花、記憶、それから約束
花弔 The tide of hours ―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」
書類から上げた視線、窓が黄昏に紫染まる。
例年通りの桜の園遊会は何とか無事に終わった。
春の雪と嵐が多かった今年は、ようやく晴天の今日、桜の宴が集中してしまった。
東京中で花見が催され華やかな春の陽気が首都に満ちている。
幸せな光景だな、そんなふうに素直に想う。
けれど、そんなに一遍にイベントがあると警邏の人数が足りない。
警視庁の立場からしたら本当に困る、特にこの新宿の、あの公園の園遊会。
VIPばかりが集められる、そんな場の警邏は人選も難しい。
「誰か適当な人材を、寄越してくれないか」
警備部で射撃指導員をしている湯原に依頼した。
いちばん親しい同期で友人の湯原。温かくて、優しい穏やかな彼の気配が大好きで、ずっと親しくしている。
同じノンキャリアでも出世していく有能な男は眩しくて、けれど気さくなまま優しい彼は笑って答えてくれた。
「ん、大丈夫。ちょうど俺、非番だから予定が空いている」
そう言って彼自身が引き受けて、警邏の後は新宿署の射撃指導も提案してくれた。
一流である彼からの指導はありがたい、そんな厚意を示してくれる湯原が大好きだった。
そして警邏も射撃指導も無事に務めくれて、自分も報告書類を何通か書き上げ今日を過ごした。
そんな春の一日が終わり、休憩所でいつものベンチに並んで腰かけた。
「今日は本当に助かった、ありがとう」
笑って礼を言いながらココアの缶を手渡した先、綺麗な笑顔が受けとってくれる。
いつもながら綺麗な笑顔だな、そんな感想と見つめた湯原は穏やかに言ってくれた。
「いや、役に立てたなら嬉しいよ、」
笑顔で長い指がプルリングを引き、チョコレートの甘い香りがふっと昇って頬撫でる。
缶に唇つけて一口啜ると綺麗な切長い瞳がほころんで、そんな同期の貌になんだか嬉しくて笑いかけた。
「ココアばっかり飲むな、湯原は」
「ん、好きなんだよ」
鋭利で有能で温厚な湯原、けれど好みは何でも結構かわいい。
結婚式で会った彼の妻は黒目がちの瞳が印象的な、かわいい華奢な女性だった。
そして彼の胸ポケットには可愛い息子の笑顔を写真に納めてある、とても優秀で良い子だといつも話してくれた。
あのときも胸ポケットから手帳を出して、また写真を見せながら自慢話でもするのだろう?そう思った通り彼はページを開いた。
「これ、」
言いながら開いた手帳には可愛い笑顔の写真と、桜の花びらが3枚納められていた。
今日の昼間あの公園で、桜の園遊会に警邏で立ちながら見つけたのだろうか?
そんな推測と見つめた前に長い指は1枚つまみ差し出してくれた。
「花吹雪があったんだ。その時に掌にね、ちょうど3枚が乗った」
「なんだ、くれるのか?」
いわゆる武骨な自分に花をくれる?
それが意外で訊き返した隣、穏やかな声が頷き笑ってくれた。
「ん、きれいだろ?」
綺麗な切長い瞳を微笑ませ、花びら1枚この掌に載せてくれた。
残りの2枚はきっと妻と息子への土産にするのだろう。有能で武道も強い湯原、けれどこんなふうに可愛い所がある。
そんな男の優しい手土産が微笑ましくて、そこに籠る気遣いへ感謝が嬉しくて自分は笑いかけた。
「ありがとうな、おかげで今年の桜が見れたよ」
本当に今年の桜はこれが自分にとって最初、そして最後かもしれない。
この春は忙しくて桜をゆっくり見られそうにない、今日も報告書類の処理に追われ署から出られなかった。
湯原はそれを知っていて今こんなふうに桜を見せてくれる、そういう繊細な優しさがこの友人は深く温かい。
こういう所が和まされて好きだ、そんな想い微笑んで手帳に花びら一枚挟みこんだとき呼び出しが掛けられた。
自分と湯原、ふたり揃って呼ばれる事は久しぶりだった。
機動隊銃器対策レンジャー時代まではいつも一緒に呼ばれていた。
けれど新宿署と警備部と、配属が分かれてからは仕事で一緒になるのは久しぶりだった。
しょっちゅう会って飲んではいるけれど仕事で組める、それは事件現場であっても単純に嬉しかった。
暴力団員による強請、その通報だった。
犯人の一人は拳銃を持っていた、そして犯人は恐慌状態に陥っている。
恐慌状態の犯人は発砲の可能性が高く危険、そして犯人が逃げた先は雑踏の歌舞伎町だった。
「繁華街での発砲は危険だ、万が一は射殺も止むを得ない」
そう告げられて、射撃特練の自分と射撃オリンピック代表の湯原に発砲許可が下された。
繁華街での狙撃は間違えれば周囲に当たる、射撃の精度が問われる現場だった。
「単独での追跡はするなよ、」
新宿署を出るとき湯原に一言、釘刺した。
湯原は正義感が強くて足が速い、だからいつも現場へとあっという間に走っていってしまう。
被害者の事もその周囲の事も、そして犯人の事すらも放っておけない、そういう優しさが湯原にはある。
けれど拳銃所持者の追跡に単独行動は危険過ぎる、それでも湯原はきっと走ってしまうのだろう?
そんな危惧に釘刺したけれど、綺麗な切長い瞳はいつものよう笑った。
「ん。解っている。だから安本、追いついてくれ」
綺麗な笑顔ひとつ残して、湯原は全力疾走に駆けだしてしまった。
自分がいかなければ、救けなければ、そんなふうにいつも湯原は走って行ってしまう。
心やさしい湯原は絶対に人を放りだせない、誰かの為にいつだって全力で駆けつけて救ってしまう。
「追いつけって…あいつ、」
自分だって決して遅い方じゃない。
けれど警察学校時代からずば抜けて速いタイムで走っていた湯原。
全力で走られたら追いつけるわけがない、けれど仕方ない、そんな想いに制服の背中を見つめ走り続けた。
駈けてゆく視線の真中、活動服の背中が停まる。
北口へ抜けるガード下、歌舞伎町の雑踏より手前で湯原が立ち止まった。
繁華街へと入る前に犯人を捕捉したらしい、さすがだと思いながら早く援護射撃をしてやりたくて自分は走った。
けれど銃声一発、鼓膜の底を切り裂いた。
発砲したのか湯原?
