奈半利の町の土佐漆喰の家々を見て歩いた後、町のはずれにある昔の森林鉄道の廃線跡のアーチ型の橋を見に行きました。
奈半利川の上流域は、秋田杉・吉野杉と並ぶ魚梁瀬(やなせ)美林と言われる杉の名産地です。この魚梁瀬美林の運搬にかつて活躍した旧魚梁瀬森林鉄道の遺構は国指定の重要文化財となっています。その一つが奈半利町内にある報恩寺跨線橋です。

魚梁瀬森林鉄道は、1895(明治28)年の牛馬道の開設から始まり、1910年(明治43年)から鉄道が建設され、1942(昭和17)年に安田川線、奈半利川線の両幹線に加え、各支線を含めた総延長250kmに及ぶ国内屈指、そして高知県内最大の森林鉄道網が完成しました。
一番最初は山からの下りは自然の重力を利用し、山へ帰る時は犬または牛にトロリーを牽かせていたということです。
陸上交通網が整備されつつあったことに加えて、魚梁瀬ダムの完成により軌道が水没したことから、1964(昭和39)年3月30日に全線廃止となりました。
2009(平成21)年に、林業技術史上重要な遺産であるトンネルや橋などの施設が「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されました。その一つである北川村にある小島橋のことはこちらに書いてあります。
全部で18ヶ所の重要文化財遺産の説明等、詳しく書かれた「魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム」はこちら。

お寺に向かう参道が鉄道線路の上をまたいでつけられ、上部は階段、下は短いトンネルを作っています。1933(昭和8)年頃建設の石造アーチ橋です。

線路の跡は今は道路になっています。

奈半利の港。ここから木材が船に積まれて出荷されたのでしょう。

帰りの「ごめん・なはり線」の電車は北川村にある「モネの庭」のデコレーション列車でした。

高知市中心部に帰ってきて、こちらは「はりまや橋」交差点横のビルにあるからくり時計。
通常は四角形ですが、定時になると上部から高知城、右からはりまや橋と(坊さんがかんざしを買って彼女にプレゼントしたという)純真・お馬の人形、左からは桂浜と龍馬像、下からはよさこい鳴子踊り子隊が出てきて、曲を演奏・踊ります。5分間くらいは鳴り続けて、終わるとまた引っ込んで四角い時計だけが残ります。

2016年11月の高知の旅はこれで終わります。
奈半利の町の土佐漆喰の家も随分たくさんあって、歩き疲れてきたので、途中で一服することにしました。

唯一お家の中に入って見ることができたお宅、高田屋(竹崎家)さんで、蔵は資料館ギャラリーに、母屋の座敷が喫茶とお土産品販売処になっています。

右が蔵、左が母屋で、間が土間になっています。建築年代は明治23年頃です。

座敷の喫茶処。

お庭を眺めながら、

コーヒーをいただきました。

蔵の入口は防犯のため家屋内部にあり、水害に備えて一段高くなっています。
高田屋は藩政時代から樟脳の製造に携わって巨利を得、田畑・山林を購入して明治の新興地主となりました。三代目才吉は自由民権運動に参加、政界で活躍、四代目音吉は寺田寅彦と親友、夏目漱石の熊本時代の教え子、浜口雄幸の世話で大蔵省に入り、五代目達雄は昭和13年に高知に帰り、高坂女学校の教師を務めました。
その子孫の方が、河田小龍「土佐絵図」、古伊万里や九谷の絵皿などの調度品や工芸品、浜口雄幸・夏目漱石関連の写真や資料など、蔵のなかのお宝を見せてくださいました。
竹崎家(高田屋)蔵資料館は、9:00~17:00開館、入館料は無料です。

高田屋の向かいのお家も漆喰模様がきれいでした。

高田屋の南にある東山家住宅。
初代当主は製材業を営んでいました。主屋は1906(明治38)年頃の建築と伝えられ、つし二階建てで格子と戸袋がつく伝統的な商家のたたずまいです。

蔵は薬局の店舗に改装されています。敷地内にある便所・風呂場棟に藍色の装飾タイルがあるそうですが、見れなくて残念でした。

濱田典弥家住宅。
広い敷地に重厚な主屋・土蔵を持つ旧家です。現在の当主の曽祖父、幕末生まれの虎太郎により新築されました。当時、濱田家は奈半利町内に400人の小作人を持つ大地主でした。
主屋は1934(昭和9)年の築。当時の匠の技が随所に見られます。

