「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2014・04・20

2014-04-20 07:40:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

「しかし最上のやり方は逃げ出すことだ転校である。『孟母三遷(もうぼさんせん)』という言葉さえ知らない人が多くなったから、逃げ方もわからなくなったのだ。しかし『孟母三戦という考え方もある。アメリカの西部劇ではないが、戦いの基本は自衛なのである。日本国家は、『平和憲法なるものを遵守(じゅんしゅ)して』アメリカの核の傘の下にいて守ってもらえれば、軍備もいらない、という人もいるが、一般的にこの地球上の力関係は自分の身は自分で守るということで成り立っているのである。だからいじめっ子に対しては、いじめられる子当人とその家族、親しい友だちが、組んで戦う他はないマスコミも学校も、昔から卑怯(ひきょう)なものであった戦争中は軍部に就(つ)き、戦後は掌(てのひら)を返したように民主主義を謳(うた)った。私の学校は例外だったが、そんな抵抗の精神を持っていた教育機関は、決して多くはなかったろう。(中略)
 しかし一番みじめなのは、いじめる側である品性が賤(いや)しく貧しいまさに『下流社会』の精神構造なのだろう。改めて言っておくが、収入の面で下流のレベルでも、精神において高貴な人にはいくらでも会うことができる反面、物質的には『上流社会』でも、精神においてゆすりたかりの生活をしている人もいるらしいことは、新聞を見ればすぐわかることだ
 誕生日のケーキを買って来い、の、上納金まがいの金を出せ、のという。『汚い、臭い』と鼻を摘(つま)んで見せる。こういう子供は第一愚かなのだ人間はすぐ臭くなり、汚くなるアフリカの田舎には、為政者が無能なために貧困から抜け出せず、臭くて汚い子がいくらでもいる病気を放置され、やせ細っている子供もいくらでもいる汚いことや臭いことは、ごく自然の人間の姿だと教えてやる親も教師もいないのだ。特に臭いだけで嫌うというような反応の単純さは、親の生き方、ものの見方を反映している。そしてこのような表面的な人間関係しか考えられない子供は、本来なら学問をする資格もないのである。
 そんな愚かな相手にいじめられたくらいで死ぬことはないいじめられたら、いじめた子の方を、一日中指さし続けたらいいのだ死ぬくらいなら、死ぬ気で闘争ができるはずである
                                               〔出典:曽野綾子著『貧困の僻地』新潮社〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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2014・04・19

2014-04-19 07:10:00 | Weblog


「若かろうと年取っていようと死は必ずやって来る。その前に自分が生きている間に得たものを始末していくことは、『帳尻を合わせる』ことである。その必要性を一番簡潔に書いたものは、旧約聖書の『ヨブ記』の中のヨブの言葉だ。
わたしは裸で母の胎を出た。
 裸でそこに帰ろう。( 1・21 )

 もちろん持っていけと言われても、私たちは死んだ後、何一つ持って行くことはできないのだが、自分の死までに自分が人生の途中で集め、楽しみもしたものを、すべて始末していくのがすがすがしい。
                                        〔出典:曽野綾子著『晩年の美学を求めて』朝日新聞出版〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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2014・04・18

2014-04-18 07:30:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

「『人の世にあることはすべて自分の上にも起こり、
 人の中にある思いはすべて私の中にもある

 と私は思っているから、なにごとにも、悲しみはしても驚かないのである。
 なにものにもおおっぴらで、なにが起きても仕方なくそれを受け入れる、という姿勢は、いわゆる『快活な』とか『ネアカ』と言われる人の特徴である。それに対して、襲いかかる運命をすべて不当なものと感じ、その不運に襲われた自分を隠そうとする人が『ネクラ』と言われる人になる。私のほんとうの『地』はネクラなのだが、私は意識的に、後天的に、ネアカになる技術を覚えたのである。
                                        〔出典:曽野綾子著『晩年の美学を求めて』朝日新聞出版〕」

(曽野綾子著「自分の始末」扶桑社刊 所収)

