな手際にも驚かされてしまう。
ほろ苦く甘いココアの香。カップを抱えて、周太は英二を見あげた。
「こんなこと出来るんだ、」
「ああ、国村に教わったんだ。だから旨く出来ていると思うけど」
こういうことの先生にも、国村はなってくれている。
本当に良い友人で山のパートナーなんだ。なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。
そっとココアを啜ると、調度いい濃さに上手に出来ている。
おいしい、何より気持ちが嬉しい。周太は英二を見あげて微笑んだ。
「ん、おいしい」
「そうか、良かった、」
山の夜気は頬に冷たい。けれどココアは本当に温かかった。
父ともこうして山でココアを飲んだ。それを知って英二は、ココアを作って飲ませてくれる。
なんだかいつもより、ココアが甘やかで、周太は幸せだった。
山の夜は透明に晴れて、新宿の夜景も遠くあざやかに見える。
ぽつんと周太は呟いた。
「ほんとうに、ここの空と繋がっているんだな」
新宿署管轄で勤務する日々、ときおり寂しさを周太は感じてしまう。
ほんとうは、英二の隣で、この美しい場所で生きたい。
そんな想いは日々募って、煌びやかで寂しい夜底の摩天楼にさえ、山嶺の幻を見そうになる。
けれど空が繋がっているのなら。そうして同じ場所に同じ時にいるのなら、そう想うと心に温かい。
静かに隣が動いて、お互いの肩が触れあった。触れる肩が温かい、その近さが嬉しくて周太は微笑んだ。
そうだよと言って、きれいに笑って英二は言ってくれた。
「周太、空でも繋げて俺は、いつも周太の隣にいるよ」
この隣といつも、空で繋がっている。
どんな形であったとしても、この隣と繋がっていたい。
隣を見上げて見つめて、周太は微笑んだ。
「…ん、うれしいな。繋がっているんだな、いつも」
「そうだよ、」
そう微笑み返してくれる、端正な唇が愛しかった。
だって今、この唇が聴かせてくれた言葉に、自分は幸せを貰ったから。
その想いを、自分もこの隣へ伝えたい。
だから、今、キス、したい。
周太は隣の瞳を見つめて、すこしだけ顔を近寄せた。
近寄せた切長い瞳は、やさしく微笑んで見つめ返してくれる。
「…周太、」
黙って見つめたまま近づくと、きれいな切長い瞳がそっと伏せられる。
近寄せた端正な口許は、密やかに微笑んでくれる。
この、愛する隣も、求めてくれている。
求めて、こうして自分を受けとめようと、待受けてくれている。
求められて嬉しくて、周太はそっと瞳を閉じた。
そっと周太は英二にキスをした。
近寄せた周太の頬を、長い指の掌がくるんで抱きとめてくれる。
頬ふれる指先から、ココアの香が甘くて温かい。
ふれるだけ。けれど初めての、自分から望んでのキス。
こんなふうな幸せが自分にあるなんて、周太は思っていなかった。
警察学校卒業式のあの日まで、全てを諦めていた。
けれどあの日の夜、いま抱きとめる腕に浚われて、今ここで、こうしている。
幸せで、温かくて、そっと周太の瞳から涙がひと滴こぼれた。
ゆっくり離れると、きれいに英二は微笑んだ。
「甘いね、周太のキスは。ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな、」
「…ん。…あまりいわないで恥ずかしくなる…」
きっともう真っ赤になっている。
けれどでも、こんなふうに隣を笑顔に出来た。
その幸せが温かくて嬉しくて。だからもう、少しくらい恥ずかしくても、隣の為なら大丈夫。
21時の消灯、山荘では早めに眠りに入る。翌朝の朝日を楽しみに、登山客は早寝が多い。
布団を敷いて、それから着替える。
着替える時になって、そっと周太は英二に背を向けて座った。
1ヶ月半前までは、いつも寮の風呂は一緒だった。見慣れた日常、意識もしなかった。
けれどこんなふうに。特別な関係を結んだ翌朝から、周太は恥ずかしくて仕方ない。
だっていつも、あんなふうにされてしまう。そう意識しすぎて、もう、恥ずかしい。
そのうえ英二の体は、別人のように変わった。
山ヤの警察官としての1ヶ月半の生活で、引締まった全身には水際立つ美しさが生じている。
細身のままに肩や胸に厚みが出て、腕は動くたびに躍動するのが見える。
すっかり頼もしくなった背中は、昨夜また大人びて長身に映えていた。
だから本当は、いつも周太は見惚れている。
そんな自分も余計恥ずかしい、首筋が赤くなってしまう。
早くすましてしまおう、手早く周太は着ているパーカーとTシャツを脱いで、替えのTシャツに手を伸ばした。
「周太、」
急に名前を呼ばれて、一瞬止まった手からTシャツが落ちた。
その背中から温もりに、そっと抱きしめられる。抱きしめる胸が、素肌のままだと背中で解ってしまう。
身動きが出来ない、途惑いにただ頬が赤くなっていく。その頬にそっと、なめらかな頬が寄せられる。
寄せられた頬が微笑んで、きれいな低い声が囁いた。
「なにもしないから。少しだけ、こうさせて?」
肌ふれる温もりが熱い、抱きしめる腕が温かい。
背中から伝わる鼓動、すこしだけ早くて、力強い温もりが頼もしい。
頬に寄せられる頬の、艶やかな温もりが嬉しい。
「…周太、」
呼ばれる名前、うれしくて。
そっとふれる吐息、温かくて、せつない。
「ほんとにね、愛している…周太、」
告げられる想いが、うれしい。温かい、涙が心にうまれていく。
明日も山を歩く。
疲れさせないように、気遣ってくれている。
けれど想いは伝えたくて、ただ抱きしめて想いを告げてくれている。
自分も想いを伝えたい。
そっと周太は息をひとつ吸って、瞳をとじた。
お願い、ふたつの腕、動いて。
お願い、心深いところ、唯一つの想い、声になって。
そっと周太の右掌と左掌があげられる。
そのまま抱きしめる腕を、そっと両掌が抱きしめた。
その両掌へと、すこし驚いたように隣の視線が注がれる。
そっと周太の唇が披かれた。
「…俺もね、英二、愛してる…いま、幸せだから」
想い、言えた。
名前を呼んで、想いを告げられた。
「うん、」
頷いてくれた隣の頬に、笑顔の気配が感じられる。
ああきっと、うれしくて笑ってくれている。
名前を呼んで想いを告げて、喜んでもらえる。その温もりが幸せで。
素肌のままで抱きしめられる、気恥ずかしさと温もりと、甘やかな幸せが愛しい。
「周太、俺も今すごく幸せだよ、」
頬ふれる低く美しい声、その言葉が温かい。
うれしくて周太は、その声を振返った。
振り向いた視線の先で、切長い目が笑ってくれる。