きっと犯人の命も無事なポイントに適確な狙撃だろう。
そう思った視線の真中、けれど崩れ落ちたのは紺青色した制服の背中だった。
―嘘だ、
スローモーションのよう制服姿が倒れ込む、そして制帽が空を舞う。
こんな光景あるはずない、視ている光景に意識を呑まれて、それでも自分は駆けたらしい。
どうやって走ったのか覚えていない、けれど気がついた時には倒れた湯原の隣で跪いていた。
「湯原ぁっ、」
若い男が湯原の傍で泣いていた、その彼は拳銃を持ってはいない。
叫んで見上げた視線の先、もう赤いジャンパーの背中が遠ざかっていく。
たぶんあの男が犯人、捕まえなくてはいけない、けれどそれよりも倒れた湯原の介抱が先だ。
そう思って診た端正な顔は、息が止まっていた。
「湯原っ、起きろ!目を開けろっ、」
けれどまだ間に合う、きっと大丈夫。
信じて呼びかけ続け、圧迫止血をしながら腕と膝で気道確保を行う。
警察学校から学んだ応急処置は体を勝手に動かしてくれる、けれど意識は叫ぶ。
「湯原っ」
うそだ、嘘だ、湯原が死ぬなんて、絶対に無い。
まだ間に合う、きっと間に合う、諦めてなどやらない。
信じて叫んで見つめる真中で癖っ毛がゆれ、端正な貌は蒼白になってゆく。
「起きろっ、湯原おきろ、寝てる場合じゃないだろう?起きるんだっ!」
人工呼吸は本来はタオルや何かをはさむ。
けれど猶予が無くて湯原の唇にそのまま自分の唇を重ねた。
呼吸が止まっているなら一刻の時間も惜しい、人は心肺停止から3分で死んでしまう。
どうか起きてほしい、蘇えれ、そんな願いごと吹きこんだ2回の人工呼吸で切長い瞳が開いた。
「湯原っ、」
良かった、間に合った。
そんな安堵へ切長い瞳が微笑んで、少し厚い唇がゆっくり動いた。
「…や、すもと、」
いつもの落着いた穏やかな声、けれど掠れている。
それでも声がまた聴けた、嬉しくて自分は微笑んだ。
「もうじき救急車が来る、大丈夫だ」
「…ん、」
切長い瞳が見つめてくれる、瞳の光はいつものよう澄んでいた。
これだけ意識が清明なら大丈夫、きっと助かってくれる。
そんな願い見つめた先で湯原はゆっくり唇を開いた。
「やすもと、お願いだ…犯人を…救けてほしい、」
「解った、俺が救ける」
きっと湯原は助かる、助かってくれるに決まっている。
その為なら何でもいい、どんな願いも聴いてやりたい、そう願い安本は微笑んだ。
「生きて、償う…チャンスを与えてほしい、彼に、温かな心を…教えてほしい」
「解ったよ、俺が必ずそうしてみせる」
頷いた自分を真直ぐ見つめて切長い瞳が微笑んだ。
いつもの綺麗な笑顔、温かくて穏やかで少しだけ寂しい湯原の笑顔。
警察学校で出会った時から変わらない、この笑顔が大好きで友達になった。
大丈夫、こんなふうに笑ってくれるなら助かるだろう、それが嬉しくて約束を告げた。
「お前と一緒に、俺も彼に向き合うよ。約束だ、湯原」
笑いかけた視界の真中で嬉しそうに湯原は微笑んだ。
そして微笑んだ厚めの唇が、ぽつんと呟いた。
「…周太、…」
首を支えるよう抱えた腕の中で、がくんと癖っ毛の頭が崩れた。
「…湯原?」
切長い瞳は、睫の下に閉じている。
さっきまで笑っていた瞳、けれど睫が披かない。
こんなこと、嘘だ。
「湯原っ、」
嘘だ、だって今、笑っていたじゃないか。俺の目を見つめて、今、きれいな微笑みが。
信じたくなくて、そのまま唇を重ねて人工呼吸を施していく。
1回目の呼気に胸を押し、そして2回目、湯原の喉から鮮血が逆流した。
「ごほっ、…ごふっ、」
撃ち抜かれた肺から昇った血、それが喉を強打して咽かえらす。
それでも諦められなくて呼吸を吹きこんで、けれど2つの唇から鮮血が止まらない。
そして蒼白な頬を血潮あふれおち、噎せた飛沫からアスファルトに真赤な花が散った。
「…嘘だ、」
さっきは2回目で蘇ってくれた。
けれどもう、切長い瞳は笑ってくれない。
―どうして?
どうして、そんなはずあるわけがない
ずっと一緒に笑っていた、さっきも一緒にココアを飲んで笑っていた。
たった10分前までベンチで笑っていた、それなのに、こんな事があるわけがない。
警察学校で出会って、射撃特練に一緒に選ばれた。
それから新宿署に一緒に卒配されて、そのあと一緒に第七機動隊に配属された。
それから自分は新宿署へ湯原は警備部にと分れた、それでもこうして今日も一緒に任務についている。
ずっと、ずっと、一緒に歩いてきた。それなのに、なぜ、どうして?
救急車のサイレンが聞こえる。
どこからか桜の花びらが吹き寄せられて、湯原の頬に舞い降りた。
もう蒼白な貌は摩天楼の夜の底にまばゆい、その頬に深紅の花と白い花びら一片、ただそこにある。
「…約束、だな、」
ぽつり、呟きに血潮の香が意識を刺す。
さっきの約束を果たさなくてはいけない、自分は行かなくては。
そんな想いに意識が細められるまま、傍らの若い男に血だらけの口が頼んだ。
「…この男を、頼んでいいか」
泣きながら若い男は頷いてくれた。
それからと呟くよう唇が微笑んで、涙の紗を透かし男の目を覗きこんだ。
「君の事務所は、どこだ?」
彼は素直に口を開いてくれた。
その事務所は歌舞伎町でも奥の方、きっとまだ、犯人は辿りついていない。
そう思考がすばやく判断したまま立ち上がり、安本は走りだした。
不夜城のネオンが禍々しい。
ここで生みだされた暴力が、自分の友人を奪って逃げた。
絶対に許さない、絶対に追いついて、捕まえて、それから、
―殺してやる、
安っぽく着飾った人の群れ、互いを伺うような欲望の眼差し。
ただ歓楽を求めあう視線の交錯、原色の騒がしいネオンサイン。
それら全てが今、灰色の視界の底に沈んで見える。
―赦さない、絶対に、
吐く息が熱い、呼吸が乱れる。
唇から喉まで残る湯原の血の潮と香だけが、現実の感覚になっている。
どこだ、どこだ、どこに今、あの男はいる?
