と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

学校秀才(受験秀才)の陥りやすいこと(気をつけなはれや)

2012年12月21日 11時46分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

学校秀才(受験秀才)の陥りやすい欠点というのがある。

あ、ちなみにこういうことを書けるのは、と~まが自称・他称ともに最悪の劣等生であるからである。最初にこれを断っておきまひょ。

学校秀才(受験秀才)というのは、問題を解くときに、出題者の思うとおりに回答をする傾向がある。小論文にしてもそうである。出題者の考えることがよくわかるからである。だから自称他称秀才と呼ばれるわけである。それは間違いがない。愚生の出身高校に、この手の学校秀才(受験秀才)がたくさんいたからである。体験しているのである。

それは何か?

小論文でいえば、出題者の求めているところがわかっているから、そこそこの文章しか書かないのである。こんなんでいいか、こんなんでどうせ合格だろうと思ってしまうのである。そこそこ症候群とでも言うのだそうだ。誰だったか、作家が言っているのだけど。

だから、ワンパターンになっているし、読んでいておもしろくない。

もっと言えば、根底となっている自己規定が単一なのである。だから文章がつまらない。人間が、あまりにもシンプルだと、底が浅くなる。単純化というのは、称賛されることもあるが、ダメな場合も当然あるのである。

人間は複雑である。書いている本人だって、若い時から、老年にいたるまでいろいろな要素がある。愚生だって、高校生の時と、還暦になった時と、いろいろな要素があるのである。ぎっしりつまっているかどうかは別として。

「出題者へのリスペクトがなくてはならない」というのが、今日二つ目の記事の言いたいことである。

学校秀才(受験秀才)というのは、これが無い。出題者をナメテいるのである。どうせ、オレヨリ・ワタシヨリ、おバカさんなんだろ!ってヒステリックに叫んでいる姿を想像するからである。

文章は怖い。そういう普段からの、相手をナメテいる態度は如実に出てくる。読んでいただくという姿勢がなくてはならない。だから、就職試験や、昇任試験で不合格になるのだ。そういうときは、学校秀才(受験秀才)は怒る。見る目が無いって。上の者が。オレヨリ、学歴が劣るのにけしからん奴であると、上司のことを思うわけである。ここのところが学校秀才(受験秀才)は留意したほうがいいのだ。

そもそもそこからして、リーダー失格である。皮相な、表象的なもので動かされてはならないのである。

 

愚生は、拙ブログですら、読んでいただくことに感謝させていただいている。まことに、多忙な中を、このブログに来ていただくことで、愚生の言語環境は変化する。つまり、大勢の方に読んでいただいているということが、いい意味で、文章の鉱脈を掘り当てさせていただくわけである。これがあるから、記事を書いてから、論文書きに邁進していくのである。言語環境のためである。

資料があって、頭の中で、それを整理して、そのままコピーしているのではない。それでは永遠に書けない。とくに、学術論文は絶対に書けない。下敷きの参考資料そのものをコピーしていたのでは盗作であるから。

湧いて出てくるようなパワーの登場を待たないと、論文にはならない。非常に困難である。地下に、そういう文章の鉱脈があると愚生は固く固く信じているのだが、その鉱脈を掘り当てるまでは、ひたすら資料読みをして、掘削機のいいのを買って、あちこちと試みなくてはならない。

 

学校秀才(受験秀才)というのは、期待どおりの文章を書いたり、文科省や県に報告したりするのは非常に得意である。教員時代に、そういうことが得意な人々がたくさんいた。それはそれなりに能力があると言ってもいいだろう。相手の思うとおり、期待どおりに書けるのだから。ある種の才能である。また、長い間そのことだけを訓練してきたのだから、たいしたもんである。ちなみに、オレには無い能力だ。

しかしながら、それは一面の能力であって、全てではないのである。小論文に形式があって、そのとおりにやりゃぁ誰でも合格論文が書けるというようなことを平気で言ってるようでは、将来が心配である。ふむ、形式は存在する。確かにである。愚生の言いたいのは、そういう形式どおりにやりゃいいんでしょ?っていうナメタ態度ではいかがなもんかということなのである。

定形化から抜け出したところの論文や、自説の展開となると厳しくなる。オリジナリティが求められるからである。先行研究のまとめをズラズラと書いて論文にしたり、インターネットにでもあるようなものを書いて、研究と称してはならないということを言っているのである。

芸能人をこれに譬えてみると一番よくわかる。定形的な、誰でもできるような芸に、われわれ庶民は銭を払いたいとは思わない。やはり、非常に優れた特殊性というか、異端性に注目するのである。そして、その芸能人が好きになる。金を払っても、追っかけをしても惜しいとは思わない。優れた芸を見て、満足して帰ってくるのである。

最近見た狂言でもそうであった。千葉市で、今月、人間国宝の狂言を見させていただいて、実に興趣あふるる芸であった。愚生は感動して帰ってきた。若いその他の演者も見たが、なんだかマニュアルどおりで、いかがなものかと思ったのである。素人の愚生ですら、そう思ったのであるから、見抜かれてしまっている。

 

学校秀才(受験秀才)様よ!