土蔵は明治後期の築です。


皇帝ダリアが咲いている家がありました。

さらに水切り瓦の段数が多い蔵(住居?)がありました。
江戸・明治の古いものから最近できたようなものまで、水切り瓦を持つ土佐漆喰の建物がたくさん現役で使われている、奈半利の町はとてもおもしろい町でした。
旧魚梁瀬森林鉄道アーチ橋に続く。
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の終着駅・奈半利で降りて、駅のイタリアン料理店でお昼を食べてから、奈半利の町の散策に出かけました。
奈半利町は高知県の東部、阪神タイガースのキャンプで有名な安芸と室戸岬との中間、奈半利川の東岸にある交通の中心地で、古くは紀貫之の「土佐日記」でも「那波の泊」として記録され、山内一豊が土佐に入国した時にも宿泊したところです。
上流の木材を奈半利川の水運によって運搬・集散していましたが、やがて森林鉄道奈半利線ができてからさらに発展しました。さらに明治以降、樟脳や林産物・捕鯨・製糸業もさかんになって、この地域の中心地となり、その頃の伝統的建造物が今もたくさん残っています。それぞれの建物に説明文がついていましたが、ほとんどのお家が今も住み続けておられる民家です。

高札場。
ここを起点として高知県東端の東洋町野根まで、50km余りの野根山連山を尾根伝いに越えて行く野根山街道が続き、718(養老2)年にはすでに利用されていました。

江戸時代の旅籠屋、西尾家住宅。
主屋は江戸末期、台所・蔵・納屋・レンガ塀・便所は大正初期の建築です。
明治7年の佐賀の乱に敗れ、高知で捕えられた江藤新平が泊まったといわれています。

このお家には説明板はついていませんでしたが、奈半利の住宅の特徴は、このような漆喰の壁に水切り瓦がついて強い雨風に当たっても大丈夫なように造られています。
土佐漆喰は消石灰に発酵させたワラすさを加え水でこねたもので、糊を使わないので水に濡れても戻りがなく、厚塗りが可能できめが細かくなっています。

奈半利町4号津波避難タワー。海に近い町なので、このようなタワーがあちこちにありました。

うだつのある家・浜田家住宅(増田屋)。
主屋・店舗・レンガ蔵は1903(明治36)年築、大蔵・蔵は江戸末期築です。1795(寛政7)年創業で造り酒屋と質屋を営んでいました。主屋一階になまこ壁、二階にうだつが付けられ、土間の梁は50cm角、長さ12mの松材で地域随一の大きさです。

大蔵(酒蔵)と蔵(米蔵と道具蔵)。

曲線を描いた塀。

レンガ蔵。寄棟造り桟瓦葺き二階建、内部に木造の螺旋階段があります。
奈半利で見られるレンガの多くは阪神地方に木材を運んだ船が帰りにバランスをとるために積んできたものです。

改田家住宅。
主屋は大正初期の建築で、敷地内に主屋・釜屋・便所・風呂棟等があり、周囲を石塀で囲っています。

南面の石塀は、浜石を両面に埋めこんで高さ2.1m、厚さ36cm、長さ23mになっています。

東面の石塀はこの家独特のものです。


次は、登録有形文化財、近代化産業遺産の藤村製絲株式会社繭蔵です。

1899(明治32)年築。当初は酒蔵でしたが、大正6年に四国で唯一の製絲会社の繭蔵となり、平成17年までここで操業していましたが、現在はブラジルで行っています。

6段の水切り瓦は奈半利で最も大きなものです。


敷地の周りの石塀も明治のもの。門の右側は丸石、

左側は浜石を半割りにして小口を見せたものです。

近くに高知県の天然記念物、二重柿(ふたえがき)の木がありました。

樹齢は推定100年。渋柿で、内皮と外皮の二重になっています。

森家住宅。
「土佐の交通王」と言われた実業家・野村茂久馬の元住宅で、蔵は明治中期築、主屋と東西南石塀は1918(大正7)年頃の築です。戦後は料亭が経営されていました。
主屋は入母屋、桟瓦葺、西面は下見板張り、上げ下げ窓の洋風意匠です。


東側の塀にはレンガのアーチ門があります。

野村家住宅。
主屋は1922(大正11)年頃、東と南の石塀は明治後期の築です。
藩政時代は年貢米を集める地主で、「倉床(くらとこ)」と呼ばれていました。門の中には曲線を描いた石塀があります。

元奈半利町農協の米蔵、斉藤家住宅。
1938(昭和13)年築の蔵で、昭和23年設立の奈半利町農業協同組合の倉庫として利用されていました。妻面は腰壁に下見板張り、土佐漆喰の壁に水切り瓦、明かり取り用の窓に鉄製の扉がつけられています。
土佐漆喰の町・奈半利(2)に続く。