開かれた扉、既に風は

第59話 発嵐act.2―another,side story「陽はまた昇る」
デスクライトを点けて椅子に座りこむと、ふっと肩の力がほどけた。
まだ濡れている髪をタオルで拭きながら、携帯電話を開いて見る。
その画面に受信メール3通を確認して、ひとつめを開封した。
「あ、美代さん、」
送信人名に大好きな友達を見て、嬉しくて周太は微笑んだ。
いつもどおり受験勉強についての質問と、勤め先のJAで見かけた新種のトマトを写メールしてくれた。
前と何も変わらない美代の便りにほっとする、質問の回答とトマトの感想を返事して次のメールを周太は開いた。
From :手塚賢弥
subject:来週末の講義
本 文 :おつかれさま、来週の講義に出席するなら昼飯一緒させてもらって良い?
ちょっと面白い論文を読んだんだけどさ、湯原の意見を聴かせてほしいんだ。
「…どんな論文かな?」
ひとりごと呟いて来週が楽しみになる、けれど約束は本当は難しい。
来週には新隊員訓練期間も終わり、内定されている銃器対策レンジャーに就く。
そこでも大学への通学許可は認められている事を今日も聴いた、それを今は信じるしかない。
もう大学の聴講日程も異動の時に提出してある、それに合わせたシフトとなるだろうけれど、きっと自由は減る。
…しばらくは一緒に飲むのとか難しいだろうな…この間は一緒出来て、本当に良かった、
手塚と夜通し飲んだことは、本当に愉しかった。
植物学の話から将来の進路、恋愛の話、世界中の森林についても話した。
ときおりは互いに興味ある本やWEBの記事に集中する、屈託ない気楽な沈黙もあった。
そしてまた話したくなると互いに話し出す、そういう間合いも快くて自然に寛いでいた。
そうして明けた朝にはもう、同じ道を歩いていく友人同士の静かで明るい紐帯が互いを結んだ。
「俺、再来年は大学院に進むけどさ。湯原も来ないか?聴講生でこれだけ出来るんだ、研究者にならないのは勿体ないって思う、」
トーストとコーヒーの朝食を摂りながら、そう手塚は言ってくれた。
同じ夢を目指す友達が才能を認めてくれる、それが嬉しくて自信になっていく。
嬉しくて言葉ごと友人を見つめる周太に、明朗な笑顔は具体的な提案を示してくれた。
「7月が出願で8月が試験だ、今からなら来年の入試まで1年あるだろ?学費も貯められるし、試験対策も出来るよ、」
「ん、…出来るね?」
答えながら「出来る」と可能性が肚から明るく笑った。
もう自分は七機へ異動して父の軌跡「死線」に立つ、それでも再来年を夢見る資格はある?
そんな迷いも当然にあった、父の記憶を辿る進路が一年半で終わる保証はどこにもない。
それでも明朗で真摯な手塚の眼差しに、希望と未来を信じてもう頷いていた。
「ん、俺も進学を目指してみるよ?再来年に入れるか解からないけど、手塚と同じ場所に俺も行くね、」
言ってしまった約束は、心の底から明日の向こう側へと希望を灯し、今も明るい。
あの朝は孤独と痛みも抱きこんだ、北壁を終えた英二と光一の時間に本当は不安を抱いていた。
二人が絆を深めていくことを自分だって望んだくせに、我儘な心は「寂しい」と孤独に泣いてしまう。
もう二人の世界から自分は不要になっていく?そんな不安に囚われそうな心を何とか自由にしたいと祈っていた。
けれど友人の言葉が示した新しい視野が、自分を連れ出し微笑んだ。
…手塚が進学を言ってくれたことが本当に嬉しかったんだ、同じ夢の才能ある人に認められるのって嬉しい、
もちろん英二が大学院進学を勧めてくれた事は嬉しい、そこに伴侶の深い愛情があることが幸せになる。
それでも自分は男として才能から認められることは大きな喜びで、この誇らかな幸福が温かい。
この初めて知った「才能に認められる」幸福に、英二が光一に寄せる想いが理解できる。
…光一に認められること英二は、本当に嬉しいって解る…しかも光一は英二にとって先生で、憧れでもあるから、
英二にとっての光一は、周太にとっての青木樹医と手塚を足した存在でもある。
そこには花屋の女主人への憧憬も加わるだろう、そういう存在を深く想わない人などいるだろうか?
