萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第61話 塔朗 act.5―another,side story「陽はまた昇る」 

2013-03-03 22:52:54 | 陽はまた昇るanother,side story
与えられた燈火、その意味を 



第61話 塔朗 act.5―another,side story「陽はまた昇る」 

第七機動隊付属寮の20時半、いつもの明るいノックが響く。
扉を開くとレシーバとラジオを携えた長身が、底抜けに明るい目で笑った。

「こんばんは、湯原くん。今日も盗聴器のチェックさせてくれる?」
「はい、お願いします、」

先輩後輩の応答で光一は部屋に入り、扉を閉めてくれる。
いつものよう白い手はFMラジオのダイヤル合わせ、雑音のチェックを始めた。

「うん、コッチは大丈夫そうだね?帰ってきた時に変な感じとかした?」
「特には気づかなかったです、ドアと窓も出掛けた時のままでした、」
「そっか、でもコッチも一応チェックさせてね、」

話しながら光一はレシーバのスイッチを入れてくれる。
この間の高田と同じよう盗聴器チェックをしていく、その横顔は愉快に明るい。

…光一、ちょっと楽しんでるよね?狙い通りって感じの貌だもの、

光一からしたら今の状況は「狙い通り」で、愉しくて仕方ないだろう。
盗聴器チェックを口実に光一は毎晩来てくれる、それは色んな面で都合が良い。
この盗聴騒ぎを逆利用してしまう、そんな全てを冷静に面白がれる余裕が頼もしい。
こういう所に自分は救われている、この感謝と見守るなか光一はレシーバのスイッチを切った。

「はい、周太。チェック完了だよ、安心してお喋りしよっかね、」
「ありがとう、いつもごめんね…あ、止血帯のこと教えてほしいんだ、」

ほっとして周太はデスクに行くと、広げたままのファイルにしおりを挟んだ。
その横から長身の影が覗きこんで腕のばし、机上のハードカバー本を手に取った。

「ふうん、立派な本だね。大学で借りてきた?」

愉しそうに訊いてくれながら、白い繊細な指は表紙を開く。
その透明な目がすぐ気がついた様子に、嬉しく周太は微笑んだ。

「そう、大学で借りてきたんだけど、たぶんお父さんの本なんだ…ほら、」

大きな手が開いた見開きのアルファベット達に、そっと指ふれてみる。
いま指先に綴られてあるブルーブラックの筆跡、その意味に周太は笑いかけた。

「日付の書き方がね、日、月、年ってなってるでしょ?これはイギリス式の書き方でね、アメリカ式とは月と日の順序が逆になるんだ。
この書き方って父と祖父と同じなの、名字を略すのも一緒で…アルファベットの癖も父と同じだし、インクも父の万年筆と同じだと思う、」

“ 15.Mar.1978 Kaoru.Y ”

短いサイン、けれど父の俤あざやかに見えてくる。
父の本を父の母校が大切に保管してくれていた、この嬉しい幸運を幼馴染へ話した。

「俺のお祖父さんって東大の先生でね、父も同じ大学に行ったみたいなの…それで父はね、大学を卒業した後に本を寄贈したらしいんだ。
大学の図書館に寄贈書のコーナーがあるんだけど、父の本は何百冊ってあって…イギリス文学の原書や研究書でね、一部は貴重書になってる、」

立派な装丁の本たちは、どれも高価そうで綺麗だった。
きっと大切に集めて読んでいた、そんな父の軌跡を辿って読めることが嬉しい。
この喜びを光一ならば解かってくれる、そう笑いかけた先で底抜けに明るい目が優しく微笑んだ。

「そっか、本を透してオヤジさんに会えたんだね?よかったね、周太、」

本を透して会えた、そんな表現に理解が見えて嬉しい。
嬉しくてもっと聴いてほしくて、微笑んで周太は続きを話しだした。

「ありがとう、光一もそう言ってくれるの嬉しいよ。でね…もしかして父も祖父みたいに、学者になりたかったかもしれないって思うんだ。
だけど警察官だったでしょ?きっと父はね、自分の代わりに本を読んでほしくて寄贈したんだと思うんだ…自分と同じ夢の人に役立つように、」

