http://fujiisyoten.cocolog-nifty.com/gaia/
婚活中の×イチ呉服屋です。
たまに、オジイサンと呼ばれます。(自然と涙がこぼれます・・・)
でも、けなげにつつましく生きています。
だから・・・ソッと見守ってくださいネ。(たのむよ)
まぁ、今日はひとつ、こんなお話を・・・
「生きることは苦である」
とお釈迦様は言いました。(・・・そうだげな)
四苦八苦は、生まれた時からのつきもので、どうやら逃れるのが難しいらしいです。
(死ぬことは生まれた時から逃れられないということが、一番わかりやすいですね)
人によっては、まだ命となりえていない子供が、「このお父さんとお母さんの子供に生まれよう」と選んでそのお腹に宿るということを言う方もおられます。
そうかどうかは、あたしにはわかりません。
わからないから、あたしは、生まれたことの意味は、あまりないような気がしています。(それを気にしていないと言ったほうがいいかもね)
でも、生まれちゃったんだから、生きなければならない。
さて、これが難しい・・・(難しくないか?)
人が、唯一他の生き物と違うことがあるとすれば、それは「自分で自分を殺すことができる」ことだと思っておりますよ。
だから、生きるのが嫌なら、死ぬという選択もできるのさ。(へへん)
これもまた、road to nirvana と言えるのかもしれません。
ただね、「殺すことができる自分」なら、「活かすことのできる自分」があってもいいじゃない。
もっといえば、殺すことのできる人だからこそ、生きることができる人なのではないかと、あたしなんかは切に思うのでありました。
そこで出てくる、「生きることは苦である」というお話。
ぶっちゃけた話、生きることは死ぬことと同義なのでありますね。
死ぬのは、なんとなくイメージとして嫌ですよ。
何で嫌かと聞かれても困りますが、痛そうだし、苦しそうだし・・・ねぇ、そうでしょ?
そこであたしは、無い頭をフル回転して考えた・・・
何で死ぬのは嫌なの?・・・なんで?
・・・
そして、ひとつだけ気がついたのよ。
死ぬのは嫌だけど、あたしが死ぬのが一番嫌だ。
・・・
こんなことを書いてもいいのだろうか?
でも、正直に書いてみよう。
・・・
そう、あたしが苦だと思うものは、あたしの苦だからである。
(先ほどの例で、あたしの子供があたしの命と引き換えに生きられるとしたら、あたしは死んでもいいと思う。でも、それは、「あたしの子」だから)
苦は嫌だ。
でも、あたしの苦が一番嫌だ。
ソ~レ出て来ました・・・「あたしの」という言葉。
苦は嫌だけど、その前の、「あたしの」というところは、何だんねん?
ここに気がついた時から、あたしは、「あたし」とは何物なのか?ということを考え始めたのでありました。
「あたしの」は、「あたし」と「の」に別れますが、とりあえず「あたしの死」の「死」は置いといて(輪廻とか涅槃とか魂とか霊とか、いろいろ言う人がいますが、お前見たことないだろ?とあたくしの中では一蹴するべきものであります。実際に死んで生き返った人がいたら、あたしの気持ちも変わるかもしれませんが)、「あたし」が理解できたら、「あたしの死」の概念が変わるかもしれません。
そして、「あたし」の意味が深く正しく理解できたら、「あたしの死」は、苦ではなくなるかもしれないなぁ・・・と考えているのでありますよ。
・・・
road to nirvana という言葉を受けて、ちょっと意味ありげなことを書いてしまいました。
でも、たぶん、あまり意味は無いような気がしています。
っていうか、無いですね。
相変わらず、役に立たないブログでした。
・・・すみません。
婚活中の×イチ呉服屋です。
たまに、オジイサンと呼ばれます。(自然と涙がこぼれます・・・)
でも、けなげにつつましく生きています。
だから・・・ソッと見守ってくださいネ。(たのむよ)
まぁ、今日はひとつ、こんなお話を・・・
「生きることは苦である」
とお釈迦様は言いました。(・・・そうだげな)
四苦八苦は、生まれた時からのつきもので、どうやら逃れるのが難しいらしいです。
(死ぬことは生まれた時から逃れられないということが、一番わかりやすいですね)
人によっては、まだ命となりえていない子供が、「このお父さんとお母さんの子供に生まれよう」と選んでそのお腹に宿るということを言う方もおられます。
そうかどうかは、あたしにはわかりません。
わからないから、あたしは、生まれたことの意味は、あまりないような気がしています。(それを気にしていないと言ったほうがいいかもね)
でも、生まれちゃったんだから、生きなければならない。
さて、これが難しい・・・(難しくないか?)
人が、唯一他の生き物と違うことがあるとすれば、それは「自分で自分を殺すことができる」ことだと思っておりますよ。
だから、生きるのが嫌なら、死ぬという選択もできるのさ。(へへん)
これもまた、road to nirvana と言えるのかもしれません。
ただね、「殺すことができる自分」なら、「活かすことのできる自分」があってもいいじゃない。
もっといえば、殺すことのできる人だからこそ、生きることができる人なのではないかと、あたしなんかは切に思うのでありました。
そこで出てくる、「生きることは苦である」というお話。
ぶっちゃけた話、生きることは死ぬことと同義なのでありますね。
死ぬのは、なんとなくイメージとして嫌ですよ。
何で嫌かと聞かれても困りますが、痛そうだし、苦しそうだし・・・ねぇ、そうでしょ?
そこであたしは、無い頭をフル回転して考えた・・・
何で死ぬのは嫌なの?・・・なんで?
・・・
そして、ひとつだけ気がついたのよ。
死ぬのは嫌だけど、あたしが死ぬのが一番嫌だ。
・・・
こんなことを書いてもいいのだろうか?
でも、正直に書いてみよう。
・・・
そう、あたしが苦だと思うものは、あたしの苦だからである。
(先ほどの例で、あたしの子供があたしの命と引き換えに生きられるとしたら、あたしは死んでもいいと思う。でも、それは、「あたしの子」だから)
苦は嫌だ。
でも、あたしの苦が一番嫌だ。
ソ~レ出て来ました・・・「あたしの」という言葉。
苦は嫌だけど、その前の、「あたしの」というところは、何だんねん?
ここに気がついた時から、あたしは、「あたし」とは何物なのか?ということを考え始めたのでありました。
「あたしの」は、「あたし」と「の」に別れますが、とりあえず「あたしの死」の「死」は置いといて(輪廻とか涅槃とか魂とか霊とか、いろいろ言う人がいますが、お前見たことないだろ?とあたくしの中では一蹴するべきものであります。実際に死んで生き返った人がいたら、あたしの気持ちも変わるかもしれませんが)、「あたし」が理解できたら、「あたしの死」の概念が変わるかもしれません。
そして、「あたし」の意味が深く正しく理解できたら、「あたしの死」は、苦ではなくなるかもしれないなぁ・・・と考えているのでありますよ。
・・・
road to nirvana という言葉を受けて、ちょっと意味ありげなことを書いてしまいました。
でも、たぶん、あまり意味は無いような気がしています。
っていうか、無いですね。
相変わらず、役に立たないブログでした。
・・・すみません。