そんな理解に深い納得が心で頷いて、あの朝から静かな気持で英二と光一の現実を見つめられている。
それでも英二との再会はどこか怯えがあるのは、自分の依存心の所為かもしれない。
…本当に俺って甘えん坊だよね?早く大人にならないとって焦ってたけど、ずいぶん手塚の言葉で救われたんだ、
何げなく手塚が言ってくれた、たくさんの言葉と率直な想い。
その全てが愉しくて嬉しくて、明けた朝には自分の中でたくさんの明るい光が起きていた。
あんなふうに話せる時間がまた持てるといい、そんな希望に微笑んで周太は返信を送った。
そして3通目を開封して、待っていた人の名前に幸せな想い笑いかけた。
「英二、」
From :宮田英二
subject:初日
本 文 :おつかれさま、周太。ちゃんと飯は全部食べられた?
疲れ過ぎると食欲落ちるだろうけど、出来るだけ食ってくれな?
最初はきついこと多いだろうけど、俺には話してくれると嬉しいよ。21時半ごろ今夜は電話させて。
体調の気遣い方が、山岳レスキューの前線に立つ英二らしい。
山では「シャリバテ」と言って食事を摂らずエネルギー不足に陥ることがある。
それを今の周太に心配してメールでも書いてくれた、こんな配慮も嬉しくて、瞳の奥から熱がこぼれた。
「…ありがとう、英二、」
泣き虫の素顔が戻されて、素直に涙こぼれてしまう。
ずっと周太には優しい英二、その笑顔に本当は逢いたくて仕方ない。
逢たい、けれど反面、本当は英二と逢うことが怖くて、電話を繋ぐことすら怖い。
…光一と体ごと恋人になった英二と、向きあうのが怖い…ね、
ここに入寮してすぐ、部屋の前で光一と会えた。
お互いに挨拶して昼食を急いで摂り、そのまま新入隊員訓練に参加している。
けれど話をする時間はまだ無くて、夕食と風呂の時も一緒にはなれなかった。
…たぶん前任の小隊長とミーティングがあるんだろうな、
訓練の後、光一は呼びだされて別行動になっている。
その後はまだ姿を見ていない、それくらい光一の立場は多忙だろうと察しがつく。
この1ケ月で指揮官の引継ぎをすることは容易くない、幼馴染の立場を想いながら周太は婚約者へメールを書いた。
T o :宮田英二
subject:Re:おつかれさま
本 文 :英二も初日おつかれさまです、気疲れもたくさんしたでしょう?
ちゃんと俺は食事も摂れています、心配しないでね。でも光一は忙しそうです。
疲れていると思うから先に電話してあげて、話したい事たくさんあると思う。俺の時間は気にしないで良いからね、
「ん、俺は大丈夫、」
ひとりごと微笑んで、送信ボタンを押す。
すぐに送信完了と表示された画面に微笑んで、そっと携帯電話を閉じるとノックが聞えた。
…光一?
たぶんそうだろう、予想と静かに扉を開くと長身が立っていた。
昼間は軽くセットしていた髪も今は洗われて普段どおりになっている。
もう素に戻った姿のまま光一は、すこし困ったようでも素直に微笑んだ。
「こんばんは、湯原くん。お邪魔してイイ?」
「ん、はい、」
頷いた周太に笑いかけ、白いカットソー姿が入ってくれる。
擦違う横顔は前よりも透明感が綺麗、そんな印象に見惚れてしまう。
この変化に悟りながら扉にきちんと施錠すると、困り顔の幼馴染に額を小突かれた。
「ほら、周太?ちゃんと相手が誰か、確かめてから扉を開けないとダメだろ?英二にも無防備すぎるって、注意されてたんじゃない?」
「あ…ごめんなさい、」
そう言えばそうだった、あんなにも英二に釘刺されていたのに?