隠れても逃げても、絶対に探し出してそれから。
だって今それだけが、自分だけが生き残らされた理由になっている。
灰色の視界の中で、一か所、赤い色が見えた。
赤いジャンパー。
逃げる後姿、遠目に見えた、あの背中の色。
視認した瞬間、片手撃ちノンサイト射撃で安本は発砲した。
撃つぞ。
本当はそんな威嚇が必要だった。
けれどそんな余裕なんてない、絶対に逃がすものか、ただそれだけ。
けれど、唯ひとつだけが自分を止めた。
―犯人を救けてほしい
あの綺麗な眼差し、最後に見せてくれた綺麗な笑顔。
どんな怒りも悲しみも、あの笑顔だけは裏切れない。
殺してやる、死の恐怖におびえるがいい、血に塗れて這い蹲ってのたうちまわれ。
痛みの底で叫べばいい、苦しみに引き攣れて歪めばいい。
死んで、湯原に謝るがいい。
そう思ってトリガーを引いた、けれど照準は外される。
あの綺麗な微笑みが少しだけそっと、フロントサイトを押し下げてくれた。
そうして下げられた銃口から発砲された銃弾は、犯人の左足へと向かった。
左足に真赤に鮮血が飛び散って、赤いジャンバーの背中は道に倒れた。
本当は殺してやりたかった。
それでも自分の足許には、血塗れの脚を抱えた男は、生きている。
このまま放っておいたなら、きっとこの男は死ぬだろう。
流れだす血液、零れだす生命の熱、この全てが流れ出てしまったらこの男は死へと浚われる。
湯原のように。
けれど、
生きて償う機会を与えてほしい、彼に、温かな心を教えてほしい
お前と一緒に俺も彼に向き合うよ、約束だ、湯原
してしまった約束。
約束に縛られて、もう、この男を殺せない。
あのきれいな微笑みだけは、裏切ることなんか出来ない。
転がった男の拳銃をハンカチで拾い上げ、自分の手元にしまう。
それから衿元のネクタイを引き抜くと、犯人の左足付根を結束止血した。
動かす血塗れた手を怯えた目が見つめてくる、その物言いたげな唇は痛みに震え動けない。
いま怯えるこの男を本当は殺してやりたい、けれどもう約束をしてしまった。
―最期の約束だ、
大切な友人との最期の約束は、破れない。
この約束を護り続ける為に自分は生きるだろう、そんな願いを肚に落しこむ。
願いに瞑目して見開いて、定まった肚から安本は血塗れた唇のまま微笑んだ。
「大丈夫だ、私は君を必ず救けるから」
湯原と次に会えたのは、新宿署の検案所だった。
清められた顔にはもう血の痕はない、けれど真白になった頬が生命の不在を示して、苦しい。
もしも今日、俺が、警邏の依頼をしていなかったなら?
もしもさっき、俺が湯原に追いついて、援護射撃が出来ていたのなら。
たくさんの「もしも」が廻ってしまう。
ただ見つめたままめぐる想いに竦んで、今はもう、何も考えられない。
そんな想いのまま手は動き遺品の手帳を開き、息を呑んだ。
「…っ、」
鮮血滲んだページの間では、可愛い少年の笑顔の写真が銃痕に裂かれていた。
『ほんとに優しいんだよ、周太は。いつも庭木を可愛がってくれるんだ、』
いつも見せてくれていた幸福の笑顔、けれど彼の命ごと撃ち抜かれてしまった。
警察官の制服の胸ポケットで、愛する息子の写真ごと彼の全てを世界から去らす。
そんな現実の象徴は無残で悲しくて、遺品として家族に渡すことが正しいのか解らない。
―預ろう、いつかの日まで、
そうして写真一葉、桜の花びらと一緒に自分の手帳にはさみこんだ。
目の前の検案所の扉が開く。
湯原の妻と息子が静かに廊下へ出、室内へと礼をする。
そして振返って安本に気がついた。
―哀しい、
結婚式の日、礼装姿の湯原の隣で微笑んだ綺麗な黒目がちの瞳。
幸福に輝いていた瞳、けれど今はもう憔悴の底に沈んでしまった。
その変貌が哀しくて辛い、それでも背中を真直ぐ伸ばし安本は礼をした。
「お久しぶりです、」
「…同期の、ご友人の方でしたね」
彼女は覚えてくれていた。
それが今こんな時でも嬉しくて、その分だけ切ないまま頷いた。
「はい、」
彼女の穏やかで優しい綺麗な雰囲気は湯原の気配と似て懐かしい。
その隣から華奢な少年が見つめてくれる、母親そっくりな可愛い顔。
けれど視線の澄んだ強靭は、大好きなあの切長い瞳とそっくりだった。
安本は一つの手錠を取出した。
傷はあるけれど歪みも錆も無い、湯原の手錠。
それを両手に捧げ持つと、静かに片膝ついて安本は少年に微笑みかけた。
「これが、お父さんの手錠だよ」
黙って少年は受取って、小さな両掌に捧げ持ち見つめてくれる。
それから安本の目を真直ぐに見て、静かに手錠を返してくれた。
見つめてくれる聡明な眼差しに安本は約束と微笑んだ。
「私は、お父さんの友達なんだ。犯人はもう、捕まえたから。必ず、お父さんの想いを、私が晴らすから」
そう、自分が想いを晴らす。
だって約束してしまったんだ。
俺が湯原と一緒に向き合うと、もう約束をした。
だからもう自ら死んで彼の元へ今すぐ謝りにいく事すら、もう許されない。
ほんとうは、本音の自分は今すぐに犯人を殺してしまいたい。
そうして自分も自ら死を選んで、あの大切な友人の元へ謝りに行きたい。
けれどもう約束をしてしまったから、だから自分は約束のために生きていく。
湯原が眠りについた瞬間の、がくんと落ちた頭の重み。