きれいな笑顔がうれしくて、微笑んだ周太の唇に、そっと唇を重ねてくれた。
そっと離れて、英二は長い腕を伸ばして、周太の着替えを拾ってくれた。
「ほら周太、腕を通して?」
「…え、」
「ほら早く、」
そんなふうに、着せかけてくれる。
こういうのは嬉しい、けれど気恥ずかしい。
けれど拒むことも出来なくて、結局、着替えさせてくれた。
なんだか余計に恥ずかしい、俯けていると英二が名前を呼んでくれる。
「周太、」
赤いままの頬に、きれいな大きな掌がふれた。
そっと唇に唇を重ねられる、その温もりが周太は、うれしかった。
きれいに英二が微笑んでくれる。
「窓からもね、星と月がきれいだよ」
壁に凭れて並んで座って、窓から空を見あげた。
明るい月と、きらめく無数の星が、青い夜空あざやかに見える。
うれしくて周太は微笑んだ。
「きれいだな、」
星と月の明かりで、あわく青い夜が部屋に充ちていた。
iPodのイヤホンを片方ずつ繋いでくれる。
穏やかな曲が流れ始めた。
この曲で伝えたい事がある。
いつも自分だけでは言葉にできない。けれど、歌の詞にのせてなら、きっと告げられる。
静かに周太は英二を見あげた。
「英二、…聴いて?」
「うん、」
優しく頷いてくれる、きれいな切長い目。
その目を真直ぐに見つめて、周太は静かに唇を開いた。
「…I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do」
“息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している“
この歌詞は本当に、自分の本音。ほんとうは、もう、ずっとそう。
赤らめた頬のままで、周太は告げた。
「この歌詞はね…俺の、本音だから」
見つめている、きれいな笑顔。その切長い目から一滴、白い頬を伝っておちた。
こんなふうに、微笑んで涙をながして。
そんなふうに、想いを受け留められて、周太は嬉しかった。
黒目がちの瞳を覗きこんで、きれいな低い声が告げてくれる。
「周太、聴いて?
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning」
“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる”
そんなふうに想ってくれるの?
周太は隣を見つめて、視線で訊いてしまう。
だってそんなふに想われたら、とても幸せすぎると思う。
そんな周太を見つめながら、静かに英二は言ってくれた。
「ほんとうに俺、もうずっと、そう想っている。だからもう、離れてしまったら、俺はね、生きていられない」
夜の底に包まれた空間、ふたり見つめ合う。
それだけでも幸せで、それなのにこんなふうに、想いを告げて求めてくれる。
周太の頬に涙こぼれた。
自分だってそう、同じように想ってる。
13年間を縛り続けた、父の殉職という名の冷たい現実と孤独。
そこから救ってくれた。そして失われた笑顔を蘇らせてくれた。
そうして自分の心に、温かい想いを贈ってくれる。
そしてこんなふうに、愛することを教えて、答えてくれた。
きれいに微笑んで、周太は英二に告げた。
「…俺も、そう…」
告げた唇にそっと、唇で英二がふれてくれる。温かな熱が幸せで、愛しくて嬉しかった。
微笑んで、英二が告げてくれる。
「約束して、もう離れていかないで。どんな時も、どんな所でも、俺を離さずにいてよ」
長い指で、周太の涙を拭ってくれる。
拭われた瞳で真直ぐに見上げて、周太は言った。
「約束する…だからもう、ひとりにしないで」
「うん、」
拭った目許にくちづけて、黒目がちの瞳を覗きこんでくれる。
そっと笑って英二は、周太へと願った。
「約束する、だから笑って周太。俺の名前を呼んで、キスしてよ」
ほんとうはやっぱり、恥ずかしい。
けれどこの隣が望むなら、なんだって叶えたい。きれいに周太は笑った。
「英二、」
笑いかけて、名前を呼んで、キスをする。こんなに幸せなことだなんて、ずっと今まで知らなかった。
「周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。生きている限りずっと周太を想うよ。
どんな時でも俺は、必ず周太の隣に帰る。
ひとりになんかしない、一緒に生きていてよ。…いつも、離れていても、必ず守り続けるから」
英二が周太に告げてくれる、その真直ぐな目が嬉しい。
だから自分だって想いを告げたい。
だからお願い、声きちんと出てほしい。周太は静かに唇を開いた。
「…ん、俺だって英二を守りたい、一緒に生きたい。…俺もう、いつも、ずっと、英二の帰りを待ってるんだ」
周太の瞳から涙がこぼれて落ちた。
「ほんとうは、いつも俺は不安だ…山はなにが起きるか解らない、だから不安…いつも天気予報を見てしまってる」
山では天候が生死を支配する。
だから本当は不安、いつだって想って心配してしまう。
けれど、それだけでは自分は、この隣を守ることなんてできない。
きれいに微笑んで、周太は告げた。
「でも信じている、約束を信じて待ってる…愛している、英二」
うれしそうに英二が笑ってくれる。
きれいな笑顔で、周太に言ってくれた。
「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」
愛しているだけ、帰られるなら。
ならきっと大丈夫、必ず帰って来てくれる。だってもうそれほどに、想いは深いから。
きれいに笑って、周太は答えた。
「ん、信じて待ってるから…だから、たくさん…愛して。必ず、帰って来て」
「ああ、ずっと愛する。だから信じて?」
抱きしめられて頬寄せられる、温もりが嬉しい。
どうしていつもこんなふうに、温かいのだろう。
こんなふうに愛して、想いを通わせる。そんな幸せがあるなんて思えなかった。
けれどこうして抱きしめる、この想い、ひとりだけ、唯一つの想い。
愛してる。もうずっと、ひとりだけ、ひとつだけ。
この隣の為になら、きっと自分は何だってできる。
そんな静かな覚悟がそっと、自分の心に想いに温かい。
「愛している、周太。ずっと隣で笑っていて?」
「ん、隣でね、笑っている」
きれいな笑顔が見つめてくれる。
うれしくて微笑み返して、穏やかな温もりに寄り添った。
そんなふうに寄り添って、ただ抱きしめられて山の夜に眠った。
唇に熱がふれる。
額にふれる温もりは、てのひら?