これからの時代を生きていくのだから、ますます精進なされませ。

マジに。

 

 

 

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明日から冬休みですか?

2012年12月21日 08時44分19秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

今日で小中高は一端リセットなのかなぁと思うが、違いましたかな。最近、小学生が大きな荷物を背負って下校しているから、あれは教室のものを運搬していたんでしょうなぁ。かわいいもので、完全にじーさまバージョンになっているから、みんな孫のようなものである。

塾は、逆にこれから講習が開始される。油断大敵である。人が遊んでいる時には、不意打ちを狙って勉強じゃ。わははははである。たいしたもんだと思う。いろいろな若人がいるんだって、退職して初めて知ったから。

大学生も、今日でだいたいの講義が終わるが、集中講義もあるから、実は大学の方が授業期間が長い。愚生だって、27日まで通学する。愚生だって、である。

書きたいことが山ほどあって、その鉱脈を掘り当ててしまったから、ドンドン掘削機で作業をしていかなくてはならん。道徳教育の論文を昨日書いていた。さらに、芸能と宗教の2本の論文。

もう一つ原稿依頼をいただいた。ありがたいかぎりである。毎年のように書かせていただいた、教職員のスピーチ集である。学事出版様である。こちらも書かなくちゃならない。出版されたら、拙ブログで紹介させていただきます。(「教師の話し方例話講座 平成25年度版」)

もう退職したんだから、これくらいやってもいいでしょう。

わははははである。

 

さ、これから大学へ参上します。

ランラン。。。

 

 

 

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12月20日(木)のつぶやき

2012年12月21日 05時00分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

おはようございます。良い天気ですね。まさにルンルンと通学するのには最適であります。これから駅に向かいますが、今週はずっと自宅にいましたので、楽しみです。いろいろ駄文を書いたり、することがたくさんあるので。


今日の夜は、もう40年近くやっている同一メンバーでの忘年会です。始めたころは、アタシャ23歳だった。全員元気。全員大先輩。いいものであります。教えられることがはなはだ多い。ありがたいものであります。


こんな、オレでも相手をしてくださって。。。。感謝です。


さ、それまで、隠棲室で楽しいひとときを過ごして参ります。夕方、老犬ワンコと散歩があるからそんなにゆっくりはできないけど。


うほほい、うほほい・・・・・さ、これから忘年会。うほほほい、うほほい。


でも、酒なしでごじゃります。寂しいなぁ。呑めなくなっちまったし。隠れては呑んでいるけど。同じか・・・・・(^0^)


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しみじみとした忘年会

2012年12月20日 23時18分24秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ぼーっと、店の灯りがともっている。陸橋の交差点を渡ると、その店に到着する。向こうから、右折のクルマが急ハンドルを切りながら、キキーとか言いながら渡っていく。アブねぇなぁとか言いながら渡る。こんなところで死んでたまるかと思いながら。

もう少しで忘年会のお店に到着である。

その前に郵便局で年賀状を出してきた。例年の1/5である。70枚。おっと、去年は350枚もだったのか。郵便局の若い職員が改めて挨拶をしたいと拙宅にこられたわけである。去年は。

今年は違う。もうそんなこともないだろう。退職したら、年賀状が激減したということで、鬱になる方もおられると聞いたから、かえって安心である。

メンバーとは、久しぶりにお会いした。年に2回くらいしかお会いできない。23歳からのおつきあいである。嬉しかった。ランランランである。80代がお二人、70代がお一人、67歳の方がお一人。全員、23歳の時の同僚である。

忘年会というのもあったが、愚生の退職を祝ってあげるという意図であったのだ。全員かくしゃくたるもので、いろいろな社会貢献をなさっているし、どこも具合が悪くない。さらに、酒も、昔ほどは呑まれなくなったが、嗜まれる。全員青年である。目も耳もまったく問題なし。70代の方は、ご自分で片道500キロの温泉旅行もやっておられる。

蘭の花をいただいた。こころのこもった、大人(おとな)からの贈り物である。良い香りであった。しばし、うっとりとした。打算もつまらない計算もない。感謝、感謝、ただひたすら感謝である。