悔恨と罪と現実と真実、あの瞬間に背負った全てずっと抱きしめて生き続ける。
湯原との約束ごと全てを抱いて背負って、いつかの涯まで自分は生きていく。
けれど苦しい、痛い、悲しい。
それでも、その痛みも苦しみも悲しみも、死んだあいつと繋がっている。
だからもう、それでいい。
そんなふうに13年の時を越えた今、目の前に端正な視線が座る。
「周太は13年間ずっと孤独でした。父親の殉職という枷と、それに絡まる善意の無神経さ。その全てが彼を孤独へ追い込んだ」
目の前に座る、制服姿も端正な長身の青年。
きれいな笑顔で微笑んで、静かに語りかけてくる。
きれいな切長い瞳は、真直ぐに見つめて揺るがない。
13年前に失った大切な友人で同期の湯原、彼は射撃の名手だった。
そんな湯原の忘れ形見、息子の周太君もまた射撃の名手として現われた。
そして周太君とそっくりの射撃姿勢が鮮やかだった、この青年。
射撃姿勢は本来、体格によって差異がでる。
そして小柄な周太君と長身の彼とでは体格が全く違う。
それなのに、彼は周太君と全く同じ射撃姿勢を見せつける。
こんなこと、本来なら出来るはずがない。
いったいどれだけの努力を彼は重ねたのだろう。
いったいどれだけ近くで彼は周太君を見つめ続けているのだろう。
どうして?何故そんなにも彼は、周太君を見つめているのだろう。
「彼の孤独を壊したのは私だけです。私よりも優しい言葉をかけた人は沢山いたでしょう。けれど彼の為に全てを掛けた人間は私だけです。
きれいな想いも、醜い欲望も、私は全部を彼に晒します。隠しているものがない。だからこそ、彼は私を信じて孤独を捨てました」
綺麗な低い声が真直ぐ告げてくる、その声に迷いは欠片も無い。
どうしてこんなに彼は迷わない?その問いかけに見つめた青年は断言した。
「他の誰にもそれは出来ない、私だけです。だから言います、彼が本当に信じて頼るのは、私だけです」
相手のために全てを掛けて。
どうしてそんなふうに、この青年は生きられるのだろう。
きれいな笑顔が眩しい、そんな一途な生き方が本当は羨ましい。
真直ぐな視線は美しくて、こんな自分ですらも彼を信じてしまいたくなる。
13年前のあの日、自分は湯原に追いつけなかった。
そして今また湯原の息子にも追いつけない、けれど、この青年ならば追いつくことが出来るのかもしれない。
そうであってほしい、そんな願いごと見つめたまま安本は訊いた。
「…では、どんな方法なら、周太君を救えるんだね?」
「簡単ですよ」
そう言って青年は、端正な唇を開いた。
「真実を告げて示して、その底にある想いに気付かせてやる。それで彼には解る、そしてそれが、唯一の選択です」
端整な青年は綺麗に笑っている。
綺麗な笑顔はなぜか、見つめるほど静かに信頼を寄り添わす。
この青年に任せてみたい、惹きこまれるように安本の口は開かれた。
「周太君を見た時、驚きました。わたしが大好きだった男の面影、そして射撃の名手。懐かしくて、嬉しかった」
語りだした口調には切ない懐旧が滲んでしまう。
そう、懐かしい、そして嬉しい。
大切な友人で同期の湯原、彼が遺した周太君。
綺麗な強い視線と穏やかな気配が懐かしい友人と似て少し違っていた。
忘れ形見、そんな存在の明るい瞳は幸せそうで、それがただ嬉しかった。
あの春の夜に引裂かれた、可愛い幸福な笑顔。
あの笑顔が今もまた、きちんと蘇って笑ってくれた。
あの笑顔を取り戻してくれたのは、きっとこの青年なのだろう。
この青年は幸福に追いついて、捕まえて、そんなふうに彼を笑顔にさせている。
13年前のあの日から、今も背負っている悔恨と罪と、現実と真実。
今からその全てを青年に託したい。きっと彼なら大丈夫、そんなふう信じられるから。
全てを語り終えて、私は泣いた。
13年間を縛り続けた約束と枷が外れて解ける、そんなふう感じられた。
端正な青年は、きれいな笑顔で静かにそっと見守ってくれていた。
旧知の吉村医師が自販機へ行って来てくれた。
缶コーヒーを3つと、ココアを1つ。
そうして3人でココアの缶を眺めながらコーヒーを飲んだ。
いまきっと一緒に湯原もココアを飲んで、あの綺麗な切長い瞳を綻ばせている。
そんな想いと飲み終わる頃、聴きたかったことを青年に尋ねてみた。
「宮田くんは、周太君の友達なんだね」
きっと良い友達で、親友というやつだろう?
そんなふう想って訊いてみた、けれど青年は綺麗に笑って否定した。
「いいえ、違います」
どういうことだろう?
友達ではないならば、なぜこんなにも彼は真剣なのだろう。
それ以上の繋がりがあるのだろうか、解らないまま重ねて訊いてみた。
「ではどうして、こんなに君は一生懸命なんだ」
「おかしいですか?」
綺麗に笑って青年は答えた。
「警察官なら、今この一瞬に生きるしかありません。だから今を大切に見つめるだけです」
綺麗な低く響く声。
本当にその通りだ、そしてなんて懐かしい言葉だろう。
『警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい』
湯原、どうしてだろう?
お前の心はそのままに、この青年の中に生きているよ。
なぜ他人の青年の言葉に、お前の心が生きているのだろう?
