哺乳類学の日本語の教科書としては約20年ぶりの著書になるらしい。内容は、いい意味でもそうでない意味でも、「日本の」哺乳類(学)の教科書である。日本の哺乳類についてどういうことが知られているのか、どういう研究が行われているのかということが中心に書かれているので、世界的な研究動向といった視点での記載ももちろんあるが、比較的少ない印象である。構成は、進化、形態、生態、保全の4部に分かれていて、それぞれがその分野の専門家によって執筆されている。進化と生態はそれなりに興味深く読めたが、形態と保全は読むのに苦労した。こうした分野はどうしても、事実や概念の記載や整理にとどまり、実例などの紹介が少ないため、どうしても無味乾燥に感じられてしまうが、教科書なのだから仕方ないといえばそれまでである。
それぞれの分野ごとに、私なりのポイントを以下に記録しておく。
[序章]
・「哺乳類とはなにか」という問いに対しては、「大きな脳を持つことで賢く生き、移動可能で、多くの食物を摂取する、親などからの愛のなかで成長する生物」とまとめている。
[Ⅰ 進化]
・哺乳類の分子進化、あるいは分子退化を理解するうえで重要なメカニズムは、自然選択、中立進化、偽遺伝子化(もともと機能していた遺伝子が機能を失い、そのような突然変異が多く見られるようになった遺伝子のことを偽遺伝子と呼ぶ)である。
・ニッチとは、時間・空間・栄養などの資源に関する生物の要求のことである。資源の有限性のなかにおいて同所性を達成するためには、ニッチ分割が必要になる。そのようなニッチの違いは、基本的には2種の歩んだ進化の道のりが長くなればなるほど大きくなる。逆にいうと、近縁な種間ではニッチが類似することで競争が起こり、どちらか1種が排除されるか(競争排除)、生物学的特徴を変化させること(形質置換)により共存に至るかのどちらかであろう。
・生態的に分化した種間でニッチが分割されることにより、日本列島において共存している事例も存在する。これは、ニッチの重複しない種が選別されて新天地で受け入れられる種選別というメカニズムが働いたとみることができる。たとえばリス科で見ると、同所的に生息する種は別種に分類され(系統的に遠縁)、移動様式(ニッチ)も異なる。つまり、北海道では、滑空性のタイリクモモンガ、樹上性のキタリス、地上性のシマリスが生息し、本州以南では、滑空性の二ホンモモンガとムササビ、そして樹上性の二ホンリスが生息する。これらの属には漸新世から中期中新世という約1500万年から3000万年の進化史が反映されている。
・地史(例えば日本列島の大陸からの分離や列島内の分断)は上記の競争排除の2つのメカニズムで説明できない不在(そのニッチに生息する種がいない)はどのように説明すべきであろうか。気候帯に代表される物理・化学環境への不適合の可能性、「非生物的環境が適合しないから生息していないのだろう」という解釈は、どの不在にも適用可能ないわばワイルドカードである。
・ゲノムの海のなかから、自然選択に関わる表現型の原因となる遺伝子変異をあぶりだすことができる時代になった。具体的には、中立説での予想から説明することができないことを指標として自然選択を検出する。
・集団サイズが小さいと中立突然変異が集団に固定されるまでの時間が短くなるため、次々と新しい変異が集団内に固定される。その結果、合祖(2つのアリルが過去にさかのぼり1つの祖先にたどり着くこと)間の時間間隔は短くなる。反対に、集団サイズが大きいと合祖間の時間間隔は長くなる。このような理論のもとで、1個体のゲノムから多くの合祖時間をサンプリングすることができるため、時間の経過にともなう過去の集団サイズの変動を推定することができる。この手法のことを、PSMC(pairwise sequentially markovian coalesent)法と呼ぶ。
・あらゆる環境中には、生物の傷ついた組織、皮膚、毛、唾液、粘膜、糞など、生物の痕跡が存在するため、環境サンプル中に含まれる生物のDNAを分析することで、生物を実際に手にすることなしに在不在を知ることができる。このような手法のことを環境DNA分析という。とくに、次世代シークエンサ―の登場により、環境サンプル中の複数の生物由来のDNAを同時に分析することのできるDNAメタバーコーディング法が開発されたことで、調査地の生物相や生態系における食物網をはじめとした生物間相互作用に関する研究がさかんに行われている。