本人から挨拶をせよということで、近況報告をさせていただいた。二つの大学で、教えたり、教わったりしていること。塾のことや、柔道教室のこと、配偶者と温泉三昧であることなどを報告させていただいた。さらに、12月の龍谷大学で鬼来迎の学術発表をさせていただいたことなどをも報告させていただいた。

その後が質問タイム。。。。。。。(^0^)

参りました。塾で、国語ならわかるが、英語と数学も、たまには理科もやるって?できるのかね?っていう質問には、全員でわはははははである。むろん愚生が一番笑ったんである。

日本料理のおいしい店である。料理を堪能して、二人の大先輩をタクシーでお送りして、来年の6月はと~まの幹事で会を設定せよとのことであった。快諾した。

今日は珍しく呑んでいなかったから、本当にしみじみとこのような交際をさせていただいたことを感謝していた。義理で、あるいは仕方なしにつきあっていたら、40年近くももたなかったであろう。夫婦だって、なかなか40年は厳しいものがある。愚生だって、まだ32年しかたっていない。

これまでも打算なしに交際させていただいたし、これからもそうさせていただきたいものである。義理だの世間体だの、クチとホンネがまったく違う世界で生きてきたから、余計そう思うのだろう。大先輩たちは、居住地では知らない人はいないくらいに有名な方々である。おそらく、愚生なんかには想像もできないほど過酷な、そして厳しい世間のしがらみを生きてこられたであろうに。それでもなおかつこころから愚生のようなものを祝ってくださるのだ。なかなかできないことである。メリットはないという畜生道のような台詞を吐けば、別に愚生ごときと一緒に酒を呑んだり、祝いごとをしなくたっていいのだから。

さすがに義務教育の方々は違う。関係性を大切になさる。地域を共に生きている。

こうありたいものである。愚生も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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後輩諸君へのエール

2012年12月20日 07時05分55秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

精神性の高い職業ほど日本では収入が高くない。高くないどころか、低すぎる傾向があると思ってきたが、いかがか。おそらく間違いはあるまい。

亡くなられた能楽学者、法政大学の表章(おもてあきら)先生は、法政に就職するときに教育職で入ろうとして、大学の事務方から教育職では生活できないから、大学の事務職で入りなさいと言われて納得できたと言われている。それほど、低いのである。表先生の講義はYoutubeでも公開されていたから見た方もおられるかもしれない。愚生も、Youtubeからのをダウンロードして毎日のように拝見させていただいてから、能楽の初歩を勉強している。それから今の愚生の駄文書きに入るのだ。

確かに、教育職で食っていく、生活していくというのは非常に困難であろう。

なんでこんなことになったのかと思う。それは、日本の伝統なのだろうとは思うが、教育職以外のヒトからは、異端性を見いだしたいからなのであろうと推察する。精神性の高い職業者は、異端であってほしいのである。手を汚さないで生きていってほしいというわけである。だから低い収入で我慢せよというわけである。ムムムムである。

「聖職者」という言葉があって、この言葉をすぐに日本のマスコミを中心として教育界たたきをする時に用いる傾向がある。しかし、聖職者というのはそんじょそこらにゴマンとおるわけではないというのを、前提としていないからついつい使ってしまうのである。

そりゃ高いモラル性を求められる。それは当然である。対象者が、子どもであったり、知識・品格・体力等々でもまだまだこれから勉強する人間を相手にしているからである。

でも、それは「職業としてのモラル性」であって、「精神面でのモラル性」ではないのではないか。だから、思想・信条・哲学の面でのモラル性であってはならないと思うのであるが。混同されていると感じるのだが、これまたいかがか。

もし、百歩譲って、全人格での崇高なるモラル性を求めるのだと言われる方がいたら、全国の聖職者という方々は全員失格である。

そういうヒトは、二千年に一度現れるだけであろうから。つまり、完全なるヒトである。不肖、愚生も読書を通じてのみであるが、そういう方を求めてきた。しかし、未だに現れてくださらない。

裁判官だって、バイブルに人を裁くなと書かれているから、裁判官を辞めろとは言わない。何故か?それはあくまで職業として裁判官をやっているからというだけであるからだ。能力があったから、難しい司法試験を突破できたのであってそれはそれでたいしたものである。されど、裁判官だって、「完全なる人」ではない。ましてや、「崇高なる精神性を持ったモラルの高い人」でもない。

だから、何度も言うようだが、「職業としての」モラル性を逸脱したら、徹底的に処罰されるのだ。残念ながらそういうのが不祥事として報道されるのは、そういうことなのである。

