なんでも真剣にやるってぇのが、いいんでしょう。まったくそうしないと、世の中も、家庭もうまくまわりません。(^-^)/
それと足下をよ~く見て生きていくとですね。ど~も、あっち見てうらやましがったり、こっち向いて悪口言ったりしているからなぁ。脚下照準でありますよん。これで行くしかないですわぃ。
なんでも真剣にやるってぇのが、いいんでしょう。まったくそうしないと、世の中も、家庭もうまくまわりません。(^-^)/
それと足下をよ~く見て生きていくとですね。ど~も、あっち見てうらやましがったり、こっち向いて悪口言ったりしているからなぁ。脚下照準でありますよん。これで行くしかないですわぃ。
いつもはお気楽系で、それこそ筆まかせで、なんの構想も立てないで、さらさらさらさらと書いているのであるが、今日はなかなか机の前にで~んと座っているヒマもなく。。。。。。。
今日は、在籍校とは別の大学に行っていて、ある教授と2時間ほどお話をさせていただいていた。教授は、哲学者であるから、なかなかついていけない。アタシの能力くらいでは。しかし、非常に得るものがあった。ありがたいかぎりである。さらに、宿題もいただいた。ふだんやっている勉強と違って、教育論関係のを一つ書きなさいということであった。道徳教育論である。こっちは、実践面では、いっぱい・いっぱいやってきたからやれるだろうが、問題は通学させていただいている大学の方で勉強している分野である。こっちの方も書かなくてはならない。
なんだか、あっち行ってホイ、こっち行ってプイで、錯乱しそうだけど。やるっきゃない。それしかできないし、働いていないんだからしかたない。ちょぼちょぼとしか。
今日の夜、塾で生徒さんと楽しく勉強していたら、これまた困った問題が起きた。経営している方から、勤務回数を増やしてくれませんかと言われてしまったのである。体力的にモタナイですって、お断りしたんだけど、困ったな。カネが欲しくてやっているというよりは、生徒とのふれあいが楽しくてやらしていただいているって思っているので。それに、数学や英語の勉強も楽しいのだ。ホンマに。
このブログの記事と一緒で、最初からあてもなく書き始めるのと一緒である。お筆様まかせみたいなところがあるから、余計しょうもなくなる。どうなるのか、自分でもわからない。塾だって、すぐにクビになると思ってやり始めたら、これがなかなか面白い。愚生の授業を楽しみにしてくださる生徒も出てきた。今じゃ、First Nameでアタシを呼ぶ若い子がいるし。(*_*) マイッタなぁ。こんなはずではなかった。性格が軽いんだろうなぁ。反省しているんだけど。
で、明日は教えていただいている大学に朝から登校する。師匠のゼミがあるし、午後は山家集の社会人講座で師匠の講義を拝聴する。こっちも楽しみで、社会人の方々ともふれあいがある。楽しいのだ。
さらに、修士課程で学んでおられる方とちょっと研究方法での立ち話もしなくてはならない。昨日の続きである。困っているヒトには惜しみなく援助して差し上げるのが、主義であるから。カネ以外は。(^-^)/・・・だってカネと腕力がないのだから。
決定的だったのが、配偶者様が別の大学から帰ってきたのを待ち構えていて、まぁまぁあちこち家庭内用事を二人でやっていた。お米のこと、草取りのこと、買い物のこと、・・・・・・・あああ、主婦が二人いるようなものである。もっとも、この傾向はずっと以前からそうだけど。
さらに、狭い庭にアナを掘って、伐採した木を埋めていた。これは疲れた。腕力がないからなぁ。カネも。
はははははははと笑ってみても、いつもよりチカラがない。
明日は明日の風が吹く。
耐えるしかないんでしょうなぁ。。。。。。。
(^_-)-☆
けふは、電車が一本遅れです。なぜか。修士の論文発表の時に、ちょっとおしゃべりをさせていただいた方が、図書館からダッシュで出てきた愚生に話しかけてくださって・・・論文のことでした。ちょっと参考資料も差し上げたので、なんだかいろいろと聞かれました。ありがたいものです。
そういうこともあるんです。アタシャ、この大学では教える立場にはないですから、黙っているのも手かなとは思ったのですが。ま、聞かれたら逃げるわけにもいきません。精一杯の対応をさせていただきました。邪魔にならない程度に。