頬を包んでくれる温もり、かすかなココアの香。大好きな穏やかな、やさしい気配。
「周太、」
きれいな低い声が呼んでくれる。
大好きな声、惹かれて誘われて、静かに瞳がひらいた。
「おはよう、周太」
きれいな笑顔が、まだ夜闇を残した朝に笑ってくれる。
今日、最初に見たものが、この笑顔。
うれしくて周太は、きれいに笑った。
「…おはよう、英二」
そうして目覚めた朝は、ただ幸せで温かい。
こんな朝を、ずっと見つめて、生きていきたい。
そんなふうに、そっと心に祈ってしまう。
「周太、」
抱きしめてくれる腕に、そっと抱き起こされる。
きれいな切長い目が、瞳を覗きこんで笑って、誘ってくれる。
「ほら、夜明けを見に行こう?」
「…ん、一緒に行く、見たい」
眠りから覚めきらない体に、パーカーとウェアを着せてくれる。
マフラーを温かく巻いて、静かにキスをしてくれた。
「おいで、」
時計は5時半。黎明のときだった。
闇は夜明けの前が最も濃い。手を惹かれて出た足許も空も、紫深い闇に沈んでいた。
濃密な浄闇に鎮まる山上、森閑の音が遠くから返響していく。
濃く透明な闇には、星の明滅があざやかに煌めいていた。
「星がふってくる、そんな感じがするな」
天上うめつくす星が瞳に響く。周太は微笑んで空を見ていた。
座っている木のベンチも闇の底に沈み、足許が宇宙に浮くように感じる。
冷気が最も凍るのも、夜明け直前の黎明どき。山上の大気は冷たくて、氷水が融けたようだった。
「…こほっ」
軽く咳が、周太の唇からこぼれた。
「周太?」
「平気、だいじょうぶ」
冷気が少しだけ、肺に入った感じがした。
思った以上に夜明け前の山は寒い。けれど、英二に贈られたマフラーが温かい。
ふいに長い腕が隣から、周太をひきよせた。
「ほら周太、来いよ」
「…え、でも」
英二の前に座らせられると、背中から抱きしめられた。
ジャケット越しに、お互いの熱が寄り添って温かい。温もりが幸せで、周太は微笑んだ。
きれいに笑って、英二が周太を覗きこむ。
「隣に誰かいるって、温かいだろ?」
「…となりっていうかなんていうか…」
となりというよりも、まえにいる。
そしてこれは、昨夜の着替えるときと同じ体勢になっている。
昨夜をおもいださせられて。気恥ずかしさが、声をちいさくしてしまう。
けれど本当は、うれしくて幸せに微笑んで、もう瞳は笑っている。
「今、うれしい?」
うれしい、そして幸せだ。
けれどどうしよう、だってもう人が見ている。
どうして良いか解らなくて、思ったままを周太は言った。
「…ん、…うれしい、な。でも、すごく、…はずかしいぞきっとおれたち」
言われて英二は、周囲を見回している。
周囲の人達を見、いつも通りに英二は、きれいに笑いかけた。
「おはようございます、冷え込みますね」
「おはようございます。まあ、仲良しですね」
ハイカーの妻が可笑しそうに笑ってくれる。
ええと頷いて、英二はきれいに笑った。
「はい、仲良いです。こうすると温かいですよ」
「あら、いいわね。ちょっとあなた、私達もしましょう?」
妻が夫の手をひいて、向こうのベンチへ歩きだす。
ロマンスグレーの夫が、気恥ずかしげに微笑んでいる。
「若い頃にしたね、でも今は少し恥ずかしいよ」
「そうね、でも今もう寒くって私、」
「じゃあ仕方ないな、」
そんなふうに笑って、夫婦も真似て座りこんだ。気恥ずかしげでも楽しそうに、夫婦で笑っている。
その姿は堂々として、そしてずっと寄り添ってきた温もりが、幸せそうだった。
楽しげな夫婦を見遣って、3人組の男達が英二に笑いかける。
「こういうのも、山ならではだな」
男同士でと思われるのだろうか?少しそんなふうに周太は思った。
けれどもう自分も決めている、この隣の笑顔の為になら、自分は何でも出来るだろう。
だから英二を信じて、ただ抱きしめられて座っていた。
「ええ、山の寒気には人も、温かく寄り添えて良いですね」
英二は、周太を抱きしめたまま、いつものように微笑んで答えた。
そんな英二に、男達も楽しげに頷いている。
「そうだな。うん、山は良いな」
「はい。温かくて、山は良いですね」
きれいに笑って、英二は答えた。
その笑顔を見て、へえと男達は笑いかけてくれた。
「きれいな笑顔だな、山ヤって感じだ」
「うれしいですね、ありがとうございます」
そう笑いあって3人は、じゃあとカメラを担いで山頂へと歩いていった。
見送ってから英二は、肩越しに微笑んでくれた。
「ほらね、恥ずかしくないよ?周太、」
肩越しに、切長い目が見つめてくれる。
なんにも恥ずかしいことなんか、自分達はしていない。自分はいつも誇らしい、この隣に座ること。
そんなふうに堂々と、きれいな目は笑っている。
実直で、思ったことしか言わない、やらない。
そしていつでも、きれいに笑って、何事も真直ぐ見つめている。
そんな真直ぐな生き方は眩しい。
そして自分だって誇らしい、この隣に座ること。
ほんとうに、愛している。そして心から、愛されている。
そんなふうに見つめあって、今もこうして寄り添っている。
それはどれほど幸せな事だろう?