釘刺された夜の記憶に首筋から熱が昇りだす、こんな子供っぽい自分に困りながら周太は微笑んだ。
「次から気をつけます、だから来るときはメールとか先にもらえる?」
「それ良い考えだね、明日からそうするよ、」
気楽に笑って、けれど光一は立ったままでいる。
どこか所在無げな空気に気がついて周太は、幼馴染へと笑いかけた。
「良かったらベッドに座って?話していってくれるんでしょ、」
「うん、」
ほっと安堵ほころばせ、秀麗な顔が笑ってくれた。
長身をベッドに腰降ろしてくれる、その隣に周太も座ると笑いかけた。
「やっぱり綺麗になったね…北壁と英二のお蔭って思っていい?」
マッターホルンとアイガー、ふたつの北壁で光一は記録を作った。
ふたつ夢を叶えた充足感と、大切な人と新しい繋がりを結べた幸福感。
そんな輝きを目の前に見ればやっぱり嬉しい、この祝福に笑った前で透明な瞳が微笑んだ。
「うん、いいよ。北壁で俺ね、いろいろ気が付けたんだ。それで俺、英二に…っ、」
言いかけた雪白の貌を、ひとすじ涙こぼれていく。
この涙でもう全てが分かる、微笑んで周太は幼馴染の肩を抱きしめた。
「ん、無理に話さなくて大丈夫…ふたりが幸せなら良いから、」
「ありがと、ね…ごめんね、」
テノールの声が涙を呑んで、そっと周太を抱きしめてくれる。
ふれる水仙と似た香は変わらず透明で、あまい清らかな気配に優しい。
いつも大らかで明るい光一、けれど今はただ心あふれさせるまま座りこんでいる。
ずっと堪えていた感情を体ごと抱きとめて、周太は広やかな背をさすりながら微笑んだ。
「ちょっと風に当たりに行かない?…自販機でなにか飲み物を買って、」
たぶん外で話す方が良い、そんな判断に笑いかけた隣で光一は頷いてくれる。
その頬の涙をそっと指で拭ってやると、周太は長身の幼馴染と一緒に廊下へ出た。
鍵を掛け、携帯電話をポケットに入れて歩いて行く。その道すがら何人もが光一に頭を下げる。
…山岳救助レンジャーの人たちかな、光一の部下ってことになるんだね、
光一と自分は同じ齢で、けれど年次は4年の差がある。
そして階級も2つ異なり立場も一般隊員と小隊長とで大きく違う。
同年でも指揮官として光一は責務を負う、その現実が廊下を歩いているだけで解かる。
それでも光一の底抜けに明るい目は、いつものよう愉しげに微笑んで会釈を返していく。
立場が変わっても動じない、そんな貫禄まぶしい横顔を見ながら自販機に立ち寄り、屋上に出た。
「やっぱり星の数が少ないね、」
笑ったテノールが仕方ないなあと笑っている。
その隣でフェンスに寄りかかり、ココアのプルリングを引くと光一が微笑んだ。
「屋上だなんて周太、盗み聞きを警戒してるね?」
言い当てられて、少し笑って見上げると透明な目が笑ってくれる。
ブラックコーヒーに口付け微笑んで、光一は訊いてくれた。
「なにか気付いたことがあるんだね?俺には話してくれるつもりで、ココに来たんだろ?」
「ん、」
短く頷いて冷たいココアを飲みこむ。
甘い香を一息に半分飲んで、周太は信頼する人を真直ぐ見つめた。
「新宿署長の異動が決ったんだ、」
告げた言葉を透明な目は、いつもの微笑で受けとめる。
そしてテノールの声も普段通りに尋ねてくれた。
「そうらしいね、今朝の発令で見たよ?周太はいつ知ったワケ?」
「今朝のあいさつ回りで知ったんだ、理由は体調不良らしいね…俺の異動と関係あるんでしょ?」
何か知っているでしょう?
英二といつも一緒にいた光一なら、何があったのか知っているはず。
それを話してほしい、そう見つめた先で透明な瞳に自分の姿が映る。
昏い屋上にも水鏡のよう煌めく瞳と向合って、周太は穏やかに続けた。
「あの署長にね、父を知ってるって卒配の初日に言われたけど、あまり親しくは無いと思う…俺に兄弟はいないのか確認してきたから。
所轄の署長なら履歴書とか見ているはずだよね?人事ファイルも見てるはずなのに訊くって変でしょう?…まるで隠してるって疑うみたい、」
話しながら見つめる先、透明な目は真直ぐ周太に向けられる。
きちんと受けとめてくれている、その眼差しに自分の疑問を問いかけた。
「たぶん父と似た誰かを署長は見た事があるから、2度も兄弟が居ないか訊いたんだ…その誰かって、俺は1人しか考えられない。
その誰かに何かされたから、署長は体調を壊したんじゃないのかなって思うんだ…そのチャンスが思い当たる時が一度だけあるよ?」
言葉を切って見つめた雪白の貌は、さっきと同じに微笑む。
すこし首傾げるような瞳に「それは?」と問いかけられて、周太は口を開いた。
「俺が英二のおばあさまと会った翌日だよ、俺を新宿まで車で送ってくれた。あのとき英二は何時に青梅署の寮に戻ったか、教えて?」
「あいつのアリバイを疑ってるんだ?」
さらり訊き返したテノールに頷く、その先で透明な瞳が微笑んだ。
いつもの明るい眼差しのまま光一は答えてくれた。
「あいつね、君を送った後すぐ俺に電話してきたよ、」
「電話を?」
問い返して考えてしまう、なぜ英二は電話をしたのだろう?