図書館からいい本を借りてきました。これは欲しかったのです。地蔵菩薩研究の本です。原典にあたりたいと思っていて、あるかなぁと思いつつ図書館でコンピュータ検索をしたらありました。3冊。うち2冊は貸し出し不可でしたから、残りの1冊を今日は借りてきて、ホクホク。ああ、うれしい。
いつもより一本電車が遅いので、老犬ワンコ君が心配で。さみしいだろうなぁってわけです。夕方寒いし。17歳のご老体にはきついだろうなぁって。あ、これってオレのことを言っているようだケド。「ジョンや、ジョン!」待っておれよということです。(^0^)
考えてみると、と書くとまるで普段から思考作業ばかりやっているようだけど、けっしてそんなことはない。正真正銘、自分で保証します。
なんだか、こんなブログばかり書いているから、この間も言われてしまった。相当蔵書を持ってるんでしょ?ってな具合に詰問される。なんかの本を見ながらそれを写しているだけなんでしょ?って。(この言い方はバカにしているのかな?=あははははは)
そんなことはない。本は本当に少ない。貯まってきたらどしどし古本屋に持っていってしまうし。退職したときにはさすがに呆れてしまった。段ボール箱で40個捨てたのだった。リーダーシップ論とか、なんだか知らない自己啓発書を、それこそお馬鹿さんみたいに買って読んでいたから。あれがなければ、もっとまともな人間になっていたと思っている。さらに、たったこれっぽっちでよくまぁ国語教師なんかできたねと言われたこともあったから。古典系が少ないんだもの。だからこそ再教育をしていただくつもりで、憧れの院生にさせていただいたので・・・。
よくいるのが、愛書家っていう方。一か月に100万円は本を買う方。あるいは貴重本を全国どこに行ってでも買う人である。まことに尊敬してしまう。本のマンションとか持っているヒトもおられる。作家の佐藤優先生とか、アタシの高校の同級生で大学教授やっているのとか。うらやましいけど、到底できまへんな。
今のアタシャ一か月に数千円本代にかけると、たちまちのうちに干上がってしまう。年金生活シャだからである。生活費の方が優先するからである。当たり前である。
だから図書館で借りてくるんだ。
それに、難しそうな専門書をアタマから、ノートをとって、うんうん唸りながらメモをして、構想を練って駄文を書いているのでもない。ノートだって驚くほど少ない。全部で40冊くらいしかない。読書カードは、いっぱいあるが。ノートも、いろいろあるけど、1頁に1項目という驚くべき無駄使いをしている。どんどんどんどんメモはするけど、間に合わないのだ。捨ててるノートもたくさんある。
時間がない。いつ死ぬかわからないし、悠長に構えているわけにはいかない。さらに、先行研究をいつもチェックしていないとならないから、けっこう厳しい。新しい研究を常時チェックすることを、師匠から言われているから。さっきまで本学の先生の論文をインターネットで探して、それをPDFで保存して喜んでいた。明後日学校に行ったら、印刷してファイルするつもりだから。明日は、別の大学に行くので。
駄文を書きながら、そうして集めた資料をぼろ机の回りにパラパラと置いて、ちょっと付箋をつけたのを参考にしながら、駄文を書いていくだけである。アタマの中のイメージどおりに。
つまり文章書きが最優先するのである。あくまで、書籍は参考程度。
インプットよりも、アウトプットをどんどん進めないと、ほんとうにこの世からいなくなっちまう。
そもそも、劣等生で、インプットは弱かったなぁと思う。卒業した高校でも出来が悪くて往生した。太宰の小説に出てくる成績の悪い柔道部主将が、太宰に言われてゴミ箱にアタマを突っ込んでいる場面とか、妙に同感していたっけ。これって今ではいじめじゃないのかね。もっとも、進学校なんてそんなもんだろう。旧制帝大に入るやつだけ一人前って雰囲気。それが仙台と札幌に入っていったのだけで現役が40人もいたんだから、成績順のいじめがあっても不思議ではなかった。そういう学校だったんだ。そういうこと。別に不幸でもなんでもなかったしね。劣等生としての青春を謳歌してしまったし。バカみたいなことばかりして。