父が本を手離したのは、学問と夢の未来を信じていたから。
そんな父の意志は今もきっと生きている、そう願う前からテノールの声は綺麗に笑ってくれた。

「オヤジさんの気持ち、ちゃんと今も生きてるね。だから周太、同じガッコで勉強してるんじゃない?オヤジさんの夢も願いも継いでさ、」

父の夢と願いを継いで、同じ大学で学ぶ。
それを今日は何度も考えていた、そして今こうして言われることが嬉しい。

…きっと俺、誰かに認めてほしかったんだね?お父さんと自分のこと、

そっと心に納得がおりて、深い喜びに笑顔が起きだす。
こんなふう受容れてくれたことが嬉しい、その感謝へ周太は綺麗に笑った。

「ありがとう、光一。俺ね、いつか必ず樹医になるよ?お父さんとの約束を叶えるよ、だから今もここで頑張りたいんだ、」
「イイ心意気だね、きっと周太なら出来ちゃうよ?」

底抜けに明るい目を笑ませてベッドに座り、光一は父の本を捲りだした。
白い指がセピア色のページを繰り、長い睫の瞳はアルファベットを素早く追っていく。
その眼差しは文意を汲んでいる、そんな視線と指の動きに能力のレベルが見えて溜息こぼれてしまう。
やっぱり光一は優秀だ、そう素直に感嘆しながら隣に腰掛けると周太も救急法のファイルを開いた。

かさっ、…かさり、

ふたり並んで座りこむ部屋、ページくる紙音が優しい。
FMラジオの喋る声、扉向うの遠い喧騒、そんな微かな音たちに夜の静寂は深くなる。
たたずむ隣からは水仙の香が涼やかで、古い紙の匂いに甘く重厚な香が懐かしい。
真夏の夜、けれど静かな時間は心地よい温もりに安らいで、そっと心ほどかれる。
こんな時間を光一と過ごせる機会が今、与えられて嬉しい。そう微笑んだ隣テノールが笑った。

「ほら、周太?ココなんてさ、オヤジさんからのメッセージっぽいね?」

My first answer therefore to the question 'What is history?'
is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.

問いかけ「歴史とは何か?」へ、まず最初の答えとして、  
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である。

Edward Hallett Carr『What Is History?』

この著名な一節を、父の寄贈書で読み直したくて自分も借りてきた。
それを光一も解かってくれる、こんな受容は嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、俺もそう想ったから借りてきたんだ…この本を読んでいた過去のお父さんと、今の俺が話してるみたいって想えて嬉しいから、」
「だね?俺もオヤジの本を読むとき同じコト想うよ、」

明るく笑ってくれながら、白い手は丁寧に本を閉じて周太に返してくれる。
きれいな笑顔の眼差しは無垢のまま優しい、この笑顔が何度も自分を援けてくれた。
だからこそ16年を超えて伝えるべきことがある、父の本を抱きしめて周太は幼馴染の瞳に真直ぐ問いかけた。

「ドリアードはね、恋した相手を自分の木の中に閉じこめるよね?だから、俺が雅樹さんを隠しているって、いつか帰すって想ったんでしょ?」

問いかけに透明な瞳が瞠らかれ、真直ぐ周太を見つめる。
すこし驚いたようで哀しそうで、それでも傷の分だけ安堵と感謝が温かい。
こんな眼差しに正解だと解かってしまう、いま傷の露わになる瞳のまま光一は微笑んだ。

「やっぱり君は解かっちゃうんだね、その通りだよ?だから俺、君と結婚したかったんだ…ずっと一緒にいたら、いつかはって信じてた、」

どうして周太を13年間も待っていたのか、あの山桜から離れないよう生きてきたのか?
その真実の欠片を光一は3週間前、富士山を仰ぐ森のなかで教えてくれた。
あのとき明るい瞳は涙きらめいて、宝物のよう1つの名前に微笑んだ。

『君の山桜はね、雅樹さんが見つけて俺に教えてくれたんだ…君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、』

光一が初めてアンザイレンパートナーに選んだ、美しい山ヤの医学生。
彼を光一は深く慕って想い続けている、その想いは恋愛という言葉ですら尽せない。
亡くなって16年が過ぎ、それでも尽きせぬ涙に何を願い山桜を護って生きてきたのか?
この傷みも喜びも今なら解かる、その全てを飲みこんで周太は静かに微笑んだ。

「ごめんね、俺はなにも出来ないんだ…どんなに光一が大切にしてくれても雅樹さんを帰してあげられない、だけど教えることは出来るよ、」
「…何を教えてくれんの?」

訊いてくれる声も見つめる瞳も、ただ哀切が透明にふれてくる。
透けるよう明るい無垢は哀しんで、それでも真直ぐな想いの真中で周太は口を開いた。

「雅樹さんの気持ち教えてあげる。光一のこと、遺して逝きたくなかった、」

遺して逝きたいはずがない。
本当に想う相手なら傍にいたい、けれどそれ以上に願うことがある。
その全ては今の自分こそ教えられるはず、その想いのまま言葉を紡いだ。

「だけど追いかけてほしいんじゃないよ?幸せに笑っていてほしいんだ…大切だから、大好きだから、ずっと笑顔を護りたいんだよ?
だから自分の持っている全てをあげたい、命だってあげたい、ただ笑って幸せに生きていてほしい、ずっとずっと幸せなまま生きてほしい、」