その疑念に透明な声は、可笑しそうに続けてくれた。
「周太と離れて寂しくなっちゃったみたいでさ?携帯にイヤホン繋いで運転しながら、ずっと青梅に帰るまで喋ってたね。
まあ、次の週が講習会で遠征訓練もあったから、その打合せする時間が惜しかったってのもあるケドさ。仕事の話してたよ、」
今思えばあの時、英二は忙しい時だった。
その現実を考えれば光一の言葉に齟齬はない、ほっと溜息を周太は吐いた。
「俺ね、出来るだけ英二には危ないこと、してほしくないんだ…山ヤとして、レスキューとして頑張ることだけ考えてほしい。
だから英二には、俺より光一を見ていてほしいんだ。俺よりも優先する人がいたら英二、俺のために危ないことしなくなるから、」
どうか俺の為に犠牲になろうとしないで?
この意志を光一に伝えたかった、そして英二に光一から話してほしい。
そんな願いごと微笑んだ周太に、光一はゆっくり首を振った。
「周太、それは無理だよ?あいつが帰る場所は君だね、帰る場所を護りたいのは当然だろ?」
「だから光一を一番にしてほしくって、夜のことしてって言ったんだ、」
すぐ答えて見上げた周太に、無垢の瞳がすこし大きくなる。
凝っと周太を見つめて、ふっと微笑んで光一は言ってくれた。
「それは俺から御免こうりたいね。俺はあいつのパートナーだ、自由に出掛ける相手だよ?帰りを待つとか無理なコトだね。
なによりね、俺にだって帰りたい場所があるんだ。あいつが帰る場所になんざなりたくないね、コレって何回ヤっても変わんないよ、」
自由に出掛ける相手だから、帰りを待てない。
そう告げてくれる言葉に英二の心を伝えてくれる、その全てが温かい。
けれど温かいほどに今は傷んでいく、この傷み微笑んで有能な幼馴染に「現実」を告げた。
「署長がそんなでしょ?きっと俺は新宿で見張られてたと思う…引越すとき寮の部屋を調べたら盗聴器とか無かったけど、解からない。
ここでも居る間ずっと俺のこと、観察すると思うんだ…だからね、この寮でも込み入った話は俺の部屋ではしないほうが良いと思って、」
これが自分の今ある現実、それを光一に知ってほしい。
きっと親しいと警察組織に知られたら何らかのリスクが生まれるだろう、だから今も屋上に光一を連れてきた。
この自分の意図に光一なら気付いてくれる、信頼と笑いかけた周太に底抜けに明るい目が笑って頷いた。
「なるほどね、ここに周太と俺が今来たのって皆に見られたけどさ、先輩が後輩に指導するって思われるためってワケ?」
「ん、そのとおりだよ?…俺と親しいって知られるとね、きっと見張られることになるから、」
光一と英二から「彼」の目を逸らせたい。
この現実に呼吸ひとつして、周太は信じる人へ事実を告げた。
「光一たちが遠征訓練に行く前、俺は同じ人を2回見ているんだ。一度目は術科センターの射場、次は俺が昨日までいた交番でね。
その人は俺に気付かれていないって思ってるかもしれない、恰好もスーツ姿とポロシャツで雰囲気も変えていたけれど、間違いないよ?」
ブラックコーヒーの缶を持つ手が、すこしだけ動いた。
端正な貌が周太を見つめてくれる、その顔に笑いかけて周太は静かに続けた。
「姿勢の良いお爺さんだった、髪は真白でね…相当の御年だと思うよ?ご高齢で射場に来るのって、どういう人か解かるでしょ?」
もし「彼」が自分を見張る一人なら、この場所に立つ向こう訪れるものは?