有名な作家で、資料読みに時間がかかるから、書いているヒマがないという方がおられたが、そういう方はどうやって生活費を稼いでいたのかねぇと思ってしまう。優先順位が違っているような気がするんだが。
およそ、マニアックに凝り固まるということがない。凝ることはあっても、固まるということがない。固まってしまっては、おしめぇだと思っている。
クルマだってそうだ。メーカーに全くこだわっていない。よくいるではないですか。生涯トヨタ党とかなんとかとか。別に他意はないですよ。トヨタさんには。乗っていた時期もあったし。
コンピュータもそう。壊れたら捨てる。修理する仕方がわからないし、それに時間の無駄。そのくせ衝動買いは好きで、ポメラだって何台買ったか。今は買うことができないのが残念。
クルマの買い方もそう。今のクルマも、ちょっと見にいって、試乗したら気にいってしまったから買っただけ。燃費とか、値引きとかナンニモ聞かないので、ホントにいいのですかと哀れな顔をして売ってくださった。クルマのことはなんにも知らないから、そんなもんなのである。色もそう。店に置いてあるのが、一番自信があるからでしょ?と聞いて、それはそうだとお店の営業マンが言うから、「それでいいです、それで」・・・・それで今のクルマは我が家に来たんである。乗り出してから気にいることが多いけどね。だから、逃げ出す可能性もあるわけで、営業マンはここのところ新車が出ているメーカーだから、よく家に来る。もう買えないからとは言っていないが、そうなる可能性は高いですなぁ。
すべてがシンプルなんだ。車雑誌を買って研究するというようなこともない。およそ、自分の興味関心のあることだけをやっている。それだけ。
現在非常に凝っているのが、読書と駄文書き。読書しながら、アタマに入れるようにしているし。そして、それをイメージ化していかないと、長文の駄文が書けなくなる。それを一番畏れている。
そのことだけは、マニアックなのかもしれない。
(^-^)/
要するに、このブログでつまらないことを題材に、いろいろ書いているのは、考え方をマスターしたいということである。まだ、こんなことを言っているんだから、お話にならない。完成というのが、無い。情けないけど、そうなのだ。
ベースには、考え方を変えれば、事態は好転するというのがあるからである。これはよくわからないが、カウンセラーのコツだそうである。国分康隆先生からお聞きもしたし、全著作から学んだことでもあった。
特に「ゲシュタルトの祈り」というものを教えていただいた時に、教師として脱皮できたと感じている。もう過去のものであるが。
仕方の無い時は、仕方が無いのである。
そういうことである。
そういう断念の仕方が、人生には幾たびも訪れる。期待されても、応援されてもできないときはできない。しかし、失敗が永久に続く訳ではない。学校で悩んでいる生徒に、あるいは国分康隆先生のように東京都の教育相談所で職場に適応できていない教職員の相談活動を行ってきた先生なりの、生き残るための大いなるコツが語られている。
ノートもとって、印象に残る言葉はカードに書いて常時携帯して持ち歩き、眺めたりしていた。
もしかしたら、愚生が人間関係に淡泊なのは、このゲシュタルト療法が影響しているのかもしれない。
これまで、劣等生で過ごしてきたし、周囲から期待されることもなかった。(今も、そうだケド)
さらに、愚生はよそ者であって、この居住地でのしがらみもない。ナイナイづくしである。差別も受けた。そりゃそうだろう。どこのもんだかわからないのだから。そんなことをいう輩のことは、せせら笑っていたのだけれど。身分制なんて言っても、言うほどの血脈があるのかということである。相手に。
オレはもっとないけど(^0^)
学歴もない。実力も無い。あらゆる親分・子分関係もない。こっちからごまをすって、スリスリと接近を図っていこうとはつゆほども思わなかった。だいいち、よそ者だから相手にされていないということは、よ~くわかっていたからである。
このゲシュタルトの祈りを教えていただいてから、生きていくのが楽しくなった。そして、学校現場での仕事も快適にできるようになった。