そんな疑問と懐旧に見つめた真中で、綺麗な笑顔は教えてくれた。
「周太は私の一番大切な存在です。だから今を、大切に彼を見つめている。それだけです」
ああそうか、この青年にとって「一番大切」それだけなんだ。
そんな納得にまた羨望がまぶしくなる。
こんな生き方が出来る男が羨ましくて、ただ眩しい。
そんな想いごとコーヒーを飲み終えた前、青年が立ちあがった。
それから制帽を手に持ったまま、端正な礼を自分に向けると微笑んだ。
「今日は、ありがとうございました」
吉村医師も立ちあがって青年に微笑みかけて踵を返す。
ロマンスグレーのスーツ姿に伴う制服姿の背は広やかで頼もしい。
その真直ぐな横顔ともっと話してみたい、そう願ったまま声を掛けた。
「宮田くん。いずれ、飲みに誘わせてくれるかい?」
断られるだろうか、そうも思った。
自分は周太君を傷つけた、そして青年の怒りをひきだしたから仕方ない。
そんな諦め半分だった提案、けれど切長い瞳は優しく微笑んで言ってくれた。
「ええ。その時は周太も誘います」
綺麗な笑顔が、ただ温かい。
この懐かしい温もりに願ってしまう。
どうか周太君を幸せにしてほしい。
あの春の夜、追いつけずに死なせてしまった大切な人。
彼の分までどうか幸せになってほしい、どうかずっと幸せが君に寄り添いますように。
そしてどうかこの青年も綺麗な笑顔のままで、ずっと笑っていてほしい。
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花弔 The tide of hours ―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」
書類から上げた視線、窓が黄昏に紫染まる。
例年通りの桜の園遊会は何とか無事に終わった。
春の雪と嵐が多かった今年は、ようやく晴天の今日、桜の宴が集中してしまった。
東京中で花見が催され華やかな春の陽気が首都に満ちている。
幸せな光景だな、そんなふうに素直に想う。
けれど、そんなに一遍にイベントがあると警邏の人数が足りない。
警視庁の立場からしたら本当に困る、特にこの新宿の、あの公園の園遊会。
VIPばかりが集められる、そんな場の警邏は人選も難しい。
「誰か適当な人材を、寄越してくれないか」
警備部で射撃指導員をしている湯原に依頼した。
いちばん親しい同期で友人の湯原。温かくて、優しい穏やかな彼の気配が大好きで、ずっと親しくしている。
同じノンキャリアでも出世していく有能な男は眩しくて、けれど気さくなまま優しい彼は笑って答えてくれた。
「ん、大丈夫。ちょうど俺、非番だから予定が空いている」
そう言って彼自身が引き受けて、警邏の後は新宿署の射撃指導も提案してくれた。
一流である彼からの指導はありがたい、そんな厚意を示してくれる湯原が大好きだった。
そして警邏も射撃指導も無事に務めくれて、自分も報告書類を何通か書き上げ今日を過ごした。
そんな春の一日が終わり、休憩所でいつものベンチに並んで腰かけた。
「今日は本当に助かった、ありがとう」
笑って礼を言いながらココアの缶を手渡した先、綺麗な笑顔が受けとってくれる。
いつもながら綺麗な笑顔だな、そんな感想と見つめた湯原は穏やかに言ってくれた。
「いや、役に立てたなら嬉しいよ、」
笑顔で長い指がプルリングを引き、チョコレートの甘い香りがふっと昇って頬撫でる。
缶に唇つけて一口啜ると綺麗な切長い瞳がほころんで、そんな同期の貌になんだか嬉しくて笑いかけた。
「ココアばっかり飲むな、湯原は」
「ん、好きなんだよ」
鋭利で有能で温厚な湯原、けれど好みは何でも結構かわいい。
結婚式で会った彼の妻は黒目がちの瞳が印象的な、かわいい華奢な女性だった。
そして彼の胸ポケットには可愛い息子の笑顔を写真に納めてある、とても優秀で良い子だといつも話してくれた。
あのときも胸ポケットから手帳を出して、また写真を見せながら自慢話でもするのだろう?そう思った通り彼はページを開いた。
「これ、」
言いながら開いた手帳には可愛い笑顔の写真と、桜の花びらが3枚納められていた。
今日の昼間あの公園で、桜の園遊会に警邏で立ちながら見つけたのだろうか?
そんな推測と見つめた前に長い指は1枚つまみ差し出してくれた。
「花吹雪があったんだ。その時に掌にね、ちょうど3枚が乗った」
「なんだ、くれるのか?」
いわゆる武骨な自分に花をくれる?
それが意外で訊き返した隣、穏やかな声が頷き笑ってくれた。
「ん、きれいだろ?」
綺麗な切長い瞳を微笑ませ、花びら1枚この掌に載せてくれた。
残りの2枚はきっと妻と息子への土産にするのだろう。有能で武道も強い湯原、けれどこんなふうに可愛い所がある。
そんな男の優しい手土産が微笑ましくて、そこに籠る気遣いへ感謝が嬉しくて自分は笑いかけた。
「ありがとうな、おかげで今年の桜が見れたよ」
本当に今年の桜はこれが自分にとって最初、そして最後かもしれない。
この春は忙しくて桜をゆっくり見られそうにない、今日も報告書類の処理に追われ署から出られなかった。
湯原はそれを知っていて今こんなふうに桜を見せてくれる、そういう繊細な優しさがこの友人は深く温かい。
こういう所が和まされて好きだ、そんな想い微笑んで手帳に花びら一枚挟みこんだとき呼び出しが掛けられた。
自分と湯原、ふたり揃って呼ばれる事は久しぶりだった。
機動隊銃器対策レンジャー時代まではいつも一緒に呼ばれていた。
けれど新宿署と警備部と、配属が分かれてからは仕事で一緒になるのは久しぶりだった。
しょっちゅう会って飲んではいるけれど仕事で組める、それは事件現場であっても単純に嬉しかった。
暴力団員による強請、その通報だった。
犯人の一人は拳銃を持っていた、そして犯人は恐慌状態に陥っている。
恐慌状態の犯人は発砲の可能性が高く危険、そして犯人が逃げた先は雑踏の歌舞伎町だった。
「繁華街での発砲は危険だ、万が一は射殺も止むを得ない」
そう告げられて、射撃特練の自分と射撃オリンピック代表の湯原に発砲許可が下された。
繁華街での狙撃は間違えれば周囲に当たる、射撃の精度が問われる現場だった。
「単独での追跡はするなよ、」
新宿署を出るとき湯原に一言、釘刺した。
湯原は正義感が強くて足が速い、だからいつも現場へとあっという間に走っていってしまう。
被害者の事もその周囲の事も、そして犯人の事すらも放っておけない、そういう優しさが湯原にはある。
けれど拳銃所持者の追跡に単独行動は危険過ぎる、それでも湯原はきっと走ってしまうのだろう?
そんな危惧に釘刺したけれど、綺麗な切長い瞳はいつものよう笑った。
「ん。解っている。だから安本、追いついてくれ」
綺麗な笑顔ひとつ残して、湯原は全力疾走に駆けだしてしまった。
自分がいかなければ、救けなければ、そんなふうにいつも湯原は走って行ってしまう。
心やさしい湯原は絶対に人を放りだせない、誰かの為にいつだって全力で駆けつけて救ってしまう。
「追いつけって…あいつ、」
自分だって決して遅い方じゃない。
けれど警察学校時代からずば抜けて速いタイムで走っていた湯原。
全力で走られたら追いつけるわけがない、けれど仕方ない、そんな想いに制服の背中を見つめ走り続けた。
駈けてゆく視線の真中、活動服の背中が停まる。
北口へ抜けるガード下、歌舞伎町の雑踏より手前で湯原が立ち止まった。
繁華街へと入る前に犯人を捕捉したらしい、さすがだと思いながら早く援護射撃をしてやりたくて自分は走った。
けれど銃声一発、鼓膜の底を切り裂いた。
発砲したのか湯原?