職業として高いモラル性を求められているということが、わからないのならば、その職業に就く資格はない。辞めてももらうしかない。

なにも精神面や、思想・信条・哲学までモラル性を求められているわけではない。そんなのは事実上不可能であるからである。しかし、職業としてのモラル性も守ることができないようでは、残念ながら失格である。最低限のことができないのだから。

 

じゃぁである。

職業人として高い精神性を求められる人に対して、だから低い収入に甘んぜよというのは、論理的に破綻していないか?というのが愚生の今日一番言いたいことである。

高い精神性を、「職業人として」ではなく、真実なる完全性を持った人に求めるのならば、それは金銭なんか関係ないだろう。しかし、「職業人として」ならば、労働力に見合った対価を支払うべきであると思うのだ。

 

教員として頑張っている方々、後輩諸君へのエールである。

誰かが言わなくちゃしょうがないだろうから。

 

 

では、これにて。

これから駅に向かいますので。そう、通学するのである。定期券で。ルンルンと。


 

(^_-)-☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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12月19日(水)のつぶやき

2012年12月20日 05時14分25秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ああああああああああ、終わった、終わった地獄の年賀状。


家族の分もだから、地獄ですわ!


さぁこれから駄文書きだ!


今日も塾である。ヨルバイトである。ほんとうに雀の涙ほどしかもらえないが、生徒達とのふれあいが楽しいんでやっている。ほんとうにそうなのだ。こういうのを趣味でやっていると言うんでしょうなぁ。


今日は、地蔵菩薩の研究書から、いろいろと原文を打ち込んだり、絵伝を見ながら、仮説はどうなるかなぁとか楽しいことばかり考えていた。結構打ち込んだか。。。ポメラがあるから、年賀ジョーをつくりながらできるんです。これってあまり良いことではないですがね。(^_-)-☆



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楽しい年賀状作り

2012年12月19日 15時15分22秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

年賀状が終わった。

つまり、今日も一日中、家にいたのである。明日は行かなくちゃならんですなぁ。Tabletも持って帰らなくちゃならんし。もっとも、金曜日師匠の今年最後のゼミがあるからそれからだけど。

今年の年賀状は例年の五分の一である。退職したら来ないというから、親しいヒトだけに限った。当たり前である。それでも失礼があったらごめんなさいである。この場をお借りしてお詫び申しあげます。と、言ってもこのブログをオレがやっているとは、あまり知らないだろうからホントにごめんチャイ!

(^0^)

関係性ってそういうものである。ご縁がキレタのであるから。しょうがないでっしょ?・・親族にはあちらから来なくてもそりゃこっちから出さざるを得ないし。また、今年一年と~まのバカが、何をやっていたんだかを報告せんといかんしねぇ。心配かけているから。

さらに追い打ちがある。オレは、つきあいがへた糞なんである。まぁこれでよく教員がつとまりましたよん。全部中途半端な人生行路でありましたから。

哄笑の連続であったしねぇ。オレのことは。

退職したのだから、実にユニークな年賀状にしたのだ。

真ん中に、初孫を抱いたオレが、アタマをてかてかと照らして鎮座ましましている。

右上に、龍谷大学の写真。

左上に、郷土史の写真。

右下、左下と錦帯橋と高野山宿坊一条院。

 

ははははである。

作っている方が楽しいのだから、どうしようもないのだ。

 

愚生の、本当につまらない年賀状をもらった方、ごめんなんしょ!

 

 

(^_-)-☆

 

 

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暁の空に

2012年12月19日 05時29分24秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

Good Morning

おはようございます。

5:29です。朝の。昨日は早く寝まして。(^-^)/・・・・・たまにはそういうこともあるわけです。眠たいというだけですが。この月曜日とか火曜日とか、人間ドック行ったり、いろいろやっていたので。このブログに来ることができませんでした。しかしながら、やはりこのブログに記事を書いてからでないと、なかなか提出する予定の駄文書きが進まないのです。すっかりはまってしまっていますねぇ。

それで書き始めました。

3本あるので、待っていられない。ともかくやるしかない。それこそお筆先様の導くままに。アタマの中で、あるイメージができればそのまま突入です。カードのメモがあるから、それも見ます。

参考文献の部分コピーをちょっとズラして、原稿優先でいきます。部分コピーしている時に、ポッとアイデアが浮かぶときもあるのですがねぇ。

しょうがないですな。

 

では、暁の空を見上げながら、老犬の散歩に行って参ります。

 

今日はもう一本書きたい。

拙ブログに。

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弱者は、世間をズラして見る

2012年12月18日 15時31分07秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

弱者にとっては世間は冷酷である。

このことは身に染みている。確かにそうである。さらに、オレのような庶民はあくせく働くより他はない。いつの時代でも庶民は働くより他はなかった。室町時代でもそうであったのだ。室町の人々は、田楽とか、能狂言とか遊びほうけていたと思われがちであるが、けっしてそんなことはなかったからである。いつの時代でも、苦しむのは庶民であり、弱者である。