唇から音になる想いは、瞳の底で熱を充たしていく。
本当は嘘でも良いから蘇生と再会を信じさせてあげる、その方が幸せかもしれない。
けれど吉村医師から聴く「雅樹」という人は全てに真摯だった、だから光一にも真直ぐ向き合わせたい。

…光一は16年ずっと縋ってたね、雅樹さんが生き帰るって…でも、辛くても哀しくても現実と向合わないと、亡くなった人を大切に出来ない、

大切な人の死は、苦しい。
世界の全てが一瞬で色褪せてモノクロになる、心が凍ってしまう。
そして止めた時間のなかへ現実から逃げたくなる、そんな逃避で心を護ることも必要かもしれない。
それは確かに楽な生き方だと思う、自分も13年間の孤独は父の死と正面から向き合えなくて記憶も失っていた。
だからこそ解る、もう二度と会えない現実から逃げることは亡くなった人を遠ざけて、本当には大切に出来ない。

「雅樹さんが光一にどうしてほしいのか、光一がいちばん解かってるはずだね?だって光一がいちばん近くにいるんだから、」
「うん…当たり前だね?」

周太の声に応えるよう呟いて、透明な瞳が見つめてくれる。
長い睫ゆっくり瞬いて呼吸ひとつ、優しい眼差しが周太に微笑んだ。

「俺さ、そういうことアイガーからずっと考えてたんだ。でも君から言ってもらってスッキリしたよ、ありがとね、」

もう光一は向合おうとしていた、それが嬉しい。
これなら光一は大丈夫?ただ願うよう微笑んだ周太に光一は訊いてくれた。

「で、ソレってね、君があいつに対しても想うことなんだろ?」
「そうだよ?だから解かるんだ、雅樹さんと俺は同じだから。俺も英二のこと、ひとり置いていかなくちゃいけない、」

はっきり応えて見上げた先、秀麗な顔が哀しそうに顰めてゆく。
哀しみの傷む瞳は純粋なまま見つめてくれる、その眼差しへ周太は真直ぐ笑いかけた。

「もう解ってるんでしょ?どうして俺がここに異動してきたのか、この先どこに行くのか?どんなに約束しても戻れないかもしれないって。
それでも俺は生きることを諦めないよ?10年後の自分は樹医になってるって信じてる。それでも覚悟はしてる、明日にだって終わること、」

明日、それどころか1秒後も解らない。
射撃の名手として警察官に採用された、その瞬間から覚悟している。
この覚悟と想いのまま綺麗に笑って、正直な気持ちを幼馴染へ告げた。

「だから光一と英二が恋人同士になってほしかったの、他の人とえっちされるの嫌、でも光一なら納得できるんだ。光一のこと大好きだから。
でもごめんなさい、光一には大好きな人いるのに、英二のこと押しつけようとして…雅樹さんのこと生き返らせてあげれなくて、ごめんね、」

ごめんね、そう告げた途端に瞳から熱こぼれだす。
本当に自分は何て無力なのだろう?その想いに涙ひとつ頬を伝う。

「ごめんね、本当にドリアードなら出来るかもしれない。でも俺は人間なの、ただの男なんだ…出来るんなら何でもしてあげたい、
出来るなら雅樹さん生き返らせてあげたい、でも出来ないんだ。だから光一、もう俺のこと護る必要なんてないよ?もう自由になって、」

ひとつの涙と一緒に現実を告げて、笑いかけるまま感謝あふれていく。
15年前の冬の森で光一がくれた言葉も笑顔も嬉しかった、そして大人の今もたくさんの言葉と笑顔をくれる。
その全ては温かで優しくて勇気をくれる、どれも大切で愛しくて、だからこそ自由にしてあげたい。
この願いのまま微笑んだ真中で、透けるよう明るい瞳は無垢に笑ってくれた。