うれしくて幸せな想いが、そっと周太の瞳に幸せな滴になって温かい。
黒目がちの瞳を微笑ませて、そっと周太は言った。
「…ありがとう、英二」
「うん。こっちこそいつも、嬉しいから」
こわれないように、静かに腕に力をいれて、英二は周太を抱きしめた。
そんな力強さが頼もしくて、心ほどけて安らいでいく。
頬に頬よせるようにして、きれいに英二は微笑みかけてくれる。
「ほら、周太。夜が明ける」
東の稜線が赤く輝き始めた。
あわいブルーの輝きが、遠く空の境界を顕にして透明になる。
紺青の透ける闇が中天へ払われて、ゆっくりと星はまどろむように光かすんでいく。
広やかな暁を彩る雲は、薄紅に朱金に白熱と艶めいて、空にまばゆく浮かんだ。
「…きれいだ」
やわらかに心から吐息があふれた。
抱きしめてくれる隣が、やさしく微笑んでくれる。
「ああ。きれいだな、」
こんなふうに寄り添って、一緒に山の朝を見られた。
そしてこんなふうに、隣は嬉しそうに笑ってくれる。
そうして今、幸せがこんなに温かい。
幸せで、そして、愛している。
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】
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萬紅、仲暁act.2―another,side story「陽はまた昇る」
山頂へ向かう道、隣の変化にすこし驚かされる。
歩く足取りからもう、別人のようになっている。
きれいな笑顔は、急峻な坂にも息切れが少ない。山を踏みしめる足許は、軽やかに確実に進む。
登山地図と手帳を片手に、英二は笑って答えてくれた。
「ああ、ほとんど毎日、山を歩くから」
ボルドーの深紅あざやかなウェア、その背中は細身でも逞しくて、頼もしい。
梢見上げる瞳は楽しげで、歩く姿が眩しくて、見惚れそうになる。
もうほんとうに、英二は山ヤになっている。
「こうしてさ、山にいることが、楽しいんだ」
「そう、良かった」
ほんとうに良かった、そう思う。
けれど本当はいつも、天気予報を見てしまう。やはり不安なのは仕方ない。
そんな不安を抱いた周太を、英二は覗きこんでくれた。
「だいじょうぶ、無茶は絶対にしない。俺は必ず周太の隣に帰るから」
必ず隣に帰る。
そう、この約束があるから、待っていられる。
だって自分は知っている。この愛する隣は、約束は全力を掛けて守ること。
あの山岳訓練の時のように。
「…ん、」
頷いて周太は微笑んだ。
そう、信じてまっている。だって全力で約束を守ってくれるから。
この愛しい大切な隣、唯一つの想い。
この隣の大切な場所で、想いを告げあって、初めて自分からキスをした。
きっと今日のことを、自分はずっと忘れない。
ふと英二は立ち止ると、落葉松に巻かれた赤いテープを指さした。
「ごめん周太、ちょっと待っててくれる?あれ直してくるから」
「ん、待ってる」
英二は枝に巻かれた赤いテープを、器用に外すと袋にしまう。
それから新しいテープを取出して、同じ場所へと巻きなおした。
たしか道迷い防止の標識だと、父に訊いたことがある。
そう眺めていると、英二が戻ってきてくれた。
「ごめん、お待たせ。あ、メモだけさせてな?」
「いや、気にしないで。俺、その辺を見てるから」
「ありがとう、すぐ済むから」
きれいに笑って英二は、登山地図と手帳に書き込み始めた。
きっと今の場所の記録を、とっているのだろう。
本当に一生懸命なんだ。そんな姿が眩しくて、なんだか首筋が熱くなってしまう。
だってこんなひとが、自分を想ってくれるなんて。
最初出会った時は、大嫌いだった。
苦労知らずで要領の良い人間らしい、他人の努力を嘲笑する冷たさ。
端正な顔だけに、愛想良い作り笑いの底が冷たくて、突き放される。
入校式前の下見に行った、校門前での初対面。もうあの時に大嫌いになった。
―こんど会う時まで、その無愛想なんとかしとけよ。結構かわいい顔、してんだからさ
父の殉職に苦しんで、父の軌跡を追う為だけに努力する自分。
そんな自分を馬鹿にして嘲笑っている、そう思えて悔しかった。
真剣に生きるなんて無駄だろう?できるだけ楽して生きればいい、どうせ何も意味なんかない。
そんな考えが透けている、いい加減で投げやりな冷たい笑顔。
そんな冷たさを、ぶち壊してやりたい。冷酷で端正な顔を殴ってやりたい、そんなふうに思っていた。
けれど、英二は脱走した夜、周太の胸で泣いてくれた。
泣いて泣いて、そして涙からあげた顔は、まったく違う別人だった。
―お前は真剣に俺を止めてくれたのに、俺、最低だよな。
ごめん、湯原…
辞めさせたくない、って言ってくれて。ありがとう―
冷酷だった端正な顔は、不器用なほど実直だった。
嘲笑に冷たかった唇は、思った事だけを言う率直が温かで、きれいだった。
そして涙からあげられた瞳は、きれいな笑顔が眩しかった。
そうしてそれからは、英二は周太の隣にいるようになった。
この男はずっと、無理に作った仮面をかぶっていた。
けれどもう、そんな仮面を壊して素直に生きる、そんな覚悟をした。
そんなふうに周太は、過ごす隣で気付かされていった。
そして今、きれいな笑顔で真直ぐ見つめて、この時を大切に生きている。
山ヤの警察官として、誇りと喜びに立っている。
こういう姿が見られて嬉しい。そして想われている幸せが温かい。
そんな想いと見た道の脇に、きれいな黄色が映りこんだ。
見覚えのある花の形が懐かしい。傍に寄って覗きこむとヤクシソウだった。
意外で、すこし周太は驚いた。
「ここでも咲くんだ、」
さっき渡った吊橋のあたりでは、幾度か見かけた花だった。
覗きこんだ英二の登山図では、あの辺りは標高1,000mと記されていた。
けれどここは山頂に近い。800m以上は標高差があるはずだった。
標高による寒暖差など、生育条件が違いすぎる。
薬師草、ヤクシソウ。
大きいと70cmになると父に教えられた。けれど目前の花は小さい、20cmくらいだろうか。
それでも、きちんと花をつけて咲いている。
どうして違う条件なのに、咲くことが出来るのか。不思議で眺めてしまう。
幼い頃に歩いた山でも、時折こんな不思議なことがあった。
「周、自然にはね。不思議なことが沢山あるよ。それはきっとね、人間も同じ」
こんなふうに植物の不思議と出会う時、父はそんなふうに教えてくれた。
父の言葉と見つめる花は、陽だまりに黄色が温かい。陽光を映して風に揺れると、黄橙が灯のようにみえる。
違う場所に生まれても、輝きを失わない花。そんな姿が愛しい。
見つめる周太の唇から、ぽつんと呟きが零れた。
「似ている、な」
世田谷に生まれても英二は、山へと生きる場所を決めた。
生まれ持った安楽の日常を選ばずに、山ヤの警察官として生死を見つめる厳しさを選んだ。
より高い場所で、標高の厳しさにも咲く、この花と同じように。
厳しさを選ぶことは愚かだと、嗤う人も多いだろう。
けれどそうして選んだ場所で、英二は誇らかに眩しくなっていく。
きれいな笑顔はより明るく輝いて、背中は頼もしく美しくなっていく。
そんな英二の姿は、周りの人を笑顔にしていっている。
そうして周太のことをも、冷たい現実から救って笑顔を与えてくれた。
…ほんとうにね、英二、愛している
風ゆれる花の灯にそっと、周太の瞳から一滴こぼれた。
涙を享けた花は、黄橙の光にゆれて、うなずいてゆれる。
いつも受けとめて笑ってくれる、あの笑顔みたいだ。
すこし微笑んで周太は、姿勢を伸ばして振り向いた。
ちょうど英二は鉛筆を胸ポケットに納めて、気づいて笑いかけてくれる。
「お待たせ、周太。行こうか?」
振り向いて見つめた真中で、きれいな笑顔が温かい。
うれしくて周太は、きれいに笑って頷いた。
山頂はもう、紅葉の季節は終わっていた。
澄明な空気と山並の向こう、すっくりと富士山が優雅に佇んでいる。
あわく青い霞に彩られて、きれいだった。
救助隊の訓練登山の日、写メールを送ってくれたのは、ここだろうか?