問いかけた先、透明な瞳は周太を見つめたまま静かに微笑んだ。
「解かっていても逃げないんだね、周太。君は本当に強いね、」
「ん、強くなるよ、もっとね?」
もっと自分は強くなる、そう微笑んだ頬を夜風が撫でていく。

(to be continued)
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デスクライトを点けて椅子に座りこむと、ふっと肩の力がほどけた。
まだ濡れている髪をタオルで拭きながら、携帯電話を開いて見る。
その画面に受信メール3通を確認して、ひとつめを開封した。
「あ、美代さん、」
送信人名に大好きな友達を見て、嬉しくて周太は微笑んだ。
いつもどおり受験勉強についての質問と、勤め先のJAで見かけた新種のトマトを写メールしてくれた。
前と何も変わらない美代の便りにほっとする、質問の回答とトマトの感想を返事して次のメールを周太は開いた。
From :手塚賢弥
subject:来週末の講義
本 文 :おつかれさま、来週の講義に出席するなら昼飯一緒させてもらって良い?
ちょっと面白い論文を読んだんだけどさ、湯原の意見を聴かせてほしいんだ。
「…どんな論文かな?」
ひとりごと呟いて来週が楽しみになる、けれど約束は本当は難しい。
来週には新隊員訓練期間も終わり、内定されている銃器対策レンジャーに就く。
そこでも大学への通学許可は認められている事を今日も聴いた、それを今は信じるしかない。
もう大学の聴講日程も異動の時に提出してある、それに合わせたシフトとなるだろうけれど、きっと自由は減る。
…しばらくは一緒に飲むのとか難しいだろうな…この間は一緒出来て、本当に良かった、
手塚と夜通し飲んだことは、本当に愉しかった。
植物学の話から将来の進路、恋愛の話、世界中の森林についても話した。
ときおりは互いに興味ある本やWEBの記事に集中する、屈託ない気楽な沈黙もあった。
そしてまた話したくなると互いに話し出す、そういう間合いも快くて自然に寛いでいた。
そうして明けた朝にはもう、同じ道を歩いていく友人同士の静かで明るい紐帯が互いを結んだ。
「俺、再来年は大学院に進むけどさ。湯原も来ないか?聴講生でこれだけ出来るんだ、研究者にならないのは勿体ないって思う、」
トーストとコーヒーの朝食を摂りながら、そう手塚は言ってくれた。
同じ夢を目指す友達が才能を認めてくれる、それが嬉しくて自信になっていく。
嬉しくて言葉ごと友人を見つめる周太に、明朗な笑顔は具体的な提案を示してくれた。
「7月が出願で8月が試験だ、今からなら来年の入試まで1年あるだろ?学費も貯められるし、試験対策も出来るよ、」
「ん、…出来るね?」
答えながら「出来る」と可能性が肚から明るく笑った。
もう自分は七機へ異動して父の軌跡「死線」に立つ、それでも再来年を夢見る資格はある?
そんな迷いも当然にあった、父の記憶を辿る進路が一年半で終わる保証はどこにもない。
それでも明朗で真摯な手塚の眼差しに、希望と未来を信じてもう頷いていた。
「ん、俺も進学を目指してみるよ?再来年に入れるか解からないけど、手塚と同じ場所に俺も行くね、」
言ってしまった約束は、心の底から明日の向こう側へと希望を灯し、今も明るい。
あの朝は孤独と痛みも抱きこんだ、北壁を終えた英二と光一の時間に本当は不安を抱いていた。
二人が絆を深めていくことを自分だって望んだくせに、我儘な心は「寂しい」と孤独に泣いてしまう。
もう二人の世界から自分は不要になっていく?そんな不安に囚われそうな心を何とか自由にしたいと祈っていた。
けれど友人の言葉が示した新しい視野が、自分を連れ出し微笑んだ。
…手塚が進学を言ってくれたことが本当に嬉しかったんだ、同じ夢の才能ある人に認められるのって嬉しい、
もちろん英二が大学院進学を勧めてくれた事は嬉しい、そこに伴侶の深い愛情があることが幸せになる。
それでも自分は男として才能から認められることは大きな喜びで、この誇らかな幸福が温かい。
この初めて知った「才能に認められる」幸福に、英二が光一に寄せる想いが理解できる。
…光一に認められること英二は、本当に嬉しいって解る…しかも光一は英二にとって先生で、憧れでもあるから、
英二にとっての光一は、周太にとっての青木樹医と手塚を足した存在でもある。
そこには花屋の女主人への憧憬も加わるだろう、そういう存在を深く想わない人などいるだろうか?
