まる九年。
梅が開花。
今だ5万人に迫る避難者の方がいらっしゃる中、やはり、
復興とはなんぞや? と考えてしまいます。
あの日の夜は雪が舞い猛烈に寒かったけど、薪ストーブで暖を取り家族3人一升瓶を空けて過ごしました。
これからどうなるのだろうか?
物理的にあらゆる繋がりが寸断されて、明日から〜、がとにかく不安だったのを強烈に覚えています。
あれから9年。同じ轍を踏まぬようにと【生活する】ための復興事業は進んできたように思います。
けれど【暮らし】という部分では、果たして被災した人もしてない人も、
復興、というのか、あの大災害を教訓として学んだことはなんだろう。と、思ってしまいます。
そんなことを考えつつ、午後からカミさんと竹林整備にもくもくと汗しました。
答えはわからないけれど、9年前、避難で鳴子に来ていた沿岸部の方と、
生活資金を稼ごうよ!と、一緒に竹やぶに入りました。 その時来たおじいちゃんが、
「あいやぁ〜・・・おらは家も車も畑もぜぇ〜んぶ、ね(無)ぐなったんだわー。
こんな山持っててもったいねぇ〜ごだなやぁ〜・・・・」
と口にしたことが耳に残り、そこから竹やぶに手を入れ始めました。
よっちゃんなんばん売って稼ぐぞー! が一番でもいいのかもしれないし、
それが時代に合わせて【生活する】農家としての一つの道、手段なのかも知れない。
けれど、元をたどっていくと昔の人だって天災や災害に遭ってきた来たわけで、
そこを乗り越える時、感謝するのは耕せる畑や寝食を過ごす家よりも、自然。
そこに目が、意識が行っているのかどうか。。だからまた活かす知恵が生まれてくる。
だから【暮らしがたてられる】。
親父と話していても、最近、竹細工を習っているもう一回り上のじいちゃんでも、
最近亡くなった青田さんの言葉からも、そういうのをすごく感じています。
今の生活を・・・というだけの視点で見ると古臭い!で終わることかも知れないけれど、
そういうものではないような気がとてもしている。
だから竹の間伐をしているのかもしれない。
だから、よっちゃんなんばん届けられない、売れないかもしれない!
お金が入ってこないかも!どーすっぺ!!
とあの時強烈に思う一方、お金などあってもなにも手に入らないにも関わらず、
ま、食うのは当分なんとかなるでしょ。
と一升瓶空けながら思ったものです。
そういうのを伝えられる農家でありたい。だから、竹の広場を作りたいのです。
温床に周りには菌がすごい。昨年よりも少しは上手になったようだ。
今年は暖かく、水の吸い上げも早い気がするので青竹切りはやめ。
収穫に備え、人も運搬機も動きやすい動線づくりのための片付けで、
最深部の西面まで行ける、段差乗り越え竹チップロードもできた。
そして、なんとメモリアルな日に。昨年の最速を一ヶ月上回り、初たけのこ。
お!と思い、散策すると2〜30本・・・・が、全てイノシシが食い荒らした跡。。
春のはやいのがいいのか、わるいのか。
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