二律背反的な、こっちが善で、相手が悪者であるというような二者択一的思考の呪縛から卒業できた。だから上司の悪口ばかり言って、定年まで生きるというような、そういう他罰的な人生を捨てたのだ。なんでもかんでも他者が悪い、おめーの責任だという思考方法をとらなくなった。
こうなると逆に強い。
そんなタイプはあまりいないからである。独自性を発揮できるようになる。あるいは、組織をまとめることができるようになる。円滑にである。
そのあたりは、実は専門家と呼ばれる方々ほど苦手である。つまり自称学校秀才である。他称でもいい。誰しも認めるようなエリート校を出て、誰しもあれは将来出世するだろうと思い、思われている方々。
先鋭化しているから、周囲が見えない。それで自滅してしまう方もいる。自称他称エリートなのにである。才能がもったいないと愚生などは思うのだ。もったいない。ほんとうにもったいない。
学会などに出席させていただいていると、先鋭化しているから、まことに殺伐としている雰囲気のある学会がある。4つほど参加させていただいているが、これじゃぁ血圧がしんぺぇだろうなぁと思う時があるのだ。
スペシャリスト芸の域を出ていないと思うこともある。それでどこが悪い、って言われそうだけど。悪いと言っているのではなくて、専門家というのは、そういうものであると思っているのである。手工業の職人さんなのである。
8日、京都から千葉に帰ってくるときに、快速に乗って千葉まで来た。そのときに、三人掛けの椅子で、隣のお二人がどうも或大学の教授のようであった。同僚の論文の書き方について、いろいろなことを二人で熱く語っておられた。愚生は、ふむふむと聞こえてくるから、そのまま聞いていた。外国語文献の翻訳をしてそのまま講義に導入するのは中身がないとか言われていた。
そりゃそうだ。愚生だってそんなことはしない。もっとも、翻訳なんてできまへんが。(^0^)
これがいい例である。周囲が見えないのだ。誰が聞いているかわからんではないか。大学名はおっしゃっていなかったが、内容からして目星はついた。おそらく間違いはないだろう。異分野なので、名刺を差し上げようとも思わなかったが。
そういうものなのである。
そうやって大人になっていくのである。
なつかしいゲシュタルトの祈りのことを思い出して、以上のようなことを書かせていただいた。
GESTALT GEBET
ゲシュタルトの祈り
Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。Frederick Perls
フレデリック・パールズ
フレデリック・S・パールズ(1893~1970)。ドイツの精神医学者にして、ローラ夫人と共にゲシュタルト療法の創始者。
@yoshihisahirano 様 この記事は、学校にも当てはまるように思いましたので。(^-^)/・・・他意はございませんが。
と~ま君のようなおじーさんにならないように blog.goo.ne.jp/tym943/e/5dfbc…
異端分子は常に必要です。てなことを今日は書かせていただきました。ある意味、組織はそうでないといけないと思うからです。トップの勘違いをどうやって訂正するのかということを、我々は考えるべきでしょうから。
今日も学校で、八木書店から出ている影印本を、部分コピーして楽しんでいたのですが、高いなぁ。一冊3万円。されど、コピーをとらないとまさか図書館の本に書き込みもできないしねぇ。(*_*) マイッタ
新たな視点で、鬼来迎の石屋についてポメラで書いておりました。あっという間に、3000字。後はこれを見直して、本体の駄文に貼り付けて、どんどん作業をしていかないと間にあわないです。
帰りの電車で、良い風景を見ました。愚生より先輩で、老夫婦が、お互いをいたわりあいながら乗車されていた。利他です。その姿こそ利他。
医学部定員増員だそうですが、、 #BLOGOS blogos.com/article/52028/
AとBの二点対立的視点というのを昨日書いて、もう一つ思い出したことがあった。それは、教育においても、二点の対立した要素が無いと、なかなかうまくいかないということを書きそびれた。
つまりこういうことである。