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2014・04・17

2014-04-17 07:35:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「昔から小説はその義務を負っている。フィクションで客を喜ばせ、本音はかくしている。読者はフィクションを喜んで、本音に気がつかない気がつかないのは縁がないからで、あれば気がつく
 詩人、絵師、役者も似たようなもので、戦前は王侯貴族というパトロンにかかえられていたから、その機嫌をとった。ぼんくらは終始機嫌をとったが、胸にいちもつある芸人はほめると見せて悪くちをいって、それが当人にはわからぬようにした。当の王様また大名だけでなく、家来にもわからぬようにした。家来というものは、主人に媚びていいつけたがるものだからである。
 面従腹背は言論の常である言論の自由はなかった今はあると思うなら早合点である。昔はパトロンは一人だった。その一人および取巻きの気にいればよかった。
 今はパトロンは大ぜいである一人の王は殿様は、分散して無数になってしまったその無数に気にいられなければならなくなった
 王や諸侯は、まれに学芸が好きで、優雅であり得るが、テレビの見物はあり得るだろうか。してみれば、大ぜいがこぞって悪くちをいうとき、遅ればせながら共に言う自由はあっても、率先して言う自由は、昔もなかったし今もない言論の自由とはそういうものだと、かねて私は思っている
                                            〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

 
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2014・04・16

2014-04-16 07:45:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

私は言論というものを、大ぜいがいうことを疑うことから発すると、ひそかに思っている

「ことに商品としての言論なら、疑わないほうがどうかしている。ところが、俗に『世論』といって、大ぜいのいうことは正しいことになっているそれに逆らってはいけないことになっているほとんどタブーになっている
 だから、異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。すなわち、一見世論に従っているとみせて、読み終ると何やら異様で、あとで『ははあ』と見る人が見ればわかるように、正体をかくしていなければならない。いなければ第一、マス・コミが採用してくれない。
 現代の言論は、商品として、マス・コミのなかにしかない。マス・コミになろうとして、なりそこなったミニ・コミに望みをかけることはできない。それなら本音はかくさなければならない。本音は毒をふくんでいるにきまっているふくんでいれば大ぜいに忌避される糖衣をかぶせて、大ぜいの口を目をあざむき、同類にだけわかるように、ほとんどサインのように書くのが義務だと私は思っている
                                                 〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2014・04・15

2014-04-15 07:30:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。再録。

この世の中は、自分で考え、自分で発言できるごく僅かな人と、自分では考える力がなく、他人に考えてもらって、それを自分の考えだと思いこんで、他人の言葉をおうむ返しにいう大ぜいとから成っている。
 大ぜいは進んで他人の考えを着服し、喜んで他人の言葉をいうのだから、一世を風靡(ふうび)する言論が大好きで、それに従って、ちっとも強制されていると感じない
。」

人は本来時流に従う存在である。豹変して心に痛みを受けぬ存在である。」

「大ぜいのいう正義は、他人の脱税はけしからぬが、自分の脱税はやむを得ぬ。むしろ当然だという程度のものである。他人が儲けるのは悪で、自分が儲けるのは善だという程度のものである。他人の値上げなら何でも反対で、自分の値上げなら結構だという程度のものである。」

マス・コミの正義は、大衆の正義と瓜二つである。ある日とつぜん豹変するところまで瓜二つである。
 言論の自由とは、大ぜいがいうことを、共にいう自由のことではないのか。第一、人は真に言論の自由を欲しているのか、いうべき何ものかを内に蔵しているのか
。」
                                                   〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2014・04・14

2014-04-14 08:15:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「言葉は売買されて久しく『われわれは商品でない言葉を読む機会をまったく持たない』というと、手紙がある、電話があると反駁するものがある。
 いかにも、ある。けれども、それらは私的な言論で、公的なものではない。そして、その私的な言葉さえこのごろは売買されるようになったどんな愚かな発言でも、この世は愚か者に満ちているから、その代表とみなし、テレビは招いて発言させ、厚くもてなすようになった
 マス・コミというものは、常によく売れることを欲する。テレビと新聞がその二大親玉で、テレビのごときは一%の視聴率を争う。一%は何十万人に当るそうで、それなら二〇%は何百万人に当るか見当がつかない。その途方もない大ぜいに、テレビも新聞も見て貰うことを欲すると、消極的には大衆の気にいらぬことならいわなくなる積極的には気にいることばかり、いうようになる
 媚びるのであるはじめは媚びると承知して、やがて忘れ、指摘されると、にが笑いしたり怒ったりするうちはまだしも、しまいには指摘するものの世間知らずを笑うようになる迎合している自覚をまったく失うのである
 かくてマス・コミは奇声を発する。スカートをまくる。乳房をあらわし、尻を丸出しにする。血を流し、なま首をぶらさげる。いわゆる『色と欲』で客を呼ぼうとする。あんまり大ぜいを客にしようとすると、こうなる。
                                          〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2014・04・13