そういう苦しみの現実と闘うには、武器がいる。それが思想・哲学である。世の中をす~い・す~いと泳いで行くことができるんだったら、思想・哲学なんて不要であろうが。さらに、そんなもの全部わかっておるわいという自称秀才様である。この人等にはそんなもん必要がないだろう。さらに、エコノミック・アニマルである。まさに、アニマルである。動物である。メリット、デメリットだけで生きる。畜生道である。強者はだから強いのである。

わははである。

 

されどどんなに弱者であっても、太鼓持ちだけはやらんほうがよろしい。いくらごまを擂っても、世間は弱者の味方はしないのだ。それにそんな生き方をすれば、卑屈であるだけに、自己嫌悪に陥るのが関の山である。だから武器を持った方がよろしい。それも、本当の武器では無い。

ちょっと視点をズラして見ればいいだけである。

もうちょっと言えば、世間を客観視して見ればいいだけのことである。

強者に対しては、世間は遠慮する。強者を叩くというようなことはしない。考えてみれば、世間を維持しているのが強者である。甘い汁を吸って生きているのが、強者。だから、世間は叩かない。それでも、最近はマスコミがいろいろやるようだし。このインターネットでも好き放題だけれども。(オレもそうか)

逆に、言いたい。

オレのような弱者こそ、我々は弱者だと自覚すればいいのだと。なんの権力もないし。腕力もない。カネもない。ナイナイついでに髪の毛もない。(^0^)

弱者だと自分を規定したヒトは、世間を信用しなくなる。これが大きなパワーになる。世間に踊らされるということが無くなる。

ころころころころと変わる世間が信用できるのかね?流行していたことが、ドンドン廃っていくではないか。もったいないという言葉も聞かれなくなってしまったし、戦前にぜーたくは敵だと言っていて、戦後の狂乱はなんだったのか。最近での政治状況もそうだった。流行オンリー。

都合が悪くなるとどんどん変わっていく。

 

世間の奴隷にはなりたくないですなぁ。

日曜から、今日にかけて、政治状況の変化があったから余計そんなことを考えたのだ。

世間をちょっと変えて見てみることで、いろいろなことがよーく分かることになる。さらに、世間というものの中でしか生きられないという方も多い。

 

昔から疑問に思っていたのが、葬式。会社関係で、まるで職務命令のように行く人も多い。本当に、別れが惜しい、哀しいというヒトだけが行ったほうがよろしいのであって、社長の奥さんの葬式に出ないとその後の査定に響くから行くけど、当の社長本人が死んだら誰も行かないという冗談は、本当だろうなぁと思う。それだけ、葬式が世間になってしまっているんだと思う。

世間、世間とそれだけを気にしている生き方ってぇのも寂しいもんですわなぁ。

 

自由になりましょうよと申し上げたい。

楽しみで生きて生きましょうと。

 

目的を持って、バリバリバリバリやっていたって、そんなもん・・・・・とか、人生に生きがいを求めて、病気になるほど稼いで、そんなもん・・・・と、モームの「人間の絆」ではないけれど、思ってしまうのである。

カネのために生きるのではござんせん。

生きるために、稼いでいるんであって、生きるってことは、もっともっと価値の高いことであるのかもしれないと思いますから。

 

 

(^_-)-☆

 

 

 

 

 

 

 

 

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「エースをねらえ」は稽古の美学が埋まっているかも

2012年12月16日 08時42分23秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

昨日の塾の帰り、時間もなかったからスポーツジムはサウナだけにして、それこそひと汗かいて、あ、そうだ行くところがあったんだと思い出した。一度帰りかけて、引き返した。

マンガの「エースをねらえ」というのを、古本チェーンで105円で買った。そして、読んだ。3冊も買った。315円だった。非常に珍しいことをしたもんだ。地蔵菩薩の研究書を県立図書館から借りてきて、部分コピーをしながら眺めていた。単純な作業にはうってつけであるから。

なんで買ったのか。それは、このマンガ決してバカにできないということを知ったからである。武道人の必須マンガだと言われる方もいたので。稽古の美学がちりばめられているとのことだった。

 

最初ついていけなかった。あれである。あれ。つまり、少女漫画チックなのである。お目々がキラキラしている。脚も長いし。見れば見るほど腹が立つ。登場人物が全部、美男美女だ。これはある意味源氏物語と通じる。いやな絵である。本能的に感じてしまうのである。そういふ世界が嫌いなのだ。オレは。オレとは違いすぎる。オレの世界は、くせぇー柔道着と、太宰治にすらバカにされるようなダサイ武道だから。すくなくとも、エースをねらえのテニスのような上品な世界ではない。