大変厳しい父親がいて、子どもを厳しく男らしく育てようとした時に、妻の方の男兄弟が父と反対の役割を演じるというものである。またこの逆の場合もある。甘い父親だったら、妻の方の男兄弟(兄弟でなくてもいいが)がそれこそ補完的に厳しく教育をするのである。
なんの本に書いてあったか、ど忘れしたが、確かレヴィ・ストロースだったと思うが、これから調べて、間違っていたら夜にでも書き直します。
これは非常にいい教育についての材料である。今、アフリカ文化史という分厚い本を読んでいるが、これもまた子育て論を形成するのに良い本である。まだ読了していないから、またの機会に読書感想文でも書きたい。
話を戻す。
たった一つの価値だけを押しつけて、子どもを教育してはならないという見本でもある。たとえば、知的欲求のみを子どもに押しつける。進学進学とか連呼して(まるで選挙のように)それで、教育は事たれりとしてはならないと思うのである。
あるいは、柔道ができるからといって、柔道精神ばかり押しつけてはならないのである。そのことを厳しく自己に制限をかけなくはならないと思うのである。
子ども達は、総合化された大人達を見て、育つのである。あるいは考えるのであって、それでなくては、生きる力はつかない。たった一つの大人の価値や、親の要求を丸呑みして育ったのでは、親のコピーでしか無い。そんなのはあまり感心しない。感心どころか、大いに心配である。
駄目親父になってはならない。愚生のように。(^0^)
だから書いているのである。
ロールモデルというのが必要なのである。子どもには。ああいう大人になりたいという役割を持った大人が。そういう大人を周囲に持っていない子どもはさみしい。モデルがいないからである。
どうやったらあんな風にかっこうよく柔道の技が決まるのかとか、なんでも知ったかぶりしてへらへらしゃべっているとか、じじぃになってもどっかの大学に行ってわけぇ~しゅうと一緒に勉強して活き活きしているとか。(うっううう、と~ま君のように?=爆笑)
しかも、そのロールモデルは単一であってはならない。複数必要である。子どもに考えさせる時間を与えなくちゃならんと思うのである。離婚して、旦那がいないっていう場合には親族に依頼する。あるいは、近所の親切そうな老人に依頼する。それでいいのである。
大事なことは、親が引きこもって(父親でも、母親でもどっちでもいいが)、あらゆる人間関係を断って教育しちゃならんのである。仙人を育てているのではないからである。簡単なことである。相談すればいいのである。公的な機関もある。どうか活用していただきたい。孤独はいけない。どんなに能力があろうとも、子育てだけは、才能とか、天才秀才とかは関係がない。あくまで人間としての総合力である。
学校が一直線に、一つの目標に向かって邁進するというのもいいだろう。個性的な先生方と、管理職が一丸となって突き進む。それはそれでけっこう。おおいにやりなさいと応援したくなる。
しかしである。
生徒の側には醒めた目で見ているのもいるかもしれないのである。このことを忘れてはならないと思う。いいのだ、そういう生徒もいて。そして、多数の生徒がいろいろな価値観を持った人間関係から学んでいくのである。それが大人になっていくという証なのである。
組織の伸張というのも、反対分子がいてはじめて効果的な戦略ができる。そして、実行に移すことができる。全員が賛成では、逆に問題があるのだと思った方がよろしい。いろいろこの面では心配な国際情勢があるけど。
書きそびれたついでに、またまた雑談をしてしまった。
「と~ま君のようなおじーさんにならないように」というロールモデルには、愚生はなりそうではある。
あはははである。
(^_-)-☆
※教育についての駄文も書き始めました。恥ずかしながら。
声明の大切さということは、中世史を知る上で最重要課題であるとのひらめきをいただいた。感謝である。今回の京都行きで、なんだか知らないうちに、導かれたと思います。西本願寺にお参りしたから?・・・わかりませんけど。
京都駅に、大谷大学の広報がいくらでも出ていました。よく見なかったのですが、なんかの祝典でもあるのでしょうか。時間が無くてよく見てきませんでした。残念!