そんな気がする、周太は隣に訊いてみた。
「写メールで送ってくれた?」
「そうだよ、」
やっぱりそうだった。なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。
岩場に並んで腰掛けて、隣は握飯を頬張りながら、笑ってくれる。
山ではこっちの方がいいと言って、英二は握飯を選んでくれた。
確かにそうだなと周太も思う。
「こういうところで食べると、うまいね」
「だろ、」
英二は微笑んで、5つめを手に取った。
ほんとうによく食べる。けれど少しも太らず、体は引締まっていく。
そうして会うたびに、細身のまま逞しくなって、すっきりとした背中が頼もしい。
毎日の巡回に山に登り、業務合間に訓練をする。そんな日々が隣を鍛え上げている。
そうして夜は、勉強をしている。
吉村医師との会話から、借りた本から、そんな様子が見えてしまう。
どれだけいつも熱心に、救助に必要な知識への努力をしているか。
健やかに握飯を頬ぼっている、美しい端正な横顔。
その横顔は一ヵ月半で大人び穏やかさを深めながら、より楽しげに明るくなった。
山ヤの警察官としての誇りが、切長い目に、端正な口許に、表情にまぶしい。
つい見惚れてしまうな。
思いながら周太は、2つめの握飯を飲みこんで隣を見た。
そんな視線に振り向いて、きれいに英二が笑いかけてくれる。
「周太、俺に惚れ直してる?」
また図星を言われた。
どうしていつも、解ってしまうのだろう。
いつも気恥ずかしくなる、でもなんだか今は、素直に唇が動きそう。
ゆっくり首傾げて周太は微笑んだ。
「ん、そうだな、…惚れ直す、な」
想い告げられて、うれしい。気恥ずかしいけれど。
想いを告げられた隣は、うれしそうに笑って喜んでくれる。
こういうのはきっと幸せだ。
雲取山荘は空いていた。
この時期では珍しいことだと主人が教えてくれる。
他には中年の夫婦が一組と、山ヤ仲間だという男3人組があるだけだった。
「静かで今夜はいいよ。山の夜に、存分にふれられる」
「楽しみです。本当に今夜は、訓練の時とは雰囲気が違いますね」
「そうだろう?あれはあれで楽しいのだけどね。あのとき宮田くん、ビールわりと飲んでいたろう?」
「はい、国村に飲まされて。あの時も楽しかったです、お世話になりました」
手続きをしながら、山荘の主人と英二は楽しそうに話している。
救助隊の訓練登山で、一度ここへ来たのだと聴いた。
その一度だけで、こんなふうに顔と名前を覚えられている。
こういうところも好きだな、そう見つめていた横顔が笑いかけてくれた。
「周太、部屋に行くよ。個室で今日は使えるって」
「そう、ん。うれしいな、」
空いている時は個室で使えるらしい。
よかったと周太はうれしかった。やはり初対面の相手は、周太は緊張しやすい。
それにやっぱり、ふたりだけで寛げるのは嬉しい。穏やかな静かな隣で、山の夜に座れたらいい。
荷物をおろした部屋は、窓からの空がきれいだった。
「ここの飯はね、山の水で炊いているんだ」
「へえ、おいしそうだね」
そんなふうに話しながら、山荘前の広場へと出た。
ベンチに腰掛けて眺める向こうに、山並が青く沈みはじめる。
「周太、夕焼けが始まる」
「ん、」
西へと向けた頬に、あかく太陽の光が照らされた。
真赤にふくらむ太陽は、山の稜線むこうへ超えていく。
投げかける光線に、雲が金色に輝いてまた朱紅へと翻った。
あわい朱、あわい紅、あわい紫色に、空は刻々と移ろっていく。
そっと周太はため息をついた。
「…きれいだ、ね、」
「だろ?」
見つめる空の向こう、太陽がそっと山嶺むこうへ眠りについた。
遺された残照の黄金が、光をあわくおさめていく。
透明な紺青の夜が空覆って、菫色の帳が中天をふり始めた。
そうして宵の明星をとりまいて、新たな星明が灯りだす。
山の空の、夕焼け、黄昏、彼誰時、そして夕闇、夜へ。
ほんとうに美しかった。英二と見られて、うれしかった。
ほっと息をついて、隣を見あげた周太に、英二が笑いかけてくれる。
「飯に行こうよ、山荘は夕飯が早いんだ」
「ん、腹空いたね?」
そう話しながら食堂へと向かうと、調度いい時間だった。
山荘の夕食は、お代わり自由のご飯がおいしい。
英二は丼飯を5杯たいらげたとき、他の宿泊客から拍手をされた。
「ほんとうに、見ていて気持良いな」
「ありがとうございます、」
そんなふうに笑って、英二は6杯食べて箸を置いた。
もしかすると昨夜は、やっぱり足りなかったかな。
思って周太は、今度からもっと多めに、食事は用意する事に決めた。
満足げに茶を啜りながら、隣は笑いかけてくれる。
「ちょっと部屋に戻ってさ、それから星見に行こうな」
星が見られる。
幼い頃に山で見た、ふるような星空がまた見られる。
うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、楽しみだな」
「ああ、楽しみにしていて」
部屋にいったん戻ると、据えられた炬燵が気になった。
こたつ布団を捲って見ると、炭を使う仕組みになっている。
豆炭の炬燵らしいよと、笑って英二が教えてくれた。
話には聴いていたけれど、じんわりと温まる感じが、なかなか良い。
秋の夜の山上は、きれいに晴れていた。半月に近いけれど澄明に月が輝いている。
ふるような星が、紺青と青紫の透明な夜空を輝かせていた。
夜闇の底に沈む足許は、空との境界をなくし融けあっている。
本当に英二が、教えてくれた通り。うれしさと驚きに、そっと吐息をついて周太は微笑んだ。
「ほんとうに、宇宙のなかに立ったみたいだな」
冷たい山の夜気が、気恥ずかしさに火照る頬に、気持ちいい。
すこし星座とか解るだろうか。そう思いながら空を見あげる。
暫らくして、きれいな笑顔が、おいでと声を掛けてくれた。
「はい、周太」
温かい湯気を立てるカップを、周太に渡してくれる。
クッカーという、コンパクトな野外調理器具で作ったらしい。
星を見ている間に手早く作った、そんな手際にも驚かされてしまう。
ほろ苦く甘いココアの香。カップを抱えて、周太は英二を見あげた。
「こんなこと出来るんだ、」
「ああ、国村に教わったんだ。だから旨く出来ていると思うけど」
こういうことの先生にも、国村はなってくれている。