そんな理解に深い納得が心で頷いて、あの朝から静かな気持で英二と光一の現実を見つめられている。
それでも英二との再会はどこか怯えがあるのは、自分の依存心の所為かもしれない。
…本当に俺って甘えん坊だよね?早く大人にならないとって焦ってたけど、ずいぶん手塚の言葉で救われたんだ、
何げなく手塚が言ってくれた、たくさんの言葉と率直な想い。
その全てが愉しくて嬉しくて、明けた朝には自分の中でたくさんの明るい光が起きていた。
あんなふうに話せる時間がまた持てるといい、そんな希望に微笑んで周太は返信を送った。
そして3通目を開封して、待っていた人の名前に幸せな想い笑いかけた。
「英二、」
From :宮田英二
subject:初日
本 文 :おつかれさま、周太。ちゃんと飯は全部食べられた?
疲れ過ぎると食欲落ちるだろうけど、出来るだけ食ってくれな?
最初はきついこと多いだろうけど、俺には話してくれると嬉しいよ。21時半ごろ今夜は電話させて。
体調の気遣い方が、山岳レスキューの前線に立つ英二らしい。
山では「シャリバテ」と言って食事を摂らずエネルギー不足に陥ることがある。
それを今の周太に心配してメールでも書いてくれた、こんな配慮も嬉しくて、瞳の奥から熱がこぼれた。
「…ありがとう、英二、」
泣き虫の素顔が戻されて、素直に涙こぼれてしまう。
ずっと周太には優しい英二、その笑顔に本当は逢いたくて仕方ない。
逢たい、けれど反面、本当は英二と逢うことが怖くて、電話を繋ぐことすら怖い。
…光一と体ごと恋人になった英二と、向きあうのが怖い…ね、
ここに入寮してすぐ、部屋の前で光一と会えた。
お互いに挨拶して昼食を急いで摂り、そのまま新入隊員訓練に参加している。
けれど話をする時間はまだ無くて、夕食と風呂の時も一緒にはなれなかった。
…たぶん前任の小隊長とミーティングがあるんだろうな、
訓練の後、光一は呼びだされて別行動になっている。
その後はまだ姿を見ていない、それくらい光一の立場は多忙だろうと察しがつく。
この1ケ月で指揮官の引継ぎをすることは容易くない、幼馴染の立場を想いながら周太は婚約者へメールを書いた。
T o :宮田英二
subject:Re:おつかれさま
本 文 :英二も初日おつかれさまです、気疲れもたくさんしたでしょう?
ちゃんと俺は食事も摂れています、心配しないでね。でも光一は忙しそうです。
疲れていると思うから先に電話してあげて、話したい事たくさんあると思う。俺の時間は気にしないで良いからね、
「ん、俺は大丈夫、」
ひとりごと微笑んで、送信ボタンを押す。
すぐに送信完了と表示された画面に微笑んで、そっと携帯電話を閉じるとノックが聞えた。
…光一?
たぶんそうだろう、予想と静かに扉を開くと長身が立っていた。
昼間は軽くセットしていた髪も今は洗われて普段どおりになっている。
もう素に戻った姿のまま光一は、すこし困ったようでも素直に微笑んだ。
「こんばんは、湯原くん。お邪魔してイイ?」
「ん、はい、」
頷いた周太に笑いかけ、白いカットソー姿が入ってくれる。
擦違う横顔は前よりも透明感が綺麗、そんな印象に見惚れてしまう。
この変化に悟りながら扉にきちんと施錠すると、困り顔の幼馴染に額を小突かれた。
「ほら、周太?ちゃんと相手が誰か、確かめてから扉を開けないとダメだろ?英二にも無防備すぎるって、注意されてたんじゃない?」
「あ…ごめんなさい、」
そう言えばそうだった、あんなにも英二に釘刺されていたのに?
