別離の瞳
周太24歳3月
第83話 辞世 act.5-another,side story「陽はまた昇る」
ねえ君、なぜ今日は付いてきたの?
―いつもの美代さんなら、青木先生と賢弥に気を遣って残るのに?
小雪ふる街路樹の道すこし途惑わされる、だってこんなこと珍しい。
美代が恩師と仲間を置いても付いてきた、いつもと違う今に周太は笑いかけた。
「美代さん、雪のなか見送りさせてごめんね?せっかく温まったとこだったのに、」
雪舞うキャンパスの不合格宣告、あの冷たさから温めたくていつもの店に座った。
いつもどおり主人の笑顔と料理に温められて、恩師も仲間もいて、そんな安息地を後にした友達は微笑んだ。
「ううん、湯原くんといるのが今は温かいの。だから見送らせてね?」
ほら、優しいんだ。
だって今ほんとうに温もりほしいのは自分、こんなふう言わないでも通じあう。
けれど行先は何ひとつ気づかないでほしい、それでも受けとめてくれる友達に笑いかけた。
「僕も美代さんといるのあったかい気持ちになるよ、ありがとう、」
「でしょ?だからいいの、一緒に歩こ?」
いつもどおり朗らかな声、きれいな明るい瞳も笑ってくれる。
でもなにか泣きそうに見えて、気懸りでまぜっかえしに笑った。
「だけど五目そば延びちゃうよ?おやじさん海老をいっぱい載せてくれたのに、海老そばかなってくらい、」
きっと美代の好物だと憶えているのだろう?
そんな優しい店主を想いながら笑って、けれど彼女の明眸まっすぐ見あげた。
「湯原くん、いかないで?」
今、なんて言ったの?
「え…?」
行かないで、なんて君が言うなんて?
―どうして美代さん?
仕事で呼び出された、そう言ってある。
こんな時いつも笑って送りだしてくれる人、けれど今ひきとめた?
「いかないで湯原くん、具合悪いって先輩に嘘吐いて?私が電話してもいいから、病院にいるって私が言ってあげる、ね?」
行かないで、嘘吐いて?
こんなこと君が言うなんて信じられない、どうしたのだろう?
こんなふう仕事を粗末にする女性じゃない、こんな嘘を吐けるひとじゃないのに?
「どうしたの美代さん、仕事ならいつもは仕方ないって、」
「いつもはいいのっ、」
見つめて言って、その手がダッフルコートの袖を捉まえる。
捉まえてくれる手は小さくて華奢で、けれど少し節くれた指に微笑んだ。
「美代さん?どうしたの、いつも仕事がんばってって言うのに…後期試験が不安なの?」
今日、前期試験の不合格を見たばかり。
だから不安定であたりまえ、だから気が済むまで今日は一緒にいてあげたかった。
けれど電話ひとつ呼び出されて行かなくてはいけない、そのはざま紅桃色のマフラーひるがえり抱きついた。
「ちがうけど不安なのっ、お願い行かないで湯原くん!」
お願い行かないで。
そう言われたら自分こそ崩れそうになる、だって君が言うなんて?
しかも抱きついてくれている、こんなこと驚かされてしまう、だってなぜ?
「どうしたの美代さん、僕は大丈夫だよ?」
笑いかけた唇そっと黒髪ふれて、ほら、気づかされる。
こんなにも君は僕より体が小さかったんだ?
―話してると気づかないけど美代さん、こんなに華奢なんだ…ね、
いつも笑顔おおらかな空気、それが彼女を大きく見せている。
だから気づかなかった身長差に鼓動そっと絞められる、その華奢な温もりが泣いた。
「お願い、行かないで…わかんないけど行っちゃダメよっ、行かないでお願い、」
行かないで、って自分こそ言いたかった言葉だ?
―お父さんに僕、こんなふうに引留めたかったんだ…ね、
ほら今も春、雪舞うけれど3月の半ば過ぎて一ヶ月ない。
もうじき父の最期の日がやってくる、あの時と今重なるまま澄んだ瞳が泣いてしまう。
「湯原くん行かないで、お仕事って解かってるけど、でも行かないで?ぜったいダメ…だめよっ、」
ああ、今、気がついた。きっと僕は君の涙が弱点だ?