「謝んないでよ?どれも俺が勝手に想ったことが発端だね、君に責任なんて無い、」

大らかに透明な笑顔ほころんで、白い指が涙ぬぐってくれる。
頬ふれる優しい指に微笑んだ隣、すこし困ったようテノールが笑ってくれた。

「俺だって久しぶりにヤれて気持ち良かったし、ちゃんと幸せだったんだ。でもやっぱり違うって解ったよ、ドリアードとして聴いて?」

ドリアードとして聴く、それは警察官ではなく男でもなく、人間ですらない。
ただ一本の樹木として聴いてほしい、その願いに周太は微笑んで頷いた。

「ん、そうだね…俺は山桜のドリアードだね、なにも出来ない精霊だけど、」
「なにも出来なくってイイんだよ、元気で居てくれて笑ってくれてたら充分だね、」

綺麗な声が笑って、そっと耳元に唇ふれてくれる。
頬のキスはただ温かい、この優しさに微笑んだ隣は話しだした。

「俺さ、マジで英二のことは惚れてるんだ。最初に気になったのは雅樹さんと似ているからだよ、でも惚れたのはソレじゃない。
北鎌尾根で雅樹さんの慰霊登山をさせてくれた時さ、あいつ、雅樹さんの身代わりをしてくれたんだ。今だけは雅樹さんだって言ってさ?
俺とアンザイレンパートナーするって雅樹さんとの約束をね、身代わりになって叶えてくれたんだよ。そういうの本当は大嫌いな癖にね、」

北鎌尾根の物語は今日、英二からも改めて聴いている。
このことを光一も話そうとして口を開いた、その想いへ周太は心を傾けた。

「アイツって怖いくらいプライドが高いんだよ、だから山のことも救助隊のことも絶対に負けたくなくって、あんなに努力できるんだ。
周太には絶対服従の英二だけどね、ホントは誇り高い分だけキレたら怖い男でもあるんだ。だから誰かの身代わりとか本当は大嫌いだね。
それでも北鎌尾根でアイツ、雅樹さんの身代わりをしてくれたんだ。それって雅樹さんのこと認めて好きだから出来る、ソレが嬉しかった、」

嬉しかった、そう言った雪白の貌が幸せほころんだ。
透けるよう明るい瞳は微笑んで、綺麗なテノールは言ってくれた。

「あいつは雅樹さんじゃない、でも雅樹さんを好きになったアイツなら俺も本気になれるかも?そう想ったんだ、だから惚れたよ?
でも、惚れてもダメなもんはダメだね。そんなに俺は器用じゃない、やっぱり雅樹さんだけだ。なのにヤらなきゃ解んなくってごめん、」

率直な言葉で笑ってくれる、その長い睫から光こぼれていく。
綺麗な明るい笑顔で泣いてくれる、この想いごと受け留めたくて周太は腕を伸ばした。

「ごめんなんて要らない、光一こそ謝らないで?」

笑いかける言葉ごと見つめて、広やかな肩を抱きしめる。
白いカットソーの肩はふるえている、それでも底抜けに明るい目は笑ってくれた。

「だね、ありがとうって言うトコだよね?君のお蔭で俺、気づけたんだからさ。雅樹さんのこと俺、あいつと君のお蔭で気づけたよ?」

明るい瞳は涙ひとつまた零す。
ルームライトに長い睫の雫きらめいて、雪白の貌は幸せに微笑んだ。

「雅樹さんの体はもう帰ってこない、もう墓の下に骨になって眠ってるよ、でも心は眠ってなんかいないね?ずっと俺の傍にいる。
ガキの頃と同じよう俺を抱きしめて、いつも一緒に泣いて笑ってくれてる。ずっとアンザイレンパートナーして、ずっと恋して愛してる、」

恋して愛して、そう告げた無垢の瞳が笑ってくれる。
きれいな瞳のままで周太を真直ぐ見つめ、透明な声は歌うよう真実を告げた。

「ドリアード、君は雅樹さんと俺より先に出逢ったね?でも雅樹さんが本気で恋愛した相手は、俺だけだよ?俺が生まれた瞬間からだよ、
俺が生まれて最初に恋して愛してくれたんだ、俺だって同じだね。キスも何もかも全部お互いが初めての相手同士で、独り占めしあってる。
そんなの一生変えられっこない、体が消えたって心まで消せないね、姿が見えなくても触れなくっても変んない、ずっと両想いで大好きだ、」

誇らかで明るい宣言は、幸福なままに笑ってくれる。
明るく幸せな分だけ綺麗で切なくて、無垢なままに愛おしい。
この笑顔をずっと護ってあげたい、そう願う祝福のまま祈りに微笑んだ。

「雅樹さんも同じように光一のこと想ってるよ、唯ひとりだけ、ずっと想ってる。だから幸せに笑っていてね?」

それが雅樹の真実、そう自分には解るから偽れない。
本当は亡くなった人を想い続けることなく、新しい恋愛を探す方が楽だろう。
それでも、唯ひとりに出逢ってしまったのなら他なんて探せない。それは自分も同じだから解かる。