平家物語にも安徳天皇様のお生まれになるときに、「あ」という音声をもって人々が祝したことが書いてあります。このあたりもおもしろそうです。
実は京都に行っている間に、千葉市で郷土史の研究発表大会もあったのですが、バッティングして京都を優先させました。さきほど、携帯から会長、事務局の方々にお詫びをいれました。その電話の内容にも、この「声」の視点を入れていきたいと思っておりますと申し上げたのであります。楽しいものです。
なぜ、すぐプレゼンの準備に取りかかれないのか-「先送り症候群」6タイプ別病状と処方箋【1】完璧主義タイプ(プレジデントオンライン) - goo ニュース news.goo.ne.jp/article/presid…
これ、非常に面白いですねえ@なぜ「完璧主義者」は組織を破壊するのか president.jp/articles/-/6030
こんなことができるのかねぇ?@会社にバレずにうまく転職活動する法 president.jp/articles/-/7753
リタイア後の豊かな生活を夢見るなら、 若いうちから準備したい president.jp/articles/-/7893
矛盾という漢文がある。
あれはずっと笑い話だと思ってきた。とうてい解決不可能な話ということで。しかしである。これをタイトルのように言い換えたらどうだろうかと、ふと思ったのである。
なんでかというと巷では選挙で騒々しいからである。京都でも凄かった。選挙運動のクルマが。有名な代議士のお名前も愚生のミミに聞こえてきた。テレビでよく出てこられる文科省の大臣であった。ずっと前の。
このことについてはコメントしない。長年の習慣で、政治的中立を守ってきたからである。というより、自分を出さない習性がすっかり身についてしまったからである。なんと言われてもそうなってしまったのだ。公務員のナントカというもののせいで。最近、最高裁がおもしろい判断を出されたようであるが。
しかしである。盾と矛で、これを賢者と強者と言い換えてみたらどうだろう。すっきりくるのである。どっちが盾で、どっちが矛だということについては関心がない。どっちでもいいのだ。受動と能動と言い換えてもいい。
しかし、賢者と強者のどっちが国を治めたら、どうなるのかということには関心がある。あるいは国際情勢でもそれは言えるのではないかなぁと思うのである。
闘いについても、賢者は戦略を練るだろうし、強者はある意味狂信的なパワーでその存在を誇示すると思う。相対の闘いでも、一見ボディビルダーのような強者が優勢だと思われるからもしれないが、集団では賢者にかなわないはずである。
どっちでもいいという選択肢を持ってもいいのかもしれない。あるいは、どっち共それらの能力を持つという選択肢もある。これだとどうなるのか。賢者であって、強者。強者であって、賢者。天下無敵。
この矛盾という話は、そもそもAとBという対立するのか、調和するのかまったくわからない二つの要素を並べたということからくる不幸なのであると思う。つまり、永久に解決のつかない事とか物とか、概念とかを、二つ並べて比較しているわけである。
愚生もそれはよくやる。「AとB」である。笑ってしまうくらいによくやる。トヨタと日産、能楽と宗教、剣道と柔道、カネと名誉、男と女、千葉県と神奈川県、仏教と心理、キリスト教と仏教、西洋小説と日本小説・・・・・・・・・なんぼでもある。そして、何の気なしにそのAとBをやってしまう。
いいのかね?そんなんで。そもそも水と油であるものを比較していること自体どっか違っているのではないのかと、ふと思う時があるからである。
日本とアメリカという対立構図もよく出てくる。あるいは、日本と中国とか。。。。。。