されど、このマンガは、稽古の美学に徹底している。宗方コーチというのが、まさに稽古の権化である。ただし、これまたあまりにもいい男過ぎて、憎たらしい。

やはり異次元の絵である。ムムムである。それにモテ過ぎる。アホじゃんかと思いつつ、見ていた。おそらく、3冊目になったら、えぃ!っとばかりこのマンガをゴミ箱に捨てるだろうと思っていた。いまか、いまかと思いながら。

ところがだ。

はまってしまった。

面白くなっちまった。

おもろいと思うオレにハラが立ってきたのだ。

勝手なもんだ。

 

なんでか?

それは「短期間で、みるみる成長する」という若者の奇跡に酔いしれたからでである。主人公の少女岡ひろみは、ただの普通の女子高生で体格も、センスも、やる気も普通の高校テニス部の生徒である。それが、テニス協会の世界戦略のもと、宗方コーチから過剰に期待されてしまう。

部内の人間関係や、ひいきされているというやっかみ、ジェラシーに苦しみながら、主人公は成長していく。それが非常に短期間なのである。

日本人は、短期間にあっという間に成長していく「物語」に弱い。一種の精神論である。やる気さえあれば、成果は残るというやつである。そういう「物語」が日本人は好きなのである。しかも、日々練習を気絶するまでやって、成果を残すというものがである。

ある意味国民性と言うべきであろう。

短気なのだ。・・・・・もっともオレもヒトのことをどうのこうのと言えない。

 

女子高校生がスポーツで一流になるのには、恋愛もどうあるべきかという課題もつきつけている。藤堂というテニス部の男子生徒に宗方コーチが言う台詞は格好がいい。

 

男なら

女の成長をさまたげるような

愛し方はするな

それだけだ

(第2巻 p.177)

 

良い言葉なり。

実に格好がいい。ただし、これは宗方コーチが言うから絵になる。臭い柔道着を着たと~ま君コーチが、言ってもこりゃダメだわな。

ははははっははは。

もっとも現代風なテニスをやる可能性は500%無いケドねぇ。

 

 

今日はこれから千葉市に行く。能を見に行く。チケットは予約してあったので楽しみにしている。「殺生石」である。こちらはある意味、道楽であるし、これでもって駄文を書き散らしているし、さらに芸能と宗教なんて柄でもないことを始めているし・・・とご多忙なんである。京都まで行って、学術発表をさせていただいたのもこれの延長上にあるからおろそかにはできない。

で、思ったのである。

会場で能楽の本もちょっと買ってくるけど、千葉市の古本チェーンは大きい。大きいということは、たくさん本がある。・・もうバレバレですね。

エースをねらえの4巻からを買うつもりなのである。

じじぃの独り言でございますよん。

 

 

(^_-)-☆

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12月15日(土)のつぶやき

2012年12月16日 05時39分14秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

「大胆、ひたむきに挑戦を」 講演ではやぶさ秘話 旭二中 JAXA教授 | ちばとぴ ちばの耳より情報満載 千葉日報ウェブ chibanippo.co.jp/c/news/local/1…


ピロリ菌が「がん幹細胞」に働き掛け 胃がん発症の仕組み解明 - 政治・社会 - ZAKZAK zakzak.co.jp/society/domest… @zakdeskさんから


世間は忘年会が流行ですねぇ。アタシャ、忘年会からも忘れられているなぁ。元々酒を呑んだら、酔っ払うし。呑まないためにも、塾の講師をしているし。ま、いいか。健康にはいいから。


こういふときは、本でも読むにかぎります。ポメラの3代目で、ノートでも作るっていうのは、いいアイディアです。これって、表計算にもデータを送ることが可能なようですから。昔みたいに、Accessでデータベース復活といきましょうかなぁ。。。


いやぁ。。。。。。もうやめよう。そんなことをしている場合ではないです。


月曜日と火曜日に人間ドックです。これまでまったくクスリひとつ飲んでいないので、また健康にいきたいものです。どっか具合の悪いところがあったら、早期発見して直すしかないです。もっとも、アタマの具合が悪いと早期に発見しても、ムリですかなぁ。。。。。(^0^)