きっと犯人の命も無事なポイントに適確な狙撃だろう。
そう思った視線の真中、けれど崩れ落ちたのは紺青色した制服の背中だった。
―嘘だ、
スローモーションのよう制服姿が倒れ込む、そして制帽が空を舞う。
こんな光景あるはずない、視ている光景に意識を呑まれて、それでも自分は駆けたらしい。
どうやって走ったのか覚えていない、けれど気がついた時には倒れた湯原の隣で跪いていた。
「湯原ぁっ、」
若い男が湯原の傍で泣いていた、その彼は拳銃を持ってはいない。
叫んで見上げた視線の先、もう赤いジャンパーの背中が遠ざかっていく。
たぶんあの男が犯人、捕まえなくてはいけない、けれどそれよりも倒れた湯原の介抱が先だ。
そう思って診た端正な顔は、息が止まっていた。
「湯原っ、起きろ!目を開けろっ、」
けれどまだ間に合う、きっと大丈夫。
信じて呼びかけ続け、圧迫止血をしながら腕と膝で気道確保を行う。
警察学校から学んだ応急処置は体を勝手に動かしてくれる、けれど意識は叫ぶ。
「湯原っ」
うそだ、嘘だ、湯原が死ぬなんて、絶対に無い。
まだ間に合う、きっと間に合う、諦めてなどやらない。
信じて叫んで見つめる真中で癖っ毛がゆれ、端正な貌は蒼白になってゆく。
「起きろっ、湯原おきろ、寝てる場合じゃないだろう?起きるんだっ!」
人工呼吸は本来はタオルや何かをはさむ。
けれど猶予が無くて湯原の唇にそのまま自分の唇を重ねた。
呼吸が止まっているなら一刻の時間も惜しい、人は心肺停止から3分で死んでしまう。
どうか起きてほしい、蘇えれ、そんな願いごと吹きこんだ2回の人工呼吸で切長い瞳が開いた。
「湯原っ、」
良かった、間に合った。
そんな安堵へ切長い瞳が微笑んで、少し厚い唇がゆっくり動いた。
「…や、すもと、」
いつもの落着いた穏やかな声、けれど掠れている。
それでも声がまた聴けた、嬉しくて自分は微笑んだ。
「もうじき救急車が来る、大丈夫だ」
「…ん、」
切長い瞳が見つめてくれる、瞳の光はいつものよう澄んでいた。
これだけ意識が清明なら大丈夫、きっと助かってくれる。
そんな願い見つめた先で湯原はゆっくり唇を開いた。
「やすもと、お願いだ…犯人を…救けてほしい、」
「解った、俺が救ける」
きっと湯原は助かる、助かってくれるに決まっている。
その為なら何でもいい、どんな願いも聴いてやりたい、そう願い安本は微笑んだ。
「生きて、償う…チャンスを与えてほしい、彼に、温かな心を…教えてほしい」
「解ったよ、俺が必ずそうしてみせる」
頷いた自分を真直ぐ見つめて切長い瞳が微笑んだ。
いつもの綺麗な笑顔、温かくて穏やかで少しだけ寂しい湯原の笑顔。
警察学校で出会った時から変わらない、この笑顔が大好きで友達になった。
大丈夫、こんなふうに笑ってくれるなら助かるだろう、それが嬉しくて約束を告げた。
「お前と一緒に、俺も彼に向き合うよ。約束だ、湯原」
笑いかけた視界の真中で嬉しそうに湯原は微笑んだ。
そして微笑んだ厚めの唇が、ぽつんと呟いた。
「…周太、…」
首を支えるよう抱えた腕の中で、がくんと癖っ毛の頭が崩れた。
「…湯原?」
切長い瞳は、睫の下に閉じている。
さっきまで笑っていた瞳、けれど睫が披かない。
こんなこと、嘘だ。
「湯原っ、」
嘘だ、だって今、笑っていたじゃないか。俺の目を見つめて、今、きれいな微笑みが。
信じたくなくて、そのまま唇を重ねて人工呼吸を施していく。
1回目の呼気に胸を押し、そして2回目、湯原の喉から鮮血が逆流した。
「ごほっ、…ごふっ、」
撃ち抜かれた肺から昇った血、それが喉を強打して咽かえらす。
それでも諦められなくて呼吸を吹きこんで、けれど2つの唇から鮮血が止まらない。
そして蒼白な頬を血潮あふれおち、噎せた飛沫からアスファルトに真赤な花が散った。
「…嘘だ、」
さっきは2回目で蘇ってくれた。
けれどもう、切長い瞳は笑ってくれない。
―どうして?
どうして、そんなはずあるわけがない
ずっと一緒に笑っていた、さっきも一緒にココアを飲んで笑っていた。
たった10分前までベンチで笑っていた、それなのに、こんな事があるわけがない。
警察学校で出会って、射撃特練に一緒に選ばれた。
それから新宿署に一緒に卒配されて、そのあと一緒に第七機動隊に配属された。
それから自分は新宿署へ湯原は警備部にと分れた、それでもこうして今日も一緒に任務についている。
ずっと、ずっと、一緒に歩いてきた。それなのに、なぜ、どうして?
救急車のサイレンが聞こえる。
どこからか桜の花びらが吹き寄せられて、湯原の頬に舞い降りた。
もう蒼白な貌は摩天楼の夜の底にまばゆい、その頬に深紅の花と白い花びら一片、ただそこにある。
「…約束、だな、」
ぽつり、呟きに血潮の香が意識を刺す。
さっきの約束を果たさなくてはいけない、自分は行かなくては。
そんな想いに意識が細められるまま、傍らの若い男に血だらけの口が頼んだ。
「…この男を、頼んでいいか」
泣きながら若い男は頷いてくれた。
それからと呟くよう唇が微笑んで、涙の紗を透かし男の目を覗きこんだ。
「君の事務所は、どこだ?」
彼は素直に口を開いてくれた。
その事務所は歌舞伎町でも奥の方、きっとまだ、犯人は辿りついていない。
そう思考がすばやく判断したまま立ち上がり、安本は走りだした。
不夜城のネオンが禍々しい。
ここで生みだされた暴力が、自分の友人を奪って逃げた。
絶対に許さない、絶対に追いついて、捕まえて、それから、
―殺してやる、
安っぽく着飾った人の群れ、互いを伺うような欲望の眼差し。
ただ歓楽を求めあう視線の交錯、原色の騒がしいネオンサイン。
それら全てが今、灰色の視界の底に沈んで見える。
―赦さない、絶対に、
吐く息が熱い、呼吸が乱れる。
唇から喉まで残る湯原の血の潮と香だけが、現実の感覚になっている。
どこだ、どこだ、どこに今、あの男はいる?