…雅樹さん、あなたもなんでしょう?いちばん近くにいて護りたくて、ずっと傍で見つめていたい…幸せになってって、

唯ひとり恋して愛したら、ただ幸せな笑顔を祈りたい。
それ以外なんて自分も解らない、そのシンプルな願いのまま抱きしめた幼馴染は微笑んだ。

「ありがと、やっぱり君はあの山桜のドリアードだね?雅樹さんを生き帰らせるとかしなくてもね、君はあの山桜だよ、」

綺麗なテノールで笑ってくれる、その瞳は底抜けに明るくて幸せが温かい。
こんな瞳で笑える心は切ない、それでも一緒に明るく笑って周太は応えた。

「ん、頼りないドリアードでかっこ悪いけど、ごめんね?」
「そんなことない、最高だよ?」

大らかな笑顔ほころばせ腕をほどくと、白い手は周太の頬を拭ってくれた。
周太も雪白の頬に掌伸ばして拭いながら、今、すべきことに微笑んだ。

「ね、救急法のこと教えて?止血帯の細かい注意点とかチェックしてほしいんだ、出来るだけ短時間で処置するコツとか知りたい、」

ベッドに座りこんだ傍ら、置いたままのファイルを周太は開いた。
このファイルは英二が作ってくれた、これに現場が豊富な光一の経験も生かさせて欲しい。
そう想う隣から光一も覗きこんでくれる、その眼差しは涙の気配なく真剣に強靭で頼もしい。

…こんな貌が出来るんなら光一は大丈夫だね、きっと英二と支え合える、

いま隣に座る横顔に安堵して、そして唯ひとりの笑顔を想ってしまう。
もう光一と英二が恋愛に寄添うことは無いのだろう、それでも二人の信頼関係は変わっていない。
その繋がりを信じて自分の支えにさせてほしい、そして迷い1つまた消して「死線」での勇気に変えたい。
こういう想いを29年前、同じよう父も抱きながら明日を見つめたのだろうか?

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky…
So be it when I shall grow old Or let me die…
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

私の心は弾む 空わたす虹を見るとき…
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を…
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを

別名を「虹」と呼ばれる父の愛誦詩が、今もまた心めぐって降りつもる。
いま自分は父も居た場所で夜を過ごす、その隣には幼馴染が笑ってくれる。
同じように父も同期の安本と過ごしていたのだろう、けれど「虹」への想いは違う?

…お父さん、今の俺と同じ時には学者になろうって信じていたの?それとも違ってた?

虹は空へ七彩に輝いて、この心ごと祈り見惚れる。
けれど掴もうとすれば水の粒子を手は通りぬけ、ふれることは決して出来ない。
それでも見つめて心響かすことが出来る、その道程に願いは叶うのだと信じて今、自分はここに居る。

だから父の想いも信じている、きっと父は「虹」に触れられなくても見つめる事は諦めなかった。
だからこそ大切にしていた本も惜しまず母校に納めて「虹」追う同朋の羅針盤にしたいと願った。
その願いはきっと仏文学者だった祖父も同じだろう、そう想う心と未解の事実が再び問いかける。
大学図書館に収蔵された『La chronique de la maison』祖父の遺作小説、あの見開きが問う。

“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る

ブルーブラックが記す祖父のサインに添えられた、短い詞書。
あの5つの単語から祖父は「何」を探し物と言い、誰を「君」と呼んでいる?

…お祖父さんが「君」って呼ぶなら身近な息子のことかもしれない、でも、そうだとしたらあの本は、

もしも「君」が父だとしたら、あの本の元の持主は誰なのか?
その推察にまた謎が生まれて、また新たな「過去の理由」を探しだす。
もし自分が想う人物が元の持主ならば、なぜ祖父の著作を手離したのだろう?

「周太、そろそろ説明始めてイイ?」

思考の廻りに声かけられて、周太は隣を振り向いた。
隣の胡坐姿は不思議そうに見つめてくれる、その貌に明るく微笑んだ。

「ん、お願いします、」

祖父のメッセージは気に懸る、けれど今すべき優先順位を守りたい。
その意志に周太は集中力と笑いかけ、膝のファイルに視線を向けた。
目と聴覚は知識を追いかけて、けれど心には一節が静かに響きゆく。

“ an unending dialogue between the present and the past ”

父、祖父、その過去との対話は現在の自分に、大切な灯を渡してくれる。
それは学舎に辿り着かす英知の塔火、虹を見失わない朗々と澄んだ思考の瞳。
その全てを息子の自分に継がせていくことが父と祖父の祈り、意志、そう信じている。







【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』第1章 The Historian and His Facts】
【引用詩:William Wordsworth「My Heart Leaps Up」】

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