じゃ、一端Twitter中断します。六時から塾ですから。楽しみ、楽しみ。


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魚は貨幣になり得るか

2012年12月15日 15時55分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

魚は貨幣になり得るか

アフリカの文化というのは、文化の原始形態を考える上でも興味深いことが多々ある。

中央アフリカ、ソンゴーラ族の物物交換市のことを書いているタネ本を元に、つらつら書き込みをしてみたい。

伊谷純一郎先生、米山俊直先生の編著になる「アフリカ文化の研究」 1984年 アカデミア出版会が、そのタネ本である。かなり分厚い本であるが、ある一点に絞って読み込むので、アレルギーは起きない。

アフリカ大陸の中央部を流れる世界第二位の流域面積を持つ、ザイール川及びルアラバ川が流れているのだが、この河口から2700キロ遡った熱帯雨林の中に、ソンゴーラ族がいる。

ソンゴーラの土地には、現金を扱う市場も存在するが、現金の使用を禁止した市場(バーター市)も存在する。

ここが注目点なのだ。

ワーゲニアという部族である。ソンゴーラの住むところには殆ど住んでいない。ソンゴーラが農耕民族であるのに対して、彼らは正業が漁業である。

市の品物の品目を調査した表がある。それを見るとワーゲニアが丸木舟でバーター市に持参してきた品目の98%が魚類である。農耕民は作物との交換をそこでやっていたのである。

そこには、バーターレートなるものも存在していて、なかなかおもしろい。ヨーロッパからの侵略前から行われていたのだそうだから、営々と行われてきたものである。

贈り物のことが非常に興味深い。トンゴマチョの青年が、バーター市の日にゴリ集落から来た女性に、魚の一切れを贈る。ムカサという魚だそうである。贈り物は女性の夫へのもので、これを受け取ったゴリの男は、次週にお返しをするのである。こうやって、贈り物をする関係が、それぞれの土地に遊びに行ったときに、歓迎するされるという関係になったのだそうである。
(p.386)

農作物と魚では、保存期間が異なる。だから、この二つの品目は、きれいな二分法で量的な関係を構築しているわけではない。当然であろう。魚類の方が、早く腐るし、交換できなかった場合、残りものがどうなるかということをどうしているのかということは、興味深いことである。そこで、交換のレートができてくるわけである。

さらに、当然トラブルが想定されるから、監督の存在と必要性がでてくる。伝統的首長に任命されているのだ。

物々交換から貨幣経済に移行する歴史がだんだんと明らかになっていく。魚が、原始貨幣化していくあたりがなかなかである。

魚は、種類と大きさによって、味が異なるし、どうやって差別化していたのか。農耕民に選択権はないのである。ポイントは「重さ」である。

干物の魚も同様で、なまものであったときの重さで取引されている。すべて同一視して、重さのみで同一単位である。

農産物が種類ごとに異なる取引単位であるのに対して対照的なのだ。

農耕民は、あくまでも食べ物と食べ物を交換しあっているというものであって、農耕民は決して自分たちが「農作物を売っている」というようには思っていない。

「貯蓄の思想」がないのである。保存しておいて、なにかにしようとは思っていない。生計のレベルをほぼ一定に保つことができるのである。生業経済の特徴である。

思うに、この生計のレベルをほぼ一定に保つという考え方は、平等を招来するのかもしれない。

平等ならば、贈る・贈られるという良好な関係が構築できるのであると思う。

農耕文化はそうではない。貯蔵が可能である。特にコメがそうである。我が日本の文化は、そこでいったんリセットしてしまったのだ。

縄文文化と弥生文化の違いのようなものである。

日本における縄文文化はどこへ行ってしまたのだろうか。狩猟漁業の生活を中心とした狩猟経済であったのである。縄文時代には米作は行われていなかったという説があったと思うが、最近ではそうでもないらしい。福岡の板付遺跡で米作の痕跡があるという論も散見している。

階層の未分化の状態がなぜ続くのか。それは、
①住居がほぼ同じ規模
②墓や埋葬方法に差がない
③使用された道具が同質
のような理由が考えられる。

 

なかなか平等社会というものを作る上では、示唆に富む内容ではないだろうかと思うのだが。

いかがか?

 

 

※こうやってまじめに書くこともありますです。

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12月14日(金)のつぶやき

2012年12月15日 05時13分47秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ポメラの3台目さんを設定していて、この時間。もっとも、帰ってきたのも遅かったから。スポーツジムに珍しく夕食前に行ってしまったので。夕食前だと食欲が増進してしょうがないから、行かないようにしているんだけど、今日はポメラを買う予定があったので。


それにしても、周囲の方々のおかげで生きていたんだなぁって、改めてしみじみ思いましたよん。外国のクラスメートまで心配していたんだ。はれ~であります。 愚生の発表。


能力ねぇからなぁ。。。。。。。トホホですよ、トホホ。


老犬のジョンがおかしい。空堀だけど、堀に横向きに落っこちるし、歩けないのです。ムムムムム。。。。。散歩はこれから携帯を持って、ゆっくり行きます。読んでも聞こえないみたいだし、シモの方も無意識に出てしまうようだし。


