萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

雑談寓話:或るフィクション&ノンフィクション@御曹司譚348

2015-03-17 17:30:10 | 雑談寓話
人が一人いなくなった、それだけじゃ生活は意外と変わらない。
そんなことを御曹司クンと離れて少し想うようになった、その前は想えなかったけど。
それは「いなくなる」不在のタイプにも因るのかもしれない。
たぶん生別と死別、その差もすごく大きい。

たとえば幼馴染の子が亡くなったこと。
もう何年か経つけれど、その子の不在は生活どころか人生まるっと変えてしまった。
高校のあとは大学に行くことを元から決めてはいたけれど、その志望校はまったくもって変わった。
たとえば偏差値で言うなら20は上になった、その分だけ勉強時間は多くなってそのまま大学でも勉強は忙しかった。
あんなふうに勉強しまくることが楽しいなんて前は想わなかったし、その楽しさに亡くなった人の軌跡をたどれるようで嬉しかった。

亡くなってしまえばもう逢えない、けれど軌跡をたどることはできる。
いわゆる追体験というやつだろう、その軌跡は亡くなって途切れている、だけらいつか生きていた時間を超えてしまう。
それでも超えた先にある道は「If」だと想えるから救いになってくれた、そんな本音は本当は「If」そのひとが生きたはずの時間だからだ。

高校を卒業して、進学して、大学生になった「If」の時間。
その時間を自分が一緒に生きて歩いているツモリになることは、死なれて傷ばっくり裂けた居場所をすこし繕える。
そうして大学も卒業して社会人になる頃は他の人とつきあった時間もあって、それでも消えてしまった人の居場所は「繕えた」でしかない。
それは結局ホントのところで誰も代りなんていないと納得することだった、そうして二度と逢えない現実すこしずつ馴染みながら今がある。

でも御曹司クンの場合は生きている。

職場で毎日ずっと会って笑って仕事して、飯食ったり酒呑んだり、そんな毎日はもう終わって。
それでも御曹司クンは生きている、もうそこに自分との毎日は無くても他の誰かがいるだろう。
そう解っているから「If」を考えることもないのかもしれない、だって彼の時間は彼のものだ。

亡くなった人は、想いだすことでしか今に生かせない。
だけど生きている人は想いださなくても今を生きられる、だから自分が想いだす必要もない。

その人の時間を想いだすこと、ありうべき今を「If」に想うこと。
そこに生別と死別の差は大きいのかもしれない?

そんなこと考えることも御曹司クンに関しては少なくなっていった。
花サンと話すとき話題になるくらいで、あとは今の自分の職場や友達や、仕事に資格試験やらで日はあれこれ刻まれる。
そんなふうに初夏から夏になって秋になって、新しい職場や引越先の生活にもすっかり慣れて日々は楽しかった。

そのころには御曹司クンからメールも電話もなくなっていた。
あんなに毎日あった送信人名+着信名はいつの間にか消えて、履歴にすらもう出てこない。
そうして大半を忘れたまんまの生活で、それでも違和感とかなくフツーになっていた。

で、そんなある日いきなり城戸さん(仮名)と駅で再会した。

城戸さん=花サンの同期と結婚予定で、そして御曹司クンとXXX的なあれこれあった人。
そんな相手との再会だったから当然だけど、やっぱり御曹司クンのことリアルに想いだすことになった。

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