本当に良い友人で山のパートナーなんだ。なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。
そっとココアを啜ると、調度いい濃さに上手に出来ている。
おいしい、何より気持ちが嬉しい。周太は英二を見あげて微笑んだ。
「ん、おいしい」
「そうか、良かった、」
山の夜気は頬に冷たい。けれどココアは本当に温かかった。
父ともこうして山でココアを飲んだ。それを知って英二は、ココアを作って飲ませてくれる。
なんだかいつもより、ココアが甘やかで、周太は幸せだった。
山の夜は透明に晴れて、新宿の夜景も遠くあざやかに見える。
ぽつんと周太は呟いた。
「ほんとうに、ここの空と繋がっているんだな」
新宿署管轄で勤務する日々、ときおり寂しさを周太は感じてしまう。
ほんとうは、英二の隣で、この美しい場所で生きたい。
そんな想いは日々募って、煌びやかで寂しい夜底の摩天楼にさえ、山嶺の幻を見そうになる。
けれど空が繋がっているのなら。そうして同じ場所に同じ時にいるのなら、そう想うと心に温かい。
静かに隣が動いて、お互いの肩が触れあった。触れる肩が温かい、その近さが嬉しくて周太は微笑んだ。
そうだよと言って、きれいに笑って英二は言ってくれた。
「周太、空でも繋げて俺は、いつも周太の隣にいるよ」
この隣といつも、空で繋がっている。
どんな形であったとしても、この隣と繋がっていたい。
隣を見上げて見つめて、周太は微笑んだ。
「…ん、うれしいな。繋がっているんだな、いつも」
「そうだよ、」
そう微笑み返してくれる、端正な唇が愛しかった。
だって今、この唇が聴かせてくれた言葉に、自分は幸せを貰ったから。
その想いを、自分もこの隣へ伝えたい。
だから、今、キス、したい。
周太は隣の瞳を見つめて、すこしだけ顔を近寄せた。
近寄せた切長い瞳は、やさしく微笑んで見つめ返してくれる。
「…周太、」
黙って見つめたまま近づくと、きれいな切長い瞳がそっと伏せられる。
近寄せた端正な口許は、密やかに微笑んでくれる。
この、愛する隣も、求めてくれている。
求めて、こうして自分を受けとめようと、待受けてくれている。
求められて嬉しくて、周太はそっと瞳を閉じた。
そっと周太は英二にキスをした。
近寄せた周太の頬を、長い指の掌がくるんで抱きとめてくれる。
頬ふれる指先から、ココアの香が甘くて温かい。
ふれるだけ。けれど初めての、自分から望んでのキス。
こんなふうな幸せが自分にあるなんて、周太は思っていなかった。
警察学校卒業式のあの日まで、全てを諦めていた。
けれどあの日の夜、いま抱きとめる腕に浚われて、今ここで、こうしている。
幸せで、温かくて、そっと周太の瞳から涙がひと滴こぼれた。
ゆっくり離れると、きれいに英二は微笑んだ。
「甘いね、周太のキスは。ねだらないでさ、周太からしてくれたの“初めて”だな、」
「…ん。…あまりいわないで恥ずかしくなる…」
きっともう真っ赤になっている。
けれどでも、こんなふうに隣を笑顔に出来た。
その幸せが温かくて嬉しくて。だからもう、少しくらい恥ずかしくても、隣の為なら大丈夫。
21時の消灯、山荘では早めに眠りに入る。翌朝の朝日を楽しみに、登山客は早寝が多い。
布団を敷いて、それから着替える。
着替える時になって、そっと周太は英二に背を向けて座った。
1ヶ月半前までは、いつも寮の風呂は一緒だった。見慣れた日常、意識もしなかった。
けれどこんなふうに。特別な関係を結んだ翌朝から、周太は恥ずかしくて仕方ない。
だっていつも、あんなふうにされてしまう。そう意識しすぎて、もう、恥ずかしい。
そのうえ英二の体は、別人のように変わった。
山ヤの警察官としての1ヶ月半の生活で、引締まった全身には水際立つ美しさが生じている。
細身のままに肩や胸に厚みが出て、腕は動くたびに躍動するのが見える。
すっかり頼もしくなった背中は、昨夜また大人びて長身に映えていた。
だから本当は、いつも周太は見惚れている。
そんな自分も余計恥ずかしい、首筋が赤くなってしまう。
早くすましてしまおう、手早く周太は着ているパーカーとTシャツを脱いで、替えのTシャツに手を伸ばした。
「周太、」
急に名前を呼ばれて、一瞬止まった手からTシャツが落ちた。
その背中から温もりに、そっと抱きしめられる。抱きしめる胸が、素肌のままだと背中で解ってしまう。
身動きが出来ない、途惑いにただ頬が赤くなっていく。その頬にそっと、なめらかな頬が寄せられる。
寄せられた頬が微笑んで、きれいな低い声が囁いた。
「なにもしないから。少しだけ、こうさせて?」
肌ふれる温もりが熱い、抱きしめる腕が温かい。
背中から伝わる鼓動、すこしだけ早くて、力強い温もりが頼もしい。
頬に寄せられる頬の、艶やかな温もりが嬉しい。
「…周太、」
呼ばれる名前、うれしくて。
そっとふれる吐息、温かくて、せつない。
「ほんとにね、愛している…周太、」
告げられる想いが、うれしい。温かい、涙が心にうまれていく。
明日も山を歩く。
疲れさせないように、気遣ってくれている。
けれど想いは伝えたくて、ただ抱きしめて想いを告げてくれている。
自分も想いを伝えたい。
そっと周太は息をひとつ吸って、瞳をとじた。
お願い、ふたつの腕、動いて。
お願い、心深いところ、唯一つの想い、声になって。
そっと周太の右掌と左掌があげられる。
そのまま抱きしめる腕を、そっと両掌が抱きしめた。
その両掌へと、すこし驚いたように隣の視線が注がれる。
そっと周太の唇が披かれた。
「…俺もね、英二、愛してる…いま、幸せだから」
想い、言えた。
名前を呼んで、想いを告げられた。
「うん、」
頷いてくれた隣の頬に、笑顔の気配が感じられる。
ああきっと、うれしくて笑ってくれている。
名前を呼んで想いを告げて、喜んでもらえる。その温もりが幸せで。
素肌のままで抱きしめられる、気恥ずかしさと温もりと、甘やかな幸せが愛しい。
「周太、俺も今すごく幸せだよ、」
頬ふれる低く美しい声、その言葉が温かい。
うれしくて周太は、その声を振返った。
振り向いた視線の先で、切長い目が笑ってくれる。
きれいな笑顔がうれしくて、微笑んだ周太の唇に、そっと唇を重ねてくれた。