されど、そもそもここにあげた二つの国は成り立ちからして違っている。アメリカは、計画的に成り立った国家であるし、中国は中華思想の国である。比較することでもって、わかったような気になっていると間違うような気がするのである。
ここに陥穽がある。否、大きな落とし穴と言ってもいいかもしれない。わかったような気になっているということの一点において。だからそもそも論というか、「そもそもそれは常識なのかね?」と、うるさく自問自答すべきなのである。
だからこれだけは守ってきたから、破綻することが無かったのだと今は思っている。勇ましく、AかBかとやっているほうが景気はいい。議論も深まったような気になる。違うのである。そんなのは現象面だけで華々しくやっているだけで、根底から崩れていることに気がついていないのであった。
愚生が一番懼れるのがそれである。論理的破綻というやつである。破綻していると自分で気がついたりしたら、ほんとうに顔が真っ赤になるのだ。むむむ・・・・またやっちまったというわけである。
卑近な例で言うと、深酒をやってしまった時である。(^0^)
またやっちまったの連続であったから。あれは論理的破綻もなにもない。どこで飲んだの!と家の者に詰問されたときに、「おしりから飲んだ」と答えていては、きみまろ様のぱくりである。それじゃぁ話にならん。そもそもそんなのは、論理になっていないのであるから。
飲みたいから飲んだというのでは、ワンコ以下である。ワンコですら、あまり飲んだら身体に悪いというように、いい案配で止めてしまう。アルコールではなくて、ただの水の話であるけど。もっとも、我が家のじ~さまワンコが、日本酒を飲んでべろべろになっていたらテレビが取材にきちまうですねぇ。
動物的感覚で生きていちゃならんのである。動物に盾と矛はないからである。意識すらしていないだろう。当たり前である。第一ワンコが道具を持って喧嘩したとはついぞ聞いたことがない。
現在、愚生がやっている趣味的学問(まさに、この言い方がぴったりだ)でも、このAとBを比較する分野がある。しかも、愚生は農民芸能と宗教(仏教)である。ここまで書いてきて、そもそもそこに疑いを持っているような書き方をしているが、実はそうではない。
実は、作品論、作家論にもっていきたくないからであって、手法的な問題なのである。そもそもである。愚生如きに、作品論、作家論は書けない。それはパーフェクトな頭脳の持ち主以外はできない。それほど遠大な問題だからである。全てを知らなくては、不可能な問題であって、それこそ神をも畏れぬ思い上がりであると思うからである。
愚生には時間がない。
いつ死ぬかわからない。もっとも、いつ死ぬかわかっていたらこんなにきついことはないが。だからである。だから、AとBをあえてやっているのだ。歴史的手法と言ってもいいけれども。
やや・・・・3000字を超えている。やめましょう。賢者はムリをしない。強者も勝てるときしか勝負しないそうだから。(だから強者なのだそうだ)
(^_-)-☆
京都でフェイスブックが二つあるとの同級生からのご指摘を受けて、一方の方を削除してみましたが、二つとも削除されたらごめんなさい。
なにしろコンピュータの素人ですので。
なんでも全部素人ですが。
そういう意味ではなんのプライドもありませんので。
今日も学校にいます。阿部泰郎先生(名古屋大学教授)の書籍を読むためにです。この先生は文章が非常にうまい。学者先生には珍しいタイプの論文が多く、非常に尊敬させていただいています。
学部の時は、他大学の表現系の学科におられたようで、それもまた凄いことです。宗教系の大学院も別の大学。そこで博士まで。
こうした表現が上手な方でないと、困難なことが多くなるのでしょう。
今日から、三種類の駄文書きをしなくちゃならんので、焦っています。
だから阿部泰郎先生のような方の文章から学ぶしかありません。
道遠しであります。
本当に。
フェイスブック大丈夫かいな?