釘刺された夜の記憶に首筋から熱が昇りだす、こんな子供っぽい自分に困りながら周太は微笑んだ。
「次から気をつけます、だから来るときはメールとか先にもらえる?」
「それ良い考えだね、明日からそうするよ、」
気楽に笑って、けれど光一は立ったままでいる。
どこか所在無げな空気に気がついて周太は、幼馴染へと笑いかけた。
「良かったらベッドに座って?話していってくれるんでしょ、」
「うん、」
ほっと安堵ほころばせ、秀麗な顔が笑ってくれた。
長身をベッドに腰降ろしてくれる、その隣に周太も座ると笑いかけた。
「やっぱり綺麗になったね…北壁と英二のお蔭って思っていい?」
マッターホルンとアイガー、ふたつの北壁で光一は記録を作った。
ふたつ夢を叶えた充足感と、大切な人と新しい繋がりを結べた幸福感。
そんな輝きを目の前に見ればやっぱり嬉しい、この祝福に笑った前で透明な瞳が微笑んだ。
「うん、いいよ。北壁で俺ね、いろいろ気が付けたんだ。それで俺、英二に…っ、」
言いかけた雪白の貌を、ひとすじ涙こぼれていく。
この涙でもう全てが分かる、微笑んで周太は幼馴染の肩を抱きしめた。
「ん、無理に話さなくて大丈夫…ふたりが幸せなら良いから、」
「ありがと、ね…ごめんね、」
テノールの声が涙を呑んで、そっと周太を抱きしめてくれる。
ふれる水仙と似た香は変わらず透明で、あまい清らかな気配に優しい。
いつも大らかで明るい光一、けれど今はただ心あふれさせるまま座りこんでいる。
ずっと堪えていた感情を体ごと抱きとめて、周太は広やかな背をさすりながら微笑んだ。
「ちょっと風に当たりに行かない?…自販機でなにか飲み物を買って、」
たぶん外で話す方が良い、そんな判断に笑いかけた隣で光一は頷いてくれる。
その頬の涙をそっと指で拭ってやると、周太は長身の幼馴染と一緒に廊下へ出た。
鍵を掛け、携帯電話をポケットに入れて歩いて行く。その道すがら何人もが光一に頭を下げる。
…山岳救助レンジャーの人たちかな、光一の部下ってことになるんだね、
光一と自分は同じ齢で、けれど年次は4年の差がある。
そして階級も2つ異なり立場も一般隊員と小隊長とで大きく違う。
同年でも指揮官として光一は責務を負う、その現実が廊下を歩いているだけで解かる。
それでも光一の底抜けに明るい目は、いつものよう愉しげに微笑んで会釈を返していく。
立場が変わっても動じない、そんな貫禄まぶしい横顔を見ながら自販機に立ち寄り、屋上に出た。
「やっぱり星の数が少ないね、」
笑ったテノールが仕方ないなあと笑っている。
その隣でフェンスに寄りかかり、ココアのプルリングを引くと光一が微笑んだ。
「屋上だなんて周太、盗み聞きを警戒してるね?」
言い当てられて、少し笑って見上げると透明な目が笑ってくれる。
ブラックコーヒーに口付け微笑んで、光一は訊いてくれた。
「なにか気付いたことがあるんだね?俺には話してくれるつもりで、ココに来たんだろ?」
「ん、」
短く頷いて冷たいココアを飲みこむ。
甘い香を一息に半分飲んで、周太は信頼する人を真直ぐ見つめた。
「新宿署長の異動が決ったんだ、」
告げた言葉を透明な目は、いつもの微笑で受けとめる。
そしてテノールの声も普段通りに尋ねてくれた。
「そうらしいね、今朝の発令で見たよ?周太はいつ知ったワケ?」
「今朝のあいさつ回りで知ったんだ、理由は体調不良らしいね…俺の異動と関係あるんでしょ?」
何か知っているでしょう?
英二といつも一緒にいた光一なら、何があったのか知っているはず。
それを話してほしい、そう見つめた先で透明な瞳に自分の姿が映る。
昏い屋上にも水鏡のよう煌めく瞳と向合って、周太は穏やかに続けた。
「あの署長にね、父を知ってるって卒配の初日に言われたけど、あまり親しくは無いと思う…俺に兄弟はいないのか確認してきたから。
所轄の署長なら履歴書とか見ているはずだよね?人事ファイルも見てるはずなのに訊くって変でしょう?…まるで隠してるって疑うみたい、」
話しながら見つめる先、透明な目は真直ぐ周太に向けられる。
きちんと受けとめてくれている、その眼差しに自分の疑問を問いかけた。
「たぶん父と似た誰かを署長は見た事があるから、2度も兄弟が居ないか訊いたんだ…その誰かって、俺は1人しか考えられない。
その誰かに何かされたから、署長は体調を壊したんじゃないのかなって思うんだ…そのチャンスが思い当たる時が一度だけあるよ?」
言葉を切って見つめた雪白の貌は、さっきと同じに微笑む。
すこし首傾げるような瞳に「それは?」と問いかけられて、周太は口を開いた。
「俺が英二のおばあさまと会った翌日だよ、俺を新宿まで車で送ってくれた。あのとき英二は何時に青梅署の寮に戻ったか、教えて?」
「あいつのアリバイを疑ってるんだ?」
さらり訊き返したテノールに頷く、その先で透明な瞳が微笑んだ。
いつもの明るい眼差しのまま光一は答えてくれた。
「あいつね、君を送った後すぐ俺に電話してきたよ、」
「電話を?」
問い返して考えてしまう、なぜ英二は電話をしたのだろう?