そっと離れて、英二は長い腕を伸ばして、周太の着替えを拾ってくれた。
「ほら周太、腕を通して?」
「…え、」
「ほら早く、」
そんなふうに、着せかけてくれる。
こういうのは嬉しい、けれど気恥ずかしい。
けれど拒むことも出来なくて、結局、着替えさせてくれた。
なんだか余計に恥ずかしい、俯けていると英二が名前を呼んでくれる。
「周太、」
赤いままの頬に、きれいな大きな掌がふれた。
そっと唇に唇を重ねられる、その温もりが周太は、うれしかった。
きれいに英二が微笑んでくれる。
「窓からもね、星と月がきれいだよ」
壁に凭れて並んで座って、窓から空を見あげた。
明るい月と、きらめく無数の星が、青い夜空あざやかに見える。
うれしくて周太は微笑んだ。
「きれいだな、」
星と月の明かりで、あわく青い夜が部屋に充ちていた。
iPodのイヤホンを片方ずつ繋いでくれる。
穏やかな曲が流れ始めた。
この曲で伝えたい事がある。
いつも自分だけでは言葉にできない。けれど、歌の詞にのせてなら、きっと告げられる。
静かに周太は英二を見あげた。
「英二、…聴いて?」
「うん、」
優しく頷いてくれる、きれいな切長い目。
その目を真直ぐに見つめて、周太は静かに唇を開いた。
「…I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do」
“息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している“
この歌詞は本当に、自分の本音。ほんとうは、もう、ずっとそう。
赤らめた頬のままで、周太は告げた。
「この歌詞はね…俺の、本音だから」
見つめている、きれいな笑顔。その切長い目から一滴、白い頬を伝っておちた。
こんなふうに、微笑んで涙をながして。
そんなふうに、想いを受け留められて、周太は嬉しかった。
黒目がちの瞳を覗きこんで、きれいな低い声が告げてくれる。
「周太、聴いて?
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning」
“君への想いはきっと、新しい始まり、生きる理由、より深い意味 そう充たす引き金となる”
そんなふうに想ってくれるの?
周太は隣を見つめて、視線で訊いてしまう。
だってそんなふに想われたら、とても幸せすぎると思う。
そんな周太を見つめながら、静かに英二は言ってくれた。
「ほんとうに俺、もうずっと、そう想っている。だからもう、離れてしまったら、俺はね、生きていられない」
夜の底に包まれた空間、ふたり見つめ合う。
それだけでも幸せで、それなのにこんなふうに、想いを告げて求めてくれる。
周太の頬に涙こぼれた。
自分だってそう、同じように想ってる。
13年間を縛り続けた、父の殉職という名の冷たい現実と孤独。
そこから救ってくれた。そして失われた笑顔を蘇らせてくれた。
そうして自分の心に、温かい想いを贈ってくれる。
そしてこんなふうに、愛することを教えて、答えてくれた。
きれいに微笑んで、周太は英二に告げた。
「…俺も、そう…」
告げた唇にそっと、唇で英二がふれてくれる。温かな熱が幸せで、愛しくて嬉しかった。
微笑んで、英二が告げてくれる。
「約束して、もう離れていかないで。どんな時も、どんな所でも、俺を離さずにいてよ」
長い指で、周太の涙を拭ってくれる。
拭われた瞳で真直ぐに見上げて、周太は言った。
「約束する…だからもう、ひとりにしないで」
「うん、」
拭った目許にくちづけて、黒目がちの瞳を覗きこんでくれる。
そっと笑って英二は、周太へと願った。
「約束する、だから笑って周太。俺の名前を呼んで、キスしてよ」
ほんとうはやっぱり、恥ずかしい。
けれどこの隣が望むなら、なんだって叶えたい。きれいに周太は笑った。
「英二、」
笑いかけて、名前を呼んで、キスをする。こんなに幸せなことだなんて、ずっと今まで知らなかった。
「周太への想いがね、俺の生きる理由と意味。生きている限りずっと周太を想うよ。
どんな時でも俺は、必ず周太の隣に帰る。
ひとりになんかしない、一緒に生きていてよ。…いつも、離れていても、必ず守り続けるから」
英二が周太に告げてくれる、その真直ぐな目が嬉しい。
だから自分だって想いを告げたい。
だからお願い、声きちんと出てほしい。周太は静かに唇を開いた。
「…ん、俺だって英二を守りたい、一緒に生きたい。…俺もう、いつも、ずっと、英二の帰りを待ってるんだ」
周太の瞳から涙がこぼれて落ちた。
「ほんとうは、いつも俺は不安だ…山はなにが起きるか解らない、だから不安…いつも天気予報を見てしまってる」
山では天候が生死を支配する。
だから本当は不安、いつだって想って心配してしまう。
けれど、それだけでは自分は、この隣を守ることなんてできない。
きれいに微笑んで、周太は告げた。
「でも信じている、約束を信じて待ってる…愛している、英二」
うれしそうに英二が笑ってくれる。
きれいな笑顔で、周太に言ってくれた。
「信じて待っていて。愛しているだけ、必ず周太の隣へ、俺は帰られるから。だから信じて?」
愛しているだけ、帰られるなら。
ならきっと大丈夫、必ず帰って来てくれる。だってもうそれほどに、想いは深いから。
きれいに笑って、周太は答えた。
「ん、信じて待ってるから…だから、たくさん…愛して。必ず、帰って来て」
「ああ、ずっと愛する。だから信じて?」
抱きしめられて頬寄せられる、温もりが嬉しい。
どうしていつもこんなふうに、温かいのだろう。
こんなふうに愛して、想いを通わせる。そんな幸せがあるなんて思えなかった。
けれどこうして抱きしめる、この想い、ひとりだけ、唯一つの想い。
愛してる。もうずっと、ひとりだけ、ひとつだけ。
この隣の為になら、きっと自分は何だってできる。
そんな静かな覚悟がそっと、自分の心に想いに温かい。
「愛している、周太。ずっと隣で笑っていて?」
「ん、隣でね、笑っている」
きれいな笑顔が見つめてくれる。
うれしくて微笑み返して、穏やかな温もりに寄り添った。
そんなふうに寄り添って、ただ抱きしめられて山の夜に眠った。
唇に熱がふれる。
額にふれる温もりは、てのひら?
