一見、活発に活動している授業を見たことがある。6年生の跳び箱運動である。10時間計画の終盤の授業であった。
パッと見て、「これはダメだ」と判断した。
それはなぜか?それは、開脚跳び越しの練習をしている子がいて、授業の終わりにも跳べていなかったからである。
この子は、10時間ある跳び箱の授業で、これまでずっと「自分は跳べない。跳び箱が苦手だ。」という意識をもたされたわけである。(ちなみに、開脚での跳び越しをさせる指導技術は簡単である。)
どうしてもそういう苦手な子に目が向く。
なぜなら、自分自身がそうだったからである。水泳ダメ、跳び箱ダメで、短距離走はもっとダメという子だった。
だから、苦手な子をできるようにさせていない授業の評価は、私から見ると低い。とても低い。
体育だけではなく、算数の授業でも同じ傾向があるときいている。
できる子を中心に据えて、できない子は活躍できない、という授業である。
よい授業かどうかは、算数が得意な子だけでなく、不得意な子も「分かった」「できた」という喜びを感じている授業である。自分が見た授業にはそういうよい授業がたくさんある。
(ただ、そうでない授業もたくさんあるのが残念である。)