2014-04-13 06:40:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「うろおぼえで恐縮だが、それは内田百先生の随筆で『これは何ですか』『……』『なかにはいっているのは何ですか』『……』と次第に問いつめ、とうとう何枚かの紙幣だと白状させ、この歳になってかかる恥辱にあおうとは、と天を仰いで浩嘆(こうたん)するありさまを描いて抱腹絶倒である。
 百先生にとっては、後日改めて礼にくるか、こないまでも礼状でも届くならまだしも、じかに金銭を手渡すとは仰天すべき失礼だから、型のごとく仰天して、しばらく問答したあげく、ようやくその一封を懐中してめでたく落着(らくちゃく)するのであるが、そのおかしみはもうわかりにくくなっている。
 初めてラジオの座談会に出たとき、私はこれに近い思いをした。座談会が終ると、各人に金一封がくばられ、『恐れいりますがご署名を』といわれた。領収書が同封してあるから、金額を改めて署名せよというのである。
 見わたせば、さすがに改めるものはなく、そそくさと署名して、そそくさと去るから、私もそれにならったが、ずい分失礼な仕打ちだと思うと同時にそれに従った自分に羞恥をおぼえた。むかし読んだ百鬼園随筆を思いだしたゆえんである。
 聞けば大阪では、指にツバして一々改め、『たしかに』といって署名して、持参の印形を捺すものが多いという。どうせ破れかぶれである。今では大阪式のほうがいいように思われる。
 伝統あるNHKでさえ、ここで客に恥辱を与えたとは思っていないのだから、念のためにいうと、以前は自分の商売で金を得るのは当然だが、本職以外で金を貰うのは恥だったのである。今は貰うどころか、その多寡を論じる。大阪人はその場で、東京人はかげで――たとえばNHKを『日本薄謝協会』と呼ぶことがあるがごとしである。
 以上は言葉はすべて売買されているといいたいために書いたのである。印刷された言葉はもとより、しゃべった言葉にまで支払われるなら、この世に売り渡されない言葉はないわれわれは商品としての言論しか読むことができない聞くことができない。それでいて皆さん平気である。
 このごろ言論の自由が論じられる。それはこの売られた言葉の自由のことか、そもそも売られた言葉に自由があるのか、それともまだ売られない言葉がこの世にあるのか、あるいは言論の売買そのものがけしからぬと、さかのぼって論じるのか定かでない。定かでないのは、宴はててのち、各人に配られた額の多寡をいう彼ら(またわれら)が、論じるためかと思われる
                                                〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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商品としての言論 2014・04・12

2014-04-12 06:40:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

新聞雑誌に印刷された言葉は、すべて有料である。代金が払われている。あれは売られた言葉のえんえんたる行列である。代金は雑誌なら原稿料、本なら印税として執筆者に払われる。
 それは一般にあとから送金される。戦前は、いつまでたっても送ってこない(または送れない)版元が多かったが、今は稀れになった。印刷された言葉に支払う習慣は、すでに確立したといっていい。
 ついでに、話をしただけで金をくれる習慣もできた。テレビ・ラジオはその場でくれる。新聞雑誌主宰の座談会も、その場でくれることが多い。
 客として料理屋に招き、丁重にもてなし、もう一人の客と歓談させ、さて宴はててのち、その場で金一封をさし出されて驚く場面を書いた文章がある。
                                                〔『朝日ソノラマ』昭和45年5月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2014・04・11

2014-04-11 07:50:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

人生は些事(さじ)から成ると思うのは、私が些事を通してしか大事に到達できないたちだからである。(略)
 たとえば私は新左翼の内ゲバの記事を発見すると、殺された男の年齢を見る。何某(三七)とこのごろはたいてい三十代後半である。勤務先を見ると多く神奈川県下の地方公務員である。武器爆弾はたいてい自宅のアパートで製造している。マンションではない。
 これによって過激派は以前二十代だったのが、そのまま老いて三十代後半になったのだなと分る。近く四十代になろう。特定の市役所の職員が多いのはそこに仲間がいて就職の手引をしているものと察しられる。
 木造アパートで爆発物をつくってよく露見しないものだと感心する。隣人の評判はよかったと聞いて新左翼も世なれたのかと思ったりする。些事からこれだけのことが想像できるのである。
                                           〔Ⅲ『人生は些事から成る』昭60・4・25〕」

(山本夏彦著「ひとことで言う‐山本夏彦箴言集」新潮社刊 所収)

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