隠れても逃げても、絶対に探し出してそれから。
だって今それだけが、自分だけが生き残らされた理由になっている。
灰色の視界の中で、一か所、赤い色が見えた。
赤いジャンパー。
逃げる後姿、遠目に見えた、あの背中の色。
視認した瞬間、片手撃ちノンサイト射撃で安本は発砲した。
撃つぞ。
本当はそんな威嚇が必要だった。
けれどそんな余裕なんてない、絶対に逃がすものか、ただそれだけ。
けれど、唯ひとつだけが自分を止めた。
―犯人を救けてほしい
あの綺麗な眼差し、最後に見せてくれた綺麗な笑顔。
どんな怒りも悲しみも、あの笑顔だけは裏切れない。
殺してやる、死の恐怖におびえるがいい、血に塗れて這い蹲ってのたうちまわれ。
痛みの底で叫べばいい、苦しみに引き攣れて歪めばいい。
死んで、湯原に謝るがいい。
そう思ってトリガーを引いた、けれど照準は外される。
あの綺麗な微笑みが少しだけそっと、フロントサイトを押し下げてくれた。
そうして下げられた銃口から発砲された銃弾は、犯人の左足へと向かった。
左足に真赤に鮮血が飛び散って、赤いジャンバーの背中は道に倒れた。
本当は殺してやりたかった。
それでも自分の足許には、血塗れの脚を抱えた男は、生きている。
このまま放っておいたなら、きっとこの男は死ぬだろう。
流れだす血液、零れだす生命の熱、この全てが流れ出てしまったらこの男は死へと浚われる。
湯原のように。
けれど、
生きて償う機会を与えてほしい、彼に、温かな心を教えてほしい
お前と一緒に俺も彼に向き合うよ、約束だ、湯原
してしまった約束。
約束に縛られて、もう、この男を殺せない。
あのきれいな微笑みだけは、裏切ることなんか出来ない。
転がった男の拳銃をハンカチで拾い上げ、自分の手元にしまう。
それから衿元のネクタイを引き抜くと、犯人の左足付根を結束止血した。
動かす血塗れた手を怯えた目が見つめてくる、その物言いたげな唇は痛みに震え動けない。
いま怯えるこの男を本当は殺してやりたい、けれどもう約束をしてしまった。
―最期の約束だ、
大切な友人との最期の約束は、破れない。
この約束を護り続ける為に自分は生きるだろう、そんな願いを肚に落しこむ。
願いに瞑目して見開いて、定まった肚から安本は血塗れた唇のまま微笑んだ。
「大丈夫だ、私は君を必ず救けるから」
湯原と次に会えたのは、新宿署の検案所だった。
清められた顔にはもう血の痕はない、けれど真白になった頬が生命の不在を示して、苦しい。
もしも今日、俺が、警邏の依頼をしていなかったなら?
もしもさっき、俺が湯原に追いついて、援護射撃が出来ていたのなら。
たくさんの「もしも」が廻ってしまう。
ただ見つめたままめぐる想いに竦んで、今はもう、何も考えられない。
そんな想いのまま手は動き遺品の手帳を開き、息を呑んだ。
「…っ、」
鮮血滲んだページの間では、可愛い少年の笑顔の写真が銃痕に裂かれていた。
『ほんとに優しいんだよ、周太は。いつも庭木を可愛がってくれるんだ、』
いつも見せてくれていた幸福の笑顔、けれど彼の命ごと撃ち抜かれてしまった。
警察官の制服の胸ポケットで、愛する息子の写真ごと彼の全てを世界から去らす。
そんな現実の象徴は無残で悲しくて、遺品として家族に渡すことが正しいのか解らない。
―預ろう、いつかの日まで、
そうして写真一葉、桜の花びらと一緒に自分の手帳にはさみこんだ。
目の前の検案所の扉が開く。
湯原の妻と息子が静かに廊下へ出、室内へと礼をする。
そして振返って安本に気がついた。
―哀しい、
結婚式の日、礼装姿の湯原の隣で微笑んだ綺麗な黒目がちの瞳。
幸福に輝いていた瞳、けれど今はもう憔悴の底に沈んでしまった。
その変貌が哀しくて辛い、それでも背中を真直ぐ伸ばし安本は礼をした。
「お久しぶりです、」
「…同期の、ご友人の方でしたね」
彼女は覚えてくれていた。
それが今こんな時でも嬉しくて、その分だけ切ないまま頷いた。
「はい、」
彼女の穏やかで優しい綺麗な雰囲気は湯原の気配と似て懐かしい。
その隣から華奢な少年が見つめてくれる、母親そっくりな可愛い顔。
けれど視線の澄んだ強靭は、大好きなあの切長い瞳とそっくりだった。
安本は一つの手錠を取出した。
傷はあるけれど歪みも錆も無い、湯原の手錠。
それを両手に捧げ持つと、静かに片膝ついて安本は少年に微笑みかけた。
「これが、お父さんの手錠だよ」
黙って少年は受取って、小さな両掌に捧げ持ち見つめてくれる。
それから安本の目を真直ぐに見て、静かに手錠を返してくれた。
見つめてくれる聡明な眼差しに安本は約束と微笑んだ。
「私は、お父さんの友達なんだ。犯人はもう、捕まえたから。必ず、お父さんの想いを、私が晴らすから」
そう、自分が想いを晴らす。
だって約束してしまったんだ。
俺が湯原と一緒に向き合うと、もう約束をした。
だからもう自ら死んで彼の元へ今すぐ謝りにいく事すら、もう許されない。
ほんとうは、本音の自分は今すぐに犯人を殺してしまいたい。
そうして自分も自ら死を選んで、あの大切な友人の元へ謝りに行きたい。
けれどもう約束をしてしまったから、だから自分は約束のために生きていく。
湯原が眠りについた瞬間の、がくんと落ちた頭の重み。
悔恨と罪と現実と真実、あの瞬間に背負った全てずっと抱きしめて生き続ける。
湯原との約束ごと全てを抱いて背負って、いつかの涯まで自分は生きていく。
けれど苦しい、痛い、悲しい。
それでも、その痛みも苦しみも悲しみも、死んだあいつと繋がっている。
だからもう、それでいい。
そんなふうに13年の時を越えた今、目の前に端正な視線が座る。
「周太は13年間ずっと孤独でした。父親の殉職という枷と、それに絡まる善意の無神経さ。その全てが彼を孤独へ追い込んだ」
目の前に座る、制服姿も端正な長身の青年。
きれいな笑顔で微笑んで、静かに語りかけてくる。
きれいな切長い瞳は、真直ぐに見つめて揺るがない。
13年前に失った大切な友人で同期の湯原、彼は射撃の名手だった。