その疑念に透明な声は、可笑しそうに続けてくれた。
「周太と離れて寂しくなっちゃったみたいでさ?携帯にイヤホン繋いで運転しながら、ずっと青梅に帰るまで喋ってたね。
まあ、次の週が講習会で遠征訓練もあったから、その打合せする時間が惜しかったってのもあるケドさ。仕事の話してたよ、」
今思えばあの時、英二は忙しい時だった。
その現実を考えれば光一の言葉に齟齬はない、ほっと溜息を周太は吐いた。
「俺ね、出来るだけ英二には危ないこと、してほしくないんだ…山ヤとして、レスキューとして頑張ることだけ考えてほしい。
だから英二には、俺より光一を見ていてほしいんだ。俺よりも優先する人がいたら英二、俺のために危ないことしなくなるから、」
どうか俺の為に犠牲になろうとしないで?
この意志を光一に伝えたかった、そして英二に光一から話してほしい。
そんな願いごと微笑んだ周太に、光一はゆっくり首を振った。
「周太、それは無理だよ?あいつが帰る場所は君だね、帰る場所を護りたいのは当然だろ?」
「だから光一を一番にしてほしくって、夜のことしてって言ったんだ、」
すぐ答えて見上げた周太に、無垢の瞳がすこし大きくなる。
凝っと周太を見つめて、ふっと微笑んで光一は言ってくれた。
「それは俺から御免こうりたいね。俺はあいつのパートナーだ、自由に出掛ける相手だよ?帰りを待つとか無理なコトだね。
なによりね、俺にだって帰りたい場所があるんだ。あいつが帰る場所になんざなりたくないね、コレって何回ヤっても変わんないよ、」
自由に出掛ける相手だから、帰りを待てない。
そう告げてくれる言葉に英二の心を伝えてくれる、その全てが温かい。
けれど温かいほどに今は傷んでいく、この傷み微笑んで有能な幼馴染に「現実」を告げた。
「署長がそんなでしょ?きっと俺は新宿で見張られてたと思う…引越すとき寮の部屋を調べたら盗聴器とか無かったけど、解からない。
ここでも居る間ずっと俺のこと、観察すると思うんだ…だからね、この寮でも込み入った話は俺の部屋ではしないほうが良いと思って、」
これが自分の今ある現実、それを光一に知ってほしい。
きっと親しいと警察組織に知られたら何らかのリスクが生まれるだろう、だから今も屋上に光一を連れてきた。
この自分の意図に光一なら気付いてくれる、信頼と笑いかけた周太に底抜けに明るい目が笑って頷いた。
「なるほどね、ここに周太と俺が今来たのって皆に見られたけどさ、先輩が後輩に指導するって思われるためってワケ?」
「ん、そのとおりだよ?…俺と親しいって知られるとね、きっと見張られることになるから、」
光一と英二から「彼」の目を逸らせたい。
この現実に呼吸ひとつして、周太は信じる人へ事実を告げた。
「光一たちが遠征訓練に行く前、俺は同じ人を2回見ているんだ。一度目は術科センターの射場、次は俺が昨日までいた交番でね。
その人は俺に気付かれていないって思ってるかもしれない、恰好もスーツ姿とポロシャツで雰囲気も変えていたけれど、間違いないよ?」
ブラックコーヒーの缶を持つ手が、すこしだけ動いた。
端正な貌が周太を見つめてくれる、その顔に笑いかけて周太は静かに続けた。
「姿勢の良いお爺さんだった、髪は真白でね…相当の御年だと思うよ?ご高齢で射場に来るのって、どういう人か解かるでしょ?」
もし「彼」が自分を見張る一人なら、この場所に立つ向こう訪れるものは?
問いかけた先、透明な瞳は周太を見つめたまま静かに微笑んだ。
「解かっていても逃げないんだね、周太。君は本当に強いね、」
「ん、強くなるよ、もっとね?」
もっと自分は強くなる、そう微笑んだ頬を夜風が撫でていく。

(to be continued)
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