頬を包んでくれる温もり、かすかなココアの香。大好きな穏やかな、やさしい気配。
「周太、」
きれいな低い声が呼んでくれる。
大好きな声、惹かれて誘われて、静かに瞳がひらいた。
「おはよう、周太」
きれいな笑顔が、まだ夜闇を残した朝に笑ってくれる。
今日、最初に見たものが、この笑顔。
うれしくて周太は、きれいに笑った。
「…おはよう、英二」
そうして目覚めた朝は、ただ幸せで温かい。
こんな朝を、ずっと見つめて、生きていきたい。
そんなふうに、そっと心に祈ってしまう。
「周太、」
抱きしめてくれる腕に、そっと抱き起こされる。
きれいな切長い目が、瞳を覗きこんで笑って、誘ってくれる。
「ほら、夜明けを見に行こう?」
「…ん、一緒に行く、見たい」
眠りから覚めきらない体に、パーカーとウェアを着せてくれる。
マフラーを温かく巻いて、静かにキスをしてくれた。
「おいで、」
時計は5時半。黎明のときだった。
闇は夜明けの前が最も濃い。手を惹かれて出た足許も空も、紫深い闇に沈んでいた。
濃密な浄闇に鎮まる山上、森閑の音が遠くから返響していく。
濃く透明な闇には、星の明滅があざやかに煌めいていた。
「星がふってくる、そんな感じがするな」
天上うめつくす星が瞳に響く。周太は微笑んで空を見ていた。
座っている木のベンチも闇の底に沈み、足許が宇宙に浮くように感じる。
冷気が最も凍るのも、夜明け直前の黎明どき。山上の大気は冷たくて、氷水が融けたようだった。
「…こほっ」
軽く咳が、周太の唇からこぼれた。
「周太?」
「平気、だいじょうぶ」
冷気が少しだけ、肺に入った感じがした。
思った以上に夜明け前の山は寒い。けれど、英二に贈られたマフラーが温かい。
ふいに長い腕が隣から、周太をひきよせた。
「ほら周太、来いよ」
「…え、でも」
英二の前に座らせられると、背中から抱きしめられた。
ジャケット越しに、お互いの熱が寄り添って温かい。温もりが幸せで、周太は微笑んだ。
きれいに笑って、英二が周太を覗きこむ。
「隣に誰かいるって、温かいだろ?」
「…となりっていうかなんていうか…」
となりというよりも、まえにいる。
そしてこれは、昨夜の着替えるときと同じ体勢になっている。
昨夜をおもいださせられて。気恥ずかしさが、声をちいさくしてしまう。
けれど本当は、うれしくて幸せに微笑んで、もう瞳は笑っている。
「今、うれしい?」
うれしい、そして幸せだ。
けれどどうしよう、だってもう人が見ている。
どうして良いか解らなくて、思ったままを周太は言った。
「…ん、…うれしい、な。でも、すごく、…はずかしいぞきっとおれたち」
言われて英二は、周囲を見回している。
周囲の人達を見、いつも通りに英二は、きれいに笑いかけた。
「おはようございます、冷え込みますね」
「おはようございます。まあ、仲良しですね」
ハイカーの妻が可笑しそうに笑ってくれる。
ええと頷いて、英二はきれいに笑った。
「はい、仲良いです。こうすると温かいですよ」
「あら、いいわね。ちょっとあなた、私達もしましょう?」
妻が夫の手をひいて、向こうのベンチへ歩きだす。
ロマンスグレーの夫が、気恥ずかしげに微笑んでいる。
「若い頃にしたね、でも今は少し恥ずかしいよ」
「そうね、でも今もう寒くって私、」
「じゃあ仕方ないな、」
そんなふうに笑って、夫婦も真似て座りこんだ。気恥ずかしげでも楽しそうに、夫婦で笑っている。
その姿は堂々として、そしてずっと寄り添ってきた温もりが、幸せそうだった。
楽しげな夫婦を見遣って、3人組の男達が英二に笑いかける。
「こういうのも、山ならではだな」
男同士でと思われるのだろうか?少しそんなふうに周太は思った。
けれどもう自分も決めている、この隣の笑顔の為になら、自分は何でも出来るだろう。
だから英二を信じて、ただ抱きしめられて座っていた。
「ええ、山の寒気には人も、温かく寄り添えて良いですね」
英二は、周太を抱きしめたまま、いつものように微笑んで答えた。
そんな英二に、男達も楽しげに頷いている。
「そうだな。うん、山は良いな」
「はい。温かくて、山は良いですね」
きれいに笑って、英二は答えた。
その笑顔を見て、へえと男達は笑いかけてくれた。
「きれいな笑顔だな、山ヤって感じだ」
「うれしいですね、ありがとうございます」
そう笑いあって3人は、じゃあとカメラを担いで山頂へと歩いていった。
見送ってから英二は、肩越しに微笑んでくれた。
「ほらね、恥ずかしくないよ?周太、」
肩越しに、切長い目が見つめてくれる。
なんにも恥ずかしいことなんか、自分達はしていない。自分はいつも誇らしい、この隣に座ること。
そんなふうに堂々と、きれいな目は笑っている。
実直で、思ったことしか言わない、やらない。
そしていつでも、きれいに笑って、何事も真直ぐ見つめている。
そんな真直ぐな生き方は眩しい。
そして自分だって誇らしい、この隣に座ること。
ほんとうに、愛している。そして心から、愛されている。
そんなふうに見つめあって、今もこうして寄り添っている。
それはどれほど幸せな事だろう?
うれしくて幸せな想いが、そっと周太の瞳に幸せな滴になって温かい。
黒目がちの瞳を微笑ませて、そっと周太は言った。
「…ありがとう、英二」
「うん。こっちこそいつも、嬉しいから」
こわれないように、静かに腕に力をいれて、英二は周太を抱きしめた。
そんな力強さが頼もしくて、心ほどけて安らいでいく。
頬に頬よせるようにして、きれいに英二は微笑みかけてくれる。
「ほら、周太。夜が明ける」
東の稜線が赤く輝き始めた。
あわいブルーの輝きが、遠く空の境界を顕にして透明になる。
紺青の透ける闇が中天へ払われて、ゆっくりと星はまどろむように光かすんでいく。
広やかな暁を彩る雲は、薄紅に朱金に白熱と艶めいて、空にまばゆく浮かんだ。
「…きれいだ」
やわらかに心から吐息があふれた。
抱きしめてくれる隣が、やさしく微笑んでくれる。
「ああ。きれいだな、」
こんなふうに寄り添って、一緒に山の朝を見られた。
そしてこんなふうに、隣は嬉しそうに笑ってくれる。
そうして今、幸せがこんなに温かい。
幸せで、そして、愛している。
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】
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