そんな湯原の忘れ形見、息子の周太君もまた射撃の名手として現われた。
そして周太君とそっくりの射撃姿勢が鮮やかだった、この青年。
射撃姿勢は本来、体格によって差異がでる。
そして小柄な周太君と長身の彼とでは体格が全く違う。
それなのに、彼は周太君と全く同じ射撃姿勢を見せつける。
こんなこと、本来なら出来るはずがない。
いったいどれだけの努力を彼は重ねたのだろう。
いったいどれだけ近くで彼は周太君を見つめ続けているのだろう。
どうして?何故そんなにも彼は、周太君を見つめているのだろう。
「彼の孤独を壊したのは私だけです。私よりも優しい言葉をかけた人は沢山いたでしょう。けれど彼の為に全てを掛けた人間は私だけです。
きれいな想いも、醜い欲望も、私は全部を彼に晒します。隠しているものがない。だからこそ、彼は私を信じて孤独を捨てました」
綺麗な低い声が真直ぐ告げてくる、その声に迷いは欠片も無い。
どうしてこんなに彼は迷わない?その問いかけに見つめた青年は断言した。
「他の誰にもそれは出来ない、私だけです。だから言います、彼が本当に信じて頼るのは、私だけです」
相手のために全てを掛けて。
どうしてそんなふうに、この青年は生きられるのだろう。
きれいな笑顔が眩しい、そんな一途な生き方が本当は羨ましい。
真直ぐな視線は美しくて、こんな自分ですらも彼を信じてしまいたくなる。
13年前のあの日、自分は湯原に追いつけなかった。
そして今また湯原の息子にも追いつけない、けれど、この青年ならば追いつくことが出来るのかもしれない。
そうであってほしい、そんな願いごと見つめたまま安本は訊いた。
「…では、どんな方法なら、周太君を救えるんだね?」
「簡単ですよ」
そう言って青年は、端正な唇を開いた。
「真実を告げて示して、その底にある想いに気付かせてやる。それで彼には解る、そしてそれが、唯一の選択です」
端整な青年は綺麗に笑っている。
綺麗な笑顔はなぜか、見つめるほど静かに信頼を寄り添わす。
この青年に任せてみたい、惹きこまれるように安本の口は開かれた。
「周太君を見た時、驚きました。わたしが大好きだった男の面影、そして射撃の名手。懐かしくて、嬉しかった」
語りだした口調には切ない懐旧が滲んでしまう。
そう、懐かしい、そして嬉しい。
大切な友人で同期の湯原、彼が遺した周太君。
綺麗な強い視線と穏やかな気配が懐かしい友人と似て少し違っていた。
忘れ形見、そんな存在の明るい瞳は幸せそうで、それがただ嬉しかった。
あの春の夜に引裂かれた、可愛い幸福な笑顔。
あの笑顔が今もまた、きちんと蘇って笑ってくれた。
あの笑顔を取り戻してくれたのは、きっとこの青年なのだろう。
この青年は幸福に追いついて、捕まえて、そんなふうに彼を笑顔にさせている。
13年前のあの日から、今も背負っている悔恨と罪と、現実と真実。
今からその全てを青年に託したい。きっと彼なら大丈夫、そんなふう信じられるから。
全てを語り終えて、私は泣いた。
13年間を縛り続けた約束と枷が外れて解ける、そんなふう感じられた。
端正な青年は、きれいな笑顔で静かにそっと見守ってくれていた。
旧知の吉村医師が自販機へ行って来てくれた。
缶コーヒーを3つと、ココアを1つ。
そうして3人でココアの缶を眺めながらコーヒーを飲んだ。
いまきっと一緒に湯原もココアを飲んで、あの綺麗な切長い瞳を綻ばせている。
そんな想いと飲み終わる頃、聴きたかったことを青年に尋ねてみた。
「宮田くんは、周太君の友達なんだね」
きっと良い友達で、親友というやつだろう?
そんなふう想って訊いてみた、けれど青年は綺麗に笑って否定した。
「いいえ、違います」
どういうことだろう?
友達ではないならば、なぜこんなにも彼は真剣なのだろう。
それ以上の繋がりがあるのだろうか、解らないまま重ねて訊いてみた。
「ではどうして、こんなに君は一生懸命なんだ」
「おかしいですか?」
綺麗に笑って青年は答えた。
「警察官なら、今この一瞬に生きるしかありません。だから今を大切に見つめるだけです」
綺麗な低く響く声。
本当にその通りだ、そしてなんて懐かしい言葉だろう。
『警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい』
湯原、どうしてだろう?
お前の心はそのままに、この青年の中に生きているよ。
なぜ他人の青年の言葉に、お前の心が生きているのだろう?
そんな疑問と懐旧に見つめた真中で、綺麗な笑顔は教えてくれた。
「周太は私の一番大切な存在です。だから今を、大切に彼を見つめている。それだけです」
ああそうか、この青年にとって「一番大切」それだけなんだ。
そんな納得にまた羨望がまぶしくなる。
こんな生き方が出来る男が羨ましくて、ただ眩しい。
そんな想いごとコーヒーを飲み終えた前、青年が立ちあがった。
それから制帽を手に持ったまま、端正な礼を自分に向けると微笑んだ。
「今日は、ありがとうございました」
吉村医師も立ちあがって青年に微笑みかけて踵を返す。
ロマンスグレーのスーツ姿に伴う制服姿の背は広やかで頼もしい。
その真直ぐな横顔ともっと話してみたい、そう願ったまま声を掛けた。
「宮田くん。いずれ、飲みに誘わせてくれるかい?」
断られるだろうか、そうも思った。
自分は周太君を傷つけた、そして青年の怒りをひきだしたから仕方ない。
そんな諦め半分だった提案、けれど切長い瞳は優しく微笑んで言ってくれた。
「ええ。その時は周太も誘います」
綺麗な笑顔が、ただ温かい。
この懐かしい温もりに願ってしまう。
どうか周太君を幸せにしてほしい。
あの春の夜、追いつけずに死なせてしまった大切な人。
彼の分までどうか幸せになってほしい、どうかずっと幸せが君に寄り添いますように。
そしてどうかこの青年も綺麗な笑顔のままで、ずっと笑っていてほしい。
2011.11.02掲載「花弔」改訂版
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