気になるが。
きのうの学会に、午前中来てくださった武蔵野の同級生と友人と一緒に食べた昼食はおいしかったです。同級生も武蔵野で還暦間近に勉強した方で、今も別の大学で勉強をしておられる。友人の方は、まだお若いけど、勉強をされている。いいものです。実にいいものです。
今日は10時ころに京都駅に着いて、新幹線まで2時間もあったから、東本願寺でもまわろうとしたのでした。地下のショッピングセンターをヨレヨレと歩いていたら、京都タワーホテルの入り口があって、なんと「大浴場あり」と書いてあったのです。。。。。行っちゃいました。気持ち良かったな。
来年は東京でやるから、今度は近くていいですね。楽しみです。帰り風呂入ってくる可能性は全くないけど。はははははははは。
あ、帰りの新幹線で熟睡と書きましたが、富士山が見えたときだけ、偶然起きたのでした。それからまた睡眠したのでした。良い気持ちで。
東京に向かう新幹線から見えた富士です。
こころなしか
「年のわりには。。。頑張ったじゃん!」って言っているような気がして
うれしかったです。
なんだか恥ずかしそうにしている富士もまたいいものです。
またそっちへ行きますねぇ~~~~~
ほうとうが好きなので。
(^-^)/
時間がやはり予想どおり足りなかった。
動画をもっと見たいと言われました。(「鬼来迎」愚生編集)
こういうところに目をつけたことが良かったとのことでした。
生涯最後になるかもなぁと思ってやっていたので、ついホンネがぽろり。
もっと継続してやるようにとのことでした。
ホテルに帰ったら査読担当のK大学の先生からも
メールで、同様のことが書かれてありました。
ありがたいものであります。
本当に。
さらに、沖縄海上の道との関わりについて質問を受けました。
民俗学とは一線を引いているつもりですが、どうもその大学の先生は
民俗学がご専門のようでした。夜の懇親会でも、香取・鹿島の文化的
伝搬のことで、いろいろと歓談。
楽しいものです。
さらに、「鬼来迎」のことですので、「鬼」の文字についてのやりとりは
実に勉強になりました。さすが、大学の先生方は違います。
質量共に。
緊張はまったくしなかったのですが、ひたすら先生方の学識の深さに
感動してまいりました。
(^-^)/
いつもお世話になっております。
(^-^)/
落ち着きますなぁ。
まったく。
今回は寺院巡りは、おにしさんだけでした。
でも、ホテルが東横インだったので、知っている方は知っているでしょうが、内観法で有名なんです。部屋にも置いてあったし。愚生は一時これに凝ったことがあって、それをおにしさんに参拝して突然思い出してしまったのです。配偶者への感謝とか、お世話になっている方への感謝とか、いろいろと考えてしまいました。なんもしていない自分しかなかったなぁと思ったのです。情け無いけど。
そして、なんのお返しもしていない自分を自覚したのでありました。愚、であります。本当にこんなモンが、一人前のツラをしていていいんだろうかと思ったんです。
そしたら、これから発表だというのに、す~っと力みが抜けていくようでありました。所詮こんな程度の人間です。愚、そのものであります。そんな人間でも、このような機会を与えていただいて、ありがたいことであります。
そんなことを、考えて西本願寺から、会場の龍谷大学に参りました。
朝、お参りしてほんとうに良かったです。