「美代さん、泣かないで…だいじょうぶだから、」
泣かないで、お願いだから泣かないで。
君に泣かれると動けなくなる、だって今もう足が止められた。
抱きつくベージュのコートの背そっと撫でて、その色に幼い日を見て笑った。
「美代さんのコートね、昔お母さんが着ていたのに似てるよ?きれいな優しいベージュ、」
笑いかける記憶が温かい、そのままに君の体温が愛しくなる。
あのころ幸せだった自分、それは何も知らなかったせいだと今なら解かる。
「僕ね、そのコート好きだったんだ…小十郎の毛並みと色が似てて、やわらかで優しくて。空色のマフラーも小十郎のリボンと同じで、」
唇つむいでしまう記憶が沁みてくる、ほら、瞳の深く温かい。
こんなとき思いだしてしまうなんて、きっと君が言う通りかもしれない?
「ほら湯原くん、お母さんに逢いたくなったでしょう?だからっ…このまま川崎のお家へ行こ?一緒に行くから、ね…っ」
ほら、なんて言うのは君はきっと解かっている。
―僕すら解からないのに、でも気づいてくれてるのかな…僕がどこに行くのか、
このあと自分が行く先は、まだ知らされていないけれどもう解かる。
だって知らされていないのは「秘密」そして「危険」だからだと今もう解かってしまう。
“続いてのニュースです、先月に起きた…の容疑者が逮捕されました、否認するも……季節の便りです、新宿御苑の梅が咲きはじめました”
ほら2月のニュースなぜだか思い出す、これが行先の予告だろうか?
さっき電車でもラーメン屋でも流れたニュースの事件、あの3つ全てが予告かもしれない?
“1月に起きた…の容疑者…が起訴されました、”
“1月に…で起きた強盗殺人の容疑者が起訴されました、本人は否認するも…また余罪の可能性が”
ほら言葉きちんと思いだす、あの全ては自分に無縁じゃない。
―SATが出なかった事件だ、でも似てる、
強盗殺人、容疑者、余罪、それは14年前と変わらない。
唯ひとつ「否認」が違う、そこにある差異を見つめながら大好きな友達を抱きしめた。
「美代さん、後期の試験が終わったら一緒に帰ってくれる?」
約束ひとつ、君に贈らせて?
今もう行かなくてはいけない、けれど一緒に帰りたいのは自分のほうだ。
だから今ひとつ約束を贈らせてほしい、そして自分にどうか餞ひとつ贈って?
「僕ね、今いきなり仕事になったでしょ?きっと三日後は振替の休みになるから…試験の終わる頃キャンパスへ迎えに行くよ?」
ごめんね?三日後に行けるか本当は解らない、だって死ぬかもしれない。
「田嶋先生の研究室で待ってるね、僕ちょうど翻訳のお手伝いに行くんだ、だから試験が終ったら一緒に川崎へ帰ろう?母も喜ぶから、」
この約束ほんとうに叶ったらいいのに?
大学で父の旧友を手伝って、それから友達と待合せて実家に帰る。
きっと母も喜んで一緒に夕食を摂るだろう、こんな約束ほんとうに他愛ない。
他愛ないからこそ今どうしても欲しくて堪らなくて、そんな願いの真中きれいな瞳が見あげた。
「ほんと?…試験お迎えに来てくれるの?」
「うん、迎えに行くよ?指きりげんまんしてもいいよ、」
笑いかけて涙の瞳に自分が映る。
きれいな澄んだ瞳で自分は幸せそうで、やさしい睫ゆるやかに瞬きうなずいた。
「ん…湯原くんは約束きっと守るものね?」
「うん、きっと守るよ?だから今日は賢弥に試験勉強しっかり見てもらって?」
笑って腕ゆっくりほどいて、華奢なベージュの肩すこし離れてしまう。
この肩また抱きしめること出来るだろうか?そのときは合格を喜ぶ涙を見つめたい。
―どうか美代さん夢を叶えて、だって僕の夢でもあるんだ、
東京大学、父と祖母が学び祖父が教鞭とった場所。
あの場所に自分も学んでいたかった、いつか祖父のよう誰かに伝えたいとすら願う。
けれど今もう遠くなるのかもしれない、それでも繋いでくれる大切な手に指そっと絡めた。
「指切りげんまん、きっと美代さん合格しますように…約束だよ?」
願い笑いかけて指切りする、ほら君がもう笑う。
この笑顔ずっと心抱いていたい、そんな願いごと笑って離れた。
(to be continued)
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