日本犬は、自分の縄張りを汚さないんだけど、もうそんな意思もないようだし。ジョンや!ジョン!しっかりしてくれ。ムムム。


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ショックのあまり

2012年12月14日 22時56分57秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

今日は本当にありがたかった。

師匠のゼミが毎週金曜日にあるのだが、京都の学会発表の報告をさせていただいたのだ。そして、かなりご心配をいただたいていたことを今日知った。

もしかしたら、ショックのあまり登校できなくなっているのではあるまいかと思っていらしたとのこと。師匠は某国立の超一流女子大学でずっと教授をなさっておられた。そして、教え子の中から何人も学者を出しておられる。

と~ま君が、あまりにも厳しい学者先生方のご指導の前に、たじたじとなって、寝込んでいるのではあるまいかと思われたとのことである。

女性が泣くのならまだしも、柔道マンのと~まが、ハラハラと美しい空を見上げながら悔し涙にくれるというのは、絵にならない。

それは風にそよぐ葦のような、肩幅の狭い、和服の似合いそうな女性が似合うのだと愚生は思う。

中国の大学の先生で、短期留学で本学に来ておられた先生も、心配だとメールを師匠に出されたそうである。ゼミで一緒に学んだ言わばクラスメイトである。

あああああああああああ

慨嘆した。

はれぇ。。。。。。。そんなにご心配をおかけしていたのだ、ということである。

のんきなのは本人だけ。
京都伏見の、日本酒を飲み比べて、悦に入っていたのだから。しかも、二次会まで行って、居眠りして、起こされて、ヨレヨレとホテルまで歩いて帰ってきたのだった。

あふぉ~でっせ。

世間の渡り方において、これじゃぁ疑問がある。いかに、無目的に大学院で楽しく学んでいるって言ったって、これじゃぁいかん。

ジョーシキを知らないっていうものである。

だから、学問の世界で生きることができなかったのだ。そう思う。本当にそう思う。

ハガキでも、メールでもなぜ出さなかったのだということである。話にならんな、これじゃぁ。



やっぱり出世とは縁がないわけですよ、まったく。

しょうがない奴です。

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新しいお筆先

2012年12月14日 22時22分59秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

新しいお筆先を買った。

ポメラの3台目になる機械を今日買って、これを書いているのだが、やはり新しいものはいい。なんでいいか。

機能が新しくなっているから。当たり前だが。あんまり当たり前すぎておもしろくもなんともないケド。

でも新しいならばなんでもいいかというと、そうでもない。新しいということは、もしかしたら知らないうちに欠陥もまたつかまされている可能性もあるからである。

一番気に入ったのは、辞書がcomputerと共有できるということである。これはなかなかである。特に、複雑怪奇な単語が多いので、苦労するからである。これは今年一番のお得情報である。


そんなわけで、夕方、スポーツジムに行く前に今日購入したのである。年金生活者には大変な出費である。ささやかな、まことにささやかなぜーたくである。

computerに比べたら、インターネットにつながらないだけいい。なぜか。インターネットにつながるということは、テレビでも見ながら仕事しているのと一緒だからである。これは精神衛生上よくない。本学に入学してから、毎日毎日図書館で、院生室で駄文を書いては消し、消しては書いているから、駄文書き専用のポメラを愛用していたのだ。ところが、辞書に我慢できなくなってしまった。だからである。買ったのは。これ、現役の時にいろいろご指導いただいた先生が持っていらしたのを、ちょっと愚生にも見せてくだされと懇願して、見たら最後だったのである。

つまり衝動買い。得意の。

以来、今日で3台目。

ハハハである。

今日から、道徳教育の手段と理論(仮題)を書き始めている。別の大学に提出しなくてはならない。こっちは年度内。一昨日相談の結果書くことにあいなりました。

さらに京都で発表した「農民芸能と宗教」を学会誌に投稿させていただくから、しゃかりきになって書かなくちゃならない。締め切りは来年一月初旬である。採用されるかどうかわからんのだけれども。

もう一つある。郷土史の研究誌の原稿。

都合3本。時間だけはたっぷりあるから、やる気満々である。あとは、能力があるかないかだ。(タブン・・・怪しいケド)

ま、これもそれも、「お筆先様」のおかげである。これがなくちゃなんにもできないのだ。

あああああああああああああ

ありがたや、ありがたや。

 

合掌・・・

 

(^_-)-☆




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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/