[Ⅱ 形態]
・鯨類の頸椎の数はほかの一般的な哺乳類と同様に7個であるが、多くは頸椎が癒合しており、頸部の運動性は抑制されている。魚類には頸椎は認められず、両生類になって初めて1つの頸椎(環椎)が出現する。陸上生活では頸部の可動性は獲物の捕食や天敵からの回避などに重要な働きを持つが、水中では可動性を持った長い頸椎(頸部)は、水の抵抗を増大させ、その結果、体幹前部の安定性を失わせる結果となる。魚類に頸椎がないことを考えれば頸部を短くし、癒合によって体幹前部の可動性を制限することは、二次的水生適応として効率的な遊泳を追求するためには理にかなったことかもしれない。
[Ⅲ 生態]
・ほかの生物種に対してではなく、環境を物理的に改変することによって、非生物的環境にも影響する生物種のことを生態系エンジニアと呼ぶ。ニホンジカの採食によって、林床食性の衰退が進み、植生や落葉落枝による土壌表面の被覆が失われると、土壌養分の変化や雨滴衝撃・土壌移動などを通じて表層土壌が流出するとともに、植生衰退がさらに加速するという悪循環が生じる。このようなニホンジカの採食行動により環境が変化していく過程は、シカが生態系エンジニアであることを示している。
・景観とはさまざまな種類の生態系など、異質な要素によって構成される土地の広がりである。景観における空間の単位には、比較的均質な環境が、異質な環境に囲まれた点または島状の広がりであるパッチ、線あるいは帯状の広がりであるコリドー、これらを取り囲む広がりであるマトリクスがある。パッチを好んで生息する種において、パッチどうしが、その種が生息はできなくても移動に利用することができる植生などの要素でつながっている場合、その要素はコリドーとして機能する。コリドーは都市のように動物の生息地パッチが孤立しているような景観に生息する種や、長距離移動を行う種にとっては重要な景観要素となる。
[Ⅳ 保全]
・以前は、種や生息地の保存が叫ばれてきたが、近年は保存から保全へと変化していった。保存と保全には思想的背景に大きな違いがある。保存は対象そのものに内在的価値を認め、その価値のために対象を保護することである一方で、保全は「人のため」に対象を保護することと定義される。また、対象を保護する手段として、人為介入や利用を許容しないものを保存、許容するものを保全と区別することもできる。こうした理解にもとづくと、哺乳類学における保全とは、「人のために哺乳類をよりよい状態に調整すること」と定義できる。
・ある保全に対する「最適解」を一般的に設定することはできない。たとえば、農家から害獣として認知され、地域からの排除が保全の目的とされる現場でも、個体数の維持・回復を保全の目的と考える市民もいる。「正しい」目的を1つに絞ることは容易ではない。そのため、多様な目的が提示された現場では、保全をめぐり対立の構図が顕在化する。
・日本で問題化しているニホンジカは、海外でも外来種として被害を生んでいるようだ。すでに定着した外来種が、後に導入される外来種の定着や拡散を手助けする相互作用を持ち、在来種からなる群集が外来種からなる群集へと加速度的に変化する現象を、侵入メルトダウンとよぶ。その例として、アイルランドにおけるニホンジカとセイヨウシャクナゲの外来種間相互作用があげられている。アイルランドでは、地中海沿岸から観賞植物としてセイヨウシャクナゲを1763年に導入した結果、在来の低木植物が大幅に減少していった。一方で、1860年に日本から導入されたニホンジカは、在来のアカシカを追いやっていくだけでなく、その高い採食圧により在来植生を次々と消失させていく。ニホンジカに改変された環境はセイヨウシャクナゲの発芽場所として適しているだけでなく、繫茂したセイヨウシャクナゲはニホンジカの排除を困難にする隠れ場として機能するという相利共生が確認されている。
・外来種もパートナーとして許容する新奇生態系という新たな選択肢もある。外来種の導入などにより、生態系レジリエンスを超える攪乱が生じた場合、人為的な管理努力によっても、攪乱以前の生態系の平衡状態を復元することは容易ではない。新奇生態系は、新たな平衡状態を持ち、人による干渉なしで自律できる系である。こうした新たな系を社会が許容することで、生物多様性保全のための実装可能なオプションを増やすことができるとされている。